来島又兵衛

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テンプレート:基礎情報 武士 来島 又兵衛(きじま またべえ、文化14年1月8日1817年2月23日) - 元治元年7月19日1864年8月20日))は、幕末長州藩士である。尊皇攘夷派。遊撃隊総督。幼名は亀之進。初名は光次郎。諱は政久。

生涯

文化14年(1817年)1月8日、長門国厚狭郡西高泊村、無給通組の下士・喜多村政倫の次男として生まれたが、天保7年(1836年)、大津郡俵山村の大組(八組)の上士・来島又兵衛政常の婿養子となった。 天保12年(1841年)、柳川藩大石神影流の創始者大石進に剣術を学んだ。弘化3年(1846年)、江戸に出て剣術修行に励み、武芸の達人となった。

嘉永元年(1848年)に帰国。家督を継ぐ。同年10月に手廻組に入隊。その後、藩世子の駕籠奉行などの要職を歴任した。嘉永2年、養父の政常が病死したため、来島家累代の名前を継承し、来島又兵衛政久と改名した。

文久3年(1863年)、藩命により猟師を集めた狙撃隊を率いて上洛。八月十八日の政変で尊皇攘夷派が追放されると萩に戻り、高杉晋作奇兵隊を創設したのに触発されて、又兵衛も遊撃隊を組織して自ら総督となり、互いに連携して国事にあたった。

元治元年(1864年)、前回の政変で失った長州藩の失地回復のために激烈に出兵を主張し、禁門の変の前に家老福原越後らと共に上洛。島津久光の暗殺を計画したが、失敗。一旦長州に戻り、藩主毛利敬親に改めて出兵を促した。

変が起こると、又兵衛は、風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて、激戦を繰り広げた。しかしこの禁裏内の蛤御門の戦いで、当時薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した川路利良の狙撃で胸を撃ちぬかれた。助からないと悟った又兵衛は、甥の喜多村武七に介錯を命じ、自らで喉を突いた後、首を刎ねられて死亡した。

現在、山口県美祢市にある美祢市立厚保小学校には彼の銅像が建てられているが、これは近くに来島又兵衛の自邸(旧:美禰郡厚保村)があったためである。又兵衛は護国神社に祀られているが、同村にも墓石があった。

参考文献

関連項目