長井雅楽

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長井 雅楽(ながい うた)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士。役職は直目付。一般的な呼び名である雅楽は通称で、時庸(ときつね)。長井家の始祖は、主家毛利家と同じく大江広元の子であり、毛利家家臣団の中でも名門中の名門であった。

略歴

萩藩士大組士中老・長井次郎右衛門泰憲の長男として生まれた。文政5年(1822年)、4歳の時に父が病死したため、家督を継いだが、このとき幼少のためということで家禄を半分に減らされた。その後、藩校明倫館で学び、時の藩主・毛利敬親の小姓、奥番頭となった。敬親から厚い信任を受け、敬親の世子である毛利定広の後見人にもなった。そして安政5年(1858年)、長州藩の直目付となる。

雅楽は開国論者であり、文久元年(1861年)に公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論となされた。その後、朝廷や幕府にこれを入説して歓迎され、11月には藩主・敬親と共に江戸に入り老中・久世広周安藤信正と会見。翌月に正式に同策を建白して公武の周旋を依頼された。しかし、当時藩内であった尊皇攘夷派とは対立関係にあり、井伊直弼安政の大獄のとき、吉田松陰江戸護送を制止も弁明もしようとしなかったのも、松陰が攘夷を唱えていたためと推測される。このため、松陰の弟子である久坂玄瑞前原一誠らに命を狙われることとなる。

文久2年(1862年)、幕府で公武合体を進めていた安藤や久世らが坂下門外の変で失脚すると藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。同年3月、再度入京したが、この頃には尊攘激派の台頭が著しく、久坂らの朝廷工作によって長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、敬親により帰国謹慎を命じられた。6月に免職され、帰国。翌、文久3年(1863年)、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。いまだ長井を支持する藩士は多くいたが、藩論が二分され、内乱が起きることを憂い、自害した。享年45。

国司親相が切腹検視役正使を務めた。長女・貞子は後に富岡製糸場で勤務した。

高杉晋作の父・高杉小忠太とは長年世子付の同役を務めた友人同士であった。切腹の前日、小忠太へ身の潔白を訴え遺児の庇護を依頼する長文の手紙を出し、末尾に「ぬれ衣のかかるうき身は数ならで唯思はるる国の行く末」と辞世の歌を残している。

辞世の句

  • 今さらに何をか言わむ代々を経し君の恵みにむくふ身なれば
  • 君がため身を捨つる命は惜しからで ただ思はるる国のゆくすえ
  • 君恩に報いんとして業いまだ央ならず 自羞す四十五年の狂 即今成仏は予が意に非らず 願わくは天魔を帥いて国光を輔けん

評価

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総評

航海遠略策は、当時の状況を正確に認識し、現実的な政策であったことに疑いはない。しかし、当時は尊皇攘夷の嵐の中で、現実的な状況認識が欠けており、長州藩もその例に漏れず、藩論を統一して倒幕に至るまで、まだ多くの難題を残していた。長州藩の路線変更とそれを画策した久坂玄瑞が最終的には長井雅楽を死に追いやったと言える。尊皇攘夷の結果として、外国勢力に江戸幕府が対抗できないことが認識され、暴走を続ける久坂玄瑞らも禁門の変で討死。尊皇攘夷から尊皇開国へと世論も動き、明治維新が完遂されることとなる。その明治新政府の政策は「尊皇攘夷」ではなく「開国和親」、長井雅楽の唱えた航海遠略策であった。しかし、長井雅楽が死した後、明治新政府の中心に座ったのは、松下村塾の卒塾生であり、吉田松陰の仇敵と目された長井雅楽の評価を不当に貶めた。

長井雅楽と吉田松陰

長井の航海遠略策は、通商を行って国力を増し、やがては諸外国を圧倒すべしという論で、吉田松陰の「大攘夷」に通ずるものがあったが、両者はその実行論において対極にあった。長井は松陰の行動主義を批判し「寅次(松陰)は破壊論者なり。国益を起こすの人にあらず」と過激派扱いしていた。いっぽう松陰も、長井を姑息な策を弄する奸臣と見なし「青面の鬼」と呼んで憎悪した。安政の大獄で捕らわれた松陰を江戸へ送れという幕府の命令を直目付の長井が藩へ伝えたことも職務上のこととはいえ、松下村塾系の藩士から謂れのない逆恨みを買うことになった。長井雅楽は外に真意を漏らさなかったが、松陰の江戸護送が断腸の思いであることを家族に伝えている。

後に長井雅楽の真意を知った松下村塾卒塾生の一部は、長井の家族を庇護している。

関連項目

外部リンク