佐藤栄作
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佐藤 栄作(さとう えいさく、旧字体:榮作、1901年(明治34年)3月27日 - 1975年(昭和50年)6月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。
内閣官房長官(第4代)、衆議院議員(11期)、郵政大臣(第3代)、電気通信大臣(第3代)、建設大臣(第7代)、北海道開発庁長官(第4・21・22代)、大蔵大臣(第64代)、通商産業大臣(第22代)、科学技術庁長官(第12・13代)、内閣総理大臣(第61・62・63代)などを歴任した。
目次
概要
東京帝国大学卒業後、鉄道省に勤務した。鉄道総局の長官などを歴任し、運輸省の次官を最後に退官すると、非議員ながら第2次吉田内閣の内閣官房長官に任命された。その後、第24回衆議院議員総選挙にて衆議院議員に当選。民主自由党を経て自由党に参加し、一年生議員ながら自由党の幹事長に就任した。
一時無所属となるも、自由民主党に入党した。その後、内閣総理大臣を3期務めた。総理大臣在任期間は歴代総理中第2位で、連続在任期間は歴代総理中最長の7年8ヶ月、昭和時代においては最長の長期政権である。20世紀生まれ初の総理である。自由民主党史上唯一4選された総裁でもある。また、第56・57代内閣総理大臣・岸信介の実弟にあたる。なお、ノーベル平和賞を受賞し、衆議院議員永年在職表彰を受彰している。位階は従一位。勲等は大勲位。
来歴・人物
生い立ち
現在の山口県熊毛郡田布施町に酒造業を営む佐藤秀助・茂世(もよ)夫妻の三男として生まれた。父・秀助は山口県庁に奉職したが、1898年頃、勤めを辞め、酒造業を始めた。佐藤家には酒造の権利が昔からあった。その権利は一時他家に貸していたが、母・茂世が分家するに当たって酒造の権利を取り戻して茂世に与えられたものだった。秀助・茂世夫妻は、本家のある田縫のすぐそばの岸田で酒造りに従事した。[1]
地元の人たちは佐藤家の市郎・信介・栄作の兄弟について「頭は上から、度胸は下から」と評している[2]。
学生時代
1907年小学校に入学した。小学校の頃のあだ名は色が黒かったため「ごぼう」。佐藤家の坊ちゃんとして一目おかれる存在で「栄だんさま」(旦那の意)とよばれた。小鳥を追ったり、鰻とりをしたりと、自然児だった。夏は家の側の小川で、真っ黒になって泳いだ。[3] また、村人が佐藤家の者と道で会うと「お許しなさいませ」と挨拶し、佐藤家の子が川で水遊びをしていると無礼のないように避けて通ったという話もある。[4]
高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に池田勇人と同じ宿に泊まり合わせた[5]。 池田は広島の忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日5人は酒を飲み大騒ぎして別れた。試験には合格したが、失敗したら南米へ行こうと思っていたという[6]。
東京から電報で「五高入学おめでとう」と知らせてくれたのは親戚でもある松岡洋右だった。田布施の役場に官報が届くのを待って確かめた。山口中学の同級生も合格したし池田勇人の名もあった。池田は一部乙類で文科、佐藤は一部丙類でドイツ法である。[7]
1921年4月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)入学。大学時代の佐藤は真面目によく勉強するおとなしい学生だった。
高等文官試験
1923年12月、高等文官試験(行政)合格。口述試験はあっさりしたものだった。試験官が「あなたは一通りは本を読みましたか?」と聞く。「はい、受験のため一通り読みました」、「よろしい、それで結構です」という。佐藤は思わず試験官の顔を見たが試験官は「もう何も聞くことはありません、お帰りください」というだけである。こんな簡単な口述試験で終わるのは、筆記試験の方が余程悪くて、初めから見込みがなかったのだと、涙が出る思いで焼野原を歩いて帰ったと、後日佐藤は語っている。[8]。
就職
当時満鉄の理事をしていた親戚の松岡洋右が日本郵船への就職を勧め、松岡は社長の伊東米治郎に頼んでいたので採用される予定だったが、会社の都合で採用取り消しになった。鉄道省へは松岡が鉄道大臣の小松謙次郎に頼んでいたので順調に採用された[9]。
官僚時代
以後、鉄道畑を歩いたが、地方勤務が長かったり、左遷を経験したりと、革新官僚として早くから注目された兄・信介と比較すると曲折ある前半生だった。
1944年4月、大阪鉄道局長となる。大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではなく、いわば左遷だった。業務上の立場から陸軍と対立したためとする説がある[10]。長男・龍太郎は「親父が左遷されたのは省内の派閥抗争もさることながら鉄道大臣だった五島慶太にニラまれたのだと思う。親父はああいう性格なので、官僚的に事務処理をする。五島慶太からみれば“石アタマのあのバカ、消してしまえ”ということではなかったか…」と述べている[11]。
1945年3月13 - 14日の大阪大空襲の際、3月13日朝に大阪市電気局(現・大阪市交通局)局長に対し「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話で警戒を促した[12]。
左遷されていたことが幸いして岸が遭った公職追放からは免れることができた[13]。
1947年に社会党首班政権の片山内閣が誕生した際、当時運輸次官だった佐藤は西尾末広に内閣官房次長に起用される案があったが、辞退している。1948年退官し、民主自由党に入党した。
政歴
遠縁に当たる吉田茂とは早くから親交があり、第2次吉田内閣で非議員ながら入閣[13]。池田勇人と共に「吉田学校」の代表格となる。1949年、総選挙に当選してキャリアを重ねるも、自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚して逮捕寸前になった際に、法務大臣・犬養健に検察指揮権の発動をさせようとしたが、犬養は動かず、吉田に犬養を罷免させ、新法相に指揮権を発動させようとした。結局、犬養が指揮権発動したことにより逮捕を免れた[14]。その後、政治資金規正法違反で在宅起訴されるが、「国連恩赦」で免訴となる。
保守合同による自由民主党結成では自民党参加を拒否した吉田に橋本登美三郎とともに従った[15]。鳩山一郎引退後に自民党へ入党。兄の岸信介の片腕として党総務会長に就任、政務調査会長・三木武夫と共に岸政権を支えた。続く池田内閣でも要職を務めたが、池田の高度成長路線に批判的な立場を取り、その歪みを是正すべく、「社会開発」、「安定成長」、「人間尊重」といったスローガンのもと、ブレーンらとともに自らの政権構想を練り上げていった[16]。
内閣総理大臣
1964年7月、佐藤は池田勇人の三選阻止を掲げ自民党総裁選挙に出馬した。池田、佐藤に藤山愛一郎を加えた三つ巴選挙戦は熾烈を極め、各陣営からは一本釣りの現金が飛び交い、「ニッカ、サントリー、オールドパー」という隠語が流布するまでとなったが[17]、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した[18]。佐藤は「暫しの冷や飯食い」を覚悟したというが、同年11月、池田の病気退陣に伴い、実力者による党内調整会談を経て、池田裁定により自民党後継総裁に指名され、内閣総理大臣に就任した[19]。
総裁公選のすぐ後に当選者が病気退陣することとなり、惜敗していた次点の候補者がその後継者に選ばれるという過程は、奇しくも兄・岸信介の総理総裁の就任の仕方と同じとなった。田中角栄はのちにこれについて、「たいていの代議士は、努力さえすれば大臣にはなることができる。だが、総理・総裁は、努力してもなれるものではない。やはり運命だ」と語っている。
在任中の主たる施策
首相在任中は、ILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准[20]、日韓基本条約の批准、国民祝日法改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定、小笠原諸島・沖縄の返還実現、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決、内閣総理大臣顕彰制定等を行なった。
また、1967年12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。
その一方で、1964年10月16日に中国が初の核実験を成功させたことに危機感を覚え、直後の1965年1月12日よりアメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談において、当時のリンドン・ジョンソン大統領に対し、日本の核武装を否定した上で、日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じたことが公開された外交文書から明らかとなっている。また、翌13日のロバート・マクナマラ国防長官との会談では、「戦争になれば、アメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えている[21]。
就任翌年の1965年8月19日に那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還に執念を燃やした。1965年1月のジョンソン会談に向けて沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて呆れられたとの逸話も残るが、結果的に在任中に返還を実現させた。
しかし、交渉の過程でアメリカ側の要請により「有事の沖縄への核持ち込みおよび通過」を事前協議の上で認める密約を結んだことが、交渉の密使を務めた若泉敬によって佐藤没後の1994年に暴露された(日米核持ち込み問題)。その後アメリカでも別の外交文書から合意の存在が確認されたが、佐藤の遺品にこの合意議事録が含まれ、遺族が保管していたことが2009年12月に報道された[22]。
長期政権とその背景
政権は「黒い霧事件」に見られるような数々のスキャンダルに見舞われ、「待ちの政治」と呼ばれた政治スタイルも国民受けする華やかなものではなく、在任中の支持率は決して高くなかったが、国政選挙を常に無難に乗り越え続け、ついに本格的な窮地に陥ることなく日本政治史にも稀な長期連続政権を達成して、後進に政権を譲った。
この背景には、何といっても好調な経済が第一に挙げられる。佐藤政権期、世は高度経済成長に邁進し続け、「昭和元禄」(福田赳夫が命名)を謳歌していた。かつて池田の経済優先の姿勢を批判し続けた佐藤だが、皮肉にも佐藤政権の下で日本経済は池田時代以上の成長を続けた。
さらに自民党内での佐藤の政敵が相次いで世を去ったという事情がある。同じ吉田門下の池田勇人が病に倒れたことによって佐藤は政権の座についたが、その池田は間もなく病没(1965年8月)。大野伴睦(1964年5月没)、河野一郎(1965年7月没)といった党人派のライバルも、佐藤の首相就任前後に相次いで他界した[23]。特に世論から期待の声が高かった実力者・河野の死は極めて大きかった。
このように佐藤にとって政敵不在の中、派閥横断的に将来の総理総裁候補、特に田中角栄、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、鈴木善幸、宮澤喜一、竹下登たちを政府・党の要職に就けて競わせ育成し、「人事の佐藤」と呼ばれる人心掌握術[24]で政権の求心力を維持し続けた。また、情報収集能力があったため、「早耳の佐藤」と呼ばれた。
また、当選回数による年功序列や政治家の世襲といったその後の自民党を特徴づけるシステムが確立したのも佐藤政権である。議会運営においても、国対政治と批判された、金銭や「足して二で割る」妥協案等による野党懐柔がこの頃に定着したとされ、それまで政権交代に意欲を見せていた日本社会党の党勢を削ぐ上でも大きな役割を果たした。他方で参議院自民党の実力者であった重宗雄三と協力関係を結んで政権基盤を確立しながら、田中角栄や園田直等に強行採決を自ら指示する事もあり、日韓基本条約、大学措置法、沖縄返還協定等与野党の対立が激しい懸案を、牛歩戦術や議事妨害で抵抗する野党に対し徹夜や抜き打ち等で強引に採決し、時にはこれに抵抗する衆議院議長を更迭する等、硬軟織り交ぜた国会運営を行った。
こうして、好調な経済と安定した党内基盤、そして野党の脆弱さを背景に、国政選挙で安定多数を維持し続け、自民党の黄金時代を体現した。他方で、当初、佐藤が意図していたような経済成長の副作用の是正や、社会資本整備といった課題は先送りされた面は否めず、沖縄問題にエネルギーを集中せざるを得なかった任期後半にかけては、公害問題や対中外交などで後手に回って批判を浴び、苦慮することが多かった。こうした佐藤長期政権への不満は、たとえば自民党の得票率が漸減の傾向にあったことや、全国各地で革新首長が誕生したことなどからも読み取れるが、保守政治の動揺が国政の場で顕在化するのは、ポスト佐藤の保革伯仲時代になってからである。
退陣
1970年の自民党総裁4選については、自民党内部に政権の長期化を懸念し、勇退による福田赳夫への禅譲論の声もあった。しかし、次期総裁を狙いつつ佐藤派内の掌握のため時間を稼ぎたい田中と、旧岸派分裂時に“福田嫌い”から袂を分かった副総裁・川島正次郎の思惑などが合致し、川島・橋本登美三郎らは、総理引退を考えていた佐藤に4選すべきだと持ちかけ、強力に佐藤4選運動を展開した。そして、佐藤は「沖縄返還の筋道をつける」事を大義名分に、三木武夫を破り現在まで唯一・最多の自民党総裁4選を果たした。4選直後の党大会において浜田幸一が「昨日まで我々は佐藤政権を支持してきた、しかし今日からは違う」と発言したことが語り草になっている。
また外交ではベトナム戦争における北爆を支持し左翼団体から猛反発を浴び、1967年11月には官邸前での焼身自殺事件までも引き起こされた。反共産主義で一貫して親台派アンチ中共の立場を取り続け、中華人民共和国の国際連合加盟に総理在任中は反対し続け野党だけでなく自民党内の親中派からも反発を招き、1971年には外務大臣・福田赳夫の不信任決議案に、河野洋平、田川誠一等親中派若手議員の一部が欠席している[25]。
しかし、4選以降は、佐藤自身が次は立候補しないことを米国からの帰途、早々と言明してしまったため、「ポスト佐藤」を巡っての後継争いが早くから激化した。ニクソン・ショック(1971年7月15日および8月15日)や沖縄密約事件(1972年(昭和47年)3月27日)が相次いだことや、通訳を務めた外交官の誤訳が起因とされている日米繊維交渉の拗れ、統一地方選挙における革新陣営の台頭等で佐藤政権の求心力は弱まっていった。佐藤が当初意図していた福田へのスムーズな政権移譲は不可能な状況となり、逆に、佐藤派の大番頭だった田中が派の大部分を掌握して分派、田中派を結成し(1972年5月)、総裁公選も田中が宿敵の福田を破って勝利した(1972年7月5日)。佐藤政権は、田中を首班とする内閣に政権を引き渡すべく、同年7月6日に内閣総辞職し、予定通り沖縄返還を花道として7年8ヶ月に渡る長期政権を終えた。
退陣表明記者会見
1972年6月17日の退陣表明記者会見の冒頭、佐藤は「テレビカメラはどこかね? テレビカメラ…。どこにNHKがいるとか、どこに何々いるとか、これをやっぱり言ってくれないかな。今日はそういう話だった。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。違うんですよ、僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると(真意が)違うからね。残念ながら…、そこで新聞を、さっきもいったように偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。(記者は)帰って下さい」と発言。最初は冗談かと思った記者たちより笑い声もあったが、佐藤はそのまま総理室に引き上げてしまった。
内閣官房長官として同席していた竹下登の説得で再び会見室にもどり、何事も無かったよう佐藤は記者会見を始める。反発した新聞記者が「内閣記者会としてはさっきの発言、テレビと新聞を分ける考えは絶対許せない」と抗議したが、「それならば出てってください。構わないですよ。やりましょう」と応え、新聞記者達は「じゃあ出ましょうか! 出よう出よう!」と全員が退席してがらんとした会見場で、一人テレビカメラに向かって演説した。
なお竹下によると、佐藤はあらかじめ記者クラブの了解をとってテレビのみの会見を設定しようとして、秘書官を通じて記者クラブ幹部に話をつけていた。しかしそこで行き違いがあり、記者クラブ側としては、佐藤がテレビに向かって独演することは了承したが、記者が会見の席に出られないという意味では受け取っていなかったため、最後の見送りという意味も含めて陪席することとした。そのため当日の席でまず佐藤が話が違うといって怒り、それに対して見送りのつもりで来ていた記者らも腹を立てて退席することとなったという[26]。
その日の朝日新聞夕刊は、事の顛末を「…ガランとした首相官邸の会見室で、首相はモノいわぬ機械に向かって一人でしゃべっていた[27]」と突き放すように締めくくった。全国紙が時の首相を「一人でしゃべっていた」などと書くのは前代未聞の出来事だった[28]。
総理退任後
1974年晩秋、田中角栄の日米にまたがる金脈問題が騒がれ始める中、佐藤は非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて受賞した(受賞に関する詳細は後述)。賞金は「国際連合の下に設立された国連大学の発展に協力する等世界の平和と福祉の向上に資すること」を目的として佐藤栄作記念国連大学協賛財団に寄附され、国連大学の行う世界的課題の研究のうち、業績顕著なる者への褒賞として佐藤栄作賞が制定されている。
1975年5月19日、築地の料亭「新喜楽」で、財界人らとの会合において脳溢血で倒れる。寛子夫人の強い意向で4日間「新喜楽」で容態を見た後、東京慈恵会医科大学附属病院に移送されたが一度も覚醒することなく昏睡を続けた後、6月3日に死去。74歳だった。
6月16日、日本武道館で大隈重信以来の「国民葬」が行なわれた。葬儀委員長は、田中角栄。遺族代表は兄・岸信介だった。
浄土真宗本願寺派第23世門主・勝如より法名「作願院釋和栄」を受け、また山口県の佐藤家菩提寺より「周山院殿作徳繁栄大居士」の戒名も受けている。墓所は東京都杉並区永福の本願寺築地本願寺和田堀廟所と山口県田布施町にある。
倒れる前日まで記していた『佐藤栄作日記』(全7巻)が朝日新聞社より、1996年から1997年に刊行された[29]。
略年譜
- 1901年(明治34年)3月27日 - 山口県熊毛郡田布施村田縫(現・田布施町)に生まれる。
- 1907年(明治40年)4月 - 国木尋常小学校入学。
- 1913年(大正2年)4月 - 山口県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)入学。
- 1918年(大正7年)9月 - 第五高等学校(一部丙類)入学。
- 1921年(大正10年)4月 - 東京帝国大学法学部法律学科(独法)入学。
- 1923年(大正12年)12月 - 高等文官試験(行政)合格。
- 1924年(大正13年)
- 1926年(大正15年)
- 1928年(昭和3年)
- 4月 - 長男・龍太郎が生まれる。
- 1929年(昭和4年)5月 - 門司鉄道局庶務課文書掛長。
- 1931年(昭和6年)4月 - 門司鉄道局鳥栖運輸事務所長。
- 1932年(昭和7年)2月 - 次男・信二が生まれる。
- 1933年(昭和8年)8月 - 門司鉄道局運輸庶務掛長。
- 1934年(昭和9年)6月 - 米国の鉄道研究を目的とした在外研究員となり、8月に出発する。
- 1936年(昭和11年)
- 4月 - 帰国。
- 7月 - 鉄道省事務官・監督局業務課勤務。
- 1937年(昭和12年)6月 - 鉄道省陸運監理官。
- 1938年(昭和13年)
- 5月 - 中華民国へ出張。
- 6月 - 帰国。
- 8月 - 鉄道書記官・監督局鉄道課長。
- 9月 - 中華民国へ出張。
- 1939年(昭和14年)6月 - 中華民国より帰国。
- 1940年(昭和15年)6月 - 鉄道省監督局総務課長。
- 1941年(昭和16年)12月 - 鉄道省監督局長。
- 1942年(昭和17年)11月 - 監理局長。
- 1943年(昭和18年)11月 - 運輸通信省自動車局長。
- 1944年(昭和19年)4月 - 大阪鉄道局長。
- 1946年(昭和21年)2月 - 運輸省鉄道総局長官。
- 1947年(昭和22年)2月 - 運輸次官。
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)1月 - 衆議院議員に初当選。(~1975年6月)
- 1950年(昭和25年)4月 - 自由党幹事長。
- 1951年(昭和26年)
- 7月 - 第3次吉田内閣第2次改造内閣で郵政大臣兼電気通信大臣に就任。
- 12月 - 第3次吉田内閣第3次改造内閣でも留任。(~1952年7月)
- 1952年(昭和27年)10月 - 第4次吉田内閣で建設大臣兼国務大臣北海道開発庁長官に就任。(~1953年2月)
- 1953年(昭和28年)1月 - 自由党幹事長。
- 1954年(昭和29年)
- 1955年(昭和30年)11月 - 自由民主党結成に不参加、吉田茂とともに無所属となる。
- 1956年(昭和31年)12月 - 政治資金規正法違反で訴追されたが、国際連合加盟の恩赦で免訴。
- 1957年(昭和32年)2月 - 鳩山一郎の引退後、自由民主党入党。
- 1958年(昭和33年)6月 - 第2次岸内閣で大蔵大臣に就任。(~1960年7月)
- 1961年(昭和36年)7月 - 第2次池田内閣第1次改造内閣で通商産業大臣に就任。(~1962年7月)
- 1963年(昭和38年)7月 - 第2次池田内閣第3次改造内閣で北海道開発庁長官、科学技術庁長官に就任。
- 1964年(昭和39年)
- 11月 - 内閣総理大臣に就任(~1972年7月)、第1次佐藤内閣発足。
- 12月 - 自由民主党総裁。
- 1967年(昭和42年)
- 1970年(昭和45年)1月 - 第3次佐藤内閣発足。
- 1972年(昭和47年)
- 6月 - 自由民主党両院議員総会で退陣を表明。この時の記者会見で内閣記者団と衝突。
- 7月 - 第3次佐藤内閣総辞職。
- 1974年(昭和49年)12月 - ノーベル平和賞受賞。
- 1975年(昭和50年)
- 1977年(昭和52年)5月 - 遺骨を山口県田布施町国木の佐藤家墓地に埋葬。
栄典
家族・親族
家系
佐藤家(武家家伝 信夫佐藤)
佐藤家の祖先については、遠祖は源義経の家臣・佐藤忠信だという口伝がある。「佐藤家の祖は、およそ三百年さかのぼることができる。それ以前は、源義経の家臣・佐藤忠信に発する、という口伝がある。もちろん信ずべき証はない。ただ佐藤の本家に生れ、あとで栄作と縁組することになる寛子は“子供のころから、浄瑠璃狐忠信の忠信は先祖と聞かされて”いる。義経千本桜四段目で狐の化けた忠信が静御前を守護する。この忠信は源氏車の家紋をつけた衣装で舞う。佐藤家の紋所もまた同じ源氏車である」[30]とある。
山口県史学会の調査によると、確認できる佐藤家の初代は市郎右衛門信久といい、寛文2年(1662年)頃から萩藩の藩士となり、扶持方2人・米2石4斗を受けた。下級武士で、この待遇はその後もあまり変わらない。役によって4石5斗あるいは6石に加増されたこともある。代々、市郎右衛門あるいは源右衛門を名乗った。
二代・市郎右衛門信友は妻をめとらず、三代目を継いだ源右衛門信貞は、同藩の福井清兵衛信政の次男である。歴代佐藤家の当主の中で世に出たのは、まず四代目の源右衛門信早である。その功を認められて禄高を6石に加増されている。熊毛郡下田布施村の「宝暦検地絵図」などの文書も残した。
七代目の佐藤嘉津馬は安永8年(1779年)12歳で病死する。佐藤家はこの七代目まで大内町御堀(現山口市南部)の周辺に住んだ。七代目の嘉津馬夭折の後、佐藤家は萩に住む一族吉田八兵衛の三男菊三郎に別の親戚福田某の娘を嫁に迎え、夫婦養子とする。八代目市郎右衛門信孝で、この信孝の時代から、佐藤家は田布施に移った。
曽祖父・寛作信寛は長州藩士として御蔵元本締役、大検使役等を歴任、長沼流兵学を修め、幕末期の思想家・吉田松陰に兵要録を授けた。明治になり、島根県県令、浜田県権知事等の要職に就いた。
祖父・信彦は山口県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。叔祖父・鼓包武は、大村益次郎に兵学を学び、西南戦争でも活躍。日清戦争では留守第六師団参謀長を務めた。最終的には陸軍少将。
父・秀助は山口県庁に奉職し、勤めを辞めてからは酒造業を始めた。佐藤家の家紋は「源氏車」である。[31]。
- 岸家
人物
実家
- 母・茂世(田布施・佐藤信彦の長女)
- 子供たちの教育はすべて母・茂世の手で行われ、スパルタ式の教育で信介ら兄弟が泣いたりして家へ帰ろうものなら叱りつけて家の中に入れなかったという。また、佐藤家の家運が傾き貧乏になった時も「ウチは県令と士族の家柄ですからね!」と頑として挫けず、対外的な意地を張り通したという[33]
- 士族岸信政へ養子。
- 姉
- 妹
- 操
- 敏子(恒光四郎の妻)
- 保子
自家
親族
系図
┏昭和天皇━━━━━━━━━今上天皇(明仁) 明治天皇━━━大正天皇━━━━━┫ ┗三笠宮崇仁親王━━━━━━寬仁親王 ┃ ┏彬子女王 ┣━━━━━┫ 麻生太賀吉 ┃ ┗瑶子女王 ┃ ┏信子 ┣━━┫ ┃ ┗麻生太郎 ┏和子 吉田茂━━━━┫ ┗桜子 吉田祥朔 ┃ ┣━━━━━吉田寛 ┏さわ ┃ ┣佐藤松介 ┏寛子(佐藤栄作夫人) ┃ ┣━━━┫ ┃ ┏藤枝 ┗正子 ┃ ┃ ┃ ┗松岡洋右 ┃ 佐藤信孝━━佐藤信立━━佐藤信寛━┳佐藤信彦━╋佐藤寛造 ┃ ┃ ┣鼓包武 ┃(池上) ┃ ┣佐藤作造 ┗井上太郎 ┃ ┗茂世 ‖ ┣━━┳佐藤市郎 ‖ ┃ (岸/婿養子) ‖ ┣タケ子 ┏佐藤秀助 ┣こま ┃ ┣音世 ┃ ┃(佐藤) ┏岸信和 ┏安倍寛信 ┃ ┣岸信介━━━┫ ┃ ┃ ┃ ┗洋子 ┣安倍晋三 ┃ ┣千代子 ┣━━━━━┫ ┃ ┃ 安倍晋太郎 ┗岸信夫 ┃ ┃ 岸要蔵━━┫ ┣佐藤栄作 ┏佐藤龍太郎━━佐藤栄治 ┃ ┃ ┣━━━┫ ┃ ┃ 寛子 ┗佐藤信二 ┃ ┃ ┃ ┣操 ┃ ┣敏子 ┃ ┗保子 ┃ ┗岸信政━━━良子 (岸信介夫人)
人物像
- 彫りの深い顔立ちで、くりくりとした大きな目が特徴的だった。その見開いた目で睨みつけられると誰もが戦慄を禁じ得なかったという。「ギョロ目の睨み」といえば歌舞伎の世界では「市川團十郎」の代名詞だが、特に59年ぶりに十一代目市川團十郎の襲名となった1962年(昭和37年)は團十郎ブームに湧いていた。佐藤もその恩恵をうけて、ついたあだ名が「政界の團十郎」。当時警察官僚として面識があった佐々淳行も著書で「團十郎ばりの巨眼で(佐藤に)睨みつけられたという秘書官がいた」と記している。
- 癇癪持ちで、じっと我慢は苦手だったという。発話がドモリぎみということもあり、腹をたてると口より先に手が出ることが多かった。手が早いといっても殴ることは少なく、テーブルをたたいて怒りの言葉を発したという。寛子夫人が週刊誌の対談で「私は若い頃主人に殴られたことがある」と洩らしたことから、訪米の際、米誌に「ワイフ・ビーター(妻を殴る男)」として紹介されたことがある。
- 自分より目下の者にはそれなりの礼節を求めた。東宮侍従が予算の陳情で首相に面会を求め、皇太子の御用をかさに高圧的な態度で発言した時は、「無礼じゃないか! おれは総理大臣だぞ」と怒鳴りつけた[34]。
- 短気な一面については、長男の龍太郎が父・栄作について「『待ちの政治家』と言われましたが本来は短気なんです。我慢強くなったのは政治家になってからのことで、僕らの知っている父は短気なところが恐ろしかった。カーッとなるとお膳をひっくり返す。おふくろの鏡台を叩き割る。買ったばかりの火鉢を庭に放り投げて壊してしまう。幼いころからそんな光景をよくみました...」と述べている[35]。
- 首相に昇りつめてからも短気な性格が時として頭をもたげた。1972年(昭和47年)に久野忠治が北朝鮮を訪問する際、佐藤と口論になり「除名する」と告げられ、久野が理路整然と総裁の恣意で党を除名させることはできないことを指摘すると、テーブルを引っくり返しながら「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ、ドアを蹴飛ばして出て行ったという。
- 三木武吉は岸信介に対し「佐藤とキミは兄弟だと言うけれどちがうなぁ。キミの弟ではあるが、なかなかたいした奴だ。気に食わんとなると寝転びやがって口をきかないんだ。キミは、とにかく反対なら反対のようにちゃんと言うてくれるからいい。けれどもあいつは、いざとなるとゴロッと寝ちゃって何も口をきかない」と呆れたように言ったという[36]。
- 田中龍夫(田中義一の長男)は、「岸さんと佐藤さんはえらく違うよ。佐藤さんは情報をよくとるし、八方心くばりをしていて、コワい感じがした。話していても秋霜烈日として、ひとこと間違うとビンタがとんでくるのではないかと思うほどだ。ところが岸さんとなると話していても実になごやかで楽しくなるね」と述べている[37]。
- 無愛想な反面、面倒見のよいところもあり、竹下登の述懐によれば、鉄道官僚時代には敵対していた国鉄労組OBの引退後の生活を心配し、折に触れては何くれとなく世話を焼いていたという[38]。人並み以上の義侠心や涙もろさ、あるいは義理人情の厚さといった日本的美徳の持ち主だが公式の政治の舞台でこれらが表にでることはなかった。そうした感情を表に出さずに仮面を被り続けた佐藤は、『栄ちゃんのバラード』という反戦フォークソングから柳家つばめの『佐藤栄作の正体』に至るまで格好の標的であり続けたが、これに対して寛容な態度をとれない不器用な人物でもあった。
- 『佐藤栄作日記』では、総理在任中も政治家や官僚に対する好悪の情をはっきり書いており、好き嫌いの激しい人間だったことが伺い知れる。好まれた一人に宮澤喜一がおり、宮澤の知性を佐藤が評価したためといわれる。一方、政敵・河野一郎の葬儀の帰途、車内で夫人や側近に「これで悪いやつは全部死んだ」と発言したとされ、冷酷な一面を覗かせた[39][40](日記にも残忍たげたげしい人が去ったという趣旨の記述がある)。
- マスコミ嫌いで知られ官房長官時代から社説に酷評されていた。特に朝日新聞を毛嫌いしており日記において名指しで「征伐にかからねばならない」と書かれたことがある他、秘書官を務めていた楠田実に新聞記事や週刊誌の記事に対する抗議を命じ時には楠田自身も板ばさみで悩んでいた様子が楠田の著書や日記に記されている。特に自らの意図と違う報道をされた際には激怒したという。しかし前述の通り、没後に日記は朝日新聞社から刊行された。
- 大野伴睦を偲ぶ会に出席し「“伴ちゃん”、“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい私も“栄ちゃん”と呼ばれたい」と述べた。但しこれは本心からの発言ではない。佐藤と大野は犬猿の仲で知られ、佐藤は大野には庶民性しか褒めるところがないからそう言ったのだと回想している(これを受けてか横山ノックが佐藤に“栄ちゃん”と呼びかけたことがあるが、これに対して佐藤は非常に不快そうな表情を浮かべたとされる。青島幸男も"栄ちゃん"と呼んだとされるが横山の方が周知されている)。
- 首相退任後、昭和天皇と香淳皇后との金婚式の際に昭和天皇が事前に断っていたにも関らず、黒松の盆栽を持ってきたため昭和天皇を困惑させたことがある(皇室経済法によって、皇室財産の譲渡及び取得は国会の議決が必要なため、昭和天皇は外国元首からの儀礼的なプレゼント以外は受け取らない方針をとっていた)。結局、宮内庁長官・宇佐美毅との協議の結果、この盆栽は佐藤に返すことになった。この他にも、佐藤は香淳皇后に反物を献上しようとしたが、昭和天皇から断られている。昭和天皇は「佐藤は何を考えているんだろうね」と困惑していたという。昭和天皇は、当時の田中内閣に対し、高価な贈り物は持ってこないよう異例の申し入れを行っている[41]。
- 1971年(昭和46年)10月19日の夜半、総理私邸内に若い男の刺客が侵入したが、難を逃れた[42]。
ノーベル平和賞をめぐって
平和賞受賞は、上記の通り非核三原則の制定などが評価されてのものであった。この受賞には国連大使だった加瀬俊一のロビー活動が寄与したといわれており、佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表している。しかし、平和賞を選考するノルウェーのノーベル平和賞委員会は、2001年に刊行した記念誌『ノーベル賞 平和への100年』の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で、米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記し、受賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘した。この記念誌はノルウェーの歴史家3名による共同執筆で、同年8月の出版記念会見の際にその一人のオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と見解を述べて当時の選考を強く批判し、「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」と語ったという[43]。
この報道に対して次男の佐藤信二は「受賞当時は一部から抗議を受けたが、それは誤解で父は真の平和主義者だった。非核三原則を打ち出したのは佐藤内閣であり、受賞はその点を評価された。父は受賞した時「佐藤個人ではなく、国がもらったものだ」と語っている」とコメントした[43]。ただし、上記の通り、2009年(平成21年)に、沖縄への核持ち込みに関する密約の合意文書が佐藤家に保管されていたことが明らかになった。さらに、2010年(平成22年)10月に『NHKスペシャル 核を求めた日本』において、佐藤内閣下で、極秘に核保有は可能か検討が行われていたことが明るみになった[44]。西尾幹二は、佐藤が核武装論から変節し、「アメリカに日本国を売って」ノーベル平和賞を得たことが日本の保守政権を堕落させた、と批判している[45]。
佐藤はノーベル平和賞の受賞記念講演の原稿を作成した際に、助言を求めた学者(高坂正堯[46]・梅棹忠夫ら)の意見を入れて「非核三原則を世界各国も導入することを望む」という内容の一節を入れたが、最終的に削除した。これについて上記『NHKスペシャル』では、佐藤が最終稿を作る前に、来日したアメリカ国務長官のヘンリー・キッシンジャーと面談した影響を指摘している(キッシンジャーは、「何をとぼけたことを言い出すのか」と反発したという)。ちなみに西尾幹二はこの件について「キッシンジャーは彼(注:佐藤)の前に立ち塞がるアメリカの『意志』そのものであり、ノーベル平和賞とはアメリカの政治意志の一道具である」と論じ、佐藤が削除した上記の一節を「日本を核大国の仲間に入れないのならお前たちだけ勝手なことはさせたくない、と一発かましたい思いからだったのかもしれない」と評し、核武装論者としての佐藤のせめてもの抵抗だったのではないか、と論じている[45]。
なお、この受賞に対する日本社会・世相の典型的な反応を示したものとして、当時、大学生や若者に圧倒的支持を得ていた赤塚不二夫の漫画「天才バカボン」に「佐藤栄作がノーベル平和賞をとって以来、世の中全てのことが全く信じられなくなった」という台詞がある。
佐藤栄作にちなんだ命名
- 劇団東京ヴォードヴィルショーの主宰者で俳優の佐藤B作は、自らの芸名を佐藤栄作にちなんで決めた。両者間に血縁・縁戚関係はもちろんない。
- 1995年、アフリカのガンビア共和国からノーベル平和賞の受賞者として佐藤栄作を描いた記念切手が発行されたが、誤って「Bisaku Sato」と表記されていた[47]。
- 竹下登の孫で漫画家の影木栄貴(内藤栄子)の本名は佐藤栄作と田中角栄にちなみ、祖父の竹下が命名した。
語録
- 「内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる」
- 「参議院を制する者は政界を制する」
展示施設
- 岸信介・佐藤栄作兄弟宰相の遺品展示室
- 岸信介・佐藤栄作兄弟の出身地、山口県の田布施町郷土館内に設置。国連平和賞、ノーベル平和賞などの、遺品や関連文書を展示し、両元首相を顕彰している。
出典・補注
参考文献
- 山田栄三 『正伝 佐藤栄作 (上下)』 新潮社 1988年、「日記」も参照した公的な伝記。跋文は竹下登
- 千田恒 『佐藤内閣回想』 中公新書 1987年
- 岩川隆 『忍魁 佐藤栄作研究』 徳間文庫 1984年
- 衛藤瀋吉 『佐藤栄作 衛藤瀋吉著作集10』 東方書店 2003年。初版(時事通信社、1987年)
- 佐藤寛子 『佐藤寛子の宰相夫人秘録』 朝日新聞社、のち朝日文庫
- 楠田實 『首席秘書官 佐藤総理との10年間』 文藝春秋 1975年
- 『楠田實日記 佐藤栄作総理首席秘書官の二〇〇〇日』 中央公論新社 2001年
- 和田純編・校訂、五百旗頭真編・解題
- 福永文夫 『大平正芳 「戦後保守」とは何か』 中公新書、2008年。ISBN 9784121019769。
- 渡辺昭夫編 『戦後日本の宰相たち』 中央公論社、1995年、中公文庫 2001年
- 御厨貴編 『歴代首相物語』 新書館、2003年、新版2013年
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年 61-75頁
- 秦郁彦編 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会 2002年 247頁
- Eddy Dufourmont, "Satô Eisaku, Yasuoka Masahiro and the Re-Establishment of February 11th as National Day: the Political Use of National Memory in Postwar Japan", in Wolfgang Schwentker and Sven Saaler ed., The Power of Memory in Modern Japan, Global Oriental, 2008, p.204-222.
関連項目
人物
団体
- 極真会館 - 初代会長を務め、会長就任の3ヵ月後に総理大臣に就任した。
外部リンク
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
池田勇人
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣総理大臣
第61・62・63代:1964年 - 1972年
|style="width:30%"|次代:
田中角栄
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
野田卯一
川島正次郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 北海道開発庁長官
第4代:1952年 - 1953年
第21・22代:1963年 - 1964年
|style="width:30%"|次代:
戸塚九一郎
池田勇人(事務取扱)
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
近藤鶴代
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 科学技術庁長官
第12・13代:1963年 - 1964年
|style="width:30%"|次代:
池田勇人(事務取扱)
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
椎名悦三郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 通商産業大臣
第22代:1961年 - 1962年
|style="width:30%"|次代:
福田一
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
一万田尚登
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 大蔵大臣
第64代:1958年 - 1960年
|style="width:30%"|次代:
水田三喜男
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
野田卯一
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 建設大臣
第7代:1952年 - 1953年
|style="width:30%"|次代:
戸塚九一郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
田村文吉
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 郵政大臣
第3代:1951年 - 1952年
|style="width:30%"|次代:
高瀬荘太郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
田村文吉
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 電気通信大臣
第3代:1951年 - 1952年
|style="width:30%"|次代:
廃止
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
苫米地義三
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣官房長官
第4代:1948年 - 1949年
|style="width:30%"|次代:
増田甲子七
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
池田勇人
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党総裁
第5代:1964年 - 1972年
|style="width:30%"|次代:
田中角栄
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
砂田重政
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党総務会長
第3代:1957年 - 1958年
|style="width:30%"|次代:
河野一郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
広川弘禅
林譲治
|style="width:40%; text-align:center"|自由党幹事長
第2代:1950年 - 1951年
第5代:1953年 - 1954年
|style="width:30%"|次代:
増田甲子七
池田勇人
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
結成
|style="width:40%; text-align:center"|自由党政務調査会長
初代:1950年
|style="width:30%"|次代:
根本龍太郎
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
青木孝義
|style="width:40%; text-align:center"|民主自由党政務調査会長
第3代:1949年 - 1950年
|style="width:30%"|次代:
自由党へ
- 転送 Template:End
テンプレート:日本国歴代内閣総理大臣 テンプレート:内閣官房長官 テンプレート:財務大臣 テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:総務大臣 テンプレート:電気通信大臣 テンプレート:経済産業大臣 テンプレート:国土交通大臣 テンプレート:自由民主党総裁 テンプレート:自由民主党総務会長 テンプレート:日本人のノーベル賞受賞者 テンプレート:ノーベル平和賞受賞者 (1951年-1975年)
テンプレート:自由民主党 (日本)- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』 23頁。
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』 19頁。
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』 27頁。
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』 18-19頁。
- ↑ 友人として急速に接近するのは、お互いに政界入りしてからである。池田が死亡した際、佐藤が葬儀委員長を務めている(『正伝 佐藤栄作(下)』 42頁)。
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』 44-45頁。
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』 45-46頁。
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』、65-66頁
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』、67-68頁
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』、96-102頁
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』 65頁
- ↑ 『大阪大空襲と市営交通事業』公営交通研究所、31~32頁(『続東区史』別巻(1979年)からの引用)。
- ↑ 13.0 13.1 『大平正芳』 123頁。
- ↑ 『大平正芳』 67頁。
- ↑ 『大平正芳』 68-69頁。
- ↑ 『大平正芳』 125-126頁。
- ↑ 2候補から金をもらうことを「ニッカ」、3候補から金をもらうことを「サントリー」、すべての候補(オール)から金をもらいながらそのいずれにも投票しなかった(パー)ことを「オールドパー」といった。いずれもウィスキーの銘柄(ニッカウヰスキー、サントリー角瓶、オールド・パー)にかけたもの。
- ↑ 池田勇人242票、佐藤栄作160票、藤山愛一郎72票、灘尾弘吉1票。
- ↑ 『大平正芳』 123-124頁。
- ↑ 公務員や公共企業体職員へのストライキ権付与の議論については先送りとなり、三木内閣でのスト権ストまで持ち越されることとなる。
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ 『大平正芳』 124頁。
- ↑ 『大平正芳』 126頁。
- ↑ 佐藤の親台姿勢を物語るものとして、台湾の國立故宮博物院には、佐藤夫妻が寄贈した唐三彩の「三彩天王増長天像」が展示され、「元日本國首相佐藤榮作氏及令夫人寄贈」と記されている。
- ↑ 竹下登 『政治とは何か 竹下登回顧録』(講談社、2001年1月)、第9章2節 "「話がちがう、出て行け」" pp.249-450 ISBN 4-06-210502-0
- ↑ 朝日新聞昭和四十七年六月十七日夕刊
- ↑ 「『政界の団十郎』佐藤栄作」、文春写真館「本の話 web」2009年2月2日号、2014年3月19日閲覧
- ↑ 佐藤自身は日記刊行を持ちかけられると「僕は120歳まで生きるから」とはぐらかしていたが、佐藤家と交渉し没後約20年を経て実現した。原本紛失(首相就任前の数年分)により未収録がある。なお、佐藤自身は朝日新聞を同紙の編集方針から毛嫌いしていた。
- ↑ 山田栄三『正伝 佐藤栄作(上)』 15頁
- ↑ 山田栄三『正伝 佐藤栄作(上)』 15-26頁。
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』 19頁
- ↑ 『岸信介傳』25、26頁
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』123頁
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』58頁。
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』 94-95頁
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』187頁
- ↑ 『政治とは何か 竹下登回顧録』 87-89頁
- ↑ 上坂冬子『宰相夫人の昭和史』。
- ↑ 魚住昭『渡辺恒雄メディアと権力』
- ↑ 岩見隆夫『陛下の御質問』より、(新版・文春文庫、2005年)
- ↑ 『佐藤寛子の宰相夫人秘録』の冒頭に記載、(朝日新聞社、1974年/朝日文庫、1985年)
- ↑ 43.0 43.1 朝日新聞2001年9月5日付(共同通信配信)。ステネルセンのコメントはノルウェーのアフテンポステン紙からの引用。
- ↑ 『核を求めた日本』は、2010年10月3日夜に放送
- ↑ 45.0 45.1 『三島由紀夫の死と日本の核武装』、WILL2011年2月号
- ↑ 高坂は、佐藤ブレーン(前述の通り受賞記念の演説に際しても、原稿草案の助言をする等、政策の相談者だった)の一人として、後年ある月刊誌の座談会で「この受賞は、吉田茂・池田勇人・佐藤栄作3人が、行ってきた戦後政策全体に対する評価としての面が大きい(大意)」と、弁護する見解を述べている。
- ↑ 内藤陽介『外国切手に描かれた日本』光文社新書、2003年。