パンアメリカン航空

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パンナムから転送)
移動先: 案内検索

テンプレート:Redirect3 テンプレート:複数の問題 テンプレート:航空会社情報ボックス

パンアメリカン航空(パンアメリカンこうくう、テンプレート:Lang-en、通称:パンナム)は、アメリカ合衆国に存在した航空会社である。「パンナム」は日本での呼び方であり、当時の日本でのCMや広告でも「パンナム」を使用していたが、より英語に近い発音は「パナム」[ˌpæˈnæm] である。

概要

ファイル:Tran12G7.jpg
ファン・トリップ

民間航空が各国で盛んになってきた1927年に設立され、最初はカリブ海路線ならびに南アメリカを結ぶ国際線を運航し、その後1930年代には路線網をヨーロッパやアジア太平洋地域をはじめとした世界各国へ拡大した。

経営者であるファン・トリップ会長の強力なリーダーシップとアメリカ政府の庇護の元、国際航空の黎明期である1930年代から、第二次世界大戦冷戦期を挟み、海外旅行の大衆化、低価格化が進んだ1980年代にかけて名実ともにアメリカのフラッグ・キャリアとして世界中に広範な路線網を広げていた。

国内線をほとんど持たなかったものの、アメリカのみならず世界の航空業界内での影響力も大きく、アメリカ初のジェット旅客機であるボーイング707や、世界最初の超大型ジェット旅客機であるボーイング747といったボーイングを代表する機材の開発を後押しした他、世界一周路線の運航やビジネスクラスの導入、系列ホテルチェーン「インターコンチネンタルホテル」の世界的展開など、後に他の航空会社が後追いして取り入れたビジネスモデルを率先して取り入れた。

しかし、1960年代後半頃より世界的に海外旅行が大衆化し価格競争が激化する中、高コストの経営体質を改善できなかったことや、1970年代ジミー・カーター政権下で導入された航空自由化政策「ディレギュレーション」の施行、その後の国内航空会社の買収の悪影響により次第に経営が悪化し、1991年12月4日に会社破産し消滅した。

その知名度を生かすべく、ブランドとロゴ使用の権利を引き継いだ別会社が同じ塗装とブランドで近距離国際線と国内線を運航し、形だけは一時的に復活していたものの、結局経営を軌道に乗せることはままならず、2008年2月一杯で運航停止となっており、現在同名の航空会社としての運航は行われていない。

歴史年表

歴史

創設期

ファイル:Miami PanAm Terminal 1940.jpg
マイアミ国際空港のパンアメリカン航空のターミナル

1927年3月14日にヘンリー・アーノルドとその協力者とともに、アメリカとキューバの間での航空郵便業務を行うことを目的に、フロリダ州マイアミを拠点に創設された。

その後は政界や経済界との関係が深かった実業家のファン・トリップの指揮の元、創設の目的であるキューバ路線や、アメリカの植民地であるプエルトリコ路線をはじめとするカリブ海路線の開設を皮切りに、その路線網を着実に拡大して行った。

長距離国際線参入

1920年代後半から1930年代にかけては、チャールズ・リンドバーグを顧問に迎え、フロリダ州からのカリブ海路線以外にも当時アメリカがその影響力を増していた中南米路線を積極的に拡大するとともに、アルゼンチンチリブラジルなどの長距離国際線の路線権を獲得するとともに、それらの国々の航空会社を次々と買収しその路線網を拡充していく。

また、1929年には当時アメリカとカリブ海沿岸諸国、南アメリカ諸国を結ぶ客船ルートを多数運航していたアメリカのグレース・シッピング社と合弁会社のパンアメリカン・グレース・エアウェイズ社(「パナグラ(Panagra)」として知られた)を設立し、客船との接続ルートを運航した。

太平洋横断路線開設

ファイル:Sikorsky S42 (crop).jpg
シコルスキーS-42飛行艇
ファイル:Martin M-130 Clipper at Guam.JPG
グアム島に停泊するマーチンM-130飛行艇

1930年には、アラスカ経由で日本中華民国へと向かう太平洋横断路線の開設をもくろみ、北太平洋航路調査のために顧問のリンドバーグ夫妻にアラスカ経由で日本に向けての調査飛行を行わせる。リンドバーグ夫妻は翌1931年に、ニューヨークからカナダ、アラスカ、日本を経て中華民国までロッキード水上機シリウス号で飛行した。途中8月23日には国後島8月24日には根室市、26日に霞ヶ浦、その後大阪福岡を経て、中華民国の南京漢口まで飛行した。妻のアン・モローの著書『翼よ、北に』にその記録が記された。

しかし、アラスカから日本に至る航路の途中でソビエト連邦領であるカムチャツカ半島とその周辺の島嶼へのテクニカルランディングが許可されないと判ると、一転してサンフランシスコからハワイミッドウェイ島、アメリカの植民地フィリピンなどの、アメリカの領土内もしくは統治下の地域を経由して、同じくアメリカ租界のある上海へ向かう路線の開設を検討する。

その後1935年4月には、シコルスキー S-42飛行艇によって同ルートの調査飛行を行い、同年11月には、マーチン M130「チャイナ・クリッパー」飛行艇によるサンフランシスコ-マニラ間を結ぶ太平洋横断路線を開設した。

なおこの路線はサンフランシスコ―ホノルル―ミッドウェイ島-ウェーク島-グアム-マニラという、完全にアメリカの領土、もしくは植民地などの統治下を飛行するルートで開設され、その後イギリス香港まで延長した。また、この路線は香港以遠を、パンアメリカン航空が所有する中國航空公司の中華民国内線へ、マニラ以遠を、オランダ領インド航空によりスラバヤをはじめとするオランダ領東インド域内線へと引き継がれているなど、アジア太平洋地域におけるアメリカやイギリス、オランダをはじめとする帝国主義国家の植民地経営の道具として大いに利用された。

なお、19世紀に発達した大型帆船を意味する「クリッパー」の呼称は、その後数多くの機体に愛称として用いられ、パンアメリカン航空自身のコールサインやビジネスクラスの祖といわれる「クリッパー・クラス」にもその名を残すこととなった。

また、初のアメリカ発のオセアニアへの直行ルートとして、1937年にはサンフランシスコ=オークランドニュージーランド)間を結ぶ路線を開設するなど、南太平洋にもその路線網を拡大した。続いて一時は断念したアラスカとカムチャッカ半島経由で日本への直行ルートを運航することを画策したものの、1939年9月に勃発した第二次世界大戦によって、この時点でアメリカは参戦していないものの多くの機材は軍に徴用され、その拡大の勢いは一時的に止まることになった。

大西洋横断路線開設

ファイル:Boeing 314 Yankee Clipper 1939.jpg
リスボンに停泊するボーイング314飛行艇「ヤンキー・クリッパー」

なお、太平洋横断路線の開設に続く1937年には、ノルウェーのDNL航空と協力する形で、ニューヨークからアイスランドレイキャビク経由までをパンアメリカン航空が運航し、レイキャビクからノルウェーのベルゲンまでをDNL航空がシコルスキーS-43飛行艇で運航する、共同運航という形により初の大西洋横断路線を開設した。

続いて同年6月にはイギリスインペリアル航空と協力する形で、ヴァージニア州ノーフォークからバミューダ諸島アゾレス諸島経由の大西洋横断路線をシコルスキーS-42飛行艇によって開設する。その後1939年6月には、より高性能で大型なボーイング314飛行艇によって、ニューヨーク港からイギリスのサウザンプトン港へのより短時間で飛行する路線を開設するなど、大西洋においてもその路線網の拡張を続けた。

しかし太平洋横断路線と同じく、大西洋横断路線は1939年9月の第二次世界大戦の勃発により同年10月をもってその運航が停止され、就航したばかりのボーイング314飛行艇を含む多くの航空機と運航乗務員はアメリカ軍の管理下に置かれ、大西洋の対岸で行われている戦争に備えることとなる。

第二次世界大戦

ファイル:Pan American Airways Clipper - Udvar-Hazy Center.JPG
ボーイング307「クリッパー・フライング・クラウド」

1939年9月にヨーロッパにおいて第二次世界大戦が勃発したものの、アメリカは参戦せずイギリスへの武器供与を行う程度であった。しかし上記のようにアメリカ国内は準戦時下とも言える状態に置かれ、今や戦禍に覆われたヨーロッパや、日本と中華民国の間で勃発した日中戦争やそれに続く日本軍仏印進駐により緊張下に置かれたアジア太平洋地域への路線を持つパンアメリカン航空の国際線の多くは、軍の管理下に置かれることとなった。

そしてアメリカが1941年12月に日本との間に開戦し、続いてドイツイタリアなどの枢軸国に対して宣戦布告したことで、前年に就航したばかりの、世界初の与圧キャビンを持つ旅客機であるボーイング307をはじめとするパンアメリカン航空の所有機と、その乗務員の殆どが軍に徴用されることとなった。

パンアメリカン航空は、大戦中を通じて太平洋地域や大西洋地域を含むアメリカ軍の戦闘地域における国際線運航における様々なノウハウを軍に提供し、政府及び軍と強力な協力関係を保ち続けた。

国際線拡大

1945年8月に終結した第二次世界大戦後における航空業界の復興時に、トリップはアメリカ発の国際線を独占しようとたくらみ、「パンナム選出議員」と言われたオーエン・ブリュスター上院議員が提出した、パンアメリカン航空の国際線独占を後押しする法案である「コミュニティー・エアライン法案」の成立に奔走したものの、トランス・ワールド航空アメリカン・オーバーシーズ航空などの強硬な反対によりその目論見が成功することはなかった。

その結果、ブラニフ航空が南アメリカ路線を、ノースウェスト航空が太平洋路線を、トランス・ワールド航空がヨーロッパ路線を運航することになったが、全世界をカバーする権利を持つ航空会社はパンアメリカン航空だけとなった。

実際にその前後の1947年6月には世界初の自社運航による世界一周路線を開設(ニューヨーク=ロンドン=イスタンブル=カルカッタ=バンコク=マニラ=上海=東京=ウェーク島=ホノルル=サンフランシスコ=ニューヨーク)したほか、ダグラスDC-6型機やロッキード コンステレーションボーイング377「ストラトクルーザー」型機などの最新鋭機を次々に導入、他社に先駆けて大西洋無着陸横断路線を開設するなど、航空機の技術革新を背景に再び世界中にその路線を拡大していった。

海外ハブ

また、高度経済成長下で海外旅行客数が増加していた日本の東京ハブ空港にして、日本国内やアジア域内、グアム路線などのアジア太平洋地域への乗り継ぎ便を運航した他、ロンドンフランクフルトハブ空港ヨーロッパ域内の乗り継ぎ便を運航した。

さらに、第二次世界大戦終結後に西ドイツ東ドイツに分断されたドイツにおいて、西ドイツの東ドイツ内の飛び地となった西ベルリンと西ドイツ各都市の間の便を運航した。

ジェット旅客機の導入

1950年代初頭には世界最初のジェット旅客機であるデ・ハビランド DH.106 コメットⅠを、英国海外航空日本航空エールフランスなどの他の国のフラッグ・キャリア同様に発注したものの、その後同機が設計上の欠陥で運航を停止したことを受け、ボーイングがアメリカ空軍の輸送機として開発していたボーイング367-80を民間旅客機用に転用したアメリカ初のジェット旅客機のボーイング707型機20機を1955年に発注した。

ファイル:Pan Am Boeing 707-100 at JFK 1961 Proctor.jpg
「パンナム・ワールドポート」に駐機するボーイング707

また同時に、同機の開発、運航がDH.106 コメットⅠのように失敗に終わった場合の「保険」として、ボーイングのライバルのダグラスが開発していたDC-8も25機発注した。なおボーイング707の開発過程では、豊富な国際線運航経験をもとにした数々の要求、注文をボーイングに投げかけ、同機の開発に大きく貢献した。

その後1958年秋にボーイング707の初号機の引き渡しを受け、大西洋横断路線における最大のライバルである英国海外航空による、DH.106 コメットの最新型であるコメットⅣの就航に遅れることわずか1カ月程度の同年10月26日ニューヨーク-パリに就航させたことを皮切りに、世界一周路線を含む世界各地への路線へ就航させた。またその翌年にはダグラスDC-8型機も就航させ、同じく国内幹線や世界各地の路線へ就航させた。

ボーイング707やダグラスDC-8などの、既存のプロペラ機の倍以上の旅客を倍近い速度で運ぶ大型ジェット機をパンアメリカン航空が大量就航させたことにより、世界各国における旅客機のジェット化を推進させただけでなく、1960年代初めまで大西洋横断路線における最大のシェアを持っていた定期客船の時代に終止符を打つ役目を果たすこととなった。

航空界のリーダー

ファイル:The Beatles in America.JPG
ボーイング707「Jet Clipper Beatles」から降り立つビートルズ

ボーイング707型機とダグラスDC-8型機の就航に合わせて、1960年にニューヨーク(建設当時の空港名はアイルドワイルド空港)へのジェット機就航に対応した巨大な専用ターミナルビル「パンナム・ワールドポート」を竣工し、同年から使用した。

1963年3月7日にはマンハッタンのランドマークの一つとなる、世界一高い商業オフィスビルであった巨大な本社ビル「パンナムビル」の竣工や、パンナムビルの屋上のヘリポートからジョン・F・ケネディ国際空港までのヘリコプターの運航、世界初のビジネスクラスである「クリッパー・クラス」の導入、超音速旅客機であるアエロスパシアル・コンコルドボーイング2707型機の発注(その後両機に対する発注はキャンセルされた)など話題に事欠かなかった。

また、1960年代当時に世界的な人気を誇っていたイギリスロックバンドビートルズ」の初訪米や、ジャクリーン・ケネディマリア・カラスアーガー・ハーン3世などの世界各国のセレブリティーの移動の際に多く使用され、その度にテレビ雑誌の誌面を飾ったことから、海外旅行のアイコン的な扱いを受けることとなった。なお、1964年2月のビートルズ初訪米の際に使用されたボーイング707は「Jet Clipper Beatles」と特に命名された。

「アメリカ帝国主義の象徴」

なお、このように派手に話題を振りまいたことや、「パンアメリカン」(=「汎アメリカ主義」と訳すことができる、ただしそれは必ずしも命名者の意図したところではない)という社名、そして冷戦下におけるアメリカ政府との密接な関係(1960年代から1970年代にかけて行われ、アメリカも参戦したベトナム戦争中は、アメリカ軍との契約の元にアメリカ軍の兵士の戦時休暇のための特別便を、南ベトナムサイゴンダナンからホノルル香港、アメリカ占領下の沖縄などへ向けて運航した他、同じく契約を元に、平時の軍事輸送にも長年あたっていた)から、いわゆる「アメリカ帝国主義」の体現者と見なされることも多かった。

そうした「アメリカを代表する航空会社」という地位と、高い知名度が仇となり、1960年代以降は、反米組織をはじめとしたハイジャックテロの標的になることも多かった。

ボーイング747の導入

1960年代後半には、ボーイング社がアメリカ空軍の超大型輸送機として開発を進めていたが、ロッキード社の開発したC-5との発注競争に敗れたために民間型へ転用し開発をしようとしていた超大型旅客機であるボーイング747型機をトリップ会長の指導のもと大量発注し、ローンチカスタマーとなった。

同機は2階にファーストクラス乗客用のラウンジを備えた他、旅客機として世界初の2列通路を持ち、ボーイング707の2倍強の350席以上のキャパシティを持つなど、これまでの旅客機の概念を一新する内容を持ち、その後同機はパンアメリカン航空のライバルであるトランスワールド航空やノースウェスト航空日本航空や英国海外航空なども相次いで発注し、その後の世界的な海外旅行の大衆化を後押しすることになる。

同機はまず1970年1月にニューヨーク-ロンドン線に就航し、その後サンフランシスコ-ホノルル-東京線など矢継ぎ早に高収益路線に就航した。その後同機を国内外の主力路線に導入し、間もなく同社の花形路線である世界一周路線にも就航した。

さらにその後1976年4月には、ボーイング社に特注した超長距離型のボーイング747-SP(SP-スペシャル・パフォーマンス)型機により世界初のニューヨーク-東京間の無着陸直行便を就航させた。当時世界最長の無着陸定期路線であったニューヨーク-東京間の直行便は、アンカレジやシアトルなどを経由する路線しか運航していなかったライバルの日本航空やノースウェスト航空の同路線から次々と乗客を奪うほどの脅威となった。また、同型機はサンフランシスコ-香港間ノンストップ便をはじめとする超長距離路線にも投入された。これがSPが誕生したきっかけとなった機材としても知られる。

なお、第二次世界大戦後の民間航空の復興期である1940年代中頃から、航空自由化政策(ディレギュレーション)が施行され、運賃競争が始まる直前の1970年代後半頃にかけてがパンアメリカン航空にとっての黄金期であった。

ナショナル航空買収

この頃パンアメリカン航空は「世界で最も高い経験値を持つ航空会社(World's Most Experienced Airline)」(日本でのテレビコマーシャルなどでは「経験の香り」と言うコピーでこの言葉を表していた)を標榜し、まさに世界を代表する航空会社として振舞っていたものの、1970年代半ばには、自らがローンチ・カスタマーとなったボーイング747の大量導入による供給過多と価格競争による収益性の悪化が重くのしかかってきた上に、1970年代初頭に起きたオイルショックによる燃料の高騰で体力が弱ってきたにも拘らず、パイロットスチュワーデスの高給をカットできず、高コスト体質のまま国際線の価格競争が次第に激化していったことで慢性的な赤字経営に陥っていった。

その上、1970年代後半にジミー・カーター政権による航空自由化政策(ディレギュレーション)が施行され、他社による国際線への進出が進んだことにより価格競争がさらに激化したことから、新たな収益源を模索することとなった。

ディレギュレーションの施行を受けて他社の国際線への進出が可能になったことと引き換えに、パンアメリカン航空にも幹線以外の国内線への進出が可能になったことを受けて、これまでは規制のために脆弱であった国内線網の充実を図り、1980年に、アメリカ東海岸を中心とした国内路線と国際路線網を持っていた中堅航空会社であるナショナル航空を買収した。

経営悪化

ファイル:Intercont-ffm001.jpg
フランクフルトのインターコンチネンタルホテル

しかし、東海岸地域の路線を主に運航する中堅航空会社だったナショナル航空の国内線路線網は、ユナイテッド航空やイースタン航空、アメリカン航空などの大手に比べ脆弱であったことや、両社の運航機材の多くが別々のものであったこと(たとえば、パンアメリカン航空はボーイング747に次ぐワイドボディ機としてロッキード L-1011 トライスターを運航していたものの、ナショナル航空は同規模の大きさを持つマクドネル・ダグラスDC-10を運航していた)、ナショナル航空の賃金形態を「業界随一」とまで言われた高賃金であったパンアメリカン航空に合わせる等、結果的にナショナル航空の吸収合併による改善効果は殆どないどころか、パンアメリカン航空の経営状況を決定的に悪化させる結果となった。

その上、組合の反対により賃金形態の健全化による赤字体質の改善は全く進まず、その上に度重なる事故などにより経営が急速に悪化し、1981年9月にはニューヨークの本社ビルを4億ドルでメトロポリタン・ライフ生命保険に売却したほか、同年にはインターコンチネンタルホテルチェーンをグランド・メトロポリタングループに売却し、この資金を元手に本業に集中することで経営状況の回復を狙った。

「ドル箱路線」の売却

ファイル:N805PA-A310-PanAm-PIK-July89.jpg
「ビルボード・タイトル」塗装のエアバスA310

しかしその後も経営状況のさらなる悪化が進み、1983年には、高度成長期以降急成長を続ける日本フラッグ・キャリアである日本航空に、国際航空運送協会(IATA)の統計による旅客・貨物輸送実績世界一の座を開け渡した。

さらに1985年には、日本路線を含むアジア太平洋地域の路線を、ハブ空港である新東京国際空港(現成田国際空港)の発着権や以遠権、社員や支店網、保有機材の一部、さらに「インカンバント・キャリア(日米間路線における先入航空会社としての既存権利を所有する航空会社)」の権利ごとユナイテッド航空に売却した。なお、第二次世界大戦前からの長い歴史を持つアジア太平洋路線は、上記の日本航空や大韓航空シンガポール航空などの競合他社の急成長による価格競争の激化によって、以前に比べて収益が低下傾向にあったものの、依然としてパンアメリカン航空にとっては高収益が見込める路線であり、経営陣や株主からは売却することへの反対意見が続出した。

しかし、これによりパンアメリカン航空は多額の運転資金を得ることとなり、以降は「ビルボード・タイトル」と呼ばれた新塗装を導入しアメリカ国内線やヨーロッパ路線、カリブ海方面やメキシコなどラテンアメリカの路線運航に集中する傍ら、アジア太平洋路線の売却に伴いボーイング747SPやロッキード L-1011 トライスターなどの燃費効率の悪い長距離専用機材を放出するとともに、燃費効率のよい2人乗務機であるエアバスA310の導入を行うなど、運転資金を経営効率を上げるために有効に活用することで、経営状況の改善を図る方策へと出た。

なお、アジア太平洋地域路線はハワイまでの国内路線のみを残し、日本をハブとして運航していたグアムサイパン路線、さらに香港や上海路線も併せて売却することとなった。その後1988年に日本路線復帰の計画が持ち上がったが、同年12月に起きた、いわゆるパンナム機爆破事件の影響で白紙になった。

更なる路線の切り売り

ファイル:Pan Am Boeing 727-200 at Zurich Airport in May 1985.jpg
チューリヒ国際空港を離陸するボーイング727

アジア太平洋路線の売却で一時的な運転資金ができ、アメリカ国内線やカリブ海、南アメリカ路線の増強を行ったにもかかわらず、この爆破テロ事件で乗客の激減と多額の補償金という致命的なダメージを受けてしまう。

運転のためのつなぎ資金を得るために、事件の翌年の1989年には西ドイツ国内とベルリン間の路線をルフトハンザ航空に売却し、1990年10月には、日本路線と並ぶ高収益路線であったロンドンのヒースロー国際空港への路線を、イタリアスイスなどへの以遠権を含む路線の権利やヒースロー国際空港のターミナル、機材とともにユナイテッド航空に売却した。

高収益路線の相次ぐ売却を行い運転資金をひねり出したものの、労働組合の反対により経営効率化計画がとん挫するなど経営状況は殆ど改善せず、ついに1991年1月には破産と会社更生法の適用を宣言し、同時に運転のためのつなぎ資金を得るために、マイアミ発を除くすべてのヨーロッパ路線と、ケネディ国際空港のパンアメリカン航空専用ターミナル「ワールドポート」のデルタ航空への売却、1986年に設立したコミューター便を運航する「パンナム・エクスプレス」のトランス・ワールド航空への売却、更にラガーディアからボストンワシントンD.C.へのシャトル便イースタン航空への売却を行うこととなった。

終焉

ファイル:Pan Am Express.jpg
パンナム・エクスプレスのATR42

これらの相次ぐ売却により、創業当時の本拠地であったフロリダ州のマイアミ国際空港を本拠地とし、わずかに残ったマイアミ発のロンドン、パリ線の他は、カリブ海周辺及び南アメリカ路線、東部を中心とした国内線の運航を行う中規模航空会社として、デルタ航空の支援のもと再生を行うこととなった。

しかし、同年に勃発した湾岸戦争による国際線乗客激減と同時に起きた燃料高騰、そして最後の頼みの綱であったデルタ航空による支援策が、同社の大株主の反対を受け白紙撤回したことがとどめを刺す結果となり、ついに1991年12月4日に破産し運航停止し、かつて世界中にその路線網を広げた名門航空会社は終焉を迎えた。なお、最後の運航はバルバドスブリッジタウンからマイアミへ向かう436便(ボーイング727-221ADV Clipper Goodwill 機長はMark Pyle氏) 出典1 出典2だった。

パンアメリカン航空は、アメリカを代表する航空会社としてのみならず、まさに20世紀におけるアメリカの繁栄とその先進性を象徴する企業と見なされ、スタンリー・キューブリック監督の映画2001年宇宙の旅」においてスペースシャトルの運行主体として想定されていたほどで(実際に1960年代後半に、世界最初の民間宇宙飛行の運行会社になることを想定し、アメリカや日本で乗客の予約を受け付け始めたことさえあった)、その終焉はアメリカ国民のみならず、全世界を驚嘆させる出来事となった。

「新パンナム」

その後、1992年には「パンアメリカン航空」の商標権は管財人により競売にかけられ、商標を買い取った元アイルランド大使のチャールズ・コブが1996年に元パンアメリカン航空のエアバスA300などを使い「新生パンアメリカン航空」の運航を開始。名称はもちろん機材の塗装やロゴまで当時のまま使用し再生が期待されたものの1998年に破綻した。

その後、アメリカ中西部を基点とする運送会社が経営する小規模な航空会社が、パンアメリカン航空の商標を引き継ぎボーイング727を使い再び運航を開始したものの、2004年11月に運航停止となった。

その後、同じくアメリカ東海岸を基点とする航空会社であるボストン・メイン・エアウェイズに機材を移管して運航を再開し、ボストン-トレントン(ニュージャージー州)線やオーランド-サンフアンプエルトリコ)線などを運航していた。しかし、2008年2月29日を以って運航停止となっている。なお、その後もパンナムの商標は、同じパンナム・システムズグループのパンナム鉄道が引き続き使用している。

主な運航機材

ファイル:Pan Am L-049 Constellation at London.jpg
ロッキード・コンステレーション
ファイル:Pan Am Lockheed TriStar Volpati-1.jpg
ロッキード・トライスター

引き渡し、運航を行った機材

発注のみの機材

なお、パンナムが発注したボーイング社製航空機の顧客番号(カスタマーコード)は21で、航空機の形式名は747-121, 747SP-21, 747-221などとなっていた。

事故や事件

便数が多かったこともあり、数十件の航空事故を起こしている。また、アメリカを代表する航空会社であったことから、テロやハイジャックの標的になることも多かった。

主な航空事故とテロ事件

パンアメリカン航空526便不時着水事故
1952年4月11日、526便(ダグラスDC-4)が、プエルトリコサンファンを離陸後、エンジントラブルのため引き返す途中に、海上に不時着水の後、水没。69人中52名死亡。
パンアメリカン航空202便墜落事故
1952年4月29日、202便(ボーイング377)が、プロペラの設計ミスでブラジル北部を飛行中に空中分解を起こし、墜落。50人死亡。
パンアメリカン航空006便不時着水事故
1956年10月16日、006便(ボーイング377)が、太平洋に不時着水した事故。不時着水から救助までの一部始終が映像に残ったことで知られている。
パンアメリカン航空007便失踪事故
1957年11月8日、007便(ボーイング377)が、サンフランシスコからホノルルへ飛行中に失踪。後に機体の残骸と乗客の遺体が漂流しているのが発見された。状況から緊急着水を試みたとされるが、事故原因は判明しなかった。44人死亡。
パンアメリカン航空214便墜落事故
1963年12月8日、214便(ボーイング707)が、飛行中に落雷によりメリーランド州に墜落。
パンアメリカン航空217便墜落事故
1968年12月12日、217便(ボーイング707)が、ベネズエラカラカスへ着陸進入中にカリブ海に墜落。51人死亡。
PFLP旅客機同時ハイジャック事件
1970年9月6日、93便(ボーイング747)が、PFLPによりヨーロッパからアメリカに向かっていた他の航空会社の旅客機と同時にハイジャックされたものの、目的地のヨルダンのドーソン基地に着陸できずエジプトカイロ国際空港に向かい、犯人グループが現地警察に投降し無事解決した。
パンアメリカン航空845便離陸衝突事故
1971年7月30日、845便(ボーイング747)が、途中経由地のサンフランシスコ国際空港での離陸時に発生した事故。死者なし。
パンアメリカン航空816便墜落事故
1973年7月22日、816便(ボーイング707)が、タヒチパペーテから離陸直後に太平洋に墜落。71人死亡。
テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故
1977年3月27日、1736便(ボーイング747)とKLMオランダ航空 4805便(ボーイング747)が、スペインカナリア諸島テネリフェ島にあるロス・ロデオス空港で離陸滑走中に衝突。583名死亡。史上最大の航空事故。
パンアメリカン航空759便墜落事故
1982年7月9日、759便(ボーイング727)が、ニューオーリンズ国際空港を離陸直後に墜落。153人死亡。
パンアメリカン航空830便爆破事件
1982年8月11日、830便(ボーイング747)において、仕掛けられた爆弾が爆発。墜落は免れたものの、日本人の少年1人が死亡。
パンアメリカン航空73便ハイジャック事件
1986年9月5日パキスタンカラチの空港で73便がパレスチナ人テロリストアブ・ニダルらのグループによってハイジャックされ、同国軍部隊との銃撃戦などにより、乗客・乗員20人が死亡[1][2][3]
パンアメリカン航空103便爆破事件
1988年12月21日、103便(ボーイング747)が、イギリススコットランド上空において、リビアテロリストによって仕掛けられた爆弾の爆発で空中分解したうえ墜落し、乗客259人と墜落現場の住民11人の計270人が死亡。

遺産

コレクターズアイテム

1950年代(日本においては1970年代)以前の飛行機での旅行がまだ高嶺の花だったころ、パンアメリカン航空は、時代の最先端を行く象徴の1つとして捉えられていたことから、現在においても当時の広告や制服、機内サービス備品などのグッズなどがコレクターズアイテムとして取引されている他、日本においてもスパイダースピチカート・ファイヴ砂原良徳など様々なアーティストが好んで使用している。

パンナムが登場する映画・テレビドラマ

パンアメリカン航空の黄金期であった1930年代から1970年代に撮影された映画や、その頃を時代背景とする映画やテレビドラマの多くにパンアメリカン航空の機材やパンナムビルが登場している。海外へ渡航する際にパンアメリカン航空を利用する設定とし、自社機の離着陸シーンや機内のシーンを組み込むことを条件に、出演者や撮影スタッフの航空券を提供するなどの形で数々の作品でスポンサーを務めた。会社消滅後も、さまざまな映画やテレビドラマで扱われている。


関連項目

テンプレート:Sister

脚注

  1. 表5.1 世界の航空機 ハイジャック・テロ
  2. アブ・ニダル
  3. 中東・イスラムとアメリカ半世紀の関係史

外部リンク

テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA