古事記

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真福寺収蔵の国宝・『古事記』。信瑜の弟子の賢瑜による写本

テンプレート:Sidebar with heading backgrounds 古事記(こじき、ふることふみ)は、日本最古の歴史書である[1]。その序によれば、712年和銅5年)にテンプレート:ルビ太安万侶とも表記)が編纂し、元明天皇に献上された。

概要

『古事記』の原本は現存せず、幾つかの写本が伝わる。成立年代は、写本の序に記された年月日(和銅5年正月28日ユリウス暦712年3月9日)により、8世紀初めに措定される。内容は、神代におけるテンプレート:ルビの始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話伝説などを含む)が紀伝体で記載される。また、数多くの歌謡を含む。なお、『古事記』は「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書である[2]

『古事記』は『日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、序文で天武天皇が、 テンプレート:Quotation と詔したと記載があるため、勅撰とも考えられる。天皇祭神を結びつけ、天皇の権力の正統性を証明しようとしたと見ることも出来る。史料の上では、序文に書かれた成立過程や皇室の関与に不明な点や矛盾点が多いとする見解もあり、また『日本書紀』における『続日本紀』のような『古事記』の存在を直接証明する物証もないため、古事記偽書説(後述)も唱えられている。また、最古の写本南北朝時代のもの(#写本を参照)であるため、それ以前の姿をどこまでとどめているか疑義を抱く改竄説もあるが、これら偽書説・改竄説には考古学的な反論がある(#偽書説も参照)。

『古事記』は、歴史書であるが文学的な価値も非常に高く評価され、神典の1つとして、神道を中心に日本の宗教文化・精神文化に多大な影響を与えている。古事記に現れる神々は、現在では多くの神社で祭神として祀られている[3]

記紀編纂の要因

乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。 天智天皇は白村江の戦いの敗北で唐と新羅連合に敗北し記紀編纂の余裕はなかった。そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に変わる古事記や日本書紀の編纂が天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。まずは稗田阿礼の記憶を元に古事記が編纂された。

成立

成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものである。一般的に「誦習」は「暗誦」することと考えられているが、荻原浅男(小学館日本古典文学全集)は「古記録を見ながら古語で節をつけ、繰り返し朗読する意に解すべきであろう」という。

書名

『古事記』の書名は、もともと古い書物を示す一般名詞であり、正式名ではないといわれる。書名は安万侶が付けたのか、後人が付けたのか定かでない。読みは「フルコトブミ」との説もあったが、現在は一般に音読みで「コジキ」と呼ばれる。

帝紀と旧辞

『古事記』は帝紀的部分と旧辞的部分とから成る。

『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。これらは朝廷のテンプレート:ルビなどが暗誦して天皇の大葬のテンプレート:ルビの祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。

『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。

テンプレート:要出典範囲

表記

本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。歌謡はすべて一字一音表記とされており、本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮名遣[4]の研究対象となっている。また一字一音表記のうち、一部の神の名などの右傍に と、中国の文書にみられる漢語の声調である四声のうち上声と去声と同じ文字を配している[5]

歌謡

『古事記』は物語中心だが、多くの歌謡が挿入されている。これらの歌謡の多くは、民謡や俗謡であったものが、物語に合わせて挿入された可能性が高い。

 有名な歌として、須佐之男命櫛名田比売と結婚したときに歌い、和歌の始まりとされる「八雲たつ 八雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」や、倭建命が東征の帰途で故郷を想って歌った「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し うるわし」などがある。

構成

  1. 上つ巻(序・神話)
  2. 中つ巻(初代から十五代天皇まで)
  3. 下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)

の3巻より成っている。

写本

現存する『古事記』の写本は、主に「伊勢本系統」と「卜部本系統」に分かれる[6]

現存する『古事記』の写本で最古のものは、「伊勢本系統」の1371年(南朝:建徳2年、北朝:応安4年)から翌1372年(南朝:文中元年、北朝:応安5年)にかけて真福寺[7]の僧・賢瑜によって写された真福寺本古事記三帖(国宝)である。奥書によれば、祖本は上・下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本である。道果本(上巻の前半のみ。1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)写)、道祥本(上巻のみ。1424年(応永31年)写)、春瑜本(上巻のみ。1426年(応永33年)写)の道果本系3本は真福寺本に近く、ともに伊勢本系統をなす。

その他の写本はすべて卜部本系統に属し、祖本は卜部兼永自筆本(上中下3巻。室町後期写)である。

研究史

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本居宣長による『古事記傳』

『古事記』の研究は、近世以降、特に盛んとなった。江戸時代の本居宣長による全44巻の註釈書『古事記傳』は『古事記』研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。第二次世界大戦後は、倉野憲司武田祐吉西郷信綱西宮一民神野志隆光らによる研究や注釈書が発表された。特に倉野憲司による岩波文庫版は、初版(1963年(昭和38年))刊行以来、重版の通算は約100万部に達している。20世紀後半になり、『古事記』の研究はそれまでの成立論から作品論へとシフトしている。成立論の代表としては津田左右吉石母田正があり、作品論の代表としては、吉井巌・西郷信綱・神野志隆光がいる。

偽書説

『古事記』には、近世以降、偽書の疑いを持つ者があった。賀茂真淵(宣長宛書翰)や沼田順義・中沢見明・筏勲・松本雅明・大和岩雄・大島隼人らは、『古事記』成立が公の史書に記載がないことなどへ疑問を提示し、偽書説を唱えている[8]

偽書説には主に二通りあり、序文のみが偽書とする説と、本文も偽書とする説に分かれる。以下に概要を記す。

  • 序文偽書説では『古事記』の序文(上表文)において語られる『古事記』の成立事情を証する外部の有力な証拠がないことなどから序文の正当性に疑義を指摘し、偽書の可能性を指摘している。
  • 本文偽書説では、『古事記』には『日本書紀』より新しい神話の内容が含まれているとして、より時代の下る平安時代初期ころの創作。

しかし、偽書説は、上代文学界・歴史学界には受け入れられていない。上代特殊仮名遣のなかでも、『万葉集』『日本書紀』ではすでに消失している2種類の「モ」の表記上の区別[9]が、『古事記』には残存するからで、このことは偽書説を否定する重要な論拠である。[10]。ただし序文には上代特殊仮名遣は一切使われていない。

なお、序文偽書説の論拠の一つに、『古事記』以外の史書(『続日本紀』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌』など)では「太安麻呂」と書かれているのに、『古事記』序文のみ「太安萬侶」と異なる表記になっていることがあった。ところが、1979年(昭和54年)1月に奈良市此瀬(このせ)町より太安万侶の墓誌銘が出土し、そこに テンプレート:Quotationとあったことが判明し、漢字表記の異同という論拠に関しては否定されることとなった。

また、平城京跡から出土した、太安万侶の墓誌銘を含む木簡の解析により、古事記成立当時には、すでに古事記で使用される書き言葉は一般的に使用されていたと判明した。それにより序文中の「然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。」は序文の作成者が当時の日本語の使用状況を知らずに想像で書いたのではないかと指摘されている。

本文目次


上巻


中巻


下巻

内容

序を併せたり

撰者である太朝臣安万侶が天子に奏上する形式に倣った序文である。

序第1段 稽古照今(古を稽へて、今に照らす)
ここでは『古事記』の内容の要点を天地開闢から挙げ、さらに、それぞれの御代の事跡は異なるが政治についての記載にはほぼ誤りはなかったと述べている。
臣安萬侶言す。それ、混元既に凝りて、気象未だテンプレート:ルビれず。名もなく為も無し。誰れかその形を知らむ。

テンプレート:Quotation

テンプレート:ルビテンプレート:ルビに、文質同じくあらずと雖も、古をテンプレート:ルビへて風猷を既に頽れたるにテンプレート:ルビし、今に照らして典教を絶えむとするに補はずといふことなし。

テンプレート:Quotation

序第2段 『古事記』撰録の発端
ここでは、まず、天武天皇の事跡を厳かに述べた後、天武天皇が稗田阿禮に勅語して、『帝記』・『旧辞』を暗誦させたが、結局文章に残せなかった経緯を記している。
…ここに天皇(天武)テンプレート:ルビりたまひしく「テンプレート:ルビ聞きたまへらく、『諸家のもたる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ。』といへり。今の時に当たりて、其のテンプレート:ルビを改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削りテンプレート:ルビを定めて、テンプレート:ルビテンプレート:ルビへむとテンプレート:ルビふ。」とのりたまひき。時にテンプレート:ルビありき。テンプレート:ルビテンプレート:ルビ、名はテンプレート:ルビ、年はこれ二八。人と為り聡明にして、耳にテンプレート:ルビれば口にテンプレート:ルビみ、耳にテンプレート:ルビるれば心にテンプレート:ルビしき。すなはち、阿禮に勅語してテンプレート:ルビ及びテンプレート:ルビを誦み習はしめたまひき。

テンプレート:Quotation

序第3段 『古事記』の成立
ここでは、元明天皇の世となって、詔により安万侶が稗田阿禮の暗誦を撰録した経緯を述べ、最後に内容の区分について記している。経緯では言葉を文字に置き換えるのに非常に苦労した旨が具体的に記されている。
…ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬りテンプレート:ルビれるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安麻呂に詔りして、阿禮阿禮の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、謹みてテンプレート:ルビテンプレート:ルビに、子細に採りひろひぬ。然れども、上古の時、テンプレート:ルビ並びにテンプレート:ルビにして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。

テンプレート:Quotation

…大抵記す所は、天地開闢より始めて、テンプレート:ルビの御世にテンプレート:ルビる。故、テンプレート:ルビ以下、テンプレート:ルビ以前を上巻となし、テンプレート:ルビ以下、テンプレート:ルビ以前を中巻となし、テンプレート:ルビ以下、テンプレート:ルビ以前を下巻となし、併せて三巻を録して、謹みて献上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

テンプレート:Quotation

上巻(かみつまき)

天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が語られ、天孫降臨を経てイワレヒコ(神武天皇の誕生までを記す。いわゆる「日本神話」である。

天地開闢ののち七代のが交代し、その最後にイザナギイザナミが生まれた。二神は高天原(天)から葦原中津国(地上世界)に降り、結婚して結ばれ、その子として、大八島国を産み、ついで、山の神、海の神などさまざまな神を産んだ。こうした国産みの途中、イザナミは火の神を産んだため、火傷を負い死んでしまい、出雲と伯耆の堺の比婆山(現;島根県安来市)に葬られた。イザナギはイザナミを恋しがり、黄泉の国(死者の世界)を訪れ連れ戻そうとするが、連れ戻せず、国産みは未完成のまま終わる。

イザナギは黄泉の国の穢れを落とすため、を行い、左目を洗ったときにテンプレート:ルビ、右目を洗ったときにテンプレート:ルビ、鼻を洗ったときにテンプレート:ルビを産む。その後、最初に生んだ淡路島の幽宮で過ごした。これら三神は三貴子と呼ばれ、神々の中で重要な位置をしめるのだが、月読命に関してはその誕生後の記述が一切ない。スサノオノミコトは乱暴者なため、姉のアマテラスに反逆を疑われる。そこで、アマテラスとスサノオノミコトは心の潔白を調べる誓約を行う。その結果、スサノオノミコトは潔白を証明するが、調子に乗って暴れてしまい、そのためアマテラスは天岩屋戸に閉じこもるが、集まった諸神の知恵で外に出すことに成功する。

一方、スサノオノミコトは神々の審判により高天原を追放され、葦原中津国の出雲国に下る。ここまでは乱暴なだけだったスサノオノミコトの様相は変化し、英雄的なものとなってヤマタノオロチ退治を行なう。次に、スサノオノミコトの子孫である大国主神が登場する。大国主の稲羽の素兎(因幡の白兎)や求婚と受難の話が続き(大国主の神話)、スクナヒコナとともに国作りを進めたことが記される。国土が整うと国譲りの神話に移る。天照大御神は葦原中津国の統治権を天孫に委譲することを要求し、大国主と子供の事代主神はそれを受諾する。子の建御名方神は、承諾せず抵抗するが、後に受諾する。葦原中津国の統治権を得ると高天原の神々は天孫ニニギを日向の高千穂降臨させる。次に、ニニギの子供の山幸彦と海幸彦の説話となり、浦島太郎のルーツともいわれる海神の宮殿の訪問や異族の服属の由来などが語られる。山幸彦は海神の娘と結婚し、孫の神武天皇が誕生して上巻は終わる。

上巻に出てくる主な神々

中巻(なかつまき)

初代神武天皇から15代応神天皇までを記す。神武東征に始まり、ヤマトタケル神功皇后について記す。2代から9代までは欠史八代と呼ばれ、系譜などの記述のみで、説話などは記載がない。そのため、この八代は後世に追加された架空の存在であるという説があるが、実在説も存在する。なお、「神武天皇」などの各天皇の漢風諡号は『古事記』編纂当時は定められていないため、国風諡号のみで記されている。

中巻に出てくる主な人物

1代神武天皇
テンプレート:ルビ、畝火のテンプレート:ルビに坐してまして、天の下テンプレート:ルビらしめしき(奈良県畝火山の東南の地)。テンプレート:ルビで没。テンプレート:ルビは畝傍山の北の方のテンプレート:ルビの尾の上にあり(奈良県橿原市)。
2代綏靖天皇
テンプレート:ルビ、葛城の高岡宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県御所市)。テンプレート:ルビで没。御陵はテンプレート:ルビ岡にあり(奈良県橿原市)。
3代安寧天皇
テンプレート:ルビ、片鹽の浮穴宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県大和高田市)。テンプレート:ルビで没。御陵は畝傍山のテンプレート:ルビにあり(奈良県橿原市)。
4代懿徳天皇
テンプレート:ルビ、軽の境岡宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県橿原市)。テンプレート:ルビで没。御陵は畝傍山のテンプレート:ルビ谷の上にあり(奈良県橿原市)。
5代孝昭天皇
テンプレート:ルビ、葛城の掖上宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県御所市)。テンプレート:ルビで没。御陵はテンプレート:ルビテンプレート:ルビ山の上にあり(奈良県御所市)。
6代孝安天皇
テンプレート:ルビ、葛城の室の秋津島に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県御所市)。テンプレート:ルビで没。御陵はテンプレート:ルビの岡の上にあり(奈良県御所市)。
7代孝霊天皇
テンプレート:ルビ、黒田の庵戸宮(廬戸宮)に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県田原本町)。テンプレート:ルビで没。御陵は片岡の馬坂の上にあり(奈良県王寺町)。
8代孝元天皇
テンプレート:ルビ、軽の境原宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県橿原市)。テンプレート:ルビで没。御陵は剣池の中の岡の上にあり(奈良県橿原市)。
9代開化天皇
テンプレート:ルビ、春日のテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめしき(奈良市)。テンプレート:ルビで没。御陵はテンプレート:ルビ河の坂の上にあり(奈良県奈良市)。
10代崇神天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県桜井市)。テンプレート:ルビで没。戊寅の十二月に崩りましき。御陵はテンプレート:ルビの道のテンプレート:ルビの岡の上にあり(奈良県天理市)。
11代垂仁天皇
テンプレート:ルビ、師木の玉垣宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県桜井市)。テンプレート:ルビで没。御陵は菅原の御立野の中にあり(奈良市)。
12代景行天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビの日代宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県桜井市)。テンプレート:ルビで没。御陵は山邊の道の上にあり(奈良県天理市)。
テンプレート:ルビ
テンプレート:ルビ(三重県鈴鹿郡)に至りまし、歌ひテンプレート:ルビふる即ち崩りましき。御陵を作る。ここにテンプレート:ルビに化りて、天に翔りて濱に向きて飛び行でましき。………河内国のテンプレート:ルビに留まりましき。故、其地に御陵を作りて鎮まり坐さしめき。すなわちその御陵を号けて、白鳥の御陵と謂う。
13代成務天皇
テンプレート:ルビ、志賀のテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめしき(滋賀県大津市)。テンプレート:ルビで没。乙卯の年の三月十五日に崩りましき。御陵は沙紀のテンプレート:ルビにあり(奈良県奈良市)。
14代仲哀天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビ(下関市長府)、また筑紫のテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめしき(福岡市香椎)。テンプレート:ルビで没。壬戌の年の六月十一日に崩りましき。御陵は河内の恵賀のテンプレート:ルビにあり(大阪府南河内郡)。
神功皇后
テンプレート:ルビ。皇后は御年一百歳にして崩りましき。狭城の楯列の稜に葬りまつりき(奈良県奈良市)。
15代応神天皇
テンプレート:ルビ、軽島のテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県橿原市)。テンプレート:ルビで没。甲午の年の九月九日に崩りましき。御陵はテンプレート:ルビの恵賀のテンプレート:ルビの岡にあり(大阪府南河内郡)。

下巻(しもつまき)

仁賢天皇から推古天皇までは欠史十代ともいわれ、欠史八代と同じく系譜などの記述ので具体的な著述が少ない。これは、当時においては時代が近く自明のことなので書かれなかったなどといわれる。

下巻に出てくる主な人物

16代仁徳天皇
テンプレート:ルビ、難波の高津宮にテンプレート:ルビしてまして、天の下テンプレート:ルビらしめしき(大阪市)。テンプレート:ルビで没。丁卯の年の八月十五日に崩りましき。御陵はテンプレート:ルビテンプレート:ルビにあり(大阪府堺市)。
17代履中天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビの若櫻宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県桜井市)。テンプレート:ルビで没。壬申の年の正月三日に崩りましき。御陵は毛受にあり(大阪府堺市)。
18代反正天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビの柴垣宮に坐してまして、天の下治らしめしき(大阪府南河内郡)。テンプレート:ルビで没。丁丑の年の七月崩りましき。御陵はテンプレート:ルビにあり。
19代允恭天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県明日香村)。テンプレート:ルビで没。甲午の年の正月十五日に崩りましき。御陵は河内の恵賀のテンプレート:ルビにあり(大阪府南河内郡)。
20代安康天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県天理市)。テンプレート:ルビで没。御陵は菅原の伏見の岡にあり(奈良市)。
21代雄略天皇
テンプレート:ルビ、[[泊瀬朝倉宮|テンプレート:ルビの朝倉宮]]に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県桜井市)。テンプレート:ルビで没。己巳の年の八月九日に崩りましき。御陵は河内の多治比のテンプレート:ルビにあり(大阪府南河内郡)。
22代清寧天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県橿原市)。没年、御年の記載なし。
23代顕宗天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめすこと八歳なりき(大阪府南河内郡)。テンプレート:ルビで没。御陵は片岡のテンプレート:ルビの岡の上にあり(奈良県香芝市)。
24代仁賢天皇
テンプレート:ルビ、石上の廣高宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県天理市)。没年、御年の記載なし。
25代武烈天皇
テンプレート:ルビ、長谷のテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめすこと八歳なりき(奈良県桜井市)。没年記載なし。御陵は片岡の石坏のおかにあり。
26代継体天皇
テンプレート:ルビ、伊波禮のテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県桜井市)。テンプレート:ルビ丁未の年の四月九日に崩りましき。御陵は三島の藍の御陵なり(大阪府三島郡)。
27代安閑天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県橿原市)。乙卯の年の三月十三に崩りましき。御陵は河内のテンプレート:ルビの高屋村にあり(大阪府南河内郡)。
28代宣化天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県明日香村)。没年、御年の記載なし。
29代欽明天皇
テンプレート:ルビ、師木島の大宮に坐してまして、天の下治らしめしき(奈良県桜井市)。没年、御年の記載なし。
30代敏達天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめすこと、十四歳なりき(奈良県桜井市)。甲辰の年の四月六日に崩りましき。御陵は川内のテンプレート:ルビにあり(大阪府南河内郡)。
31代用明天皇
テンプレート:ルビ、池邊宮に坐してまして、天の下治らしめすこと、三歳なりき(奈良県桜井市)。丁未の年の四月十五日に崩りましき。御陵はテンプレート:ルビテンプレート:ルビにありしを、後に科長の中の稜に遷しき(大阪府南河内郡)。
32代崇峻天皇
テンプレート:ルビ、倉橋のテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめおと、四歳なりき(奈良県桜井市)。壬子の年の十一月十三日に崩りましき。御陵は倉椅の岡の上にあり(奈良県桜井市)。
33代推古天皇
テンプレート:ルビテンプレート:ルビに坐してまして、天の下治らしめすこと、三十七歳なりき(奈良県明日香村)。壬子の年の十一月十三日に崩りましき。御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長の大き稜に遷しき(大阪府南河内郡)。

全文

全文テキスト及び全文検索

  • 本居豊頼, 井上頼国, 上田万年校訂『校訂古事記』 皇典講究所, 1910年 注記:白文。荒山慶一入力[11]
  • 本居宣長訓『訂正古訓古事記』 注記:白文、「訂正古訓古事記」が底本で誤り多し、(FireFoxを推奨). 岡島昭浩入力[12]
  • "Ko-ji-ki" = 古事記, or "Records of ancient matters" / translated by Basil Hall Chamberlain. 1883. Wikisource [13]
  • 太安萬侶『古事記』(未完成)維基文庫[14]

書影

刊行本

注釈本

朗読

  • 新潮CD 完全原文朗読版『古事記』(2006年、新潮社 ISBN 9784108301788) - 全3巻9枚組(朗読:8枚、談話解説:1枚)、朗読:中村吉右衛門、談話解説:河合隼雄

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister テンプレート:Sister

外部リンク

、皇典講究所

テンプレート:日本神話
  1. 山口佳紀神野志隆光校訂・訳 『日本の古典をよむ(1) 古事記』 小学館2007年(平成19年)、3頁。ISBN 978-4-09-362171-7。
  2. 「高天原」は、『古事記』のほかでは、神道において唱される「祝詞」でも多用される。
  3. 『古事記』『日本書紀』『万葉集』に祭神の記載がある神社は、伊勢神宮住吉神社などに限られている。10世紀に編まれた『延喜式神名帳』においても、一部は社名や鎮座地などから主祭神を類推できるが、多くは地名社のみで祭神は不明である。詳細は祭神を参照。
  4. 上代特殊仮名遣とは上代の文献に見られる万葉仮名の特殊な使い分けのことである。本来、仮名遣とは現代仮名遣の「お」と「を」のように同音のものを異なる文字で書き分けることであるが、上代特殊仮名遣の場合は音韻の違いを表しているので特殊仮名遣と呼んでいる。通説によれば、上代日本語は、キヒミ・ケヘメ・コソトノモヨロの13音節とこれらの濁音節がそれぞれ甲乙の二類に書き分けられている。ただし、「モ」の書き分けは古事記のみにみられるものである。
  5. 古事記序文講義 山田孝雄述、編志波彦神社・鹽竈神社
  6. 青木周平 「古事記の諸本」『古代説話 記紀編』 桜楓社1988年(昭和63年)4月20日、pp. 14-19。ISBN 4273022451
  7. もともと、古事記を所蔵していたのは真福寺(岐阜県羽鳥市)であったが、徳川家康の命により、真福寺の一院である「宝生院」が名古屋城下に移転させられた際に、写本も同時に移転となった。これが現在の大須観音である。詳細は当該項目を参照。
  8. テンプレート:Cite journal
  9. 発音上の相違と言い換えても差し支えない。
  10. また、「偽書」とは著者や執筆時期などの来歴を偽った書物を指し、『古事記』の場合、その来歴の記載がある序文が偽りなら『古事記』すべてを偽書とみなすのに問題はない。もし序文がなければ、『万葉集』と同じく単に来歴不明の古書とされただろう。
  11. 校訂古事記(本居豊頼, 井上頼国, 上田万年校訂 : 荒山慶一入力)
  12. 古事記本文(日本文学等テキストファイル/岡島昭浩入力所収)
  13. Kojiki / Chamberlain (Wikisource)
  14. 維基文庫 : 古事記(未完成)
  15. 梵舜筆『古事記』上巻
  16. 梵舜筆『古事記』中巻
  17. 梵舜筆『古事記』下巻
  18. <本居宣長訓『古訓古事記』[1]
  19. 荷田春満訓点『古事記』上巻
  20. 荷田春満訓点『古事記』中巻
  21. 荷田春満訓点『古事記』下巻
  22. 『古事記』巻上
  23. 『古事記』巻中
  24. 『古事記』巻下
  25. 幸田成友校訂『古事記』