歓喜の歌
『歓喜の歌』(かんきのうた、喜びの歌、歓びの歌とも。テンプレート:Lang-de-short / アン・ディー・フロイデ、テンプレート:Lang-en-short)は、ベートーヴェンの交響曲第9番の第4楽章で歌われ、演奏される第一主題のこと。
目次
歌詞
テンプレート:Side box テンプレート:External media テンプレート:See also 歌詞は、シラーの詩作品「自由賛歌」(独: Ode An die Freiheit[1]、仏: Hymne à la liberté[2] 1785年)がフランス革命の直後ラ・マルセイエーズのメロディーでドイツの学生に歌われていた[2]。そこで詩を書き直した「歓喜に寄せて」(An die Freude 1785年初稿、1803年一部改稿)にしたところ[1]、これをベートーヴェンが歌詞として1822年 - 1824年に引用書き直したもの。ベートーヴェンは1792年にこの詩の初稿に出会い、感動して曲を付けようとしているが、実際に第9交響曲として1824年に完成した時には、1803年改稿版の詩を用いている。
1785年のシラーの「自由」(Freiheit / フライハイト)の詩はフリーメイソンの理念を詩にしたものであり、ドレスデンのフリーメイソンの儀式のために書かれた[3][4]。
ベートーヴェンは生涯にわたってシラーの詩集を愛読したが、実際に交響曲第9番ニ短調『合唱付』作品125の第4楽章の歌詞に織り込むにあたって、3分の1ほどの長さに翻案している。冒頭にバリトン歌手が独唱で歌う“おお友よ、このような音ではなく…”は、ベートーヴェンが自分で考えたものであり、シラーの原詩にはない。 テンプレート:Clear
歌詞(ドイツ語原詞・日本語訳)
訳詞
日本語の訳詞で歌われることもあり、外部リンクにあるような独自の歌詞が付けられることもある。日本語訳で特に有名なものとしては、尾崎喜八が翻訳したものや、岩佐東一郎が翻訳したものが挙げられる。1980年代に入った頃から、アマチュアの合唱団が年末にベートーヴェンの第9を歌う“第9ブーム”が日本で定着したが、それに伴って「歓喜の歌」のドイツ語原詩を覚えるためのいろいろなアイデアが考案されている。有名なものとしては、1990年2月15日の朝日新聞に載った、《向島芸者達が練習に使った「歓喜の歌」のとらの巻》があるが、本来の発音からはかけ離れた面もあり、高いレベルの演奏を目指す人々からは笑い話のネタにされることもある。
作詞家の、なかにし礼は、1987年に日本語の「歓喜の歌・日本語版」を出版し、同年8月に桑名市民会館で初演されたが、その楽譜は現在も音楽雑誌ショパン社から出されており、各地で演奏されて好評を博している。最近では、2005年の愛・地球博で演奏された。
1985年に欧州連合が欧州連合賛歌(欧州の歌)として採用したことに伴い、ラテン語の歌詞が付けられている。
東欧革命
ベルリンの壁が崩壊した後チェコで革命が起き、1989年12月14日、首都のプラハで革命を祝うための演奏会がヴァーツラフ・ノイマン指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団によって行われ、ここで歌われた歓喜の歌が東欧革命のテーマ曲となった。演奏が終わると拍手が20分以上も鳴り続け、新しい大統領となったヴァーツラフ・ハヴェルはVサインを掲げ、共に革命の勝利を喜んだ。
ベルリンの壁崩壊
ベルリンの壁が崩壊した後、1989年12月25日にレナード・バーンスタイン指揮のコンサートが行われた。バイエルン放送交響楽団を母体に、東西ドイツとアメリカ、イギリス、フランス、ソ連(当時)の6ヶ国から有志を募って混成オーケストラを臨時編成し、日本人では当時ミュンヘン放送合唱団員だった、鳴門教育大学の音楽教授の頃安利秀が合唱団の中央で歌った。ベルリンでも伝統のあるコンサートホールであるシャウシュピールハウスで交響曲第9番を演奏して、東西ドイツの融和を祝った。この時は“Freude”(歓喜)を“Freiheit”(自由)に置き換えて歌ったことが大きな話題になった(再統一は翌年の1990年10月3日であるため、ここでは「融和を祝う」点が重要なポイントである)。
間もなく、ドイツ・グラモフォン社からこのクリスマス・コンサートのライブ録音がCDとレーザー・ディスク(LD)で発売された。バーンスタインはそれから1年もたたないうちに、1990年10月14日に急逝したが、このアメリカ人指揮者は本演奏会でドイツ語圏の人々にも忘れ難い印象を残した。
日本最初の演奏
日本ではじめて合唱つきで演奏したのは、1918年6月1日、第一次世界大戦中に中国の青島で日本軍の捕虜となり、徳島県板東町(現・鳴門市)の板東俘虜収容所に収容されたドイツ兵たちであった(当時青島はドイツの軍事根拠地であり、日本が第一次世界大戦に連合軍側で参戦すると、これを占領した)。ドイツ人捕虜たちは、収容所長の松江豊寿大佐の人道的扱いによって自由に音楽を楽しんでいた。このエピソードは『バルトの楽園』として2006年に出目昌伸により映画化された。 また、それ以前にもNHKの連続テレビ小説で取り扱われた。
長野オリンピック
1998年2月7日、長野オリンピックの開会式において小沢征爾指揮の下で世界の5大陸・6ヶ国・7か所から同時に歌われ、それに合わせた堀内元振付によるバレエの映像が世界中に中継された。歌われた場所は小沢征爾がタクトを振った長野県県民文化会館、中国・北京の紫禁城、オーストラリア・シドニーのオペラハウス、ドイツ・ベルリンのブランデンブルク門、黒人と白人の混成合唱団で歌われた南アフリカ共和国・喜望峰、アメリカニューヨークの国連本部、開会式が行われた長野オリンピックスタジアムである。
オーケストラによる演奏は長野県民文化会館で行われたが、合唱団がいる各地に向けて同時に演奏を配信するとオーケストラとの音ズレが起きてしまい、また合唱団の歌声も遅れて長野まで届いてしまうため、1番距離のある喜望峰を基準に遅れを補正された状態で中継された。
午前11時に始まった開会式では聖火が聖火台に点火されたあと、フィナーレとして歓喜の歌が歌われ、80人のダンサーによるバレエが展開された。曇り空の長野、気温がマイナスの北京、真夏のシドニー、真夜中のベルリンと、時刻や季節がバラバラの中同時に歌われた。また喜望峰では日の出と重なり、歌が進むにつれて一帯が明るくなっていく様子が映し出された。
その他
- この旋律は、1795年の「愛されない者の溜め息と愛の答え Seufzer eines Ungeliebten und Gegenliebe」WoO.118、1808年の「合唱幻想曲作品80」と、1810年の歌曲「絵の描かれたリボンで Mit einem gemalten Band」作品83-3にその原型が見られる。
- 一時期西ドイツの国歌であった。
- かつて南ローデシア(現ジンバブエ)の国歌だった。
- モーツァルトのオッフェルトリウム「ミゼリコルディアス・ドミニ」ニ短調K.222(205a)の中に似たフレーズが現れる。外部リンク
- シューベルトの交響曲第8番(旧第9番)ハ長調『ザ・グレイト』第4楽章にも似たフレーズが現れるが、これは引用だと考えられている。外部リンク
- ブラームス 交響曲第1番ハ短調の第4楽章の主部の主題との類似性は夙に指摘されており、現在ではブラームスのベートーヴェンへのオマージュ(敬意)の表れとの解釈がある。
- 1972年 - 遠藤賢司が独自に訳詞をつけてカバーする(アルバム『嘆きのウクレレ』収録)。後にBank Bandがこのバージョンをカバーし、アルバム『沿志奏逢』に収録される。
- 1990年(平成2年)12月13日 - 日蓮正宗宗務院は当時信徒団体であった創価学会に対し、創立70周年で歓喜の歌を原語(ドイツ語)で歌うことは、キリスト教を容認・礼讃することになるのでやめるように指導した。創価学会はそれに反発し、日蓮正宗からの創価学会離脱の一因となった。[5]
- 2002年3月9日までJR宇都宮線(東北線)の蓮田駅の発車メロディーに使用されたことがある。
注記
- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 日蓮正宗宗務院より創価学会宛ての第35回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね(平成2年12月13日)
参考
- 井上書房『第九の里ドイツ村』林啓介著
- 文春文庫『二つの山河』中村彰彦著