ノモンハン事件
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | ノモンハン事件 | |
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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 300px ソビエトのノモンハン作戦図 | |
戦争:日ソ国境紛争 | |
年月日:1939年5月11日から1939年9月16日
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場所:満蒙国境 | |
結果:ソビエト連邦の勝利[1] | |
交戦勢力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1889 テンプレート:MCK |
テンプレート:URS1923 25pxモンゴル人民共和国 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:Flagicon小松原道太郎 | テンプレート:Flagiconゲオルギー・ジューコフ |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 8月20日時点で「5万よりはるかに少ない数」[2]。累計出動人数約7万5千[3]
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8月20日時点で51,950[4] 装甲車両 約1000両 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 日本軍 戦死 8,440 戦傷 8,864 戦車 約30輌 航空機 約160機 |
ソ連軍 戦死 9,703 戦傷 15,952 戦車及び装甲車輌 約400輌 航空機 約360機 モンゴル軍 |
テンプレート:Tnavbar |
ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争で、1930年代に大日本帝国とソビエト連邦間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。
清朝が1734年(雍正十二年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中華民国の間で踏襲されてきた。しかし、1932年(昭和7年)に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について従来の境界から10-20キロほど南方に位置するハルハ河を境界と主張、以後この地は国境係争地となった。1939年(昭和14年)5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でモンゴル軍と満州国軍の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、大規模な戦闘に発展した。
目次
呼称
事件の呼称
大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国は、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の戦闘(テンプレート:Lang-ru)」と呼び、モンゴル人民共和国及び中国は「ハルハ河戦争(戦役)」と称している。ソ連・モンゴル側が冠している「ハルハ河」とは、戦場の中央部を流れる河川の名称である(ハルヒン・ゴル[5])。ほか、田中克彦はノモンハン戦争という呼称を使用している[6]。
ノモンハンという地名
この衝突に対して日本・満洲側が冠しているノモンハンは、モンゴル語では「ノムンハン」といい、「法の王」を意味する。
この名称は、清朝が1734年(雍正十二年)に外蒙古(イルデン・ジャサク旗・エルヘムセグ・ジャサク旗)と、内蒙古(新バルガ旗)との境界上に設置したオボー(祭礼場)の一つ「ノモンハン・ブルド・オボー」に由来する。このオボーは現在もモンゴル国のドルノド・アイマクと中国内モンゴル自治区北部のフルンブイル市との境界上に現存し、大興安嶺の西側モンゴル高原、フルンブイル市の中心都部ハイラル区の南方、ハルハ河東方にある。
また、この土地を牧場としたハルハ系集団のうちダヤン・ハーンの第七子ゲレンセジェの系統を引くテンプレート:仮リンクの左翼前旗の始祖ペンバの孫チョブドンが受けたチベット仏教の僧侶としての位階の呼称にも由来する。チョブドンの墓や、ハルハと新バルガとの境界に設置されたオボーのひとつなどにも、チョブドンの受けたこの「ノモンハン」の称号が冠せられている。
背景
北東アジアの国際情勢
1917年のロシア革命で共産主義の波及を恐れた日本はイギリス・フランス・イタリアとともにロシア内戦への干渉を決定、1918年にチェコ軍救出を名目にシベリア出兵を実施した。1922年の撤収後、1925年(大正14年)に日ソ基本条約が締結される。1920年代には日本とソ連は大陸方面では直接に勢力圏が接触する状態にはなかった。日本は租借地の関東州、ソ連は1924年に成立したモンゴル人民共和国を勢力圏に置いた。
両国の勢力圏の中間にある満州地域は、1920年代後半には中国の奉天派が支配する領域だった。満州には日ソ双方の鉄道利権が存在しており、中国国民党の北伐に降伏(易幟)した奉天派の張学良はソ連からの利権回収を試みたが、1929年(昭和4年)の中ソ紛争(中東路事件)で中華民国は敗れた。ソ連は同年に特別極東軍を極東方面に設置した。
満州国建国
日本の関東軍は1931年(昭和6年)に満州事変を起こし、翌年満州国が建国され勢力下に置いた。翌1932年の日満議定書で満州国防衛のため関東軍は満州全土に駐留するようになった。満州国軍は1935年時点で歩兵旅団26個と騎兵旅団7個の計7万人と称したが、練度や装備は良好ではなかった。ソ連は満州国を承認しなかったが、満州国内の権益を整理して撤退する方針を採った。北清鉄路を南満州鉄道の売却交渉が始まったが難航した。
ソ連・モンゴル軍事同盟
ソ連はモンゴルと1934年(昭和9年)11月に紳士協定で事実上の軍事同盟を結ぶ。1936年にはソ蒙相互援助議定書を交わし、ソ連軍がモンゴル領に常駐した。モンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され、1933年には騎兵師団4個と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車旅団1個を有していた[7]。
こうして日ソ両国の勢力圏が大陸で直接に接することになり、満州事変以後、日本とソ連は満州で対峙するようになり、初期には衝突の回数も少なく規模も小さかったが、次第に大規模化し、張鼓峰事件を経てノモンハン事件で頂点に達した[8]。
係争地と国境画定問題
モンゴル側は1734年以来外蒙古と内蒙古の境界を為してきた、ハルハ川東方約20キロの低い稜線上の線を国境として主張。満洲国はハルハ川を境界線として主張した。
満洲国、日本側の主張する国境であるハルハ川からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠である。土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越えていた。係争地となった領域は、従来、ダヤン・ハーンの第七子ゲレンセジェの系統を引くテンプレート:仮リンクの左翼前旗や中右翼旗などハルハ系集団の牧地であった。この地が行政区画されたのは1730年代で、清朝はモンゴル系、ツングース系集団を旧バルガ、新バルガのふたつのホショー(旗)に組織し、隣接するホロンバイル草原に配置し、1734年(雍正12年)、理藩院尚書ジャグドンによりハルハと、隣接する新バルガの牧地の境界が定められ、その境界線上にオボーが設置された。本事件においてモンゴル側が主張した国境は、この境界を踏襲したものであった。
満ソ国境
北東アジアの満州地域の対ソ国境については、満州国建国以前から領土問題が存在していた。清とロシア帝国の間のアイグン条約・北京条約などで国境は画定されていたが、中華民国はこれらは不平等条約であるとして改正を求めてきていた。うちアムール川(黒竜江)は水路協定も1923年に中ソ間で締結されたが、これも中国に不利な内容であったため問題となっていた[9]。
1933年(昭和8年)1月、日本はソ連に対し国境紛争処理に関する委員会設置を提案[10]。しかし、ソ連はアイグン条約などで国境は確定済みとの立場であった。また、日本が不可侵条約提案を拒絶していたことや、北満鉄路売却問題が優先事項であったことなども影響し、委員会設置は実現しなかった。
満州国南西部の中華民国との国境でも1934年末から紛争が起きており、日本は緩衝地帯設置などを意図した華北分離工作を展開した。
満蒙国境
モンゴルは、1911年の辛亥革命を好機として、ジェプツンダンパ八世を君主に擁する政権を樹立した。ただしモンゴルの全域を制圧する力はなく、モンゴル北部(ハルハ四部およびダリガンガ・ドルベト即ち外蒙古)を確保するにとどまり、モンゴル南部(内蒙古)は中国の支配下にとどまった。バルガの2旗が位置するホロンバイル草原は、地理的には外蒙古の東北方に位置するが、この分割の際には中国の勢力圏に組み込まれ、東部内蒙古の一部を構成することとなった。その後、モンゴルではジェプツンダンパ政権の崩壊と復活、1921年の人民革命党政権、1924年の人民共和国への政体変更があった。これらモンゴルの歴代政権と、内蒙古を手中におさめた中華民国歴代政権との間では、ハルハ東端と新バルガの境界に問題が生ずることはなかった。
旧東三省と東部内蒙古を領土として1932年に成立した満洲国は、新バルガの南方境界として、新たにハルハ川を主張し、本事件の戦場域は、国境紛争の係争地となった。これは、満洲国を実質的に支配する日本が、シベリア出兵中の戦利品であるロシア製の地図に基づいて、ハルハ川が境界と認識していた事による。
モンゴルと満洲国の国境画定交渉は1935年(昭和10年)より断続的に行われたが(満州里会議)、1937年(昭和12年)9月以降途絶した。
1937年の6月から10月にかけて、日本と満洲国は現地を調査し、本来の境界を示す標識となるオボーの存在を確認している。[11]その調査後も日本側は当初の主張を変更せず、領土問題を継続させ、モンゴル側の「越境」を主張し、ついにはノモンハン事件の戦端を開くに至る。
軍事情勢
満州方面における日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連側が優っていた。1934年6月の時点で日本軍は関東軍と朝鮮軍合わせて5個歩兵師団であったのに対し、ソ連軍は11個歩兵師団を配備(日本側の推定)、1936年末までには16個歩兵師団に増強され、ソ連軍は日本軍の三倍の軍事力を有していた。日本軍も軍備増強を進めたが、日中戦争の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年に日本11個歩兵師団に対しソ連30個歩兵師団であった。なお、満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力配置せず、それぞれ満州国軍とモンゴル軍に警備をゆだねていた。
日ソ国境紛争
満州事変以後、1934年(昭和9年)頃まで紛争といっても、偵察員の潜入や住民の拉致、航空機による偵察目的での領空侵犯程度の小規模なものだった[8]。1935年(昭和10年)に入ると国境紛争の規模が大型化したが、これはソ連側の外交姿勢の高圧化によるとされる[12]。ソ蒙相互援助に関する紳士協定・ソ蒙相互援助議定書の締結もこの時期であり、ソ連軍の極東兵力増加が進んだ。この時期の日本は、陸軍中央と関東軍司令部のいずれも不拡大方針で一致していた。前線部隊でも、騎兵集団高級参謀の片岡董中佐らが慎重な行動を図り、紛争の拡大に歯止めをかけることに寄与していた[13]。
1935年1月、満州西部フルンボイル平原の満蒙国境地帯で哈爾哈(ハルハ)廟事件が発生。哈爾哈廟周辺を占領したモンゴル軍に対して満州軍が攻撃をかけ、月末には日本の関東軍所属の騎兵集団も出動したが、モンゴル軍は退却した。以降、満州軍はフルンボイル平原に監視部隊を常駐させ、軍事衝突が増えた。1935年6月にはソ連と接した満州東部国境でも、日本の巡回部隊10名とソ連国境警備兵6名が銃撃戦となり、ソ連兵1名が死亡する楊木林子事件が発生した。
1935年10月にはモンゴルのゲンドゥン首相が「ソ連は唯一の友好国」であるとして、ソ連への軍事援助を求めた[14]。
同1935年12月のオラホドガ事件では、航空部隊まで投入したモンゴル側に対して、翌年2月に日本軍も騎兵1個中隊や九二式重装甲車小隊から成る杉本支隊(長:杉本泰雄大尉)を出動させた。杉本支隊は装甲車を含むモンゴル軍と遭遇戦となり、戦死8名と負傷4名の損害を受け、モンゴル軍は退去した。関東軍は不拡大方針を強調する一方、戦術上の必要があればやむを得ず越境することも許すとした方針を決め、独立混成第1旅団の一部などをハイラルへ派遣して防衛体制を強化した[15]。
1936年1月には金廠溝駐屯の満州国軍で集団脱走事件が発生し、匪賊化した脱走兵と、討伐に出動した日本軍・満州国軍の合同部隊の間で戦闘が発生。その際に脱走兵はソ連領内に逃げ込み、加えてソ連兵の死体やソ連製兵器が回収されたことから、日本側ではソ連の扇動工作があったと非難した(金廠溝事件)[16]。
ソ蒙相互援助議定書
1936年2月14日、ソ連のストモニャコフ外務人民委員代理は大田為吉駐ソ大使に対して、モンゴル人民共和国に脅威が発生する場合、ソ連は必要な援助を行うと述べた[17]。1936年3月12日、ソ蒙相互援助議定書が締結。これを機に、日ソ国境紛争が次第に大規模化していった[18]。
タウラン事件
1936年(昭和11年)3月29日、タウラン事件が発生。オラホドガ偵察任務の渋谷支隊(歩兵・機関銃・戦車各1個中隊基幹)がフルンボイル国境地帯に向かったところ、モンゴル軍機の空襲を受けて指揮下の満州軍トラックが破壊された。モンゴル軍は騎兵300騎と歩兵・砲兵各1個中隊のほか、装甲車10数両の地上部隊を付近に展開させていた。渋谷支隊はタウラン付近で再び激しい空襲を受け、偵察に前進した軽装甲車2両がモンゴル軍装甲車と交戦して撃破された。モンゴル軍地上部隊は撤退したが、日本軍航空機の攻撃で損害を受けた。この事件で日本軍は戦死13名、捕虜1名、トラックの大半が損傷、モンゴル軍も装甲車を鹵獲された。本格的機甲戦や空中戦はなかったが、装甲車両や航空機を投入した近代戦となった[19]。同1936年3月、長嶺子付近でも日ソ両軍が交戦し、双方に死傷者が出た(長嶺子事件)。
1936年にはへレムテ事件、アダクドラン事件、ボイル湖事件、ボルンデルス事件など衝突が激化、その結果、ソ連はモンゴルでの軍事力増強に取り組むようになった[20]。
帝国国防方針から日独防共協定へ
日本はソ連モンゴルの共同防衛体制が確立したことを警戒し、1936年(昭和11年)8月7日の四相会議で決定した帝国国防方針で、ソ連は「赤化進出を企図し、益々帝国をして不利の地位に至らしめつつあり」と書かれた[21]。さらに大日本帝国は、ソ連の極東攻勢の強化を受けて、1936年11月25日にドイツと日独防共協定を締結した[22]。
カンチャーズ島事件
日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)以降、紛争件数は年間100件を超えた。ソ連は大規模なソ連軍をモンゴルに進駐させた[23]。1937年(昭和12年)6月から7月に、ソ満国境のアムール川に浮かぶ乾岔子(カンチャーズ)島周辺で、日ソ両軍の紛争である乾岔子島事件が起きた。アムール川の国境はアイグン条約によって全ての島がロシア帝国領と定められていたが、水路協定では航路が乾岔子島よりソ連領側に設定され、国際法の原則や居住実態からも日満側は同島を満州国領とみなしていた[24]。ソ満間の水路協定の改定交渉は前年に決裂、ソ連は1937年5月に水路協定の破棄を通告した。6月19日、ソ連兵60名が乾岔子島などに上陸し、居住していた満州国人を退去させた。日本陸軍参謀本部は関東軍に出動を命じたが、石原莞爾少将の進言により、6月29日に作戦中止を命じた。同日に外交交渉によってソ連軍の撤収も約束された[25]。ところが、6月30日にソ連軍砲艇3隻が乾岔子島の満州側に進出したため、日本の第1師団が攻撃を開始し、1隻を撃沈したが、それ以上の戦闘とはならず、7月2日にソ連軍は撤収した。
モンゴルにおける大粛清
テンプレート:Main ソ連は強大な在蒙ソ連軍を背景にモンゴルへ内政干渉を大々的に開始、1937年から1939年にかけて「反革命的日本のスパイ」としてモンゴル政府指導者やモンゴル軍人に対して大粛清が実施された[26]。ソ連によるモンゴル大粛清以降、親ソ派のチョイバルサン元帥が政府権力を掌握し、対日満政策を硬化させていった[27]。
張鼓峰事件
テンプレート:Main 1938年(昭和13年)7月、豆満江近くの張鼓峰で、日ソ両軍の大規模な衝突が発生した(張鼓峰事件)。7月中旬にソ連軍が張鼓峰に進軍、日本の朝鮮軍隷下第19師団も警備を強化した。日本の監視兵が射殺されたのをきっかけに7月29日から戦闘が始まった。(張鼓峰事件は満ソ国境でおこったが、関東軍・満州国軍ではなく日本の朝鮮軍が戦った。)しかし、日本は不拡大方針で第19師団の一部のみで対処した。これに対してソ連軍は戦車や航空機多数を出撃させた。8月に入って日本軍も増援の砲兵部隊を出動させたが、モスクワでの日ソ交渉により8月11日に停戦。日ソ双方が停戦時点で張鼓峰を占領していたと主張している。動員兵力はソ連軍3万人に対して日本軍9千人。死傷者は日本軍1500人、ソ連軍3500人であった。
満ソ国境紛争処理要綱
張鼓峰事件で陸軍省軍務局など陸軍中央が不拡大方針を採ったのに対し関東軍は不満を抱き、断固とした対応を強調した「満ソ国境紛争処理要綱」を独自に策定した。辻政信参謀が起草し、1939年(昭和14年)4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱では「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する方針が示され、安易な戦闘拡大は避けるべきだが、劣兵力での国境維持には断固とした態度を示すことがかえって安定につながると判断された[28]。この処理方針に基づいた関東軍の独走、強硬な対応が、ノモンハン事件での紛争拡大の原因となったとも言われる[29]。テンプレート:要出典範囲
1939年には紛争件数は約200件に達した。
外交交渉
一連の紛争のうち、外交的に解決されたものは少数であった。例えば1936年に起きた152件の紛争に関して、日本側からは122件の抗議が行われたが、ソ連側から回答があったのは59件にとどまり、遺体返還などのなんらかの解決に達したものは36件だった[30]。
哈爾哈廟事件をきっかけに、満州国とモンゴルは独自の外交交渉を開始していた(実質的には日ソ交渉[31])。1935年2月に満州国軍の興安北警備軍司令官ウルジン・ガルマーエフ(烏爾金)将軍がモンゴル側に会合を提案、1935年6月3日から1937年9月9日まで満州里で5回の満州里会議が開かれた[32]。満州は全権代表の首都常駐相互受け入れ・タムスク以東からの撤兵を要求したが、モンゴル側は難色を示し、タウラン事件後に起きた凌陞の内通容疑での処刑などで難航した。紛争処理委員の現地相互駐在は妥結しかけたものの、ソ連の指示により1937年8月末から始まった粛清でモンゴル側関係者の大半が内通容疑で処刑され、打ち切りとなった[33]。
ソ連側には単純な国境紛争で無い政略的意図があったとも言われる。張鼓峰事件では、直前のゲンリフ・リュシコフ亡命事件があったため、ソ連側としては威信を示す必要があった。ノモンハン事件に関しては、日本に局地戦で一撃を加えて対ソ連積極策を抑える狙いを有していたとの見方がある[34]。ソ連は、日本国内での報道やリヒャルト・ゾルゲ・尾崎秀実らによる諜報活動などで日本側の不拡大方針を熟知していたため[35]、全面戦争を恐れることなく大兵力の投入に踏み切れたと考えられるという。
戦争の経過
第一次ノモンハン事件(5月11日~31日)
軍事衝突と前哨戦
係争地では満州国軍とモンゴル軍がパトロールしており、たまに遭遇し交戦することがあった。5月11日、12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相は不明である。
第23師団長の小松原道太郎中将は、モンゴル軍を叩くために東八百蔵中佐の師団捜索隊と2個歩兵中隊、満州国軍騎兵からなる部隊(東支隊)を送り出した。5月15日に現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き上げた。しかし、支隊の帰還後になって、モンゴル軍は再びハルハ川を越えた。
この頃、上空では日本軍とソ連軍の空中戦が頻発し、日本機は自国主張の国境を越えてハルハ川西岸の陣地に攻撃を加えた。両軍とも、敵の越境攻撃が継続中であると考え、投入兵力を増やすことを決めた。
日本軍とソ連軍の衝突
5月21日に小松原師団長は再度の攻撃を命令した。出動した兵力は、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門をあわせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(九二式重装甲車1両を持つ)、輜重部隊340人、さらに満州国軍騎兵464人が協同し、総兵力2082人であった。指揮は歩兵第64連隊長山県武光大佐がとり、山県支隊と呼ばれた。
ソ連軍も部隊を送り込み、5月25日にハルハ川東岸に入った。その兵力は、第11戦車旅団に属する機械化狙撃大隊と偵察中隊からなり、装甲車としては強力な砲を装備するBA-6装甲車16両を持ち、兵力約1200人であった。これにモンゴル軍第6騎兵師団の約250人をあわせ、ソ連・モンゴル軍の総兵力は約1450人、装甲車39両、自走砲4門を含む砲14門、対戦車砲6門であった。歩兵・騎兵の数は少ないが、火砲と装甲車両で日本・満州国軍に勝っていた。ソ連軍の指揮官は機械化狙撃大隊長のブイコフ大佐で、歩兵の3個中隊のうち第2中隊を北に、第3中隊を南に置き、正面の東をモンゴル軍に守らせて、半円形に突出する防衛線を作った。西岸には第1中隊を控えさせ、砲兵を配した。
山県はソ連軍が刻々増強されつつあることを知っていたが、敵兵力を実際より少なく見積もり、包囲撃滅作戦を立てた。その作戦では、主力は山県が直率して北から進み、東と南には満州軍騎兵と小兵力の日本軍歩兵を配する。ハルハ川渡河点3か所のうち、北と南はそれぞれ両翼の日本軍部隊が制圧する。中央の橋を封鎖するために、東捜索隊が先行して敵中に入り、橋を扼する地点に陣地を築く。こうして完全に包囲されたソ連・モンゴル軍を破砕し、その後ハルハ川を越えて左岸(西岸)の陣地を掃討するというものであった。
東捜索隊壊滅
先行する東捜索隊は、5月28日の早朝にほとんど抵抗を受けることなく突破に成功し、橋の1.7キロ手前に陣取った。これとともに後方陣地への航空攻撃、主力部隊の前進がはじまった。戦闘開始直後、ソ連・モンゴル軍は混乱して一歩退いた。攻撃をほとんど受けなかった正面と南の部隊も退却して兵力を抽出し、西岸から渡ってきた部隊とともに山県・東の部隊に立ち向かった。さらにこの日のうちにソ連の第36自動車化狙撃師団の第149連隊がタムスクから自動車輸送で到着しはじめた。日本軍主力の前進は第一線の陣地を突破したところで停止し、東支隊は孤立した。29日にソ連・モンゴル軍は東捜索隊への攻撃を強め、その日の夕方に全滅させた。東中佐は戦死した。30日にモンゴル第6騎兵師団部隊はハルハ河の東岸へと進出した。騎兵師団は日本軍航空部隊により軍馬に大きな損害を受けたが、午後6時にハルハ河東方7kmの高地頂上に到達した。そこで、日本軍の機関銃射撃により前進を阻止され、ハルハ河の西岸へ撤退した。日本軍主力は30日に小兵力の増援を受け取り、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した。
以後は目立った戦闘は起きず、日本軍は捜索隊の遺体と生存者を収容して6月1日に引き上げた。第1次ノモンハン事件における損害は、日本軍は戦死159名、戦傷119名、行方不明12名、ソ連軍の損害は戦死及び行方不明138名、負傷198名、モンゴル軍の損害は戦死33名となっている。この戦いによりソ連軍の指揮官であるフェクレンコ第57特別軍団長は更迭されている。
この間、日本軍の戦闘機は終始空中戦で優勢を保ち、ソ連軍の航空機を数十機撃墜し、損失は軽微であった。また、日本の戦闘機と軽爆撃機はモンゴル領内の陣地と飛行場を攻撃した。なおモンゴル軍の航空機はわずかで、満州国軍は航空戦力を持たなかった。
東安鎮事件
ノモンハンの紛争中の1939年5月27日、アムール川方面でも満州国軍とソ連軍の交戦があり、満軍の出動させた騎兵中隊1個と砲艇2隻が全滅した(東安鎮事件)。しかし、ノモンハン事件の拡大誘発を警戒した日本の関東軍が反撃を自重したため、それ以上の戦闘は発生しなかった。
第二次ノモンハン事件
ソ連軍の攻撃
ソ連政府は5月末の交戦を日本の侵略意図の表れとみなし、日本軍の次の攻撃はさらに大規模になると考えた。白ロシア軍管区副司令官のゲオルギー・ジューコフ中将が第57軍団司令官に任命され、この方面の指揮をとることになった。このときジューコフは大規模な増援を要求し、容れられた。
6月17日から連日、増強されたソ連軍航空機が自国主張の国境を越えてカンジュル廟を攻撃し、爆撃は後方のアルシャンにも及んだ。
日本軍による渡河攻撃と戦車戦
ソ連軍の爆撃に対して関東軍は、戦車を中心に各種部隊を増強して反撃する計画を立てた。新たに加わったのは第1戦車団(戦車2個連隊)と歩兵第26連隊(第7師団)のほか砲兵や工兵を含む自動車化部隊の安岡支隊で、第1戦車団長の安岡正臣中将が率いた。作戦にはハルハ川を越えることが含まれていたが、大本営には越境攻撃までは知らされなかった。
6月27日、日本軍はモンゴル領の後方基地タムスクに大規模な空襲を行った。大本営は越境空襲を事後に知らされて驚き、昭和天皇を動かして係争地を無理に防衛する必要はないとの大命を29日に発し、敵の根拠地に対する航空攻撃を禁じる参謀総長の指示を出した。その頃、攻撃のため国境付近に集結しはじめた日本軍に対し、ソ連軍は自国主張の国境を越える威力偵察部隊を送り出して交戦した。
集結を完了した日本軍は、7月1日に敵の背後を断って撃滅する意図をもって行動を起こした。当初の作戦では、ハルハ川に橋を架けて戦車を含む主力が西岸に渡り、敵の背後から包囲攻撃をかけることとされた。しかし、西岸攻撃のために工兵が用意できた橋は演習用の器材を使った貧弱なもので、戦車を渡すことができず、それどころか橋を越えた補給継続の見込みも薄かった。そこで作戦が変更され、歩兵が西岸に渡って退路を遮断し、東岸に残った戦車が北から攻撃をかけて南下し、敵をハイラースティーン(ホルステン)川の岸に追い詰めて殲滅することを企図した。西岸攻撃には第23師団の第23歩兵団長小林恒一少将が師団所属の歩兵第71連隊と第72連隊をもってあたり、安岡支隊から引き抜いた自動車化部隊の歩兵第26連隊と砲兵隊、工兵隊が後続した。一方、東岸の安岡支隊の主力は戦車第3連隊と戦車第4連隊で、歩兵第28連隊の1個大隊と歩兵第64連隊主力、馬で牽引する野砲兵1個大隊、工兵1個連隊、満州国軍騎兵が属した。うち東を封じるのは満州国軍に任され、今回は南に兵力を送らなかった。総兵力は約1万5000人であった。
ソ連軍は、前回の戦闘と同様、歩兵戦力で日本軍に劣ったが火砲と装甲車両の数で勝った。ソ連軍司令部は、ハルハ川東岸への日本軍の攻撃を予想して、第149自動車化狙撃連隊と第9機械化旅団を置いていた。さらに増援軍にハルハ川を渡河させて日本軍の側面を衝く作戦を立て、第7機械化旅団、第11戦車旅団、第24自動車化狙撃連隊が7月1日にタムスクを発った。
ソ連軍と日本軍はほぼ同じ進路で逆向きの渡河攻撃を計画したが、日本軍が先んじて7月2日に渡河をはじめ、3日に橋を架けた。渡河に直面したのはモンゴル軍の騎兵第6師団であったが、抵抗らしい抵抗をしなかった。ソ連増援軍は3日に戦場に到着し、南に進んでいた日本軍と接触した。装甲部隊を前にして日本軍の行軍は止まった。午前中の戦闘でソ連軍戦車は果敢に突撃して大損害を出したが、午後には遠巻きにして砲撃を加えるようになり、日本兵の死傷ばかりが増えた。第23師団はその日の夕方に撤退を決め、4日から5日にかけて橋を渡って戻った。
ハルハ川東岸(右岸)では、日本軍が87両の装甲車両で攻撃をかけた。主に軽戦車からなる戦車第4連隊は、2日夜に装甲部隊による夜襲をかけた。(大規模装甲部隊による夜襲は世界初で、大変珍しい例である。)攻撃は成功をおさめたが、戦局に影響するほどのものではなかった。主に中戦車からなる戦車第3連隊は、翌3日に対戦車砲とピアノ線鉄条網で防御された敵陣地に対して正面攻撃を敢行した。この戦闘は失敗で、主力の中戦車13両と軽装甲車5両を失い同連隊は壊滅的損害を受けた。当時最新型であった97式戦車に搭乗していた連隊長吉丸大佐もこの戦闘で戦死した。
ソ連軍は7月4日に反撃をはじめ、6日に日本軍は退却した。装甲部隊の急速な損耗に動揺した関東軍司令部は、これ以上の戦車戦力の損害を避けるため、9日に安岡支隊を解隊、さらに26日に日本軍戦車を戦場から撤収させた。
この期間にはソ連軍の航空勢力が増大した。一方、日本の航空偵察はこの戦闘中ずっと「敵軍が退却中である」という誤報を流しつづけ、上級司令部の判断を誤らせた。
夜襲攻撃
渡河攻撃と戦車攻撃が失敗してから、第23師団はハルハ川右岸(東岸)に転じて7月7日に攻撃を再開した。第23師団の主力は安岡支隊への増援・交代の形で新たな戦場に到着し、北から南にハイラースティーン(ホルステン)川に向かって進んだ。別に岡本支隊がハイラースティーン(ホルステン)川の対岸を東から西に進んだ。守るソ連軍の中心は第149自動車化狙撃連隊で、砲兵と第11戦車旅団の支援を受けた。歩兵で日本軍が多く、戦車と火砲でソ連軍が多いという戦力比はこの時期も変わらなかった。
このときの日本軍は、小規模な夜襲を全戦線で多数しかけて攻撃を進めた。夜には砲撃が衰え、戦車が最前線から引き上げるので、白兵戦を得意とする日本軍にとって有利であった。少ない兵力で何重もの縦深をとったソ連軍の防衛線は、各所で日本軍の進出を許したが、崩壊には至らず、両軍錯綜の状況が生まれた。平原で姿を暴露することを恐れた日本軍は、朝が近づくと進出地点から引き上げるのを常とした。昼になると攻守逆転し、ソ連の装甲部隊、砲兵、歩兵が日本の歩兵を攻撃した。ソ連軍は夜襲も実施したが、全体的には日本軍に押され、ゆっくりと陣地を侵食されていった。前線指揮官であるレミゾフ第149自動車化狙撃連隊長は8日に、ヤコブレフ第11戦車旅団長は11日に、戦死した。
しかし、当初きわめて楽観的だった関東軍にとって、この作戦の進捗は満足のいくものではなかった。ソ連軍の砲兵力を除く必要があると考えた関東軍は、内地からの増援と満州にあった砲兵戦力をあわせて、関東軍砲兵司令官内山英太郎少将の下に砲兵団を編成し、その砲撃でソ連軍砲兵を撃破することにした。砲兵戦力の到着を待つため、日本軍は夜襲による攻撃を12日に停止し、14日までに錯綜地から退いて戦線を整頓した。
砲兵攻撃
砲兵支援下の総攻撃は、7月23日に始まった。内山少将率いる砲兵団は15センチ加農砲から7.5センチ野砲までの82門をもっていたが、このうち西岸のソ連軍砲兵陣地まで届く砲は46門に過ぎなかったうえに、充分な数の砲弾を準備することができなかった。更に、東岸より西岸の方が標高が高かったことが致命傷になった。ソ連軍砲兵は日本側の砲兵を見下ろすかたちで砲撃することができた。このため、次第に日本軍砲兵はソ連側の砲撃に圧倒された。またソ連軍は前回の攻撃の末期にあたる7月12日から歩兵の増援を受け取っており、総攻撃はわずかに前進しただけで頓挫した。日本軍は3日間の戦闘で攻勢をあきらめ、冬営に向けた陣地構築に入った。
戦線膠着
日本軍は7月25日までに参加兵力の3分の1にあたる約5000人を失った。攻撃を停止した日本軍は、敵の砲撃を避けてハルハ川から離れ、ハイラースティーン(ホルステン)川両岸に西向きに布陣した。北に離れたフイ高地には渡河攻撃を断念したときから小部隊がおかれており、反対の南側の左翼では限定的な攻撃を行って翼を延伸した。ソ連軍も各所で小規模な攻撃を試みたが撃退され、8月20日まで戦線は膠着状態になった。
8月4日、日本軍はノモンハン戦の指揮のために新たに第6軍を創設し、荻洲立兵中将を司令官に任命した。これより先、ソ連は7月21日に第57狙撃軍団を第1軍集団に改組し、引き続きジューコフに指揮をとらせた。
ソ連軍の8月攻勢
日本軍が攻勢をとっていた頃から、ソ連軍は後方で兵力と物資の集積を進め、総攻撃を準備していた。だが日本軍は冬営のための物資輸送にも困難をきたしていたため、大きな増援ができなかった。防衛線についていた日本軍部隊は、北から、フイ高地を守備する第23師団捜索隊、ハイラースティーン(ホルステン)川の北にあるバルシャガル高地を守る歩兵3個連隊(歩兵26、63、72の各連隊)、ホルステン川の南にある第8国境守備隊と歩兵第71連隊であった。加えて、ノモンハンから約65キロ南に離れたハンダガヤに第7師団の歩兵第28連隊があった。その陣地は横一線に長く、兵力不足のため縦深がなかった。防衛線の左右には満州国軍の騎兵が展開して警戒にあたった。
攻撃側のソ連軍は歩兵と火砲の数で倍近く、加えて戦車498両と装甲車346両を用意しており、日本側に対して全面的に優勢な兵力だった。ソ連軍の作戦は、中央は歩兵で攻撃して正面の日本軍を拘束し、両翼に装甲部隊を集めて突破し、敵を全面包囲しようとするものであった。シェフニコフ大佐が指揮する左翼の北方軍は、第82狙撃師団第601連隊と第7機械化旅団、第11戦車旅団からなり、フイ高地の捜索隊を攻撃して南東に進んだ。ペトロフ准将が指揮する中央軍は、歩兵4個連隊と1個機関銃旅団(第82狙撃師団の2個連隊と、第36自動車化狙撃師団の2個連隊、第5機関銃旅団)からなり、ハイラースティーン(ホルステン)の両岸で正面から攻撃をかけた。ポタポフ大佐が指揮する右翼の南方軍は、歩兵3個連隊と機械化旅団、戦車旅団各1個(第57狙撃師団の3個連隊と、第8機械化旅団、第6戦車旅団)からなり、日本の第71連隊を攻撃してハイラースティーン(ホルステン)に向けて北進した。北方軍の北にはモンゴル軍の第6騎兵師団、南方軍の南にはモンゴル軍の第8騎兵師団が付いて警戒にあたった。左右両翼でのソ連軍の優位は圧倒的で、中央でも火力の優勢を保っていた。
8月20日、爆撃と砲撃の後にソ連軍の前進が始まると、日本側右翼(北側)の満州国軍は直ちに敗走し、これによりフイ高地の師団捜索隊は孤立した。ジューコフは、フイ高地の攻略に手間取ったシェフニコフを21日に解任し、予備を投入して日本軍主力の背後へ進撃させた。捜索隊は24日夜に包囲を脱してソ連側主張の国境の外に退出した。21日には南翼でも南方軍の装甲部隊が日本軍の側面から背後を脅かす位置に進出した。
第6軍司令部は攻勢開始時に未だ後方のハイラルにあり、ようやく8月23日に司令部を戦場付近に進めた。荻洲軍司令官はソ連軍の攻勢を知ると、直ちに第28連隊をハンダガヤから呼び寄せ、これに前線から引き抜いた歩兵第26、72、71の諸連隊をあわせて左翼(南)で反撃(攻勢転位)する作戦を立てた。反撃の開始は8月24日で、ソ連軍の最右翼にある第57狙撃師団第80連隊が、南方軍の装甲部隊とともにこれを迎え撃った。反撃部隊の大部分は予定の日時に攻撃開始位置に到着できず、ばらばらに戦闘に参入し、砲爆撃の支援を欠いたまま正面攻撃を実施した。24日に第72連隊だけで攻撃を行った右翼隊は大損害を出して壊滅した。24、25の両日にわたる左翼隊の攻撃も挫折した。
反撃に兵力を抽出したため、日本軍の側面と背後はがら空きになった。北から回り込んだソ連軍左翼は23日には日本軍の後背に出て、26日にバルシャガル高地の背後にあった砲兵陣地を蹂躙した。南で反撃を退けたソ連軍右翼も、27日にノロ高地を支援する日本軍砲兵部隊を全滅させた。前線の日本軍諸部隊は、背後に敵をうけて大きく包囲され、個々の陣地も寸断されて小さく囲まれた。限界に達した日本軍部隊は、夜の間に各個に包囲を脱して東に退出した。すなわち26日夜にノロ高地の第8国境守備隊が後退し、ついで戦場外に退出した。29日夜にはバルシャガル高地の第64連隊が脱出した。小松原第23師団長は第64連隊救援のため自ら出撃したが、これも31日朝に後退したのを最後に日本軍は係争地から引き下がり、主要な戦闘は終了した。この作戦の間、ソ連陸軍は自国主張の国境線の内にとどまったため、退出した日本軍諸部隊はその線の外で再集結した。
独ソ不可侵条約
ノモンハンで戦闘が続くなか、1939年8月23日、スターリンはドイツと独ソ不可侵条約を締結する。日独防共協定を結んでいた日本にとってこれは衝撃であり、8月25日、平沼騏一郎内閣は日独同盟の締結交渉中止を閣議決定、8月28日に平沼騏一郎首相が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」と声明し、総辞職した[36]。
停戦成立までの戦闘
ソ連軍は戦場となった係争地を確保し、陣地を築いた。日本軍はソ連・モンゴル側主張の国境線のすぐ外側に防衛の陣を敷いた。関東軍は兵力を増強して攻撃をかける計画を立てた。作戦は、一部兵力によって敵の退路を遮断し、夜襲によってソ連軍の陣地を突破することを目指した。しかしこの段階では、歩兵で勝っていた7月までと異なり、増強を計算に入れたとしても、あらゆる戦力要素が日本軍に不利になっていた。
東京の大本営は、関東軍の楽観的な報告により、8月26、27日まで戦闘が有利に進んでいると認識していた。しかし、急激な事態の悪化を知り、日本軍が引くことで事態を収拾することを決め、9月3日にノモンハンでの攻勢作戦を中止し係争地から兵力を離すように命じた。
他方、南方のハンダガヤ付近では、増援に来着した歩兵2個連隊を基幹とした片山支隊が8月末から攻撃に出た。第2師団歩兵第16連隊の2個大隊は、997高地、秋山高地、東山高地の攻略を目指した。この地区で日本軍に対したのはソ連軍の第603狙撃兵連隊で、9月8日と9日に夜襲を受けて敗走した。また、9月11日には独立守備歩兵第16大隊が1031高地(三角山。ソ連側の呼称はマナ山)の攻略に成功している。9月16日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地の主戦場となったノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。この結果、ハンダガヤ方面における国境線確定交渉の際に、日本側に有利に働くことになる。
航空戦
航空戦の主力となったのは日本軍は九七式戦闘機、ソ連軍はI-153とI-16であった。当初はソ連空軍に比べて日本軍操縦者(空中勤務者)の練度が圧倒的に上回っており、戦闘機の性能でも、複葉機のI-153に対しては圧倒的な優勢、I-16に対しても、一長一短はあるものの(I-16は武装と急降下速度に優れ、九七戦は運動性と最高速度に優れる)、ほぼ互角であった。また、投入した航空機の数も、当初はほぼ互角であった。そのため、第一次ノモンハン事件の空中戦は、地上戦とは異なり、日本軍の圧倒的な勝利となった。
日本陸軍航空隊(陸軍航空部隊)の操縦者達の活躍は目覚しく、20機以上撃墜のエース・パイロットが23名おり、なかでもトップ・エースの篠原弘道は3ヶ月で58機撃墜を記録した。ノモンハンにおけるエースはほかに樫出勇、岩橋譲三、坂井菴、西原五郎などがいる。ただしこれらの記録には、かなり誤認戦果も含まれる。
優位な航空勢力を活用し戦況を有利に進めるべく関東軍は日本側の主張する国境線よりモンゴル側にあるソ連軍のタムスク飛行場(モンゴル語ではタムサグ・ボラク)の爆撃計画を立てた。しかし計画を事前に知った大本営中央は国境を越えた軍事行動であり事態の拡大を招来することに危惧し自発的な計画の中止を打電、6月25日には大本営作戦参謀の有末次中佐を派遣し計画の翻意を図った。空爆計画の実行を強く願った関東軍は、有末中佐の到着以前の計画実行を決定、6月27日、関東軍はタムスク飛行場を重爆24機、軽爆6、戦闘機77の合計107機で実施、未帰還機4機という少ない被害により戦術的には大戦果を上げた。しかしこれは国境紛争を全面戦争に転化させかねない無謀な行為だったので、陸軍中央の怒りを買うと同時に、空爆計画を関東軍の冒険主義であることを知らないソビエト・モンゴル側からすると大掛かりなアジア侵略を歌った「田中上奏文」の実現として認識された。
第二次ノモンハン事件に入ると、ソ連軍は日本軍をはるかに上回る数の航空機を動員して、操縦者の練度で優る日本軍航空部隊を数で圧倒するとともに、スペイン内戦に共和国側の義勇兵として参加してドイツ空軍と戦っていた戦闘経験豊富な操縦者を派遣し、操縦者の質でもある程度日本軍に対抗できるようになる。ソ連側は戦術を変更し、旋回性能の優れた日本軍の九七式戦闘機に対し、操縦手背面に装甲板を装備したI-16による一撃離脱戦法に徹するようになった。これにより日本軍は以前のように撃墜戦果を挙げられなくなったばかりか、損害が目立つようになった。
第一次と第二次を併せたソ連側損失は、日本側の主張では1,252機。またソ連側がかつて主張していた損害は145機、後のソ連崩壊直前に訂正された数字では被撃墜207機+事故損失42機。一方、日本機の損害は記録によると大中破も合わせて157機(未帰還及び全損は64機、内九七戦は51機で戦死は53名)だった。日本側の損耗率は60%で、最後には九七戦の部隊が枯渇して、旧式な複葉機の九五式戦闘機が投入されるに至った。これらの戦訓から陸軍は航空機の地上戦での有効性と損耗の激しさを知り、一定以上の数を揃える必要性を痛感した。
陸軍中央では紛争の拡大は望んでいなかったため、戦場上空の制空権を激しく争った戦闘機に比べると爆撃機の活動は限定的であり、6月27日に関東軍の独断で行われたタムスクのソ連航空基地への越境攻撃はあったものの、重爆撃機隊も含めて地上軍への対地協力を主として行った。紛争後半の8月21日、22日には中央の許可のもとにソ連航空基地群に対する攻撃が行われたが、既にソ連側が航空優勢となった状況では損害も多く、その後は再び爆撃機部隊の運用は対地協力に限定された。他方、ソ連軍の爆撃機による日本軍陣地、航空基地への爆撃は活発であり、7月以降に登場した高速双発爆撃機ツポレフSB-2、四発爆撃機ツポレフTBは日本軍の野戦高射砲の射程外の高空を飛来し、九七戦での要撃も容易ではなく大いに悩まされたテンプレート:要出典が、その戦訓が太平洋戦争に活かされたとは言い難いようである。
戦局への影響という点で大きかったのは日本軍の航空偵察で、茫漠として高低差に乏しく目立つランドマークもないノモンハンの地形にあっては航空偵察による情報は重要であり、新鋭の九七式司令部偵察機を始め多数の偵察機が運用された。しかし、ソ連軍の偽装を見抜けずに、動静を見誤ってたびたびソ連軍の後退を伝える誤報を流すなどしてテンプレート:要出典、後方の司令部に実態と乖離した楽観を抱かせる原因ともなった。
停戦以後
停戦協定
一方、ソビエト連邦の首都モスクワでは、日本の東郷茂徳駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が進められていた。だが、ソ連側の強硬な姿勢と、東郷が停戦協定を締結しても独断専行で事を進める関東軍が従うかどうかを憂慮して慎重に事を運んだ事もあって、両国の間においてようやく停戦協定が成立したのは9月15日の事であった。停戦協定では、とりあえずその時点での両軍の占領地を停戦ラインとし、最終的な国境線の画定はその後の両国間の外交交渉にゆだねられた。
国境画定交渉
国境画定交渉は11月から翌年6月までかかってやっと合意に達したが、結局は停戦ラインとほぼ同じであった。対立の対象となった地域のうち、北部から中央部ではほぼモンゴル・ソ連側の主張する国境線によって画定し、一方、9月に入って日本軍が攻勢をかけて占領地を確保した南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで画定した。
日本の事後処理
テンプレート:要出典範囲植田謙吉関東軍司令官は責任を問われ辞職した。また、この事件の実質的な責任者である関東軍の作戦参謀の多くは、転勤を命ぜられたが、その後中央部の要職に就き、対英米戦の主張者となったと、遠山茂樹らは主張している[37]。
テンプレート:要出典範囲。独ソ開戦翌月の1941年7月には関東軍特種演習と称する対ソ動員を実行した。その後、南進論に基づくアメリカ・イギリスとの太平洋戦争へと向かった。
日ソ中立条約からソ連対日参戦まで
ノモンハン事件の停戦後、小規模な紛争は引き続き起きたものの、大規模な戦闘は生じなくなった。ノモンハン事件末期の1939年9月に第二次世界大戦が始まっている状況の中で、日ソの外交交渉が行われた。1941年(昭和16年)4月に日ソ中立条約が成立し、相互不可侵と、モンゴル人民共和国及び満州国の領土保全が定められ、一連の日ソ国境紛争は終結。日本とソ連はモンゴル人民共和国と満州国を相互に実質的に承認した。
ソ連は独ソ戦に主力を注いだ結果、紛争の発生件数は1940年の151件から、1941年には98件に減り、1942年には58件まで減った[8]。第二次世界大戦後期に独ソ戦がソ連有利となり、対日全面戦争を視野に入れたソ連軍が活動を活発化させるまで、こうした安定状態は続いた。満州国境の安定は、独ソ戦が峠を越し、日本の戦況が悪化した1943年秋ごろまで続いた。その後、再び紛争は増加し始め、ソ連の対日参戦が近付いた1944年(昭和19年)後半には五家子事件、虎頭事件、光風島事件、モンゴシリ事件などの小規模な国境紛争が起きた[8]。関東軍の戦力の多くを南方や日本本土に転用してしまっていた日本側は、ソ連を刺激しないよう紛争を回避する方針を採っていたままだった。最終的には日本軍が弱体化した太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月にソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、ソ連対日参戦を開始、満州全土がソ連に占領された。
ノモンハン事件の戦略と戦術
兵力の集中と兵站
本会戦の帰趨には、日ソ両軍指導部の兵站思想が大きく影響した。当時、大規模な陸軍兵力の兵站は鉄道と船舶輸送を前提とし、鉄道駅と港湾を離れての大兵力の運用は困難とされていた。戦場が鉄道・港湾と遠く隔たった本会戦の補給はトラック輸送によるしかなかったが、当時トラックは、いまだ高価で希少な輸送手段であり、またソ連側は戦線の遙か後方にあるザバイカルのソロビヨフスコエ駅までしか鉄道輸送はできず、そこから後方補給基地までトラック輸送し、更に前線まで700kmに渡る、運行に片道3日もかかる長大な兵站線が必要であり、補給面ではむしろ日本より不利であった。一方、ハイラル駅からの日本軍の補給線は約200kmでソ連軍に比べるとはるかに短く、日本側はむしろ、日本が補給戦で有利と考えていた。
しかし日本軍は、結果として輸送力がソ連側に大きく及ばなかった。満州国内の民間から自動車を徴発するなどの努力は行ったものの、物資どころか作戦部隊すら現地展開に車輌を使えず、兵士たちはハイラル駅から戦場まで、延々と徒歩で行軍し、前線に送られた自動車も燃料不足で使用できないことがあった。
一方、ソ連軍司令官に着任したジューコフは、軍事作戦には兵站と後方整備が決定的な要素であること、充分な資材の裏付けがなければ、軍事作戦は成功しないという用兵思想を当時すでに確立していたことを回想録で述べている。当時のソ連軍は一般に補給を軽視していたが、ジューコフはまず日本側を圧倒するのに充分な作戦資材の準備を最優先課題に設定した。ソ連軍はジューコフの指揮で大規模なトラック輸送体制を組織し、運転手が大平原で道に迷うなどトラブルも多かったが、8月の第二次ノモンハン事件までにソ連側は大量の物資を集積することに成功した。輸送部隊はのちに戦功章を与えられ、その実績を顕彰された。
隠蔽歩兵の有効性と限界
ノモンハンの戦場は丈の低い草原と砂地で、防御側を利する地形要素は何もなかった。ハルハ河西岸(ソ連側)は、日本側より標高が高かった。それでも、日本の歩兵はタコ壺を掘って身を隠し、砲兵はごく緩い稜線を利用して身を隠せそうな陣地を作った。
こうした間に合わせの防御に対し、ソ連軍は一気に蹂躙すべく戦車だけ、あるいは戦車と歩兵で繰り返し攻撃をかけた。これは、地形と装備差から予想されるような一方的殺戮にならなかった。防御側の損害も大きかったが、歩兵の肉薄攻撃で多数の戦車が破壊され、攻撃側の損害も大きかった。
しかし、日本軍部隊が何らかの活発な行動を起こすと、高地に位置するソ連軍砲兵の良い標的になった。8月下旬の戦闘では、日本側が陣地から出て反撃を試みた際に、かえって大きな打撃を被る事となった。こうした状態で補給を受けることは極めて困難で、部隊は持久できなかった。北の夏の短い夜の間だけが、日本軍の行動にいくばくかの安全を与え、夜襲と撤退の機会を与えた。
対戦車戦闘
第一次世界大戦で、戦車は塹壕を突破して膠着状態の戦局を打開するために登場したが、第二次世界大戦では防御陣地に不用意に近づかないことが戦車戦術の常道となった。ノモンハンの経験はこれを先取りするものであった。
1939年当時のソ連軍は、T-34やKV-1のような装甲の厚い戦車を未だ保有せず、高速だが装甲の薄いBT-5(正面装甲厚13mm)やBT-7(同15~20mm)、T-26軽戦車(同15mm)、FAI、BA-3、BA-6、BA-10、BA-20(以上、同6~13mm)といった装輪装甲車を多数投入した。その装甲は日本軍が持つ火砲でも撃ち抜けるレベルで、実際にソ連軍の報告書では「日本軍の九四式37mm速射砲は十分な威力を発揮した」という内容が記述されている。それによると、他にも各種の75mm野砲や九八式20mm高射機関砲も対戦車戦闘に参加、威力を発揮したという。(九八式20mm高射機関砲を装備した部隊がノモンハンに投入されたという日本側の記録は無く、類似した構造の九七式自動砲とみられる。)
ノモンハンの戦場で最も厚い装甲をもっていたのは、日本軍の4両の九七式中戦車(最大装甲厚25mm)であった。ただし、対戦車戦闘をまったく考慮していない八九式中戦車と九七式中戦車の短砲身57mm砲の装甲貫徹力は、ソ連軍戦車の長砲身の45mm砲に大きく劣った。さらに希少金属の制約により弾頭の金質が劣っていたこと[38][39]や、徹甲弾 (AP) でなく弾頭内に炸薬を充填した徹甲榴弾 (AP-HE) を主用したために、総合的に日本軍の戦車砲・対戦車砲の徹甲弾の強度は劣っていた。また歩兵直協を旨とする日本戦車に搭載された徹甲弾の数は少なかった。実際に戦車第3連隊長吉丸大佐は、当時最新の九七式中戦車でこの戦いに参加したが、7月3日にピアノ線に絡まり立ち往生した際にBT-5などの砲撃により撃破され、戦死している。しかし一方、射撃の腕は訓練をつんだ日本兵の方が優れ、小隊単位で砲撃し、たとえ装甲を貫徹できなくてもBTやT-26の機関部付近を狙撃、ガソリンタンクに引火させ撃破するなど、かなり健闘している。また8mmの装甲しか持たない装輪装甲車は脆弱で、しかもタイプによっては乗員の頭上にガソリンタンクがあるという構造的欠陥もあり、7.7mm重機関銃の徹甲弾の集中射撃や九二式十三粍車載機関砲の13.2mm弾でも撃破可能であった。
日本の戦車は、比較的装甲の薄いソ連戦車との戦闘でさえも質・量ともに苦戦を強いられた。数ではソ連軍が500両以上の戦車を投入したのに対して、日本軍は戦車第三連隊(八九式中戦車26両、九七式中戦車4両、九四式軽装甲車11両、九七式軽装甲車4両)と戦車第四連隊(八九式中戦車8両、九五式軽戦車35両、九四式軽装甲車4両)と戦車合計で73両、装甲車を加えても合計92両を投入したに過ぎず、また戦車部隊が戦闘に参加した期間は、実質的には7月2日夜から6日までに過ぎなかったが、このわずか4日間で、73両の戦車(九七式中戦車4両、八九式中戦車34両、九五式軽戦車35両)のうち30両近くが撃破された。このうち7月10日までに修復可能な17両が部隊復帰している。戦車第4連隊の九五式軽戦車のうち1両は、7月2日夜の戦闘において損傷後に回収出来ず放棄され、ソ連軍に鹵獲されることになる。
関東軍中央は、数日の間に大きな損害を受けた戦車部隊を撤退させたが、テンプレート:要出典範囲。戦車部隊の撤退によって、現地部隊はますます歩兵による戦車攻撃に依存せざるをえなくなる結果となったが、多くの敵戦車を対戦車砲や野砲で撃破した。
ノモンハンの戦場では、張鼓峰に引き続き、日本の歩兵とソ連の戦車との間で対戦車戦闘が繰り広げられた。日本軍歩兵は戦車に対して対戦車砲の待ち伏せで対応、さらに地雷工兵と火炎瓶部隊が加わった。日本軍の対戦車戦闘は制式に採用されていない火炎瓶が支えたと考えられた。発火性の強いガソリンエンジンを装備するソ連戦車は、火炎瓶攻撃の前にたやすく炎上した。ただしソ連崩壊後に公開された資料により、地雷や対戦車砲で行動不能になった状態で炎上させられた物は多いが、機動力を失わない状態で撃破された物はごく少ない(対戦車砲による損害が75~80%なのに対し、火炎瓶によるものは5~10%)ことが判明している。しかしソ連戦車隊は後に戦闘隊形を変更、前衛の戦車を後衛が支援する戦術で地雷工兵や火炎瓶攻撃を封殺、その成功率を激減させた。なお日本語の資料では「機関部の周囲に金網を張って火炎瓶避けにしたり、発火性の低いディーゼルエンジン装備の戦車を配備すると、効果がなくなった」などと記述されているが、ソ連・ロシア側の研究ではこういったことは全く記述されていない。またBT自体もより詳しく考証され、ディーゼル型のBT-7M(後にBT-8)はノモンハン事件より後の12月から軍に引き渡されたことが記録されているなど、時期的にも否定的な要因が多い。
他兵科との協同を軽視したのは日本軍戦車部隊も同様であった。7月3日に敵陣地に対する正面攻撃を実施した戦車第3連隊は、陣前に張られたピアノ線に履帯を絡めとられた。ピアノ線は細く戦車からの視認は困難であり、また単なる針金とは異なりピアノ線は絡まると太いワイヤー状となって引き千切れにくくなったり、戦車の覆帯、転輪や駆動輪など回転部に絡まると摩擦熱で溶着してしまい戦車が行動不能となった。装甲が薄い日本戦車は被弾すれば必ず撃破されるため、敵前での停止は致命的であった。大損害を受けてから歩兵との協同行動の必要を認識したが、ノモンハンで再戦する機会は来なかった。
ソ連軍で最も損害の大きかった部隊は第11戦車旅団であった。緒戦よりBT-5で戦闘に参加し大きな損害を出し、7月23日~8月28日の間にBT-7を155輌供給されていた。8月20日にはBT-5やBT-7など154輌で戦闘に参加、しかし続発する損害や故障に修理や補給が追いつかず、30日には稼働38輌・死傷者349名と、再び壊滅状態に陥っている。
戦後、ノモンハン従軍の元日本兵に日本のTV局が番組取材で収録した記録によると、ソ連戦車には乗員ハッチ外側から南京錠による施錠がなされていたとの証言がある。逃亡を防ぐ目的及び督戦のための処置ではないかとの証言であった。ハッチが外側から施錠されているため戦車が撃破された場合乗員は脱出できず、脱出していれば助かったであろう命が失われたことになる。
両軍が得た軍事的教訓
テンプレート:出典の明記 両軍とも、ノモンハン事件を局地戦とみなした。
- ソ連では、ノモンハンでの勝因を押し広げようとしなかった。赤軍の兵站組織は旧態依然で、量的にも不十分であった。戦車は歩兵支援のために分散され、戦略的規模で用いる機動打撃軍は作られなかった。ソ連軍は、むしろ1939年のソ連・フィンランド戦争から、陣地防御への信頼を強めた。1941年1月にジューコフが参謀総長になっても、目立った改革は起きず、赤軍は独ソ戦初期に壊滅的損害を被った。
- 日本では、軍部の威信低下を避けるため、国内に対してテンプレート:要出典範囲。また、軍内部においてはテンプレート:要出典範囲、テンプレート:要出典範囲。一般の日本人がテンプレート:要出典範囲を知ったのは、戦後になってからだった。陸軍はノモンハン戦後に「ノモンハン事件研究委員会」を組織しテンプレート:要出典範囲を研究したが、装備の劣勢や補給能力の低さを認識したものの抜本的なドクトリンの改革には結びつけず、“軍の伝統たる精神威力の更なる鍛錬を”とのテンプレート:要出典範囲。
- ノモンハン事件以前より日本側の戦車や対戦車砲の対戦車性能の不足はある程度認識されており、試製九七式四十七粍砲やBT戦車と同級の47mm戦車砲を搭載した試製九八式中戦車などの開発が行われていた。ノモンハン事件の発生を受け、事件直後の1939年9月には試製九七式四十七粍砲を発展させた一式機動四十七粍砲の開発が開始され、また1940年9月に試製九八式中戦車の試製47mm戦車砲を九七式中戦車に搭載する試験(後の一式四十七粍戦車砲を搭載した新砲塔チハの基となった)が行われるなど、戦車や対戦車砲の対戦車性能を向上させる試みが行われた。だがこれら新装備の開発や配備は進まず、一式機動四十七粍速射砲や新砲塔チハの配備が行われたのは数年後の1942年になってからであり、戦車や対戦車砲の対戦車性能を改善する教訓は十分に生かされたとは言えなかった。太平洋戦争後半においては、新型戦車や新型対戦車砲の生産も投入も間に合わず、結果として第二次世界大戦末期に至るまで旧式な装備の使用を続ける事となり、連合軍の戦車・対戦車装備との陸上戦で苦戦する一因となった。
- 反面、日本陸軍の航空機・装備開発や運用面では大きな影響を与えた。防弾装備(防弾鋼板、防漏燃料タンク、風防防弾ガラス)の研究・装備、無線装備(無線電話)の質向上と効果的利用、単機空戦から編隊空戦への移行・強化、飛行戦隊(独立飛行中隊)と飛行場大隊(飛行場中隊)の空地分離など、陸軍航空の更なる近代化を重視する考えが内部に生まれた。また、将来は陸軍航空隊の中核幹部となる若手将校・下士官らベテラン・パイロットを多数失ったことは、陸軍戦闘機隊の崩壊さえ招きかねない事態と危惧され、下士官からの叩き上げパイロットへの陸軍航空士官学校における部隊指揮官教育を経ての将校登用(少尉候補者制度)を積極的に進め、さらに少年飛行兵の募集を強化するなど、海軍に先駆けて航空戦力の拡充を図る端緒となった。
- 九七戦がソ連軍機に対してその旋回性能が最後まで強力な切り札だったことから、陸軍航空隊では格闘戦重視の軽戦闘機が主流となったが、一方で高速重武装(重戦闘機)へと発展を遂げている世界情勢もノモンハンでの戦訓と相まり強く認識され、太平洋戦争開戦に至るまで卓上では最後まで結論は出なかった。そのため運動性重視の軽戦一式戦「隼」と、速度と武装重視の重戦二式単戦「鍾馗」の二つの単座戦闘機がほぼ同時期に採用・実用化され、のちにバランスの取れた四式戦「疾風」へと進化した。
両軍の損失
日本軍の損失
ノモンハン事件の戦闘経過についての日本語文献は、主として日本側の資料に頼って書かれている。他の西側諸国の研究も同じである。当時の日ソ両国が公表した情報は信用されていなかったが、研究者間では、日本軍惨敗という見方が有力であった[40]。この見方は戦後日本軍が受けた甚大な損害が明らかになって広く定着した。
事件後に第6軍軍医部が作成した損害調査表によれば、日本軍は出動した58,925人[41]のうち損失は次のようになっている。
日本軍の動員兵力は満軍騎兵とあわせて7万6千人だったが、その約半数は停戦間際の到着であった[44]。人員面では判明参加兵力の32.2%が失われ、特に第23師団は79.0%の損失であった。コロミーエツによれば、日本軍1万8千人の損害に満州国軍の損害は含まれていない[45]。
- 1939年11月15日のソ連第1軍集団参謀部が労農赤軍参謀総長シャポーシニコフに提出した「1939年ハルハ河地区作戦に関する報告書」によれば、7月と8月の戦闘だけで、日本軍の死傷者数は、4万4,768名(戦死者1万8,868名、負傷者2万5,900名) に達した[46]。
- 1946年のシーシキン大佐の本[47]では、日満軍の損失の総計は5万2,000から5万5,000、そのうち、死者だけで2万5,000人と記述した[48]。
- 1993年のクリヴォーシェフ監修本でも日本の戦死者数は約2万5,000人とした[49]。他方、ソ連軍中央国家文書館(ЦГАСА)の文書によれば、戦死者18,300人、戦傷者3,500人、捕虜566人(88名は捕虜交換)、遺体引渡し6,281体であった[50]。
- また、ロシア国防省公史料館蔵資料によれば、日本満州軍の戦死者1,8155名、負傷者・行方不明:30,534名で、合計48,649人であった[51]。
ソ連軍の損失
ソ連崩壊後の資料公開
ソ連崩壊以前、ソ連軍の全死傷者数は9284人と公表されてきた[52]。ソ連側の損害については正確な数字は公開されてこなかったが、1990年代からはソ連側資料が公開された。それまでの日本側資料と比べると実際ははるかに多くの損害を出していたことが明らかになった[53]。ソ蒙軍は8月攻勢に参加しただけで5万7千人[54]で、動員兵力総数は23万人にものぼった。
1991年のロシア国防省戦史研究所のワルターノフ大佐の報告では、戦死傷者:18,815人、戦死・行方不明:3,435人、戦傷者15,286人、捕虜94人であった[55]。
1993年のクリヴォーシェフ『秘区分解除』によれば、ソ連軍の損害は23,926人(戦死6,831人、行方不明1143人、戦傷者15,251人、戦病者701人)であった[56]。
2001年のロシア共同研究『20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析』によれば[57]、
- ソ連軍戦死:9,703人[58]
- 戦傷・戦病:約15,952名[59](約16,000名とする見解もある)
- モンゴル軍死傷者990名[63]
- ソ連軍・モンゴル軍合計:26.645人[64]。
- 航空機損失:約350機(1673機とする説もあり、それによれば航空戦のほか日本軍による高射砲攻撃で180機、戦車で26機、歩兵攻撃で3機が撃墜された[42])
- 装甲車両損失:約400両(戦車253両、装甲車144両)(800両以上とする見解もある[42])
これらのソ連崩壊以降の統計によれば、ソ連軍も大損害を受けており、ノモンハン戦が一方的な結果だったという見方は改められた。戦闘の経過を見ると、7月までは一進一退の攻防となり、8月のソ連による大攻勢では日本軍は一方的な劣勢に陥った。ただし、9月のハンダガヤ方面における戦闘では、陸戦、航空戦ともに日本軍が優勢であった。
日本では辻政信らがノモンハン戦で日本は負けていなかったと主張していた。本当は勝てたはずだったのだが、東京から制止されたために負けたことにされてしまったとするものである。
他方、ソ連でもピョートル・グリゴレンコの回想によれば、ソ連軍作戦参謀が「もし日本がドイツ側について参戦したならば、われわれは終わりだった」と語っている[65] [66]。
第二次世界大戦後の動向
研究
1980年代末期より、消滅した満洲国を除く日本、モンゴル、ソ連の3当事者の学者たちによる共同の働きかけにより、この軍事衝突を研究する国際学会が1989年にモンゴルの首都ウランバートル、モスクワで、1992年に日本の東京で開催された。東京の学会は「ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム」と名づけられ、席上、ロシア軍のワルターノフ大佐は、従来非公開だったソ連・モンゴル軍全体の損害(死傷者及び行方不明者)について、日本軍よりも多くの損害を出していたことを明らかにした[67][68]。2009年9月、軍事史学会と偕行社近現代史研究会が主催し、シンポジウム「ノモンハン事件と国際情勢」が開催された[69]。
勝敗の評価・歴史認識
1990年代以降、ソ連軍の損害が明らかになると、一部の研究者の中に日本側がむしろ勝っていたとする説も登場した[70]。またロシア側により発見された史料による「日本側の被害」は日本側が公表している数値よりもはるかに多い人数をあげており、互いに相手に与えた損害を過大に見積もっている[71]。日本軍は決して惨敗したのではなく、むしろ兵力、武器、補給の面で圧倒的優位に立っていたソ連軍に対して、ねばり強く勇敢に戦った、勝ってはいなくても「ソ連軍の圧倒的・一方的勝利であったとは断定できない」との見解も登場した[72]。秦郁彦も「一般にノモンハン事件は日本軍の惨敗だったと言われるが、ペレストロイカ以後に旧ソ連側から出た新資料によれば、実態は引き分けに近かった」として、ほか「損害の面では、確かに日本軍のほうが少なかった」「領土に関していえば、一番中心的な地域では、ソ連側の言い分通りに国境線が決まったが、停戦間際、日本軍はその南側にほぼ同じ広さを確保してしまう。それがいまだに中国とモンゴルの国境問題の種になっています」と指摘している[73]。
前線の日本軍将兵の戦いぶりが非常に勇敢であったことは、ソ連側の損害が明らかになる以前から知られており、ジューコフも前線の日本軍将兵の優秀さを認めており、ミシガン大学のロジャー・ハケット教授との会談の中で、「貴方の軍人としての長い生涯の中で、どの戦いが最も苦しかったか」という質問に対し、即座に「ハルビン・ゴールの戦い(ソ連側におけるノモンハン事件の呼称)だ。」と答えている。しかし、戦争の勝敗は損害の量の多寡によって決まるわけではない。特にノモンハン事件に限らず、のちの冬戦争・継続戦争・大祖国戦争(独ソ戦)でも圧倒的な人員・兵器・物資を投入し、結果として勝利のためには大損害を厭わないソ連を相手とする戦いでは損害の大きさは意味を成さないとされる。
また、ソ連側は二正面作戦を避けるために独ソ不可侵条約によって後顧の憂いを断つなど、この事件を単なる国境紛争ではなく本格的な戦争として国家的な計画性を持って対応したのに対して、日本側は政府が全く関与していなかったばかりか、日本軍の中央もソ連軍が大規模な攻勢に出る意図を持っていることを見抜けず自重するように指導した為、関東軍という出先軍の、辻政信と服部卓四郎など一部の参謀の独断専行による対応に終始した。 福井雄三は著書で「10倍近い敵に大被害を与えて足止めをした実戦部隊は大健闘、むしろ戦術的勝利とも言えるが、後方の決断力欠如による援軍派遣の遅れと停戦交渉の失敗のため戦略的には敗北した」と結論付けている[74]。モンゴルでは日本軍の戦死者は5万と伝えられている。 元ソ連参謀本部故ヴァシリイ・ノヴォブラネツ (Василий Новобранец) 大佐の手記では、『ノモンハンで勝ったのは、兵力と武器類の面で優位に立っていたからであり、戦闘能力で勝利したのではない』と書いている。
半藤一利は2000年に「勝ち負けをいいますと、これは国境紛争で、停戦のとき、向こうの言い分通りに国境を直してますから、負けですね。しかし、戦闘そのものは互角だった」と述べ[75]、また2004年の著作では最新鋭の装備であったソ連軍に対して日本軍は白兵攻撃であったわけで、結果は惨憺たるもので「日本軍が勝ったなどとてもいえません」と述べている[76]
須見新一郎は戦後このように述べている。「(小松原師団長は)あのソビエト軍をなめているなというかんじですな。あまくみているということですわ。」 「でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく、当時の小松原中将およびそのあとにきた荻洲立兵中将は、第一線の部隊が思わしい戦いをしないからこの戦いが不結果終わったようなことにして、各部隊長を自決させたり、処分したりしたんですね。」「責任を負って死ねと。このようなことで、非常に残念なことですが、当時の自分の直属上司はもとより、関東軍と陸軍省も参謀本部も、この戦闘についてちっとも反省しておらなかったと思います。また停戦協定後、参謀本部や陸軍省から中佐・大佐クラスの人が見えましたが、みんな枝葉末節の質問をするんで、私の希望するような、その急所を突くような質問はひとつもないんですね。」[77]
ロシアの歴史認識
このような勝敗認識については、単なる史実研究を超え現代における国家の名誉に関わりかねない神経質な論点を含んでいる。こういった「歴史の見直し」の動きに対してソビエト崩壊後は比較的容認の態度にあったが、再び「強いロシア」を標榜するようになったロシアは神経を尖らせており「正義の戦いに勝利した解放者=ソ連」という従来の歴史認識を堅持しようとしている[78]との批評がある。2009年8月6日、ウランバートルで開かれた「ノモンハン事件70周年」の記念行事に出席したメドベージェフ大統領は「この勝利の本質を変えるような捏造は容認しない」と演説した[79]。
日本側戦死者の遺骨収集
日本側戦死者約8,000人のうち、約4,500人の遺体は日本軍が収容したが、約3,500人の遺骨が第二次世界大戦後も中国・モンゴル国境付近に残存しているとされる[80]。日本政府は遺骨の収集を要望していたが、2003年11月21日、モンゴルのナンバリーン・エンフバヤル首相は、日本の小泉純一郎首相との会談にて、これを容認する考えを示した[81]。
ノモンハン事件を描いた作品
- 映画
- 『戦争と人間 第三部 完結編』(日本、山本薩夫監督、1973年)
- 『マイウェイ 12,000キロの真実』(韓国、カン・ジェギュ監督、2011年)
- 小説
- 『ノモンハン』(五味川純平、1975年、文春文庫)
- 『静かなノモンハン』(伊藤桂一、1983年、講談社2005年、ISBN 4-06-198410-1)
- 『ビルマの虎--ハッピータイガー戦記』(梅本弘、1993年)
- 『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹、1995年)
- 紀行
- 漫画
- 『虹色のトロツキー』(日本、安彦良和著、1990-1996年)
- 『ハッピータイガー』(日本、小林源文著、1991年)
- 『ゴルゴ13』(日本、さいとう・たかを、2005年)コミック第162巻の第535話「ノモンハンの隠蔽」。[83]
参考文献
- 「満ソ両国間の国境問題経緯」満州日報1935年5月27日(昭和10)
- 「満洲事変五年小史」満州日日新聞1936年9月18日(昭和11)
- 陸軍省技術本部第二部「第1回陸軍技術研究会、兵器分科講演記録(第1巻)」昭和17年4月、アジア歴史資料センター Ref.A03032065000
- 防衛研修所戦史室 『関東軍(1)対ソ戦備・ノモンハン事件』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1969年。
- ゲ・カ・ジューコフ 『ジューコフ元帥回想録 革命・大戦・平和』 朝日新聞社 1970年(「日本軍は下士官兵は優秀だが、高級司令官は無能」という著名な見解も本書のなかで述べられている)ASIN: B000J9HRV2
- 加登川幸太郎 「帝国陸軍機甲部隊」白金書房、1974年。
- 御田重宝『人間の記録 ノモンハン戦 攻防戦・壊滅編』1977年、(徳間文庫,1989)
- 東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』(中公文庫1989)
- Alvin D. Coox, Nomonhan: Japan against Russia, 1939 vol.1, 2 (Stanford University Press,1985) ISBN 0804718350。原文(和訳:アルヴィン・D・クックス(岩崎俊夫、吉本晋一郎 訳)『ノモンハン―草原の日ソ戦 1939』(上)(下)(朝日新聞社、1989年) ISBN 4022560460 ISBN 4022560673)
- 半藤一利『ノモンハンの夏』(文藝春秋, 1998年。文春文庫, 2001年)
- 秦郁彦『昭和史の謎を追う』(上)(文藝春秋)
- 鎌倉英也『ノモンハン 隠された「戦争」』 NHKスペシャルセレクション (日本放送出版協会、2001年) ISBN 4140805889
- 小田洋太郎・田端元『ノモンハン事件の真相と戦果』原史集成会 (2002年)
- 月刊グランドパワー 2002年10・11月号 BT快速戦車シリーズ (デルタ出版)
- マクシム・コロミーエツ『独ソ戦車戦シリーズ7 ノモンハン戦車戦 ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い』小松徳仁(訳)、鈴木邦宏(監)、大日本絵画、2005年、ISBN 4499228883
- シーシキン他、田中克彦(編)『ノモンハンの戦い』、田中克彦(訳)、岩波書店、2006年、ISBN 4-00-603127-0
- 渡辺勝正『杉原千畝の悲劇』 (大正出版、2006年) ISBN 4-8117-0311-1
- マンダフ・アリウンサイハン「ノモンハン事件発生原因と国境線不明論」一橋論叢135巻2号 (2006.2)
- マンダフ・アリウンサイハン「モンゴル・ソ連相互援助規定書の締結と日本・ソ連・中国」『一橋社会科学』2007年。
- 三浦信行、ジンベルグ・ヤコブ、岩城成幸「日露の史料で読み解く「ノモンハン事件」の一側面」」(アジア・日本研究センター紀要 (5), 73-95, 2009)[1][2]
- Tumurbaatar Narmandakh「ノモンハン事件(ハルハ河戦争)の歴史的研究―共同研究の経緯」立命館文學 622, 105-91, 2011
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:Link GA
- ↑ 歴代陸軍大将全覧 昭和篇/満州事変・支那事変期187~191ページ
- ↑ 推定数。中山隆志「ノモンハン事件の教訓」[3]
- ↑ 第一次事件も含むすべての累計出動人数。推定数。中山隆志「ノモンハン事件の教訓」
- ↑ 航空部隊、兵站関係部隊等を除く。マクシム・コロミーエツ「ノモンハン戦車戦」による。直接の引用は中山隆志「ノモンハン事件の教訓」
- ↑ 綴りはモンゴル式では「Халхын гол」、ロシア式では「Халкин-Гол」ないし「Халхин-Гол」。中国語表記はテンプレート:Lang-zh。
- ↑ 田中克彦『ノモンハン戦争-モンゴルと満洲国』岩波新書、2009年
- ↑ マクシム・コロミーエツ 『ノモンハン戦車戦』 大日本絵画〈独ソ戦車戦シリーズ〉、2005年、31~32頁。
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 一連の経過は小規模紛争期(1934年以前)、中規模紛争期(1935~1936年)、大規模紛争期(1937~1940年)に区分することができる。「満州国建国(昭和七年)以降満ソ国境紛争に関する概見表」戦史叢書 関東軍(1)、310~311頁。
- ↑ 戦史叢書 関東軍(1)、329~331頁。
- ↑ 戦史叢書 関東軍(1)、311~312頁。
- ↑ 森山康平『はじめてのノモンハン事件』PHP研究所 2012年
- ↑ 戦史叢書 関東軍(1)、314頁。
- ↑ 戦史叢書 関東軍(1)、320、328~329頁。
- ↑ アリウンサイハン(2007年)p21
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- ↑ 戦史叢書 関東軍(1)、314~315頁。
- ↑ アリウンサイハン(2007年)p26
- ↑ アリウンサイハン(2007年)p33
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- ↑ アリウンサイハン(2007年)p21
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- ↑ アリウンサイハン(2007年)p35
- ↑ アリウンサイハン(2007年)p38
- ↑ 戦史叢書 関東軍(1)、329、332頁。
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- ↑ 三浦、ジンベルグ、岩城2009.p93
- ↑ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 171ページ
- ↑ 「第1回陸軍技術研究会、兵器分科講演記録(第1巻)」21頁。
- ↑ 「第1回陸軍技術研究会、兵器分科講演記録(第1巻)」23頁では押収されたラ式37mm対戦車砲の1937年製の弾丸と概ね同等とされており、同資料においては「タングステン」弾を他国の同種の弾丸と同等のものとして各種の計算を行っている。
- ↑ 三浦、ジンベルグ、岩城2009.p75
- ↑ 41.0 41.1 41.2 41.3 半藤一利『昭和史 1926-1945』(平凡社、2004年)p231
- ↑ 42.0 42.1 42.2 42.3 42.4 小田洋太郎、田端 元 『ノモンハン事件の真相と戦果』原史集成会 (2002)p51
- ↑ 三浦、ジンベルグ、岩城2009.p76
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- ↑ アリウンサイハン2006,p145
- ↑ アリウンサイハン2006,p145
- ↑ 『ソヴィエト赤軍攻防史II 歴史群像第二次大戦欧州戦史シリーズ15』(学研)。
ソ連側装甲車輌の損失数は下記がより具体的である。マクシム・コロミーエツ著 『独ソ戦車戦シリーズ7 ノモンハン戦車戦』(大日本絵画) - ↑ コロミーエツ、101、125頁。
- ↑ 三浦、ジンベルグ、岩城2009.p76
- ↑ 三浦、ジンベルグ、岩城2009.p76
- ↑ アリウンサイハン2006,p145
- ↑ アリウンサイハン2006,p145
- ↑ アリウンサイハン2006,p145
- ↑ アリウンサイハン2006,p145
- ↑ 小田、田端「ノモンハン事件の真相と戦果」でも同値
- ↑ コロミーエツ、101、125頁
- ↑ アリウンサイハン2006,p145
- ↑ アリウンサイハン2006,p145
- ↑ Grigorenko,Memoirs,trsl.by T.P.Whitney,N.Y.1982,p.132
- ↑ 三浦、ジンベルグ、岩城2009.p77
- ↑ 三代史研究会『明治・大正・昭和30の「真実」』文春新書、126ページ。
- ↑ 東京の国際シンポジウム記録は、ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム編『ノモンハン・ハルハ河戦争』(原書房)として出版されている。
- ↑ 両主催団体の公式サイト参照。
- ↑ たとえば小田洋太郎、田端元『ノモンハン事件の真相と戦果-ソ連軍撃破の記録』有朋書院、2002年。参照:日露の史料で読み解く「ノモンハン事件」の一側面」三浦信行、ジンベルグ・ヤコブ、岩城成幸(アジア・日本研究センター紀要 (5), 73-95, 2009)[4][5]
- ↑ 「日露の史料で読み解く「ノモンハン事件」の一側面」三浦信行、ジンベルグ・ヤコブ、岩城成幸(アジア・日本研究センター紀要 (5), 73-95, 2009)[6][7] P.76
- ↑ 「"ノモンハン" は日本軍の一方的敗北ではない」三代史研究会『明治・大正・昭和30 の"真実"』文春新書、2003年、pp.122-
- ↑ 阿川弘之他『二十世紀日本の戦争』(文春新書、2000年)p.122
- ↑ 福井雄三『坂の上の雲に隠された歴史の真実 明治と昭和の歴史の虚像と実像』
- ↑ 『昭和史の論点』(2000年、文春新書)p117
- ↑ 『昭和史 1926-1945』(平凡社、2004年)p232
- ↑ 『証言私の昭和史 ②戦争への道』文春文庫1089443p 447p
- ↑ 「大戦70年、露、歴史見直し拒否」産経新聞2009年8月28日
- ↑ 「日露の史料で読み解く「ノモンハン事件」の一側面」三浦信行、ジンベルグ・ヤコブ、岩城成幸(アジア・日本研究センター紀要 (5), 73-95, 2009)[8][9] P.75
- ↑ テンプレート:Cite news
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- ↑ この紀行集の中の「ノモンハンの鉄の墓場」に、戦車の残骸等の写真も多数掲載。
- ↑ 現代日本とフィリピンを経て、たどり着いた現代のノモンハンに隠された「ノモンハン事件当時の真実」をめぐるストーリー。