交響曲第9番 (ベートーヴェン)

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン交響曲第9番(こうきょうきょくだい9ばん)ニ短調作品125テンプレート:Lang-de)は、ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲である(第10番は断片的なスケッチが残されたのみで完成されていない)。副題として「合唱付き」が付されることも多い。また日本では親しみを込めて「第九」(だいく)とも呼ばれる。第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはシラーの詩『歓喜に寄す』が用いられる。第4楽章の主題は『歓喜の歌』としても親しまれている。古典派の以前のあらゆる音楽の集大成ともいえるような総合性を備えると同時に、来るべきロマン派音楽の時代の道しるべとなった記念碑的な大作である。

第4楽章の「歓喜」の主題欧州評議会において「欧州の歌」としてヨーロッパ全体を称える歌として採択されているほか、欧州連合においても連合における統一性を象徴するものとして採択されている。このほか、コソボ共和国の暫定国歌として制定、ローデシアの国歌[1]としても制定されていた。ベルリン国立図書館所蔵の自筆譜資料は2001年ユネスコの『世界の記憶』(『世界記録遺産』)リストに登録された。初演/初版の版刻に用いられた筆写スコアが2003年サザビーズで競売にかけられた際には、「人類最高の芸術作品」と紹介されている。[2]

概要

元来、交響曲とはソナタの形式で書かれた器楽のための楽曲で、第1楽章がソナタ、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット、第4楽章がソナタやロンドという4楽章制の形式が一般的であった。ベートーヴェンは交響曲の第3楽章にスケルツォを導入したり、交響曲第6番では5楽章制・擬似音による風景描写を試みたが、交響曲第9番では第2楽章をスケルツォとする代わりに第3楽章に瞑想的で宗教的精神性をもった緩徐楽章を置き、最後の第4楽章に4人の独唱混声合唱を導入した。ゆえに「合唱付き」(Choral[3]と呼ばれることもあるが、ドイツ語圏では副題は付けず、単に「交響曲第9番」とされることが多い。第4楽章の旋律は有名な「歓喜の歌(喜びの歌)」で、フリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄す』から3分の1程度を抜粋し、一部ベートーヴェンが編集した上で曲をつけたものである。交響曲に声楽が使用されたのはこの曲が必ずしも初めてではなく、ペーター・フォン・ヴィンターによる『戦争交響曲』などの前例があるものの、真に効果的に使用されたのは初めてである。

なお、ベートーヴェン以降も声楽付き交響曲は珍しい存在であり続けた。ベルリオーズメンデルスゾーンリストなどが交響曲で声楽を使用しているが、声楽付き交響曲が一般的になるのは第九から70年後、マーラーの『復活交響曲』が作曲された頃からであった。

まぎれもなくこの交響曲は、ベートーヴェンの傑作の一つである。大規模な編成や1時間を超える長大な演奏時間、それまでの交響曲でほとんど使用されなかった、ティンパニ以外の打楽器(シンバルトライアングルなど)の使用、ドイツ・ロマン派の萌芽を思わせる瞑想的で長大な緩徐楽章(第3楽章)の存在、そして独唱や混声合唱の導入など、彼自身のものも含むそれ以前の交響曲の常識を打ち破った大胆な要素を多く持ち、シューベルトブラームスブルックナーマーラーショスタコーヴィチなど、後の交響曲作曲家たちに多大な影響を与えた。また、ベートーヴェンの型破りな精神を受け継いだワーグナーリストは、交響曲という殻そのものを破り捨て全く新しいジャンルを開拓した。このように、交響曲作曲家以外へ与えた影響も大きい。

日本では、年末になると各地で第九のコンサートが開かれる。近年では、単に演奏を聴くだけではなく、アマチュア合唱団の一員として演奏に参加する愛好家も増えつつある。日本での圧倒的な人気の一方で、ヨーロッパにおいては、オーケストラに加え独唱者と合唱団を必要とするこの曲の演奏回数は必ずしも多くない。

演奏時間

全体の演奏時間は、1980年代頃までの伝統的なモダン楽器による演奏では70分前後が主流であった。ベートーヴェンの交響曲中で最長である。

ウィーン初演での演奏時間は、明確な数字が明らかではないが、1825年3月21日にロンドンで『第九』を初演したジョージ・スマートがベートーヴェンと会見した際の質疑応答の断片がベートーヴェンの会話帳に残っており、63分という数字がロンドン初演時の演奏時間とされている[4]

「通常のCDの記録時間が約74分であることは、この曲が1枚のCDに収まるようにとの配慮の下で決められた」とする説がある[5]

CD時代に入って、それまで重要視されて来なかった楽譜(普及版)のテンポ指示を遵守して演奏された『第九』が複数出現し、テンプレート:仮リンク指揮テンプレート:仮リンクによる演奏は全曲で58分を切った(57'51")。研究家が考証を行なった古楽器による演奏では大概63分程度であり、ほぼ妥当なテンポと見なされている。ただし、さらに研究が進んでテンポの数字も代筆されたものであることが判明し、ベートーヴェンが望んだテンポについての議論が決着したわけではない。


作曲の経緯・初演

ベートーヴェンがシラーの詞『歓喜に寄す』にいたく感動し、曲をつけようと思い立ったのは、1792年のことである。ベートーヴェンは当時22歳でまだ交響曲第1番も作曲していない時期であり、ベートーヴェンが長きに渡って構想を温めていたことがわかる。ただし、この時点ではこの詞を交響曲に使用する予定はなかったとされる。

交響曲第7番から3年程度を経た1815年頃から作曲が開始された。さらに1817年ロンドンフィルハーモニック協会から交響曲の作曲の委嘱を受け、これをきっかけに本格的に作曲を開始したものと見られる。実際に交響曲第9番の作曲が始まったのはこの頃だが、ベートーヴェンは異なる作品に何度も旋律を使いまわしているため、部分的にはさらに以前までさかのぼることができる。

当初、第4楽章は声楽を含まない器楽のみの編成とされる予定であり、声楽を取り入れたものは別に作曲を予定していた『ドイツ交響曲』(交響曲第10番)に使用される予定だった。しかしさまざまな事情によって、交響曲を2つ作ることを諦めて2つの交響曲のアイディアを統合し、現在のような形となった。歓喜の歌の旋律が作られたのは1822年頃のことである。なお、当初作曲されていた第4楽章の旋律は、のちに弦楽四重奏曲第15番の第5楽章に流用された。

1824年に初稿が完成。そこから初演までに何度か改訂され、1824年5月7日に初演(後述)。初演以後も改訂が続けられている。

初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むか諸説ある)、弦楽器奏者も50人ほどで、管弦楽だけで80 - 90名の大編成だった。合唱はパート譜が40部作成されたことが判っており、原典版を編集したジョナサン・デルマーは「合唱団は40人」としているが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」となる[6]

楽譜は1826年ショット社より出版された。

この作品は、当初はロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈される予定だったが、崩御によりフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に献呈された。

演奏史

初演

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1824年のベートーヴェン

初演は1824年5月7日、ベートーヴェン立会いの下、ウィーンのケルントネル門劇場においてミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」、「献堂式」序曲とともに初演された。指揮はミヒャエル・ウムラウフ(Michael Umlauf )。

当時のウィーンではロッシーニのオペラが流行していたため、ベートーヴェンは当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、ベルリンでの初演を希望していた。だが、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い留めた。

ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がった。ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思い、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえなかったため、聴衆の喝采に気がつかなかった。見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンの手を取って聴衆の方を向かせ、はじめて拍手を見ることができた、という逸話がある。観衆が熱狂し、アンコールでは2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話まで残っている。

このように「好評」の逸話が残る初演だが、その根拠は繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話におかれており、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もある。ソプラノソロのゾンタークは18歳、アルトソロのウンガーは21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前に変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えている。さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足だった。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られている)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていた事実から、演奏の完成度には疑問の余地がある。過去1809年の『合唱幻想曲』の初演では実際に合奏が崩壊し、最初から演奏し直している。

さらに5月23日に会場をより大きなレドゥーテンザールに移して催された再演は、会場の半分も集客出来ず大失敗であった。ウィーンの聴衆の受けを狙ってロッシーニのオペラ・アリアを入れたこと、昼間の演奏会だったので人々がピクニックに出かけてしまったことなどの理由を述べた書き込みが会話帳に残っている。

なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデンという数字が伝えられている。シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかった。再演ではあらかじめ1200グルデンがベートーヴェンに支払われている。後年プロイセン王への献呈の際、ベートーヴェンに指輪が贈られたが、鑑定させて300グルデンと判るとベートーヴェンは安過ぎると怒り、売り払ってしまった。

その後、ヨーロッパ各地で何回か演奏が試みられたが、全て失敗に終わった。そして「駄作」「演奏不可能」という評価が定着してしまう。また、第4楽章がその前の三つの楽章に比べて「異質」とされ、「長大すぎる」ということで演奏機会に恵まれなくなった。実際にベートーヴェンも初演の後、第4楽章を器楽のみの編成に書き改めることを計画していた。1827年、まともに評価されることなくにベートーヴェンは死去する。

初演以外の演奏が失敗に終わった理由の一つに、当時のオーケストラの演奏水準の問題があった。ベートーヴェンの時代は、プロの音楽家養成機関が未整備で、宮廷オーケストラの類を除くと、「プロ・オーケストラ」は民間に存在しなかった。民間のオーケストラは、宮廷楽師や独学のアマチュアなどが混在したもので、演奏水準が低かったのである。現在でも難曲として有名な第九が、こういったオーケストラで巧く演奏できるわけがなかった。

パリでの部分的再演

世界初の音楽学校として設立されたパリ音楽院の卒業生フランソワ・アブネックは、パリ・オペラ座管弦楽団のヴァイオリン奏者として活躍した後、指揮者に転向し、1828年、母校にパリ音楽院管弦楽団を創立した。体系化された音楽教育を受けたメンバーによるこのパリ音楽院管弦楽団は、「比類なき管弦楽団」「ヨーロッパ最高水準のオーケストラ」という評判を勝ち取る。 そのアブネックは、ベートーヴェンの信奉者であった。ベートーヴェンの交響曲の楽譜を徹底的に分析し、自身が指揮者をつとめるパリ音楽院管弦楽団演奏会のメイン・プログラムに据えたのである。

1831年、3年の準備期間を経てアブネックは初めて『第九』を指揮・演奏した。ただし、第4楽章は上記のような理由で演奏されず、第1-3楽章のみの演奏だった。その後、アブネックは度々、「第4楽章抜きの第九」を演奏した。この演奏を聴いて感銘を受けた2人の作曲家兼指揮者がいた。

一人は、当時パリ音楽院の学生だったエクトル・ベルリオーズ。彼は、ベートーヴェンを模範として作曲に励むことになる。もう一人は、オペラ作曲家としての成功を夢見てパリに来ていたドイツのリヒャルト・ワーグナーである。 結局、ワーグナーはパリで成功を収めることができず、失意のうちにドイツへ戻ることになるが、アブネックによるベートーヴェンの交響曲演奏会の記憶は感激として残った。そして、いつか『第九』を全楽章、復活演奏することを夢見るのである。

ワーグナーによる復活演奏

リヒャルト・ワーグナーは少年時代からベートーヴェンの作品に熱中し、図書館から借りてきた彼の楽譜を筆写していた。『第九』も例外ではなく、ピアノ編曲までしたほどである。 パリで成功を収めることができなかった彼は故郷のドイツへ帰り、1842年ドレスデンで歌劇『リエンツィ』を上演、大好評を博した。この功績により、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(当時はザクセン王国の宮廷楽団)の指揮者に任命された彼は、念願の『第九』復活演奏に着手する。

ドレスデンでは、毎年復活祭の直前の日曜日にオーケストラの養老年金の基金積み立てのための特別演奏会が催されていた。この演奏会ではオラトリオと交響曲が演奏されるのが定番となっていた。1846年、ワーグナーはこの演奏会でベートーヴェンの『第九』を取り上げることを宣言した。猛反対の声が挙がったが、彼は反対派説得のためにパンフレットや解説書を書いて説得につとめるとともに、『第九』の楽譜に改訂を加えた。

彼は、「ベートーヴェンの時代は楽器が未発達」であり、「作曲者は不本意ながら頭に描いたメロディ全てをオーケストラに演奏させることができなかった」と考えたのである。そして「もしベートーヴェンが、現代の発達した楽器を目の当たりにしたら、このように楽譜を加筆・改訂するだろう」という前提に立って、管楽器の補強などを楽譜に書き込んだ。

徹底的なリハーサルの効果もあり、この演奏会は公開練習の時から満員となり、本番も大成功に終わった。もちろん、年金基金も記録的な収入だった。これ以降、『第九』は「傑作」という評価を得るようになったのである。

日本初演

1918年6月1日に、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所で、ドイツ兵捕虜により全曲演奏がなされたのが、日本における初演とされている。この事実は1941年に、この初演の2ヶ月後に板東収容所で『第九』(第1楽章のみ)を聴いた徳川頼貞が書いた『薈庭楽話』で明らかにされていたが、長く無視され、1990年代になって脚光を浴びた。映画『バルトの楽園』(出演:ブルーノ・ガンツ松平健ほか)は、このエピソードに基づくものである。ただし、収容所に女性はいないので、独唱と合唱は全て男声用に編曲された。また、ファゴットとコントラファゴットが無かったので、オルガンで代用するなどした。そのため、これを初演とは言えないとする意見がある。練習場としては、声が響く風呂場が使用された[7]。ちなみに鳴門市では日本における第九初演を記念して毎年6月の第一日曜日を『第九の日』に制定して定期演奏会を開催している[8]

『バルトの楽園』では、近隣住民を招待してこの第九演奏会を見せたことになっているが、実際には収容所内の演奏会だったため、『第九』を聴けた日本人は、収容所関係者のみだった。

1919年12月3日、福岡県の久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)に久留米俘虜収容所のオーケストラのメンバーが出張演奏し、様々な曲に交じって『第九』の第2・第3楽章を女学生達に聞かせた。これが一般の日本人が『第九』に触れた最初だと言われている。 二日後の12月5日、久留米収容所内で男声のみと不完全な楽器編成での全曲演奏がなされた。

1924年1月26日、九州帝国大学の学生オーケストラ、「フィルハーモニー会」(現在の九大フィルハーモニー・オーケストラ)が当時の摂政宮(後の昭和天皇)の御成婚を祝って開いた「奉祝音楽会」で『第九』の第4楽章を演奏した。しかし、この時に歌われた歌詞は、ドイツ語でも日本語の訳詞でもなく、当時の文部省が制定した『皇太子殿下御成婚奉祝歌』の歌詞を『第九』のメロディにアレンジしたものだった。 これを「日本人初の『第九』演奏」と見なすかどうかは、議論の余地がある。 また、果たして第4楽章が通して演奏されたのか、それとも合唱を伴う部分を抜粋・編曲したものだったのかについても意見が分かれている。

日本での公式初演は、1924年11月29・30日に東京音楽学校のメンバーがドイツ人教授、グスタフ・クローンの指揮によって演奏したものだとされている。プロ・オーケストラによる日本初演は新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)により1927年5月3日に行われた。

東京音楽学校での初演については、この演奏を聴いた最後の生き残りであった作家の埴谷雄高が、「演奏中にコンサートミストレスの安藤幸子(幸田露伴の妹。姉の幸田延子ともども「上野の西太后」と呼ばれた)が早く弾きだした部分があり、演奏はガタガタとなってしまった」と証言している。

全員が外来演奏家による日本初演はカール・ベーム指揮のベルリン・ドイツ・オペラにより1963年11月7日日生劇場にて行われた。

この演奏の終了後、熱狂的なファンがベームの足に抱きつき、ベームの身動きを取れなくしたハプニングもあった。

日本での年末の演奏の歴史

1940年12月31日午後10時30分、紀元二千六百年記念行事の一環として、ヨーゼフ・ローゼンシュトックが新交響楽団(現在のNHK交響楽団)を指揮して『第九』のラジオ生放送を行った。これを企画したのは当時、日本放送協会(NHK)の洋楽課員だった三宅善三である。彼はその理由について「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」としている。実際に当時から現在まで年末に『第九』を演奏しているドイツのオーケストラとして、著名なところではライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が挙げられる。またそれを模倣するオーケストラがいくつかあるものの、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による大晦日の『第九』演奏は、深夜に行われるものではない。よって、そういった慣習があるとは言えず、何らかの勘違いをしたのではないのかと思われる。

日本で年末に『第九』が頻繁に演奏されるようになった背景には、戦後まもない1940年代後半、オーケストラの収入が少なく、楽団員が年末年始の生活に困る状況を改善するため、合唱団も含めて演奏に参加するメンバーが多く、しかも当時(クラシックの演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった『第九』を日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が年末に演奏するようになり、それが定例となったことが発端とされる。既に大晦日に生放送をする慣習が定着していたから、年末の定期演奏会で取り上げても何ら違和感が無かったことも一因として挙げられよう[9]。昭和31年に群馬交響楽団が行った群馬での第九演奏会の成功が全国に広まったのをきっかけに、国内の年末の『第九』の演奏は急激に増え、現在に至っている[10]

バイロイト音楽祭と第九

1872年バイロイトに祝祭劇場を建設する際、その定礎の記念として選帝侯劇場にてリヒャルト・ワーグナーの指揮で『第九』が演奏された。その所縁もあり、『第九』はバイロイト音楽祭においてワーグナーの歌劇・楽劇以外で演奏される唯一の曲となっている。以後、何度か演奏されている。1933年リヒャルト・シュトラウス1951年1954年ヴィルヘルム・フルトヴェングラー1953年パウル・ヒンデミット1963年カール・ベーム2001年クリスティアン・ティーレマン

ライプツィヒ・ゲヴァントハウスと12月31日の第九

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-Z1008-030, Leipzig, "Neues Gewandhaus", Konzert.jpg
1981年の新ゲヴァントハウスこけら落とし公演

1918年、第一次世界大戦が終結となった年の暮れ、ヨーロッパの人々の新年への願いは平和であった。当時はライプツィヒの郊外の村であり、現在はライプツィヒの一部であるゴーリスという土地に住んでいたときにシラーが『歓喜に寄す』を書いたという縁もあり、「人類すべてがきょうだいになる」という平和への願いこそが人々の思うところであった。12月31日の午後、日が暮れる時間に労働者教養協会のイニシアチブにより100人の演奏家と300人の歌手によってベートーベンの第九は演奏された。その伝統はゲヴァントハウス管弦楽団によって受け継がれ、毎年暮れになるとライプツィヒでは翌年の平和を祈って演奏され続けている。(現在の大晦日コンサート開演時間は午後5時) 1944年、ライプツィヒのコンサートホール、ゲヴァントハウスは戦火に焼けた。1968年の完全破壊を経て1981年、新しいゲヴァントハウスが建築されるとクルト・マズアは生まれ変わったゲヴァントハウスのオープニング・コンサートの主要プログラムとしてベートーベンの第九を選んだ。東ドイツ崩壊後の統一ドイツではMDR=Mitteldeutscher Rundfunk (中部ドイツ放送協会)が1992年もと東ドイツ圏内に再設立され、それ以来毎年の大晦日の午後、「暗くなり始める時間」にシラーやベートーベンが世界に、人類に望んだ平和を歌い上げる第九交響曲が演奏され、多くの国々にMDRテレビやMDRラジオfigaroによって同時放映、同時放送される。19回目の2010年には香港、オランダ、アメリカなどにも演奏がライブ放映・放送された。

フルトヴェングラーと第九

指揮者フルトヴェングラーは第二次世界大戦前、1911年から1940年まで既に61回『第九』を指揮したとされる。その解釈は荘厳、深遠でありながら感情に流され過ぎず、友人でもあった音楽学者ハインリヒ・シェンカーの分析からも影響を受けている。第4楽章330小節のフェルマータを非常に長く伸ばし同時間の休止を設けるというワーグナー由来の特徴も見られ、自身の著作でも第1楽章の開始を宇宙の創世と捉えるなど後の世代にも影響を与えたが、後の世代の演奏はトスカニーニ流の明晰な演奏が主流となり、ブルックナー開始を思わせるフルトヴェングラーの解釈は、現在ではベートーヴェンにしてはあまりに後期ロマン主義的、神秘主義的に過ぎる、とされることが多い。[11]
第二次世界大戦中ドイツに留まり活動していたフルトヴェングラーは1942年4月19日、ヒトラーの誕生日前日に『第九』を指揮しゲッベルスと握手する姿が映画に撮影されるなど政治宣伝に利用され、戦後連合国からナチスとの関わりを責められ一時活動の機会を失うことになった。

1951年7月末、終戦後初のバイロイト音楽祭でフルトヴェングラーは『第九』を指揮し再開を祝した。他の演目を録音しに訪れていたレコード会社デッカのスタッフも出演者たちも、この第九に常軌を逸した緊張感を覚えたと語っている。しかし録音そのものは1951年当時の技術水準(ステレオ録音も不可能ではなかった)を考慮しても鮮明さを欠いたものであった。もともとこの演奏のレコード化は正規のものではなく、発売元となったEMIのプロデューサーウォルター・レッグはフルトヴェングラーから録音を拒否されていた(表向きは「バイロイトの音響が録音向きではないから」としているが、当時EMIはフルトヴェングラーが忌み嫌っていたカラヤンと友好関係にあり、フルトヴェングラーの信頼を失いつつあった)。そのためフルトヴェングラーの生前には発売されなかった上、録音テープが廃棄されかかったという逸話もある。

しかしフルトヴェングラーの死後にEMIからレコードとして発売されると、日本の評論家達は大絶賛し、今でも「第九のベスト演奏」に挙げられることが多い。録音に問題ありという認識の裏返しでEMIから音質の改善を謳ったCDが何種類も発売されており、初期LPから復刻したCDも複数の企画がある。
近年もう一種類の録音(オルフェオ。バイエルン放送の放送録音)がCD化され、本番なのかリハーサルテープなのかの諸説があるが、「こちらこそ真のバイロイトの第九」と賞賛する声もある。

戦後復興と第九

1955年に、戦争で破壊されたウィーン国立歌劇場が再建された際にも、ブルーノ・ワルター指揮・ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で『第九』が演奏された。なお、再建のこけら落しカール・ベーム指揮の歌劇『フィデリオ』だった。当初音楽監督のベームはワルターに『ドン・ジョヴァンニ』の指揮を依頼したが、ワルターが高齢を理由に辞退し、代わりに『第九』を指揮することになったものである。なお、これはオーストリア放送協会による放送録音が残っており、オルフェオからCD化もされている。

ドイツ分断と第九

1964年東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったときに、国歌の代わりに歌われた。

1989年ベルリンの壁崩壊の直後の年末にレナード・バーンスタインが、東西ドイツとベルリンを分割した連合国アメリカイギリスフランスソ連)のオーケストラメンバーによる混成オーケストラを指揮してベルリンで演奏した。この際には、第4楽章の詩の"Freude"をあえて"Freiheit(自由)"に替えて歌われた。また、翌年のドイツ再統一の時の統一前夜の祝典曲としてクルト・マズア指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団ライプツィヒで演奏した。なおゲヴァントハウスでは毎年大晦日の16時半から、ベルリン・フィルのジルベスターコンサートに対抗して演奏されTV中継されている。

演奏のみのバージョンがEUの国歌として使用されている。2007年にはルーマニアブルガリアがEUに加盟したが、2007年の1月元旦の0時を切った時演奏されたのがこの『第九』であった。

長野オリンピックと第九

1998年2月7日長野オリンピックの開会式において世界の5大陸・6ヶ国・7か所で連携しての演奏が試みられ、その映像が世界中に中継された。歌われた場所は小澤征爾がタクトを振った長野県県民文化会館中国北京紫禁城オーストラリアシドニーオペラハウス前、ドイツベルリンブランデンブルク門、黒人と白人の混成合唱団で歌われた南アフリカ共和国ケープタウン喜望峰アメリカニューヨーク国連本部、開会式が行われた長野オリンピックスタジアムである。午前11時に始まった開会式では、聖火が聖火台に点火されたあと、セレモニーのフィナーレとして歓喜の歌が歌われた。曇り空の長野、気温が氷点下の北京、真夏で晴天のシドニー、真夜中のベルリン、夜明けのケープタウンと、時刻や季節、さらには服装まで、全く異なる演奏風景が交互に映し出された。(厳密には通信による遅れを調整しており、伴奏となる文化会館の演奏をスタジアム以外の各地に届けて合唱し、その映像が最終的にスタジアムで同期するよう再送された。従って最も演奏が早い文化会館と最も遅いスタジアムで幾秒かのタイムラグがあり、このために指揮者は離れた場所にいる必要があった。)また喜望峰では日の出と重なり、歌が進むにつれて一帯が明るくなっていく様子が映し出された。

レコード録音史

アコースティック録音時代

1921年2月7日、エドゥアルト・メーリケ指揮 シャルロッテンブルク・ドイツ・オペラハウス管弦楽団によって、第4楽章の前半(低弦が歓喜の主題を奏で始める直前まで)と中間部をカットした演奏がパーロフォン・レーベルにレコード録音された。これが第4楽章の世界初録音となったが、すぐには発売されなかった。

1923年、独ポリドール社がブルーノ・ザイドラー=ヴィンクラー指揮 新交響楽団(実態はベルリン国立歌劇場管弦楽団の団員を中心に組織された臨時の演奏団体)ほかによる全楽章のレコードを録音(世界初の全楽章録音だが、第2楽章にカットがある。また、録音の制約上シンバルが抜けている)し、同年12月に発売された。このレコードは日本にも紹介され、好評を博した。

1923年10-11月に収録されたアルバート・コーツ指揮、交響楽団ほかによる英語歌唱のレコードが1924年5月、この曲の「初演100周年」として英HMV社より発売。(ただし、アルト歌手が再テイクの際に交代しているため、二人のアルト歌手の名がクレジットされている)。

1924年1-2月、フリーダー・ワイスマンがベルリン・ブリュトナー管弦楽団を指揮して第1-3楽章を録音。これにエドゥアルト・メーリケが1921年に収録した第4楽章の抜粋・短縮版を組み合わせたアルバムが同年7月に英パーロフォン社から発売された。しかし、全てのラベルにワイスマンとブリュトナー管弦楽団の名がクレジットされていたため、誰も第4楽章が全くの別テイクであることを疑わなかった。(1997年にカナダのレコード研究家が真相を発表)。

1925年1月、エドゥアルト・メーリケがベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮して第4楽章の抜粋・短縮版を収録。これにワイスマンが1924年に録音した第1-3楽章を組み合わせたアルバムが独パーロフォン社から発売された。

なお、これらの録音は全て『合唱が原語(ドイツ語)ではない』あるいは『曲の一部がカットされている』のどちらかに該当し、この曲本来の姿での録音ではなかった。完全な録音は、この後1928年のオスカー・フリート]]とベルリン国立歌劇場管弦楽団によるものが世界で初めてである。

電気録音時代

1926年3月16-17日、フェリックス・ワインガルトナー指揮 ロンドン交響楽団(英訳詞による合唱)

1926年10月、アルバート・コーツ指揮 交響楽団(英訳詞による合唱)

1928年オスカー・フリート指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団(世界初の原語版によるカット箇所のない完全録音)

1934年4月30日、レオポルド・ストコフスキー指揮 フィラデルフィア管弦楽団(英訳詞による合唱)

1935年2月2-4日、フェリックス・ワインガルトナー指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(世界初の交響曲全集に収録された)

以降はオイゲン・ヨッフム1938年)、カール・ベーム1941年)、橋本國彦1943年5月・日本初録音)、山田一雄1943年11月・日本初全曲録音)、ユージン・オーマンディ1945年)と続く。 1930年代以降は多くの指揮者によるライブ録音も多数残されている。(現在確認されている最古のものは1936年3月のアルトゥーロ・トスカニーニ指揮 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団

またカラヤンはベルリン・フィルとのベートーヴェンの交響曲集をドイツ・グラモフォンでアナログ、ドルビーNR、デジタルの3期にわたって制作しており、映像も複数残っている。映画『時計じかけのオレンジ』にも使われた62年録音は2009年になっても重量盤LPレコードが企画されるなど人気が高く、通常CD、スーパー・ハイ・マテリアルCD(SHM-CD)スーパーオーディオCD(SACD)に加えガラスCD化も行われた。

編成

ピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンはベートーヴェンの交響曲では使用例が少なく、他に交響曲第5番交響曲第6番で使用されているのみである。また、ホルンが4本、打楽器は他の交響曲では使われていないトライアングル、シンバル、バスドラムを使用しており、この時期の交響曲の編成としては最大級のものである。また、前述の通り声楽を交響曲に用いるのはきわめて奇抜なアイディアである。またこの楽器編成はワーグナーの楽劇の3管編成の基礎になった。

管弦楽

編成表
木管 金管
Fl. 2, Fl.picc. 1 (第4楽章のみ) Hr. 4 (第1・2・4楽章はD管、B管各2。第3楽章はB管、Es管各2。第4楽章ではD管、B管が同時に4本使われる持ち替えあり) Timp. Vn.1
Ob. 2 Trp. 2 (第1・2・4楽章はD管、第3楽章はB管) Trgl., Ptti., Gr.Tbr. (第4楽章のみ) Vn.2
Cl. 2 (第1・3・4楽章はB管。第2楽章はC管。第4楽章でA管持ち替えあり) Trb. 3 (アルト、テノール、バス各1。第2・4楽章のみ) Va.
Fg. 2, Cfg. 1 (第4楽章のみ) Vc.

<tr><td style="background:#9f6;">他</td><td></td><td style="background:#fcc;">Cb.</td><td>●</td></tr>

指揮者ワインガルトナーの助言に従い、第3楽章終了後すぐに第4楽章を開始する指揮者が今なお多い。ただし初演された当時、ティンパニはペダルが無かったためチューニングが必要で、ホルン、トランペットも同様に管の交換に時間を要したので、少なくともこの方法は作曲当時にはあり得なかった。ジョナサン・デルマー校訂のベーレンライター版(後述)の校訂報告でもこの記述が有り、新しい楽譜を使う際、演奏楽器の新にかかわらず第3楽章と第4楽章の間隔を空ける指揮者も増えつつある。

声楽

声楽は第4楽章のみ使用される。

全体で約70分に及ぶ演奏時間にかかわらず、声楽パートが用いられるのは第4楽章(終わりの約20分)だけである。そのため、ホールで演奏される際は、合唱と独唱は第2楽章と第3楽章、もしくは第3楽章と第4楽章の間に入場することが多い。また、合唱のみ冒頭から待機する場合もあるが、この際は休憩用の椅子が用意される。ヘルベルト・ブロムシュテット1985年NHK交響楽団で演奏した際には、「『おお友よ、このような音ではない』と歌う独唱が第1楽章からステージにいなくて、そんな台詞がいえるか」というブロムシュテットの指示で独唱者も含めて第1楽章から待機することになったという[12]

曲の構成

一般的な交響曲の「アレグロソナタ - 緩徐楽章 - 舞曲 - 終楽章」という構成と比べ、第2楽章と第3楽章が入れ替わり、第2楽章に舞曲由来のスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章が来ている。このような楽章順は初期のハイドンなどには見られたが、次第に第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット(舞曲)という構成が固定化していた。ベートーヴェンによって再び取り上げられた形となり、以後この形式も定着し、後の作曲家はこの形式でも交響曲を作るようになった。

第1楽章

Allegro ma non troppo, un poco maestoso ニ短調 2/4拍子

ソナタ形式。以下の点で型破りである。

  1. 神秘的な空虚五度の和音で始まる。
  2. 習慣的な反復記号を欠いている。
  3. 通常平行調または属調で現れる提示部第2主題が下属調平行調になっている(通常のソナタ形式であれば、短調の第1主題に対し、第2主題は3度上の平行長調であるヘ長調で現れるべきだが、ここでは逆に3度下の変ロ長調が使用されている。この調性は、第3楽章や第4楽章で重要な働きをする)。
  4. 再現部の冒頭が、展開部と第1楽章のクライマックスを兼ね添えていて、提示部のそれとかなり異なる雰囲気である。

冒頭の弦楽器のトレモロとホルンの持続音にのせて第1主題の断片的な動機が提示され、それが発展して第1主題になるという動機の展開手法は非常に斬新なものである。第1主題は、ニ音イ音による完全五度を骨格とした力強い主題であり、この完全五度の関係は、この作品全体にわたって音楽に大きな律動感を与えている。再現部冒頭、ffのロールを持続するティンパニが同時にこの「ニ、イ」の主題動機の強打にも参加するところは圧巻である。

第2主題部の導入部は、第4楽章で現れる「歓喜」の主題を予め暗示させるような効果を持つ。

コーダの不気味な半音階オスティナートは、メンデルスゾーン交響曲第3番や、とりわけブルックナー交響曲第2番第3番に強い影響を与えている。

第2楽章

Molto vivace ニ短調 3/4拍子 - Presto ニ長調 2/2拍子 - Molto vivace - Presto

複合三部形式をとるスケルツォ楽章である。スケルツォ部分だけでソナタ形式(提示部反復指定あり)をとる。

曲調は第1楽章を受け継ぐような形で、第1楽章同様DとAの音が骨格になっている。弦楽器のユニゾンとティンパニで構成される序奏を経て、提示部ではフーガのようにテーマが絡み合い、確保される。

経過句ののち第2主題に移るが、主調が短調の場合、第2主題は通常平行調(ニ短調に対してはヘ長調)をとるところ、ここではハ長調で現れる。また、1小節を1拍として考えると、提示部では4拍子、展開部では3拍子でテーマが扱われる。

展開部ではティンパニが活躍する。このことから、この楽章はしばしば「ティンパニ協奏曲」と呼ばれることがある。ティンパニは通常、主調のニ短調に対してDとAに調律するところを、ここではFのオクターヴに調律されているのが独特である(ベートーヴェンは、既に第8番の終楽章(ヘ長調)で、Fのオクターブに調律したティンパニを使っている)。オクターブの主動機を全楽器とティンパニが連打するところでは、非常に派手なマレット(ばち)捌きを見せる奏者もいる。

中間部の旋律は、歓喜の主題に似ている。速度は更に速められてプレスト。オーボエによる主題提示の後、弦楽器群のフーガ風旋律を経てホルンが同じ主題を提示する。フルートを除く木管楽器群の主題提示の後、今度は全合奏で主題を奏する。

第3楽章

Adagio molto e cantabile 変ロ長調 4/4拍子 - Andante moderato ニ長調 3/4拍子 - Tempo I 変ロ長調 4/4拍子 - Andante moderato ト長調 3/4拍子 - Tempo I 変ホ長調 4/4拍子 - Stesso tempo 変ロ長調 12/8拍子

2つの主題が交互に現れる変奏曲の形式と見るのが一般的であるが、一種のロンド形式、また一種の展開部を欠くソナタ形式と見ることもできる。

A B(ニ長調) A第I変奏 B(ト長調) A第II変奏(変ホ長調) A第III変奏 コーダ
第1主題 第2主題 第1主題 第2主題 コーダ
提示部 再現部

瞑想的な緩徐楽章である。4番ホルンの独奏は、当時のナチュラルホルンでは微妙なゲシュトプフト奏法を駆使しなければ演奏することができなかった(ちょうど作曲当時はバルブ付きの楽器が出回り始めた頃だったので、この独奏はバルブ付きホルンで演奏することを前提にしていたという説もある)。これは当時ホルン奏者のみならず、指揮者なども大変気を遣った難しいパッセージであったことで有名。この楽章の形式は後世のブルックナーのアダージョ楽章に大きな影響を与えた。そのほかにこの楽章と似ているのはメンデルスゾーンの交響曲第3番の第3楽章やブラームスセレナード第1番の第3楽章、ドヴォルザーク交響曲第6番の第2楽章などがある。

第4楽章

管弦楽が前の3つの楽章を回想するのをレチタティーヴォが否定して歓喜の歌が提示し、ついで声楽が導入されて大合唱に至るという構成。変奏曲の一種と見るのが一般的であるが、有節歌曲形式の要素もあり、展開部を欠くソナタ形式という見方も可能である("Freude, schöner Götterfunken"が第1主題、"Ihr, stürzt nieder"が第2主題、Allegro energico, sempre ben marcatoが再現部)

Presto / Recitativo ニ短調 3/4拍子
第1楽章の葛藤、第2楽章の諧謔、そして第3楽章の瞑想に続いて、管楽器が強烈な不協和音を奏でて、終楽章が始る。しかし、すぐさま低弦(チェロとコントラバス)のレチタティーヴォがこれに答える。その後再び、管楽器が冒頭の音楽を奏でるが、再度低弦が答える。
Allegro ma non troppo ニ短調 2/4拍子
管弦楽が第1楽章を回想する。しかし、再び低弦のレチタティーヴォがこれに答える。
Vivace ニ短調 3/4拍子
今度は第2楽章が回想される。しかし、再度低弦のレチタティーヴォに中断される。
Adagio cantabile 変ロ長調 4/4拍子
第3楽章を管楽器が回想するが、これも低弦のレチタティーヴォに中断される。
Allegro assai ニ長調 4/4拍子
管楽器が、この交響曲でそれまでに断片的に姿を現した動機を演奏し、この動機を基に、低弦が静かに第1主題(「歓喜」の主題)を演奏しはじめる。すると、ヴィオラがそれに続き、ファゴットとコントラバスの対旋律がそれを支える。さらに、歓喜の主題はヴァイオリンに渡され、四声の対位法によって豊かなハーモニーを織り成す。最後に管楽器に旋律が渡され、全管弦楽で輝かしく歌い上げられる。
Presto / Recitativo ニ短調 3/4拍子
"O Freunde"
再び冒頭部の厳しい不協和音が、今度は管弦楽の全奏で演奏される。このとき独唱者と合唱団が一斉に起立するが、声楽陣が楽章の合間に入場した場合、合唱は入場時から起立して待機している場合が多い。バリトン独唱が低弦のレチタティーヴォと同じ旋律のレチタティーヴォで"O Freunde, nicht diese Töne!"(「おお友よ、このような音ではない!」)と歌う。ここで初めて声楽が導入され、冒頭から繰り返された低弦のレチタティーヴォの意味が、第1〜第3楽章までの音楽の否定であったことが明らかとなる。歓喜の主題に続き、合唱が入る。
今日の出版譜ではバリトンの歌い出しには「ラ→ミ」の跳躍に加え「ラ→ド♯」が記されているが、レチタティーヴォ後半部の高いファ#を出せない初演ソリストのために変更された代替パートで稀にしか歌われない。(このメロディーを選んだために音程が悪いと酷評されている大歌手もいる)初演ではまた細かい上下(メリスマ)部分のカットも検討されたようである。最後期筆写スコアには他にも代替案が残っているが、出版譜には反映されなかった。
Allegro assai ニ長調 4/4拍子
"Freude, schöner Götterfunken"
Freude!の掛け声をバリトン独唱と合唱のバス(テノールも一緒に歌われることもある)が掛け合い、バリトン独唱が"Freude, schöner Götterfunken"「歓喜」の歌を歌い、それに合唱が続く。独唱4人、合唱が交互に「歓喜」の主題を変奏する。
Alla marcia Allegro assai vivace 変ロ長調 6/8拍子
"Froh, wie seine Sonnen"
行進曲である。それまで沈黙を守っていた打楽器群が弱音で鳴り始め次第に音量を増し、その上を管楽器が「歓喜」の主題を変奏する。続いて、テノール独唱が「歓喜」の主題の変奏の旋律で"Froh, wie seine Sonnen"「神の計画」を歌い、それに男声三部合唱(第1テノール・第2テノール・バス)、続き管弦楽の伴奏が力強く重ね入ってきてひとつの頂点を作る。
シンバルやトライアングルといったトルコ起源の打楽器が使われているためこの部分を「トルコ行進曲」と呼ぶ事があるが、拍子も装飾の付け方も(新しい研究では恐らくテンポも)本来のトルコ音楽とはかけ離れている。『第九』の30年前にベートーヴェンの師の一人であったヨーゼフ・ハイドン交響曲第100番『軍隊』でこれらトルコ起源の打楽器を使用しており、当時の流行が伺えるものの、時代を下るにつれ欧州各国の軍楽隊でシンバルやトライアングルは常備されるようになっていた。ベートーヴェンの後の世代となるロッシーニなどはもはやシンバルもトライアングルも軍隊と無関係な音楽で導入している。
高らかな男声合唱の余勢を受けて久しぶり、かつこの曲の短いコーダを除けば最後の、管弦楽のみによるスケルツォ風のフガートの長い間奏が力強く奏される。それが一度静かになったあと、全合唱が「歓喜」の主題と最初の歌詞を総括的に歌う。ここがいわゆる「第九の合唱」として有名な箇所である。
Andante maestoso ト長調 3/2拍子
"Seid umschlungen, Millionen!"
「抱擁」の主題が提示される。
Adagio ma non troppo, ma divoto 変ロ長調 3/2拍子
"Ihr, stürzt nieder"
Allegro energico, sempre ben marcato ニ長調 6/4拍子
"Freude, schöner Götterfunken" / "Seid umschlungen, Millionen!"
「歓喜」と「抱擁」の主題による二重フーガである。
Allegro ma non tanto ニ長調 2/2拍子
"Freude, Tochter aus Elysium!"
久しぶりに独唱4人が歌う部分が登場する。4人が歌っているところに合唱が入っていき、しばらく歌った後再び四重唱に戻る。各独唱者が順に(ソプラノ→アルト・テノール→バリトン)3連符や16分音符で細かく動いていく。これ以降独唱の部分はない。
Prestissimo ニ長調 2/2拍子
"Seid umschlungen, Millionen!"
第4楽章のクライマックスで、最もテンポが速い。自筆スコアは851小節にPrestissimoではなくPrestoを置いており、ベーレンライター版が採用した。916小節から3/4拍子で4小節間Maestosoとなる。
歌詞 ソナタ形式としてとらえた場合
叙唱
第1・第2・第3楽章の回想と新しい主題の着想
第1主題 提示部第1主題
第1主題の変奏I II III
叙唱
第1主題の変奏IV V VI VII VIII 1番、2番、3番、4番、1番
第2主題a 5番 第2主題
第2主題b 6番
第1主題と第2主題aの対位(変奏IX) 1番と5番 再現部第1主題
第2主題b 6番 第2主題
第1主題の変奏X 1番 コーダ
第1主題と第2主題aによる変奏(XI) 1番と5番
コーダ

この最終楽章に合唱が入る形式は後にメンデルスゾーン、リストマーラーショスタコーヴィチなどが取り入れている。

歓喜の歌

テンプレート:Main フリードリヒ・フォン・シラーフリーメイソンリーの理念を書いた[13]詩作品『自由賛歌』(Hymne à la liberté 1785年)がフランス革命の直後『ラ・マルセイエーズ』のメロディーでドイツの学生に歌われていた[14]。そこで詩を書き直した『歓喜に寄す』(An die Freude 初稿1785年、改稿1803年)にしたところ、これをベートーヴェンが歌詞として1822年から1824年に書き直したものである。

「歓喜のメロディー」は、交響曲第9番以前の作品である1808年の『合唱幻想曲』作品80と、1810年ゲーテの詩による歌曲『絵の描かれたリボンで Mit einem gemalten Band』作品83-3においてその原型が見られる。

歌詞(ドイツ語原詞・日本語訳)

テンプレート:Col

版の問題

この作品は、その斬新な作風から解釈やオーケストレーションについて多くの問題を含んでおり、19世紀後半のワーグナーマーラーワインガルトナー[15]といった名指揮者・作曲家によるアレンジが慣例化している他、ストコフスキー近衛秀麿トスカニーニなども独自のアレンジを施しており、幾つかはCDなどの録音で検証することが可能である。それらは演奏実践に有益な示唆を含んでいるが、同時に作曲当時には存在していなかった楽器法を取り入れた結果、曲本来の姿を伝える上では障害ともなっている。

また自筆スコアの他にスコア・パート譜から修正チェック用のメモ、テンポは会話帳の1ページに甥のカールによって記され、出版社への修正依頼が記された書簡に至るまで数多くの出版/筆写史料が残っており、細かな違いが無数にあるため食い違いが作曲者の意図なのか写し間違いなのか決定しにくい点が問題となってきた。

ミサ・ソレムニス』という更なる大曲と並行して作られ、出版やウィーン以外の国でも初演される事が決まっていたという前提があったが、長年ベートーヴェンの筆跡判読を行なっていた筆写作業の統括者ヴェンツェル・シュレンマーが1823年に亡くなり作業は停滞する。後継の写譜師達からは仕事を断る者、途中放棄する者が出たほどである。自筆スコアが書き上がった後も初演に向けてベートーヴェンは細部の改訂を執拗に行なった。自筆スコアとは別にスコア+パート譜が1825年までに3種類作られた。膨大な譜面の校正も困難で、ベートーヴェンも誤写を見過ごしてしまい、体調不良から校正を第三者に委ねようと依頼して断られるなど、混乱は初版第1刷発行後も続いた。
このような状況で1826年に出版された初版スコアは、その版下と比べて食い違いがおびただしい。修正刷りのチェックなど校正がほとんど行われなかったためとみられる。1864年に出たブライトコプフ・ウント・ヘルテル社(ドイツ)の旧全集版は自筆スコア、筆写史料、初版に基づいて作成されているが、テンポの問題は解決されず、歌詞の誤り、写譜師の誤写や初版のミス、ベートーヴェンの改訂前の形を採用するなど問題が多く、さらに元の資料に無い同社独自の改変も見られる[16]。この改訂の実態は校訂報告が発表されなかったので長年この旧全集版こそ決定版と認識されて来たのである。

ベートーヴェンが死の直前にシントラーに贈った自筆スコアはシントラーの死後ベルリン国立図書館に収められたが、国立図書館は戦後東ベルリンに属したため容易に研究に用いる事が出来ず「行方不明」とも言われていた。1924年に出版されたファクシミリ(写真版)を参照して修正を加える岩城宏之クレンペラーなどの例も有った[17]のだが、旧全集版に慣れた考え方からすると自筆スコアに残る音形は奇異に思われる物も多く、なかなか全面的には受け容れられて来なかった。

20世紀末になると、東西ドイツの統合とソ連の崩壊に伴い行方不明になっていた資料が発見され、それらの素性も明らかにされて来た。『第九』に関しては残っているだけで20点もの原典資料が、ヨーロッパからアメリカの各地に散らばっていたのである。大部分がベルリンにある自筆スコアも数ページがパリの国立図書館やボンのベートーヴェン研究所にあるなど、所在は今も分散したままである。

イギリスの音楽学者・指揮者のジョナサン・デルマーがこうした新旧様々な資料に照らし合わせて問題点を究明し[18]、この研究は楽譜化され1996年ベーレンライター社から出版された。自筆スコアから誤まって伝えられてきた音が元通りに直されたため、ショッキングに聴こえる箇所がいくつもあり大いに話題を呼んだが、ベートーヴェンの書きたかった音形を追求した結果、旧全集同様どの資料にも無い音形が数多く表れている点もこの版の特徴である。[19]

21世紀に入って旧ベートーヴェン全集の出版社であるブライトコプフ社もペーター・ハウシルトの校訂で原典版を出版した。こちらは先行するデルマーの版と同じ資料に基づきながらも、資料ごとの優先度が違い、異なる見解がいくつも現れている[20]

いずれも国際協力と新しいベートーヴェン研究の成果、現場の指揮者や演奏家達の助言も入れて編集された批判校訂版である。

なお、かつて教育テレビ1986年秋に放送されたNHK趣味講座「第九をうたおう」では、こうしたオーケストレーション変更の意義を、全体の企画と指揮を担当した井上道義は主に初心者を対象にして分かりやすく説明していた。番組テキストでも、ベートーヴェンが採用したオーケストレーションの意図や、一般的な譜面の読み替え(例えば第2楽章276小節からのVn.1パートは、現在1オクターブ高く演奏されることが多い)も含め、オーケストレーションの参照譜例が幾つか収録されており、一般市民が入手できるものとして、当時貴重な資料であった。その際史料状況や編曲の実態について解説したのは金子建志であった。

前後の作品

使われた作品など

脚注

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参考文献

テンプレート:参照方法

  • 土田英三郎解説 ミニチュアスコア『ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調作品125』(音楽之友社, ISBN 4-276-91936-3)
  • ベートーヴェン研究 児島新/著(春秋社, ISBN 978-4-393-93174-5)
  • ベートーヴェン書簡選集 ベートーヴェン/著 小松雄一郎/訳・編(主に下巻, 音楽之友社)
  • Symphony No. 9 with final chorus 'An die Freude' D minor op. 125 Ed; J.DelMar(Barenreiter, BA9009)
2013年12月、楽譜輸入を代行するアカデミア・ミュージック(東京)がベーレンライター社と共同の企画として序文・解説の広瀬大介による日本語訳が付いたスタディスコア、ヴォーカルスコアを発売した。
  • Symphonie Nr. 9 d-moll op. 125 hrsg. von P. Hauschild(Breitkopf Urtext neuausgabe, PB5239)
  • 「第九」のすべて 武川寛海(日本放送出版協会 1977年出版)
  • こだわり派のための名曲徹底分析「マーラーの交響曲」 金子建志/著 (音楽之友社, 1994)
  • 同 ベートーヴェンの「第九」 金子建志/著 (音楽之友社, 1996)
  • ある指揮者の提言~ベートーヴェン交響曲の解釈 フェリックス・ワインガルトナー/著 糸賀英憲/訳(音楽之友社, 1965)

また原典版編集者が用いたものと同じ資料を、インターネットを通じて複数参照することが可能となっている。

  • ベルリン国立図書館収蔵の自筆スコアは、2001年の世界遺産(正確には『世界の記憶』。『世界記録遺産』とも)登録後はインターネット上に公開され、全ページの閲覧が出来る。
  • 初演にも使われた初版用筆写スコアはショット社が2003年に売却、ロンドン・サザビーズのオークションで190万ポンド(当時約310万米ドル=約3億6500万円)で匿名氏によって落札され、同社による音楽資料の落札価格最高値を更新した。こちらもジュリアード音楽院の手稿譜コレクションとしてインターネットを通じて閲覧出来る。
  • ベートーヴェン研究所もショット社の初版スコア/パート譜/ヴォーカルスコア(ピアノ伴奏が付いた声楽用簡易スコア)などを公開している。作品に関する書簡も解読された文面とともに公開されている。またビブリオテーク・ナショナル(フランス)所蔵のスケッチ断片画像にもリンクが置かれている。
  • ヨーロッパ諸国に分散している自筆資料はスコアの断片、自筆パート譜にいたるまでカラー・ファクシミリに集成され、2010年ベーレンライター社から刊行された。原典版校訂を担ったデルマーも序文を寄せている。(ISBN 978-3-7618-2169-5)

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:ベートーヴェンの交響曲
  1. ローデシアの概要
  2. 「第九」手書き楽譜を公開 NY、楽聖のコメントも、47NEWS、2003年5月10日。
  3. ドイツ語の原題ではこの曲は Sinfonie mit Schlusschor über Friedrich Schillers Ode "An die Freude" (フリードリヒ・シラーの頌歌『歓喜に寄す』に基づく終結合唱を伴う交響曲)とされており、ドイツ語では "Chor"(合唱)であり "Choral" ではない。日本でCDの表記などに一般的に用いられている "Choral" は英語であり、「合唱の」「合唱」という一般的な形容詞名詞だと考えられる。英語の "Choral (Chorale)" には「コラール」にあるように「賛歌」「賛美歌」という意味もあるのだが、ドイツ語においては "Chor" と "Choral" は明瞭に区別されているので、この交響曲のニックネームである "Choral" をコラールに結びつけるのは適当ではない。
  4. 初演を報じるイギリスの新聞では「ちょうど1時間と5分」という数字も伝えられている。会話帳にはこの次に「45分」という記述もあるが、あまりに短すぎるということで『第九』全曲の演奏時間とは見なされていない。また第1楽章のテンポも「4分音符=88」が採用されているが、自筆スコアでは「メルツェル=108から120」という数字が書かれており、実行すれば3分以上の短縮になる。これも不自然に速過ぎ、ベートーヴェンの勘違いではないかと考えられている。
  5. 1979年からCD の開発に当たったフィリップスソニーはディスクの直径を11.5cmとするか12cmとするかで何度も議論を重ねており、大きさを基準に考えるフィリップスに対し、記録時間を優先したいソニーで話し合いは難航していた。11.5cmであることの様々な利便性は明らかであったが、当時のソニー副社長でバリトン歌手の大賀典雄は、親交のあったカラヤンに、11.5cm(60分)と12cm(74分)との二つの規格で二者択一の段階に来ていることを話すと、カラヤンは「ベートーベンの交響曲第九番が1枚に収まったほうがいい」と提言した。カラヤンの「第9」は約63分~69分であり、ほとんどの指揮者による演奏時間は60分を超えているからだ。この「カラヤン裁定」を要因として、最終的に12cmに決定したというもの。
  6. 楽譜を複数人で視唱するやり方は楽譜複製を筆写に拠っていた18世紀中は珍しくなかったようで、その様子を描いた画も残っている。これはバッハマタイ受難曲における「合唱は1パート1人ずつ」という学説の反証の一つともなっている。
  7. 捕虜作成の測量図「正確」 板東収容所跡調査まとめ - 徳島新聞2012年4月24日
  8. 『鳴門の第九』というブランド 広報なると 2011年7月号
  9. 黒柳徹子は父の黒柳守綱(新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の元コンサートマスター)から聞いた話として、学生合唱団を加えた演奏を行うことにより、合唱団員の家族などがチケットを購入することで年末の演奏会の入場者数を増やして、楽団員のもち代を稼ぐというアイディアだったと説明している。「TOKYO発 年末第九再発見-演奏年200回超 誕生を探る」 東京新聞 2007年12月25日朝刊、中日新聞東京本社。
  10. NHK プロジェクトX〜挑戦者たち〜 第127回 「第九への果てなき道」(群馬交響楽団 10月14日)
  11. トスカニーニとフルトヴェングラーの芸術性の違いを示す例として、音楽著述家のハンス・ケラーはドキュメンタリー「アート・オブ・コンダクティング」でトスカニーニ指揮の『第九』演奏会で客席に居たフルトヴェングラーが第1楽章冒頭の弦楽器による6連符刻みを聴くなり「時間刻み屋!(time beater)」と大声で野次を飛ばし退席したエピソードを示し、不明瞭に演奏されたフルトヴェングラー指揮の冒頭部分と比較している。
  12. 佐野之彦『N響80年全記録』文藝春秋、2007年
  13. テンプレート:Cite web
  14. テンプレート:Cite web
  15. 旋律線強化の目的で行われた各種編曲の実態は『ある指揮者の提言』で、マーラー版については『マーラーの交響曲』で詳しく紹介されている。長年マーラー自身の書き込みがある楽譜が使われて来たが、近年は校訂版もマーラーが編曲したベートーヴェンの交響曲3,5,7,9番や序曲「レオノーレ」2番、3番のJosef Weinberger版(David Pickett校訂、貸し譜のみ)が利用可能で、2006年クリスチャン・ヤルヴィ指揮ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団の演奏がSACD化された。
  16. 第1楽章81小節に行われた全集版独自の改変などはどの資料にも存在しない音形であるにも関わらず、本格的な原典版が演奏された時には衝撃をもって迎えられた。同じ改変が最新のハウシルト版でも分析検証の上ではあるが、採用されている。
  17. 有名なのが第1楽章300小節のティンパニとトランペット。自筆スコアでは16分音符だが筆写時の誤りで以降の版が全て8分音符になっている。第3楽章の旋律、第4楽章330小節のティンパニに付けられたデクレッシェンドの処理なども聴いて判りやすい。
  18. その研究を参考に音楽学者・指揮者の金子建志も演奏史を含めて自らの著作で言及している。この研究は実際に原典資料を演奏に用いるなどの実践に裏付けられたものである。
  19. この版の出版直後「ベーレンライター版使用」と明記した演奏・録音が流行したが、デルマー版は演奏者が違和感を拭えない箇所が随所にあると見なされ、実際には「新版の改訂を一部だけ採用し、大部分は旧来の楽譜のまま」という扱いだった。昨今では「ベーレンライター版使用」と銘打つ演奏会は鳴りを潜めている。デルマー版の知名度を大いに上げたのはアッバード指揮のベルリン・フィル盤(1996年)やデヴィッド・ジンマン指揮のチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団盤(1998年。いずれも旧全集版と新版の差異をまとめた訂正表を参照し新版刊行以前に演奏に用いた「試運転」の例)だが、これらは殆ど原典資料による改訂箇所ではなく指揮者独自の改変が「ベートーヴェンの楽譜に記されている」という誤った期待とともに広まっている。
  20. 例えば先述の第4楽章330小節について、デルマーは自筆スコアにはデクレッシェンド無し、残存する初演用弦楽器パート譜には全て、初演用のスコアではティンパニだけ、とまちまちであること、また諸説ある初演の合唱団人数を少なく見積もった上「ティンパニに合唱がかき消されないよう、その場で指示された処置ではないか」と考えてこの指示を削除したが、ハウシルトは最後発の筆写スコア(ベートーヴェン自身が校閲したプロイセン王への献呈譜。クルト・マズアらが参照している)に従い、合唱以外の全楽器にデクレッシェンドをつけている。この箇所を研究動機の一つとした金子建志は、生前の朝比奈隆にインタビューした際「噪音の多い」ティンパニはあまり大きく叩かせたくないという発言を得ており、またリストワーグナーによるピアノ編曲版も考慮した上で、ティンパニが低音域で「ラ」=和音の第3音を叩くことが聴感上アンバランスである、と旧全集版のティンパニのみのデクレッシェンドを評価し直している。(『レコード芸術』誌2007年10月号、p164-)
  21. ゴスペル風の「般若心経」 高台寺塔頭の住職が制作 つのださんが熱唱、京都新聞社、2000年1月11日。