日ソ基本条約
テンプレート:条約 日ソ基本条約(にっソきほんじょうやく、英正文:Convention Embodying Basic Rules of the Relations between Japan and the Union of Soviet Socialist Republics)は、1925年(大正14年)1月20日に日本とソビエト連邦との間で締結され同年2月25日に批准された二国間条約。日ソ基本条約は通称で、日本語における正式の条約名は日本國及「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦閒ノ關係ヲ律スル基本的法則ニ關スル條約(にっぽんこく および ソヴィエト しゃかいしゅぎ きょうわこく れんぽう かんの かんけいを りっする きほんてき ほうそくに かんする じょうやく)といった。
日ソ基本条約は、ロシア革命以後の同国を支配するソビエト共産党政権と日本国政府との間で、国交を正常化するための基本原則を定めたもので、これが日ソ間における初の二国間条約となった。
締結に至る経緯
1917年のロシア革命で共産主義を掲げるボリシェヴィキのソビエト政権がロシアの中央政権を奪取すると、共産主義の極東への波及を恐れた日本は、同じくソビエトを敵視するイギリス・フランス・イタリアなどの諸国と歩調をあわせてロシア内戦への干渉を決定、1918年初頭にイギリスと共同で居留民保護を名目とした艦隊をウラジオストクに派遣、同年夏にはシベリアで孤立するチェコ軍団の救出を名目としてシベリア出兵を開始。ソビエト政権と日本との間の関係は決定的な対立に陥っていた。1922年、日本軍は撤兵を声明し、9月に日ソの間でもたれた長春会議は決裂するものの、10月までに日本軍は最終的な撤兵を完了する。しかし、依然として北樺太には尼港事件をきっかけとして追加出兵した日本軍が駐留していた。
長春会議決裂と日本軍撤兵にともなって、ソ連は極東地区における緩衝国として維持していた極東共和国を廃止して併合し、1923年より日ソ国交正常化のための直接交渉に入る。中国の北京で行われた交渉は、同年の予備交渉を経て1924年5月から日本側代表芳沢謙吉とソ連側代表レフ・カラハンの間での正式交渉に入り、1925年1月20日に至って北京で日ソ基本条約が締結された。
日ソ基本条約および議定書の内容
議定書
- 日本軍の北樺太撤退期限
- 日本側の北樺太石油利権に関する規定
条約調印に至る日本側の背景
もともと日本政府の首脳は共産主義への敵視が強かったため、シベリアからの撤兵後も国交正常化の動きには冷淡であった。しかし、ソビエト連邦の安定化とともに、冷却した日ソ関係が日本経済に大きな不利益を発生させていた。例えば、敦賀港・舞鶴港を通して沿海州と貿易を行っていた関西財界は輸送網を遮断されてしまい、オホーツク海で漁業を行っていた漁師らは、ソ連の沿岸住民らの妨害にさらされた。このようにして、世論にはソ連との修好回復を望む声があらわれたので、日本も国交正常化に前向きとならざるを得なかった。
またソ連は、極東では混乱の渦中にあった中国との連携を図っており、まず1919年のカラハン宣言では、中国との対等関係の国交の樹立、中東鉄道(東清鉄道が改称)の還付を約束し、さらに広東の孫文政権に協力した。日本は満洲を根拠とする軍閥張作霖を篭絡していたものの、叛服常なき張を扱いかねていた。こうした中にあって、中国での権益を守るためにも国交を樹立すべきことを真剣に唱えたのが、初代満鉄総裁で外務大臣の経験もある後藤新平だった。後藤は、日本が極東で利権を確保するためにはイデオロギーの問題に捉われずにソ連と友好関係を結ぶことが必要であり、またワシントン条約で日本が列国に閉塞させられた状況を打開するには国際秩序にソ連を再び引きずり込む必要があると考えた。こうして後藤は右翼勢力の反発がありながらも交渉に取り組む。
ポーツマス条約で日本が得た沿海州沿岸の漁業権と並んで日ソの交渉の中で問題となったのは、日本軍が駐留を続ける北樺太に眠ると見られていた石油・石炭資源の利権を巡る問題だった。交渉の結果、ソ連側は駐留日本軍の撤退と引き換えに北樺太の天然資源の利権を日本側に与えることで決着した。こうして日本側は出兵の代償をわずかに確保して面子を立て、日ソ基本条約に調印するに至った。
参考項目
外部リンク
- 大正14年(1925)2月|日ソ基本条約が結ばれる:日本のあゆみ(国立公文書館)