ベッサラビア
ベッサラビア | ||
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ベッサラビアの紋章。 | ||
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ドニステル川の平野。 |
ベッサラビア(ルーマニア語:Basarabia、ウクライナ語:Бессарабія、トルコ語:Besarabya)は、1806年の露土戦争の結果、ルーマニア人のモルダビア公国領を、当時宗主権を持っていたオスマン帝国がロシア帝国に一部割譲した際に、割譲した公国東部地方をロシア側が指していった名称である。モルダビア公国の残余部分は1859年、ワラキア公国と同君連合を形成し、1881年にルーマニア王国となった。1918年、ベッサラビアは革命後のロシアから独立を宣言。第一次世界大戦終結時にはルーマニア王国と合併した。第二次世界大戦初期の1940年、ソビエト連邦はベッサラビアを併合。1941年から44年までのルーマニア占領期を経て、大戦末期の1944年、ソビエト連邦が再占領し、モルダビア・ソビエト社会主義共和国に再編した。北部と南部の一部地域はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に組み入れられた。1991年、モルダビア・ソビエト社会主義共和国はソビエト連邦から独立を宣言し、モルドバ共和国となった。
目次
地理
ベッサラビアはロシア帝国時代における中央ヨーロッパ領土の一部分で、現在のモルドバのほとんどと、現在のウクライナの一部を加えた地域である。基本的に中世のルーマニア側のモルダビア(公国)と同一であった。北側と東側はドニエストル川で区切られ、西側はプルート川が流れ河口付近でドナウ川と合流する。南側は黒海に面している。面積はおよそ45600平方キロメートル。大部分は起伏のあるステップ(草原)であり、農業に非常に適している。亜炭や石材も産出する。この地域では主にテンサイ、ヒマワリ、小麦、トウモロコシ、タバコ、ブドウなどが栽培されている。酪農も行われている。現在でもこの地域で盛んな産業は農業である。
この地域の中心都市はモルドバの首都であるキシナウ(キシニョフ)、イズマイール(w:Izmail)、ティラスポリ、ビルホロドドニストロフシキー(w:Bilhorod-Dnistrovs'kyi)などがある。他に行政上、歴史上重要な都市としてホティン(w:Hotin)、リプカニー(w:Lipcani)、ブリチェニー(w:Briceni)、ソロカ(w:Soroca)、バルツィ、オルヘイ(w:Orhei)、ウンゲニ(w:Ungheni)、ベンデル、カフル(w:Cahul)、レニ(w:Reni)、チリア(Chilia)などがある。
歴史
ベッサラビアという名前は、ワラキアをハンガリーから独立に導き、この地の南部を支配したこともあるバサラブ一族に由来するといわれる。もともとはこの地の南部、現在のブジャクに相当する地域をさす名前であり、1484年にこの地の支配権を獲得したトルコ人によって最初に使われた。
15世紀から20世紀にかけて、この地はモルダビア、オスマン帝国(ブジャク地方のみ)、ロシア帝国、ルーマニア、ソビエト連邦の支配を経て、現在はウクライナ及びモルドバ共和国の領土となっている。
古代
ベッサラビアの地では何千年もの間人間が住み着いていた。紀元前2000年頃にインド=ヨーロッパ語族の侵入があった。キンメリア人を最初に、スキタイ人、トラキア人 の一派のダキア人(もしくはゲタエ人)の順にこの地に住んだ。紀元前7世紀頃、ギリシャ人がこの地に植民地を築き周辺地域と黒海貿易を行っていた。
紀元前1世紀、ブレビスタによるダキア人の王国(紀元前70年 - 42年)が最初に国としてベッサラビア全体を領土におさめた。彼はガイウス・ユリウス・カエサルと同時代人であった。その後、国家は細かく分けられて再統合は1世紀のデケバルスの王国(87年~106年)によってなされた。この国は106年にローマ帝国に敗れたがベッサラビアはローマ領とはならず、ダキア人はローマ人の支配に抵抗した。ローマ人はスキティア地方を守るためにベッサラビアの南方に土壁を築いた。
ローマ帝国によるダキア地方のローマ化で、人々はラテン語や慣習を身に付けていった。ラテン文化やラテン文字はベッサラビアを含む古代ダキア人の地を支配していくように広がっていった。
270年にローマはゴート人やカープ人の侵入のためにダキアから軍隊を引き上げ始めた。ゲルマン民族に属するゴート人は、ベッサラビア南部のブジャク地方を通過しローマ帝国に押し寄せた。地理的な位置とステップという地形的特性により、5世紀以降フン族、アヴァール人、ブルガール人など多くの遊牧民族の侵略を受けた。しかしローマ人は居残り、主に羊飼いや農民となり騎馬戦士などが侵入してこない地に住み着くようになった。ローマ人の影響は567年まで続くことになる。
民族大移動時代
3世紀から11世紀にかけて、この地にはゴート人、フン族、アヴァール人、スラブ人、マジャル人、ペチェネグ人(en:Pechenegs)、クマン人、モンゴル人などの進入が相次いだ。ベッサラビアには他の異民族が押し寄せると解体してしまうような短命の国が沢山興った。不安定な国家状態と、民族の集団移動が、この数百年間の時代の特徴であり、後世では「暗黒時代」と呼ばれる。このような状況が終結するのは中世になってからである。
ベッサラビアにおいては6世紀までにスラブ人が領土を形成し定住した。彼らの軍隊は小規模だが強力な騎馬戦士の集団であり、痕跡を残さずに移動することができた。561年、アヴァール人が侵入し、支配者であったメサマーを処刑した。582年には、ブルガール人のクトゥルグル(Kuturgur)族がベッサラビア南部及びルーマニアのドブロジャ北部に住み着いた。彼らはのちにマジャル人の脅威からブルガリアのモエシア地方へ移動し、初期ブルガリアを形成した。7世紀には、トラキア人のベシ族(Bessians)が移住した。
7世紀以降ハザール国が東方のカスピ海北岸に興り、異民族の侵入が衰えたことから、ようやくこの地に大きな国家を形成することが可能となった。9世紀から13世紀にかけて、ベッサラビア北部はボロホベニ(en:Bolohoveni)、南部はブロドニチ(en:Brodnici)という国に属していた。これらはヴラフ民族の国で、中世初期に成立した。また、タタール人の侵入時に山岳地帯へ逃れなかったグループで、中世後期の歴史書にティゲチ(Tigheci)「共和国」と紹介されているものがある。この国は、ベッサラビアの南西部、現在のカフル(en:Cahul)付近に位置している。
異民族の侵入で最後の大規模なものはモンゴル人とタタール人の侵入であり、1241年、1290年、1343年に起こった。 1390年代に追い出されるまで、彼ら異民族の小さな集団が、今日のオルヘイ(en:Orhei)周辺に住み着いていた。
モルダビア公国時代
1343年にモンゴル人に敗北した後、この地はモルダビア公国に編入された。この国は1392年までにチェタテアアルバ( Cetatea Albă)とチリア(Chilia)の要塞に支配権を確立した。東側の国境はドニエストル川である。
14世紀後半にこの地の南部が数十年の間ワラキアの領土となった。ワラキアの代表的支配者がバサラブ(Basarab)と呼ばれ現在のこの地の名前の元となっている。
15世紀にこの地域のほとんどがモルダビア公国の領土となった。シュテファン大公が支配していた1457年から1504年までの約50年の間に彼はオスマン帝国やタタール人などから32回も勝利をあげ、敗北はたった2回であった。勝利の後に彼は戦場の近くにキリスト教の修道院や教会を建てた。このような戦場、教会、要塞都市の多くはベッサラビアにある。
1484年にトルコ人が侵入し、チリア(Chilia)とチェタテアアルバ( Cetatea Albă)を攻略し、ベッサラビア南部の海岸線沿いを2地域に分けてオスマン帝国に併合した。1538年にモルダビア公国の一部分だったベッサラビアはオスマン帝国の影響下に置かれることになる。
1711年から1812年にかけてロシア、オスマン帝国、オーストリア間の戦争においてロシアはこの地を5回占領した。1820年から1846年にかけて、ガガウズ人が長年のオスマン帝国の圧政に耐えかねてドナウ経由でロシアへ移住、ベッサラビア南部に定住した。ノガイ・オルダのテュルク語族もまた16世紀から18世紀にかけてブジャク(ベッサラビア南部)に住み着いた。しかし1812年までにほとんどが追い出されてしまった。
ロシア帝国時代
1812年3月28日、露土戦争の結果として締結されたブカレスト条約により、オスマン帝国はモルダビア公国の東半分をロシア帝国に割譲した。この地はその時にベッサラビアと呼ばれた。この年以前においては南側の一部を占める部分の呼び名に過ぎなかった。
1814年、最初のドイツ人移民が到着し主に南部に住み着いた。また同地域にはブルガリア人も定住するようになり、ボルフラード(w:Bolhrad)などの町を建設した。
クリミア戦争終結後の1856年、パリ条約締結によりベッサラビア南部の2地域がモルダビア公国に返還され、ロシアはドナウ川への進路を失った。キシナウを含む多くが国境地帯となった。
1859年にモルダビア公国とワラキア公国が同君連合を形成し、1866年立憲君主国を経て、1881年、ルーマニア王国となった。
ルーマニア独立戦争(露土戦争のこと)がロシアの支援のもと1877年から1878年にかけて行われた。この時ロシアとルーマニアの間で結ばれた同盟条約において、ロシアはルーマニアの領土を尊重し、戦後ルーマニアの領土に干渉しないことを約束したが、戦後に開催されたベルリン会議では認められず、ベルリン条約によりベッサラビア南部は再びロシアに併合された。
1903年4月6日、ベッサラビアのキシニョフにおいてユダヤ人虐殺が行われた。これは20世紀においてユダヤ人に対する最初の国家的行為で、47人ないしは49人のユダヤ人が殺され、92人が負傷し、約700軒の家が破壊された。
ロシア革命後、ルーマニア人民族主義者の活動がベッサラビアにおいて進展しはじめた。1917年10月のロシア革命の混乱が広がるとベッサラビアに評議会(Sfatul Ţării)が設立され、120人がベッサラビアから、10人がトランスニストリアから選出された。(トランスニストリアはドニエストル川以東に位置し、モルドバ人(ルーマニア人)が居住している。)
1918年1月14日、第一次世界大戦のルーマニア前線から2つのロシア軍師団が撤退する間に、キシニョフがロシア軍に占拠された。ルムチェロド(w:Rumcherod)委員会(ルーマニア(Румыния)戦線、黒海(Черное море)艦隊、オデッサ(Одесса)軍管区の労働者・兵士・船員ソビエトの中央執行委員会)がベッサラビアにおいて最高機関であると宣言した。ルーマニア人の評議会は軍隊を招集することが出来ず、ルーマニア政府に援助を求めた。1月16日ルーマニア軍はキシニョフを制圧し、続いてドニエストル川沿いのベンデルも制圧した。ソビエトの支配は3日で終わった。
10日後の1918年1月24日、ルーマニア人の評議会はモルダビア共和国としてベッサラビアの独立を宣言した。
1918年4月9日(旧1918年3月27日)ベッサラビア議会(旧評議会)においてルーマニアとの統一を問う投票が行われ、賛成86票、反対3票、棄権36票で統一が可決された。
ルーマニア領時代
ボリシェヴィキによるベッサラビア暫定政府は、1919年5月5日にオデッサに設立された。
1919年5月11日、ロシア社会主義ソヴィエト共和国の自治領として、ベッサラビア社会主義ソヴィエト共和国の成立が宣言されたが、1919年9月、ポーランド軍とフランス軍により阻止された。しかしながら1922年、ロシア内戦におけるボリシェビキの勝利の後、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国(Ukrainian SSR)が成立。1924年、ウクライナ領であるドニエストル川以東の一部地域が、モルダビア自治共和国(Moldovan Autonomous Soviet Socialist Republic)として成立を宣言した。
1920年パリ平和会議の時、ルーマニアとの統一はアメリカ、フランス、イギリス及び西欧諸国に承認された。しかしソヴィエト連邦だけは承認しなかった。
第二次世界大戦期
1939年8月23日、ドイツとソビエト連邦の間でモロトフ=リッベントロップ協定が調印された。表向きの内容はドイツとソビエト連邦の不可侵条約であったが、付属する秘密議定書の第3条には、ベッサラビアをソビエト連邦の勢力範囲とすることが定められていた[1]。
1940年6月26日、議定書の条件にもとづき、ソビエト連邦はルーマニアに対し、ベッサラビアと北ブコビナの割譲、および軍隊の4日以内の撤退(さもなくば軍事力を行使する)を要求する最後通牒を出した。両地域あわせて広さ51,000 km²におよび、人口は375万人で、うち大部分はルーマニア人であった。2日後、ルーマニア政府は軍隊の撤退を開始した。ソビエト軍はベッサラビアに進駐し、ベッサラビアをソビエト連邦に併合、モルダビア自治共和国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国に分割した。ベッサラビアの北部および南部地域はトランスニストリア(ドニエストル川東部地域)と領土の交換がなされた。この地域は領土交換前にはルーマニア人が大部分を占め、その他ウクライナ人とドイツ人で構成されていたが、今日ではウクライナ人とロシア人が大部分を占める。ソビエト連邦への支配権の移行にともない、多くのベッサラビア人が処刑されるか、シベリアやカザフスタンに強制移送された。
1940年8月2日、新たな領土を加え、モルダビア自治共和国がモルダビア・ソビエト社会主義共和国に再編。
1940年9月、ベッサラビア在住のドイツ人住民は、ドイツ国内へ再定住するよう申し出を受けた。ソビエト連邦の抑圧をおそれ、約93,000人のドイツ人住民のほとんどが申し出に同意した。そして大多数の住民は、ドイツがポーランド侵攻により新たに併合した地域に再定住した。現ドイツ連邦大統領ホルスト・ケーラー(在職2004年~)の両親もその中に含まれる。再定住を拒否した場合、赤軍に殺された者も多かった。
1941年6月22日、バルバロッサ作戦により、ルーマニアを含む枢軸国の軍隊のソビエト連邦への侵攻が開始された。ソビエト連邦はベッサラビアからの退却の際に焦土作戦を採用し、輸送可能な物資をすべて鉄道でロシアに輸送した。7月の終わりには、1年間におよぶソビエト連邦の占領期間の後、ベッサラビアは再度ルーマニアの支配下に戻った。
ルーマニア兵は再占領作戦の途上、ベッサラビア在住のユダヤ人に対しポグロム(集団的迫害)を開始し、数千人の死者を出した。ヒトラーのユダヤ人絶滅政策は1940年当時は解放とみなされていたため、ソビエト連邦と手を結んでいるとされたユダヤ人は憎悪の対象となった。同じころ、ナチス親衛隊(SS)のアインザッツグルッペン( Einsatzgruppen:ここではベッサラビアからコーカサス方面担当のアインザッツグルッペン-D)が、スパイ・破壊活動家・共産主義者等の口実のもとにユダヤ人を処刑した。約20万人のユダヤ人がゲットーや強制収容所に入れられたあと、1941年から42年にかけてルーマニア占領下のトランスニストリアまで、死の行進をしたといわれる。
数年間の比較的平和な期間ののち、独ソ間の戦線は1944年にはドニエストル川まで後退した。8月20日、90万人の赤軍は、ヤッシー=キシニョフ攻勢に転じた。ソビエト連邦は二方面の攻撃により、5日のうちにベッサラビアを制圧した。1942年から43年のスターリングラード攻防戦での敗北ののち再編成された約65万人のドイツ第6軍は、キシニョフとサラータ(Sarata)での戦闘において全滅した。ルーマニアはソビエト連邦の勝利をうけドイツとの同盟を解消し、前線はルーマニア以西に転換した。1944年8月23日、対独同盟に固執したルーマニア指導者のイオン・アントネスク元帥は退陣・逮捕され、ミハイ1世が復位した。
ソビエト連邦時代
1944年、ソビエト連邦はベッサラビアを再併合、また1947年ルーマニアのブカレストに親ソ共産主義政権を樹立し、1958年までルーマニアを占領した。占領下のルーマニア政権は、ベッサラビアとブコビナの領土問題をソビエト連邦に提起することはなかった。
1969年から1971年にかけて、国民愛国戦線(National Patriotic Front)という秘密組織が、キシニョフにおいて数人の青年知識層を中心に組織され、メンバーは100人を数えた。彼らはモルダビア民主主義共和国の建設と、そのソビエト連邦からの離脱およびルーマニアとの統合にむけて戦うことを誓った。
1971年12月、ルーマニア社会主義共和国の国家保安委員会(the Council of State Security)委員長のイオン・スタネスク(Ion Stănescu)から、KGB議長ユーリ・アンドロポフへの情報に基づき、アレクサンドル・ウサティウク・ブルガル(Alexandru Usatiuc-Bulgar)、ゲオルゲ・ギンプ(Gheorghe Ghimpu)、ヴァレリュー・グラウル(Valeriu Graur)の3人の国民愛国戦線指導者、および北ブコビナの秘密組織の指導者アレクサンドル・ソルトイアヌ(Alexandru Soltoianu)が逮捕され、長期の刑を宣告された。
モルドバの独立
ソビエト連邦の弱体化をうけ、1988年2月、キシニョフで最初の未認可デモが行われた。民衆は連邦政府に敵対的になり、ロシア語にかわりモルドバ語(ルーマニア語とほとんど同じ)を公用語とするよう要求した。
1989年8月31日、4日前のキシニョフにおける60万人規模の大規模なデモ行進の影響を受け、モルドバ語がモルダビア・ソビエト社会主義共和国の公用語となった。
1990年、最初の国会議員選挙が自由選挙で行われた。候補者に野党も含まれていたが、勝利したのはその野党だった。フロントゥル・ポプラル(Frontul Popular:人民戦線)の指導者の一人、ミルチェア・ドルク(Mircea Druc)による政府が組織された。モルダビア・ソビエト社会主義共和国はソビエト社会主義共和国・モルドバ(SSR Moldova)となり、のちにモルドバ共和国となった。
1991年、モルドバ共和国が独立。国境線は1940年8月2日のモルダビア・ソビエト社会主義共和国成立時から変更されていない。
人口構成
第二次世界大戦以前の人口構成は、主にモルドバ人(ルーマニア人)、ウクライナ人、ブルガリア人、ドイツ人、ガガウズ人、ルテニア人(Ruthenians)、ユダヤ人からなっていた。このうちの多くはモルドバ人であった。
- 1889年:1,628,867人
- 1897年:1,936,392人
- 1970年:モルダビアの人口の69%はルーマニア人で、そのうち98%がモルドバ語を母国語としていた。
- 1989年:モルドバ共和国の公式資料では、88,419人のブルガリア人が記録されていた。
- 1992年:モルドバ共和国からイスラエルへの移民は4,305人であった。これは1年間の旧ソビエト連邦からイスラエルへの移民の7.1%であった。
- 2004年:国勢調査によれば、トランスニストリアを除く地域に65,072人のブルガリア人が記録されていた。
1817年ロシア国勢調査(計482,000人)
- ルーマニア人:83.848世帯 (86%)
- ルテニア人 :6.000世帯 (6.5%)
- ユダヤ人 :3.826世帯 (1.5%)
- リポバン(Lipovan:ロシア正教会からの分派:古儀式派):1.200世帯 (1.5%)
- ギリシャ人 :640世帯 (0.7%)
- アルメニア人:530世帯 (0.6%)
- ブルガリア人:241世帯 (0.25%)
- ガガウズ人 :241世帯 (0.25%)
1856年ロシア国勢調査(計990,000人)
- ルーマニア人:736.000人 (74%)
- ウクライナ人:119.000人 (12%)
- ユダヤ人 :79.000人 (8%)
- ブルガリア人・ガガウズ人:47.000人 (5%)
- ドイツ人 :24.000人 (2,4%)
- ロマ(ジプシー):11.000人 (1,1%)
- ロシア人 :6.000人 (0,6%)
1897年ロシア国勢調査 (計1,935,412人)
- ルーマニア人:1.092.000人 (56%)
- ロシア人・ウクライナ人:373.000人 (18.9%)
- ユダヤ人 :229.000人 (11.7%)
- その他(ドイツ人、ブルガリア人、ガガウズ人他):259.000人 (13.4%)
1930年ルーマニア国勢調査 (計2,800,000人)
経済
- 1911年:165の貸付組合、117の貯蓄銀行、43の貯蓄貸付組合、8のゼムストヴォ(Zemstvo:ロシアの県単位の地方自治機関)の金融会社が存在し、資本は総計約1,000万ルーブルであった。また、89の政府の貯蓄銀行もあり、預金総額は約900万ルーブルであった。
- 1918年:鉄道の総延長は657マイル。ロシア方面へつながる本線は広軌であった。鉄道車両・敷設用地の状態は劣悪だった。機関車は約400台で、うち使用可能なのは100台であった。290台の客車を有していたが、他に33台は修理が必要だった。また、4,530台の貨車と187台のタンク車のうち、それぞれ1,389台と103台が使用可能であった。ルーマニア人が軌間を標準軌(1435mm)に改修し、ヨーロッパ諸国と接続した。
脚注
参考文献
- テンプレート:Ja icon 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)