久坂玄瑞

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久坂玄瑞之墓、同じ長州藩高杉晋作の墓のすぐ横にある、霊山護国神社、京都市左京区

久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末長州藩士。幼名は秀三郎、名は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典正四位1891年)。

経歴

幼少年期から藩医になるまで

天保11年(1840年長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に藩医久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)。幼少の頃から城下の私塾の吉松塾四書の素読を受けた(この塾には高杉晋作も通っていた)。ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・玄機が病没した。そして、その僅か数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。そして16歳になった頃には、早くも玄瑞の秀才の英名は萩城下の内外に知れ渡っていた。身長は六尺(約180cm)ほどの長身で、声が大きく美声であったという。成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、17歳で玄瑞は好生館の居寮生となった。

九州遊学から松下村塾入門へ

安政3年(1856年)、兄事する中村道太郎のすすめで九州に遊学。熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた。久坂はかねてから、亡き兄の旧友である月性上人から松陰に従学することを勧められており、この遊学によって、松陰に対する敬慕がより一層深まった。久坂は萩に帰るとすぐ松陰に手紙を書き、吉田松陰の友人の土屋蕭海を通じて届けてもらった。しかし、この手紙のやりとりはかなりの激論となった。

まず玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし」という、強硬な外国排撃論であり、その論に対して敬慕する松陰の賛を得ようというものであった。しかし、この手紙に対して松陰はその返書で、「議論浮泛、思慮粗浅、至誠より発する言説ではない。私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。往昔の死例をとって、こんにちの活変を制しようなど笑止の沙汰だ。思慮粗浅とはこのことをいうのだ。つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるがよい」と痛烈な言葉を書き連ね、玄瑞の論を酷評した。

だが、松陰が玄瑞に痛烈な批判を加えたのは、大いに鍛えてやろうという下心があった。玄瑞を紹介した土屋への手紙に、松陰は、「久坂生、士気凡ならず。何とぞ大成致せかしと存じ、力を極めて弁駁致し候間、是にて一激して大挙攻寇の勢あらば、僕が本望これに過ぎず候。もし面従腹背の人ならば、僕が弁駁は人を知らずして言を失うというべし。」と「一激して大挙攻寇」してくることを期待していたのである。松陰の期待通り、玄瑞は大いに憤激し猛然と反駁した。玄瑞は松陰に「誠(玄瑞)の大計を論ずるは、憤激の余り出づるのであって、強く責めるにはあたるまい。今、義卿(松陰)の罵言、妄言、不遜はなんと甚だしいことぞ。誠は義卿にしてこの言あるを怪しむ。もし果たしてこの如き言をなす男だとすれば、先の日に宮部生が賞賛したのも、誠が義卿を豪傑だと思ったのも、各々誤ったようである。紙に対して、憤激の余り覚えず撃案した。」と書いた。

ここで松陰は約1カ月の間をおいて筆を執り、「あなたは僕があなたに望みを託し、あなたの成長を願っているのを察しないで、相変わらず空論を続けている。そのことを僕は大いに惜しんでいる。なるほど、あなたのいうところは滔々としているが、一としてあなたの実践からでたものではないし、すべて空言である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめて、歴史の方向を見定めて、真に、日本を未来にむかって開発できるように、徹底的に考えぬいてほしい」と返書した。しかし、今度も玄瑞は自分の理論が誤っていると認めなかった。説得できないとさとった松陰は、今度はうってかわって玄瑞の理論を認めたうえで、「あなたが外国の使いを斬ろうとするのには名分がある。今から斬るようにつとめてほしい。僕はあなたの才略を傍観させていただこう。僕の才略はあなたにとうてい及ばない。僕もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、無益であることをさとってやめた。そして、考えたことが手紙に書いたことである。あなたは言葉通り、僕と同じにならないように断固としてやってほしい。もし、そうでないと、僕はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。あなたはなお、僕に向かって反問できるか。」と書いた。

この書簡の往復を通して、松陰は、自分の発言がどんなに重要なものか、自分の発言には、自分の生命をかけて必ず果たさねばならないことを玄瑞に教えた。松陰の実践と思索に裏付けられた強い言葉に玄瑞はたじろいだ。こうして玄瑞は、翌安政4年(1857年)晩春、正式に松門に弟子入りした。

松下村塾では高杉晋作と共に「村塾の双璧」、高杉・吉田稔麿入江九一と共に「松門四天王」といわれた。松陰は久坂を長州第一の俊才であるとし、高杉と争わせて才能を開花させるようつとめた。そして、安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。

尊王攘夷運動を牽引

安政5年(1858年)、京都江戸に遊学し、翌6年(1859年)に安政の大獄によって松陰が刑死した後、尊王攘夷運動の先頭に立つようになる。但し、玄瑞はある友人に宛てた手紙で、「近頃僕は西洋のことを記した本を読んでいるが、彼らは城下はもちろん、村落に至るまで病院や救貧院を完備し、人心を籠絡しているという」「たとえ我々に巨砲や大艦があっても、それだけでは真の意味で西洋人に勝つことはできまい」「攘夷にははじめから成算などない。ただ肝心なのは、国家の方針を定め、大義を打ち立てることだ」と述べている。

文久元年(1861年)12月、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深め、義挙をなす蓄えを作るため、玄瑞は、一灯銭申合を創った(参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔山縣有朋ら24名)。

長井雅楽の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾くと、文久2年(1862年)4月、同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出。6月、玄瑞は長井要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出。京都にて謹慎となる。しかし、桂小五郎らは、攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、長井失脚に成功。玄瑞は謹慎中、後に志士の間で愛読されることとなった『廻瀾條議』『解腕痴言』の二冊の時勢論を草し、藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された。また、長井は翌年二月自刃を命ぜられた。

同年9月、謹慎を解かれた玄瑞は、早速活動を開始。薩長土三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議をなした。また、9月末には土佐の坂本龍馬福岡孝弟らと会い、三藩連合で近衛兵を創設する件を議した。10月、玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。そして同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。これに対し、将軍・徳川家茂は翌年上京し返答すると勅旨を受け取った。

英国公使館焼き討ち

江戸に着いた久坂は高杉と合流した。高杉は外国人襲撃を画策していたが、玄瑞は、「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、高杉と斬るか斬られるかの激論となった。それを井上聞多が巧く裁き、結局、玄瑞も受け入れ長州藩志士11名が襲撃を決行することとなった。しかし報せを聞いた長州藩世子・毛利定広や三条実美らの説得を受け中止に終わった。だがその後11名の志士は、御楯組を結成し血盟した。ちなみにその趣意精神を記した「気節文章」は玄瑞が書いたものである。そして12月、彼らは品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。

下関戦争

その後、玄瑞は、長州に招聘する目的で佐久間象山を訪ねるため、水戸を経て信州に入り京都に着いた。文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合。4月からは京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。幕府が攘夷期限として5月10日を上奏するのと前後して玄瑞は帰藩し、5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて下関の光明寺を本陣とし、光明寺党を結成した。この光明寺党が後の奇兵隊の前身となる。玄瑞は中山忠光を首領として士卒の意気を高めた。これに藩も加わり、5月10日から外国船砲撃を実行に移した(外国艦船砲撃事件)。

禁門の変(蛤御門の変)

文久3年(1863年)、八月十八日の政変によって長州勢が朝廷より一掃された。しかしその後も、玄瑞はしばらくの間京都詰の政務座役として在京し、失地回復を図った。そしてその間、三条実美・真木和泉来島又兵衛らの唱える「武力をもって京都に進発し長州の無実を訴える」という進発論を、桂小五郎らと共に押し止めていた。

しかし、玄瑞は、元治元年(1864年)4月、薩摩藩島津久光福井藩松平春嶽宇和島藩伊達宗城らが京都を離れたのを乗ずべきの機とみて、急遽、進発論に転じ、長州藩世子・毛利定広の上京を請うた。そして6月4日、進発令が発せられた。また、池田屋事件の悲報が国許に伝わると藩は上下を挙げて激発した。久坂は来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上した。

6月24日、久坂は長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し、朝廷に奉った。長州藩に同情し寛大な措置を要望する他藩士や公卿も多かったが、7月12日に薩摩藩兵が京に到着すると形勢が変わってきた。また、その頃すでに幕府は諸藩に令を下し、京都出兵を促していた。

7月17日、男山八幡宮の本営で長州藩最後の大会議が開かれた。大幹部およそ20人ほどが集まった。玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないと、兵を引き上げようとしていたが、来島又兵衛は「進軍を躊躇するのは何たる事だ」と詰め寄った。久坂は「今回の件は、もともと、君主の無実の罪をはらすために、嘆願を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。それに世子君の来着も近日に迫っているのだから、それを待って進撃をするか否かを決するがよいと思う。今、軍を進めたところで、援軍もなく、しかも我が軍の進撃準備も十分ではない。必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思うが」と述べ、来島の進撃論と激しく対立した。来島は「卑怯者」と怒鳴り、「医者坊主などに戦争のことがわかるか。もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余は我が一手をもって、悪人を退治する」と座を去った。最年長で参謀格の真木和泉も「来島君に同意を表す」と述べ、この一言で進撃の議はほぼ決まった。このような場で慎重論に同調するものはほとんどいなかった。玄瑞は、止むを得ざると覚悟し、その後一言も発することなくその場を立ち去り天王山の陣に戻った。諸藩は増援の兵を京都に送り込んでおりその数2万とも3万ともいわれた。それに対して長州藩は2,000の兵で戦いを挑まざるを得なかった。

蛤御門を攻めた来島又兵衛の戦いぶりは見事なものであり、会津藩を破り去る寸前までいったが、薩摩藩の援軍が加わると、劣勢となり、来島が狙撃され長州軍は総崩れとなった。この時、狙撃を指揮していたのが西郷隆盛だった。開戦後ほどなく玄瑞は勝敗が決したことを知ったが、それでも玄瑞の隊は堺町御門から乱入し越前兵を撃退し、薩摩兵を破ったのち、鷹司邸の裏門から邸内に入った。玄瑞は一縷の望みを鷹司輔煕に託そうとしたのであった。鷹司邸に入るとすぐ玄瑞は輔煕に朝廷への参内のお供をし嘆願をさせて欲しいと哀願したが、輔煕は玄瑞を振り切り邸から出て行ってしまった。屋敷は敵兵に火を放たれ、すでに火の海となっており、玄瑞は全員に退却を命じた。入江九一らに「如何なる手段によってもこの囲みを脱して世子君に京都に近づかないように御注進してほしい」と後を託した。最後に残った玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25。(禁門の変または蛤御門の変)

詩歌等

義烈回天百首所収

明治7年(1874年)発行の義烈回天百首には、玄瑞の歌が収録されている。 テンプレート:Quotation

自警六則

安政6年(1859年)5月 恩師・吉田松陰が江戸に護送される直前に、自らの志を立てた『自警六則テンプレート:Quotation

御楯武士

文久2年(1862年)3月 久坂玄瑞が尊王の思いを綴った数え歌 テンプレート:Quotation

人物評

吉田松陰による評

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木戸孝允による評

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西郷隆盛による評

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坂本龍馬に託した書状

平成22年(2010年4月12日NHK大河ドラマ龍馬伝』の放送で坂本龍馬はじめ維新志士らへの関心が高まっている中、土佐山内家宝物資料館が、久坂玄瑞が文久2年(1862年)、を訪れた龍馬に託した武市半平太宛ての書状を、報道陣に公開した。

その書状の内容はおおよそ以下の通り。玄瑞の「諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事」「尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず」という考えが、坂本龍馬脱藩に影響したと言われている[1] [2]坂本龍馬は2月末に土佐に戻り3月24日に脱藩した)。

草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き」とは吉田松陰の唱えた「草莽崛起論」が基になっている。 テンプレート:Quotation

脚注

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参考文献

  • 『高杉晋作と久坂玄瑞―変革期の青年像 (1972年)』
  • 『久坂玄瑞全集 (1978年)』
  • 『高杉晋作と久坂玄瑞―変革期の青年像 (1966年)』
  • 『高杉晋作と久坂玄瑞』
  • 『花冠の志士―小説久坂玄瑞』
  • 『久坂玄瑞文書 (1983年)』
  • 『久坂玄瑞の精神 (1943年)』
  • 『花冠の志士―久坂玄瑞伝 (1979年)』
  • 『奇兵隊 死士・久坂玄瑞 (1965年)』

関連項目

外部リンク

  • 飛鳥井雅道『坂本龍馬』講談社〈講談社学術文庫〉、2002年5月10日発行(140-141ページ,147-148ページ)
  • 『幕末・維新』新星出版社2009年11月15日発行(105ページ)