枝野幸男
テンプレート:政治家 枝野 幸男(えだの ゆきお、1964年5月31日 ‐ )は、日本の政治家、弁護士(登録番号:22259、司法修習43期、第二東京弁護士会)。民主党所属の衆議院議員(7期)。
民主党政策調査会長(第6代)、民主党幹事長(第10代)、内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)、内閣官房長官(第79代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、経済産業大臣(第16代)、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)などを歴任した。予算委員会等の答弁では、野田内閣の内閣法制局長官に代わって、憲法及び法律解釈も担当していた。
目次
来歴
生い立ち
祖父が尾崎行雄のファンで、男の初孫である枝野には「ゆきお」という名前をつけろと父が祖父から言われていて、字は違うが"幸男"と名付けたというのが名前の由来である[1]。自身の名前の由来を聞かされたことが影響し、物心がついた頃から政治家を志望していた[2]。
学生時代
宇都宮市立陽東中学校時は生徒会長を務めた。栃木県立宇都宮高等学校時代は校内の弁論大会で3年連続優勝した。高校の弁論大会では環境問題や日教組批判を演題にしていた[3]。また中学・高校と合唱部に所属し、中学2年・3年では2年連続でNHK全国学校音楽コンクールで全国優勝している[4]。
早稲田大学に合格したらジャーナリストを、東北大学に合格したら弁護士を目指すことにして両校を受験する[2]。早稲田大学は不合格となり、東北大学法学部進学(同級生に森まさこらがいる)、法曹界を目指すことになった。東北大学では憲法学者の小嶋和司のゼミに所属、ここで憲法も法律も道具であるという考え方になる[2]。
弁護士として
1988年、24歳で司法試験に合格。司法修習を経て弁護士となり、東京の法律事務所に就職し当時のボス弁高山征治郎の子息で現在は小沢チルドレンの代議士高山智司も司法試験浪人中(小沢自由党参院議員渡辺秀央政策秘書就職以前)は枝野の選挙ボランティアでその実弟(征治郎の末っ子)高山泰三は議員会館スタッフだった。
政界へ
1993年、日本新党の候補者公募を見つけて応募し合格。当時初の公募による候補者として第40回衆議院議員総選挙に旧埼玉5区から日本新党公認で立候補する[1]。手作り選挙を貫き、上田清司(現埼玉県知事)に次ぐ2位(定数4)で初当選した。
総選挙後、非自民・非共産連立の細川内閣が誕生。商工委員会に所属し、公約に掲げていたPL法立案に携わる[5]。日本新党の党則改正を担当し「細川代表の個人商店」と言われていた党運営の近代化に取り組むが、党事務局の抵抗により失敗する[6]。1994年4月に細川首相が辞任し羽田内閣が発足。首班指名選挙では自民政権は阻止すべきと考えて羽田孜に投票した[5]。羽田内閣発足時に日本新党が新党さきがけとの統一会派を解消して新生党などを含む新会派「改新」に参加したことに反発し、5月に日本新党を離党[7]。院内会派「民主の風」を結成し、続いて新党さきがけ、グループ青雲とともに統一会派「さきがけ・青雲・民主の風」へ合流した。6月「さきがけ・青雲・民主の風」内で態度が分かれた羽田内閣への不信任案には反対を表明した[8]。
1994年6月、自社さ連立の村山内閣が発足。これを期に新党さきがけに合流し、政策調査会副会長に就く。1996年1月に橋本連立内閣が成立、首班指名では造反すると言われた[9]が村山富市から後継指名を受けた自民党の橋本龍太郎総裁に投票した。橋本がPL法の対象から血液製剤を外すよう抵抗した厚生族のドンであったためで、最後まで悩んだという[5]。連立与党の行政改革プロジェクトチーム座長を務め、1996年5月に国家公務員人事の一括採用や天下り規制を含む公務員制度改革の座長私案を提示した[10]。同年6月に超党派の若手有志議員による政策勉強会「司馬遼太郎哲学研究会」の呼びかけ人となり発足させた[11]。この会は、鳩山新党(旧民主党構想)をにらんだ若手による交流会と見られた。
1995年から薬害エイズ問題を追求し、真相究明と和解を実現して一躍注目された。1995年1月に薬害エイズ裁判の原告弁護団から接触を受け、国の責任を確信。8月、井出正一厚生大臣と被害者の面談を官僚に内密に実現した。10月に裁判所から和解勧告が出されても厚生省が責任を認めなかったため、衆院厚生委員会で追及。厚生省の当時の対応について説明を求める質問主意書を提出した[12][5]。1996年1月から橋本内閣の厚相として薬害エイズ問題に取り組んだ菅直人をサポートし[13]、"郡司ファイル"発見などの真相究明と国の和解受け入れにつなげた。2月の大臣謝罪の場で司会を務め、7月には安部英元エイズ研究班班長らへの証人喚問で尋問に立った。
野党民主党
1996年旧民主党結成に参加。同年10月の総選挙に埼玉5区からボランティア中心の選挙で挑む[14]。しかし小選挙区では自民現職の福永信彦に敗れ、重複立候補していた比例北関東ブロックから比例復活で再選した。1997年旧民主党政調会長に就任する。同年5月に、社民党出身議員の族議員的体質に批判的な旧民主党内の若手衆院議員による政治集団「2010年の会」を立ち上げ、代表世話人となる[15]。
1998年1月、旧民主党を含む衆院野党が統一会派民主友愛太陽国民連合(民友連)を結成し、その一員となる。同1月、民友連の若手衆院議員による勉強会「ダッシュの会」の発足に参加[16]。野党議員となってから、夫婦別姓の選択を可能にする民法改正案、行政監視院法案、臓器移植法案、児童買春・児童ポルノ禁止法案などを提出。法案の提出数と委員会での発言数は群を抜いていて、「議員立法ブーム」の中心人物となった[17]。
1998年4月民主党結成に参加し、政策調査会筆頭副会長に就任。金融国会では、金融再生法成立に関わる[18]。この時、大蔵官僚や守旧派議員を排し、専門知識を持つ若手政治家の間で協議を重ねて法案が作られたことが、新しい政治の形として注目され、塩崎恭久、石原伸晃らとともに「政策新人類」と呼ばれた[19]。
1999年1月、菅直人に松沢成文が挑む形となった民主党代表選挙では、「論憲」や「郵政三事業・特殊法人の民営化」を掲げる松沢成文の推薦人に名を連ねた[20]。同年9月の代表選では菅直人の選対事務局長を務めた[21]。同10月、鳩山新体制で政策調査会長代理に就任し、ネクストキャビネットの官房副長官となった[22]。
2000年の第42回衆議院議員総選挙で当選。2000年11月、民主党の旧さきがけ系を中心とする当選3回以下の若手議員による新勉強会(名称未定)を立ち上げ世話人になる[23]。2001年4月、前年に立ち上げた勉強会の参加者を中心とした勉強会「高朋会」の発足に参加[24]。
2002年12月の代表選挙で菅直人が党代表に返り咲くと政調会長に就任し、次の内閣の官房長官となった。2003年の第43回衆議院議員総選挙での、民主党のマニフェストを発表した[25]。
2004年、代表が菅直人から岡田克也に代わり、党憲法調査会長に就任。
2005年9月の第44回衆議院議員総選挙では小泉フィーバーで民主党が苦戦の中、自身は牧原秀樹に完勝し、5度目の当選を果たす。岡田の後任を争う代表選では盟友の前原誠司を支援した[26]。同年、政権戦略・報道担当の幹事長代理に就任。2006年に小沢一郎が代表に就任して以降しばらくは党役職から離れることとなる。2008年9月の党代表選で前原誠司、岡田克也らの不出馬を受け、無投票での小沢再選を回避するため自らの立候補を模索するが、推薦人を確保できず断念した。
2009年8月の第45回衆議院議員総選挙で6度目の当選。
民主党政権
鳩山内閣
2009年9月に鳩山由紀夫内閣が発足すると、当初は閣僚に起用される見方も強まったが[27]、起用はなかった。一部では小沢一郎との確執が原因であるとの憶測も流れた[28]。
10月、内閣府に設置された行政刷新会議の事業仕分けチームの統括役を行政刷新担当大臣の仙谷由人から任命され、事業仕分けでは、予算の編成過程を公開することで国民の注目を集め、鳩山内閣の支持率を下支えした[29]。この仕分けでは原子力施設等防災対策等委託費、原子力施設等防災対策等交付金等の仕分けを行った[30]。
2010年1月に仙谷が国家戦略担当大臣を兼任することとなり、仙谷を補佐するため首相補佐官に起用されることが発表される[31]。しかし正式に任命されることはなく、仙谷の兼務を解く形で行政刷新担当大臣への就任が決まる[32]。
菅内閣
2010年5月末、鳩山内閣が退陣し、後任の代表選挙では前原誠司、岡田克也らと共に菅直人を支持した。6月、民主党幹事長に就任した[33]。7月、幹事長として戦った第22回参議院議員通常選挙では改選前から10議席減の44議席獲得に留まり、参議院での過半数割れを許す。9月の菅第1次改造内閣発足に伴い幹事長を退任となり、後任の岡田克也の要請により幹事長代理に就任した[34]。
2011年1月14日に行われた内閣改造により、菅第2次改造内閣の内閣官房長官に就任した[35]。46歳7ヶ月での就任は史上最年少であった。3月上旬では、退任した前原誠司外務大臣の臨時代理を松本剛明が任命された3月9日まで務めた。6月27日からは補佐官になった蓮舫の後任として行政刷新担当大臣を兼務することとなった。鳩山内閣が総辞職してから約1年ぶりに行政刷新担当大臣に再登用されることとなる。
- 東日本大震災・福島第一原子力発電所事故での対応
- 官房長官就任から2ヶ月弱後の2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震・福島第一原子力発電所事故が発生。連日ほぼ主としてスポークマンとして働いた。その精力的な働きぶりから、海外の一部メディアからテレビドラマ『24 -TWENTY FOUR-』のジャック・バウアーに喩えられた[36]。
- この際に枝野が情報の一元化を指示したと報道されており、例えば文部科学省は3月15日夜以降、同原発から半径20~30km範囲内について、同省の観測車両で放射線量をド測定した結果を発表していた。しかし記者から健康への影響を問われた際に担当者は「データの評価は行わない。官房長官の指示でコメントできない」と述べている[37]。また、産経新聞記者の阿比留瑠比は枝野が「情報はどこかで一元化して勝手に出さないように」と指示したことにより、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム (SPEEDI)情報の公開がストップされたとしている[38]。ただし、原子力安全・保安院の解析したSPEEDIの予測結果は枝野の一元化の指示に反し、45件のうち、2件しか官邸に送付されていなかった[39]。この一方で、文部科学省は事故の直後に外務省を通じて試算結果をアメリカ軍には提供していた[40]。
- 米原子力規制委員会(NRC)が東京電力福島第一原子力発電所事故発生直後の内部文書を公表した。その中に、日本への支援として首相官邸に専門家を常駐させたいと求めたという記録があった[41]。しかし、読売新聞によると、枝野は「協力はありがたくお願いしたい。ただ、官邸の中に入るのは勘弁してほしい」と条件を付けたという[42]。
- また、東京電力福島第一原子力発電所3号機原子炉建屋で水素爆発が起きた際、内閣府原子力安全委員会側からの「避難指示を半径20キロから30キロ圏内まで広げるべきです」との提案に対して、枝野らは大規模な避難計画の立案が必要になり、混乱する懸念があったため「30キロに拡大するのはいいが、屋内退避にとどめた方がいい」と反論した[43]。3月12日午前2時の内閣官房記者会見で、ベント開放に備えた住民への安全の考慮について「発電所から3km以内の避難、10km以内での屋内退避の措置により、住民の皆様の安全は充分に確保されている」と説明した[44][45]。
- 2011年4月に文部科学省は児童への安全基準として毎時3.8マイクロシーベルト・年換算20ミリシーベルトを示したが、除染対策を自治体に任せ、積極的に動いていなかった[46]。そのため自治体は独自に校庭の表土除去を実施した[47]。この表土除去に関して枝野は、これらの表土は放射性廃棄物と認識しつつ、除去については「文部科学省から示した指針に基づいて対応をいただければ必要はない」との見解を示した[48]。
野田内閣
2011年9月2日、野田内閣発足に伴い内閣官房長官を退任。当初は「一兵卒として政府を支える」と話していたが、同月12日、福島第一原子力発電所事故をめぐる不適切な言動で辞任した鉢呂吉雄の後任として第16代経済産業大臣に就任し、10日で閣内に戻ることとなった[49]。2011年10月3日、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)が加わる[50]。
2012年12月の第46回衆議院議員総選挙では小選挙区で当選し[51]、7選。
- 原子力政策に関する言動
2012年4月13日、定期検査で運転中止中の関西電力大飯原発3、4号機について、関電の安全対策が政府の安全基準を満たしていることを確認し、安全宣言を出した。また大飯原発が再稼働せずに2010年並の猛暑を迎えた場合、関電管内で最大2割程度の電力不足に見舞われ電力料金の値上げにもつながるとして「再稼働の必要性が存在する」と述べた[52]。翌14日、福井県の西川一誠知事との会談で3、4号機の安全性が確保されていることを説明するとともに電力需給面での必要性も挙げ、再稼働への協力を要請した[53]。6月1日、「2基ともフル出力で発電するのは7月を越える」と述べ、関電管内で15%の節電要請が始まる7月2日に間に合わないとの認識を示した[54]。6月16日、政府は西川知事の同意を得て再稼働を正式決定[55]。6月18日、関電の八木誠社長に対して再稼働に向けた作業の安全を徹底するよう指示するとともに、再稼働の前提となる安全対策の確認を求めた[56]。7月25日、4号機のフル稼働を受け関電の八木社長が高浜原発3、4号機の再稼働について「優先的に再稼働する方向で、これから国と調整をさせていただきたい」と述べたことに対し「大変不快な発言だ。安全性についてしっかりチェックすることなしに再稼働はあり得ない」と述べ、9月に発足する原子力規制委員会の評価・判断を見守るべきとの考えを示した[57]。8月28日、夏の節電目標を達成して推移している関電管轄内の電力需給について、大飯原発3、4号機が再稼働しなかった場合、最大需要を記録した8月3日[58]の供給余力が3%を割り込む計算だったことを挙げ「大飯原発が再稼働できていなければ、大変厳しい状況だった」と述べた[59]。
9月15日 青森県の三村知事や原子力施設のある市町村の首長らと青森市内で会談し、東日本大震災後に工事を中断した電源開発大間原子力発電所(青森県大間町)と中国電力島根原発3号機(松江市)の建設再開・稼働を事実上、容認する考えを伝えた。原発再稼動の是非が問われる中で両原発の建設が再開されれば、震災後初めての原発建設となる。この会談の中で枝野は「原子炉の設置と工事計画許可が与えられている原発について、経産省の立場として変更は考えていない」と述べ、19日に発足する原子力規制委員会が安全を確認すれば、建設再開・稼働を認める方針を示した[60]。
政策・主張
福祉・医療
- 福島県立大野病院産科医逮捕事件で医師・看護師の訴訟について、指揮権の発動を主張するとともに、医療ミスについての過失責任については一般の業務上過失致死罪とは別にすることを提案した[61][62]。
- 費用負担が高額となる不妊治療に対して、夫人が不妊治療を行い子供を授かったという経験も併せ国の支援について評価しつつ、所得制限付きの回数制限ありの無料化を主張した[63]。
脳死状態からの臓器移植には賛成だが、脳死を人の死と法で定めることには反対している。1997年の臓器移植法案についての審議では、脳死を人の死としない法案(金田案)の提案者となり、「脳死状態では、自らの臓器を提供して、他人の生命を救うことに限定される。その中で自分の命を縮めるという自己決定も許されるのではないか」などと発言した[64]。2009年の臓器移植法改正案についての審議では、脳死の判定基準を厳格化するC案の提案者となった[65]。
選択的夫婦別姓法案
選択的夫婦別姓制の実現を初当選時の公約に掲げて以来、推進している[5][66]。自社さ連立政権時代の1996年に法制審が答申した夫婦別姓の選択を認める民法改正案を「子供の姓を婚姻届を出す際に決めるなど改正案には不十分な点もあるが、別姓を法制化する点で評価できる」として政府提案に向けて動いたが[67]、この案は自民党一部議員の反対によって国会提出が見送られ続ける[68]。1997年には「別姓夫婦の子の姓は、出生時に父母が協議して決める」と法制審案より踏み込んだ民法改正案(民主党案)の提案者となり、衆院法務委員会で論陣を張った[69]。
憲法改正論議
2013年9月10日、民主党憲法総合調査会長に任命された枝野は憲法9条の改正私案を発表している[70]。自衛権行使の要件を明文化した条項を9条に追加し、憲法解釈の幅を極力狭めることで、無原則な軍拡に歯止めをかける必要性を打ち出している。「時の内閣の判断で憲法解釈を変更できる可能性がある」ことが現行憲法の最大の問題と指摘。解釈変更で集団的自衛権の行使容認を目指す安倍政権の姿勢を批判している[71][72]。
経済・金融
明治以来続いてきた、欧米に追いつき追い越すことを目標とする「キャッチアップ型社会」の限界だと認識し、日本の政治・経済・社会の構造を多様性・独創性のあるものに転換すべきだと考えている[73]。金融業界の護送船団方式とはじめとする中央集権の官僚機構による経済統制と、終身雇用制や年功序列型賃金などで構築された従順で同質性の高い労働力は、乏しい資本と乏しい人材を効率よく活用するのに合理的だったが、他国の労働力の質が向上し、もはや規格大量生産の分野で価格競争に勝つことは不可能である[73]。中央集権をやめ、地方分権によって地域ごとの個性を生かした競争を促し、規制緩和によって独創性のある技術や経営を生み出すべきだ、としている[73][74]。職業移動と雇用の流動化を促進して産業構造を変えるべきで、公共事業による景気対策ではなく失業対策や社会保障対策が必要だと主張している[75]。
バブル崩壊後に我が国は内需主導経済へ転換すべきであったが、労働者派遣法の緩和等が製造業の規格大量生産に軸足を置いた輸出に依存する経済構造を保ってしまったとして、当時の政策を批判している[76]。介護や医療、教育、保育といった少子高齢化対応事業に財政を投入し雇用を創出すべきだ、と主張している[76]。製造業で国際的競争力を保てるのは品質管理や技術力を含めた高付加価値分野に限られ、高付加価値を維持するためには職業内訓練を実践できる安定した雇用が必要だとしている[76]。そのため偽装請負を厳しく批判し、特にキヤノンの偽装請負については、食品偽装問題と同列かそれ以上に悪質な行為として扱われるべきだと言及している[77]。
- 絶対的な金額は別として、低所得者の所得上昇分は消費に回る割合だけは相対的に高いという判断をしている[78]。
1998年の金融危機では、公的資金は預金者保護と健全な借り手保護に限定すべきだとして、破綻前処理に一貫して反対した[79]。不良債権を処理しなければ金融機関の貸し渋りは続くと考え、不良債権処理を強制して過小資本に追い込んでから公的資金で立ち直らせるべきで、厳しい査定と強制的な資本注入が必要だと主張した[80]。
- 多重債務問題(サラ金問題)について消費者金融に厳しい立場を取り、安倍内閣ではグレーゾーン金利制度を追求した[81]。グレーゾーン金利を復活させようとする甘利明、西川公也ら金融サービス制度を検討する会の動きを警戒し、超党派の議員連盟を結成して後藤田正純と共同代表を務めている[82]。
外交・安全保障
どんな状況になっても複数の選択肢(外交カード)を確保できるようにすることが必要だとし、イラク戦争開戦時に日本にアメリカ無条件支持しか選択肢が残らなかった外交プロセスを批判している[83]。「中国の体制が中長期的に継続するとは思っていません」とし[74]、中国全体が民主化してアメリカの東アジアにおける軍事プレゼンスが必要なくなったときを見据えて、朝鮮半島、台湾、ASEAN等の東アジアと経済統合を進めて米中と対抗できるようにすべきだとしている[84]。
対中強硬派として知られる。1995年に北京で開かれた国連世界女性会議に参加した際には、中国の核実験に反対する横断幕を持ち込んで治安当局に没収され、会議場で抗議文を紙に大書きして当局に制止されるなどした[85]。
2010年10月2日さいたま市での講演で尖閣諸島中国漁船衝突事件を踏まえて、「中国には法治主義が通用しないという前提で付き合わないといけない。そのような国と経済的パートナーシップを組む企業はお人好しだ。カントリーリスクを含めて、自己責任で経営に当たってもらわなければ困る」、「中国と日本は明らかに政治体制が違い、米国や韓国との関係同様に信頼関係をもって協力して物事を進めることを期待する方がおかしい」、「悪しき隣人でも隣人だ。それなりにつきあいをしていかないといけない」などを主旨とすることを語った[86][87]。2011年2月10日、衆院予算委員会の公明党の佐藤茂樹への答弁で「直接にどこかの国をあしき隣人と言ったものではない」「よい隣人であろうと、あしき隣人であろうと、隣人とはよく付き合っていかざるを得ないという一般的なことを申し上げた。(日中両国が)お互いによき隣人となれるよう努力したい」と述べた[88]。
民主党日本・台湾友好議員連盟に所属し[89]、たびたび訪台して台湾の政治家と交流している[74]、代表的な親台派議員の一人である。李登輝元総統を尊敬する人に挙げていて、2010年の行政刷新大臣への就任会見でも言及している[90]。
チベット問題にも取り組んでおり、チベット亡命政府を支持している[91]。2005年に超党派の国会議員で構成されるチベット問題を考える議員連盟の代表に就任[92]。2008年には、チベット弾圧が悪化するなら胡錦濤主席の訪日を歓迎できない、とするチベット議連の声明文を起草した[93]。2009年に議連代表を退き、現在は名誉顧問を務めている。
ハト派を自認するが現実主義者であり、有事法制の必要性を訴えている[83]。左右の極端な意見には批判的で、「たしかに安全保障政策などで、横路(孝弘)さんや横路さんの側近の意見があまりにもナンセンスで問題外のため、いらつくこともたびたびあります」と述べたこともある[94]。
法律・警察機構
警察権力が拡大しすぎないよう行動しており、警察へのチェック機構の必要性を訴えている。1995年には、オウム真理教事件で警察が微罪による別件逮捕を繰り返したことについて予算委員会で指摘し、「もしも安易に逮捕することを警察が当たり前という気持ちになったら、戦前の警察国家に向かっていく危惧を覚える」と発言した[95]。
1999年の通信傍受法制定のときには、濫用防止のための制度的な歯止めが不十分と考え[96]、盗聴には第三者の立会人と本人への通知が不可欠だと訴えた[97]。しかし、法務委員会で質疑に立つ前に、自自公連立政権に審議時間の与野党合意を破られ強行採決された[98]。
共謀罪には否定的で[99]、「『共謀罪』に反対する超党派国会議員と市民の緊急院内集会」の呼びかけ人を務めた。
- 児童買春・児童ポルノ処罰法の改正について、児童ポルノを所持しているだけで罰則を課す単純所持規制化には慎重な立場を取る。理由として児童ポルノの定義が曖昧であることと、捜査権の濫用が危惧されることを挙げ、罰則の対象拡大は積極的に収集・購入した者に留めるべきだとしている[100]。
行政
- 天下り・渡りは、自分がいた役所の所管する独立行政法人や公益法人に対する再就職について、例えば退職後二十年間とか、許可を要するとか、あるいは自分が在職した役所から仕事を発注、受注している企業に対する再就職については退職後二十年とか、そういう場合に許可を要するという制度を提案した[101]。
- 永住外国人への地方参政権については、地方自治という観点から、本来ならば自治体ごとに決めればよいとする一方、今のままでは、地方自治体の選挙で結果が国益に影響が出る可能性があるとして、国と地方の役割分担に関するシステムを批判し、現状での参政権付与に慎重な立場を取っている。[102]。
国会に強力な調査権限を持った行政監視院(日本版GAO)を設置して、行政に対する外部監査機能を持たせるよう主張している。1996年に行政監視院法案を提案、衆院行革特別委で総務庁行政監察局が機能を果たしていないことを指摘し、行政監視院創設の意義を訴えた[103]。この議論は決算行政監視委員会の設置につながった[104]。2005年には民主党憲法調査会長としてまとめた憲法提言に、行政監視院の設置を盛り込んだ[105]。
利権誘導型の公共事業には反対の立場を取ることが多い。1997年の整備新幹線予算・関連法案について旧民主党は賛成だったが、枝野は他の都市部選出若手議員とともに造反して反対した[106]。
部落解放運動
さいたま市で開かれた部落解放県共闘の第17回総会で枝野は副議長に選ばれている[107]。
その他
- 1995年に愛知万博に反対する集会に参加している[108]。
- 2010年11月14日、民主党政権が掲げる政治主導が機能していないとの批判について、地元さいたま市の講演で「与党がこんなに忙しいとは思わなかった。政治主導なんてうかつなことを言ったから大変なことになった。なにより欲しいのは、ゆっくり考える時間と、ゆっくり相談する時間だ」と述べた[109]。
政策
- 国旗及び国歌に関する法律に反対。但し、その理由については、国旗は国際法との兼ね合いで明文化することに意味があり、反対ではないこと、国歌については「多くの国民が国歌として認めていること」こそが重要であり、政治的思惑で左右されかねない明文法とするのではなく、慣習法の世界で対応することが適切だとしており[110]、日の丸と君が代を法的に国旗・国歌と位置付けること自体には賛成している。
所属団体・議員連盟
家族
- 妻と二男(双子)
- 1998年10月に日本航空国際線スチュワーデスと結婚。選択的夫婦別姓を認める民法改正案の提案者であり、事実婚にするのでは、と注目されていたが、「彼女が法律婚を望んだ」ために入籍に至った[111]。両家の共通の知人の紹介で、4月に半ばお見合いの形で引き合わされ、7月に結婚を決めたという[112]。2002年から夫人とともに不妊治療を始め、2006年7月に双子の男児を授かった[113]。
人物
- 1994年にTBS制作『オールスター感謝祭』の人気コーナー「赤坂5丁目ミニマラソン」に参加、TBS周辺を走った事がある。この時の映像が2011年4月9日に放送された同番組にて紹介された。
- ダカーポ誌の「我が生涯最高の1冊」に塩野七生著『ローマ人の物語』を挙げている[117]。
- 2002年に、山本一太、福山哲郎、水野賢一とともに、雑誌上に政治資金の全体像や陳情への対応を詳細に公開した[118]。
- 東北地方太平洋沖地震の発生に際しては、内閣官房長官として連日記者会見を行った。ツイッターには枝野の体調を気遣い睡眠をとるよう促すコメントが多く投稿され、それらのコメントにハッシュタグ「#edano_nero」を附与する動きが広まった[122][123][124][125]。一連の動きは『ウォールストリート・ジャーナル』や『ガーディアン』にも紹介され[123][124]、この記事を読んだ作家のウィリアム・ギブスンは「Edano, sleep」[126]とツイッターでコメントした。一部では105時間寝ずに働いたとも囁かれ、デイリー・テレグラフのネット報道では、アメリカの人気ドラマ『24 -TWENTY FOUR-』に準(なぞら)えて「政界のジャック・バウアー」と報じられた[127]。インターネットではその様子を指して枝るという言葉も生まれた[128]。この「枝る」という言葉は、大修館書店が主催する「第6回『もっと明鏡』大賞 みんなで作ろう国語辞典!」で、最優秀作品賞10点の1つに選ばれた[129]。
- 東日本大震災後、一部ネット上で、放射能を恐れて「家族をシンガポールに逃がした」とする悪質なデマが広がったが、記者会見等で明確に否定されている[130]。このデマを消すため、枝野の妻は、一時はパスポートを常時持ち歩いて、海外に出ていないことを証明していた[131]。
- ネット上では「えだのん」と呼ばれている。紀伊民報の報道によれば、枝野は愚問に対しても小ばかにした態度はとらず、外国のメディアからは「嘘は言わない」と評価されている一方で、「情報の全部は出さない」とも評されている[132]。
報道
労働組合との覚書について
- 1996年の第41回衆議院議員総選挙への立候補に際し、JR東労組大宮支部執行委員長と「私はJR総連及びJR東労組の掲げる綱領(活動方針)を理解し、連帯して活動します」などが記された覚書を交わしたことが2010年7月17日発売の『新潮45』に掲載された[133][134]。なお、JR総連およびJR東労組から枝野の政治資金団体「21世紀都市文化フォーラム」へ、覚書が交わされた1996年から4年間にわたって総額404万円の資金提供があった[133]。これに対し枝野は、覚書は「一般的な政策協定を結ぶ一定のひな型の通りだ」と述べ問題がないとの考えを示し、JR東労組との関係は「連合の各産別とお付き合いする範囲でお付き合いしているが、それ以上でも以下でもない」と述べた[135]。2011年2月、予算委員会において今後はJR総連・JR東労連から献金の申し出があっても断ると宣言した[136]。
義父からの個人献金について
- 弁護士であり、財務省所管の公益法人「印刷朝陽会」の理事にも就いている義父から毎年献金を受けている。印刷朝陽会の理事長は大蔵省からの天下り役人であり、「天下り法人理事から献金を受け取る」のは「不適切な関係」ではないかと週刊誌に書かれた[137]。もっとも、義父は弁護士の立場から、当該法人の外部の非常勤理事として無報酬で務めていたものであり、枝野は指摘を受けるまで義父が当該法人の理事を務めていたことを認識していなかった[138]。
脚注
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関連項目
外部リンク
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
鉢呂吉雄
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 経済産業大臣
第16代:2011年 - 2012年
|style="width:30%"|次代:
茂木敏充
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
細野豪志
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構)
第3代:2011年 - 2012年
|style="width:30%"|次代:
茂木敏充
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
仙谷由人
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣官房長官
第79代:2011年
|style="width:30%"|次代:
藤村修
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
馬淵澄夫
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Nowrap
第17代:2011年
|style="width:30%"|次代:
川端達夫
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
仙谷由人
蓮舫
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 特命担当大臣(行政刷新)
第2代:2010年
第4代:2011年
|style="width:30%"|次代:
蓮舫
蓮舫
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
仙谷由人
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院決算行政監視委員長
2007年 - 2009年
|style="width:30%"|次代:
川端達夫
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
小沢一郎
|style="width:40%; text-align:center"|民主党幹事長
第10代:2010年
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岡田克也
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
海江田万里
|style="width:40%; text-align:center"|民主党政策調査会長
第6代:2002年 - 2004年
|style="width:30%"|次代:
仙谷由人
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- ↑ 【東日本大震災】枝野長官会見(3完)「ネットの『枝る』は承知も…」- MSN産経ニュース2011年4月8日テンプレート:リンク切れ
- ↑ 全国の中高生から寄せられた8万4,090語 第6回 「もっと明鏡」大賞 みんなで作ろう国語辞典! 結果発表 大修館書店
- ↑ 平成23年7月12日 内閣官房長官定例会見
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