極東共和国

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極東共和国(きょくとうきょうわこく、ロシア語Дальневосточная Республика ダリニヴァストーチュナヤ・レスプーブリカ、略称:ДВР デーヴェーエール英語:Far Eastern Republic)は、1920年3月7日ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ソビエト政権が日本シベリア出兵に対峙すべく建国し、1922年11月19日まで存在した短命な極東緩衝国家

地域

現在のロシア極東部バイカル湖以東のシベリア鉄道アムール川に沿った地域。現在のブリヤート共和国ハバロフスク地方沿海州などに当たる。当初はカムチャツカ半島ベーリング海峡にまで及ぶ広大な領土を与えられたが、1920年12月30日のモスクワ政府との国境条約で、カムチャツカ州を譲渡した。

首都は当初ヴェルフネウディンスク(現在のウラン・ウデ)にあったが、1920年10月以降はチタにおかれた。このためチタ共和国と呼ばれることもある。

歴史

ファイル:Stamp Far Eastern Republic Chita 1922 20k.jpg
チタで発行された極東共和国の切手

1919年にソビエト政権打倒を掲げてシベリア出兵が開始され、特にその中核である日本軍がバイカル湖西岸までにいたるシベリア鉄道沿線を中心とするロシア極東地域を占領。しかし日本が支持した白軍の主力たるコルチャーク軍が1920年1月、赤軍ならびにパルチザンの攻勢により瓦解すると、アメリカの圧力等も加わり日本政府の態度は動揺を始め、シベリアからの撤退も検討されはじめた。

他方、ソビエト政権は国内行政機構および経済機構の混乱のため、ならびにポーランドとの間に高まりつつある戦争の脅威のため、日本との直接対決を避ける必要があった。また辺境地帯に対する自治または独立の承認(例えば、ポーランド、バルト三国フィンランドベッサラビア等)は、ボリシェヴィキ政権の政策と実践に硬く根を下ろしていた。ためにブルジョア民主主義を掲げた緩衝政権の樹立を構想し、クラスノシチョーコフを首班として、社会革命党などの協力を得て成立させた。しかし、コルチャークと戦った指導的な赤軍将校ブリュヘルが共和国軍の最初の司令長官となったことからも明らかなように、実際にはボリシェヴィキの影響力が強く、占領を続ける日本軍との対決を続けた。

その後、1922年10月にウラジオストクの陥落後、日本は北サハリンを除く地域から撤退。この共和国は存在意義を喪失し、ソヴィエト政権へ統合される事となった。

参考文献

  • E.H.カー『ボリシェヴィキ革命 ソヴィエト・ロシア史』、みすず書房、1967年。
  • 上杉一紀『ロシアにアメリカを建てた男』、旬報社、1998年。

関係項目

外部リンク

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