坂口安吾
テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox 作家 坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、エッセイスト。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。新潟県新潟市出身、東洋大学文学部印度哲学倫理学科卒業。純文学のみならず、歴史小説、推理小説、文芸から時代風俗まで広範に材を採るエッセイまで、多彩な領域にわたって活動した。終戦直後に発表した「堕落論」「白痴」などにより時代の寵児となり、無頼派と呼ばれる作家の一人、その後の多くの作家にも影響を与えた。
目次
生涯
生い立ち
新潟県新潟市西大畑町(現:中央区西大畑町)に、憲政本党所属の衆議院議員の父坂口仁一郎、母アサの五男、13人兄弟の12番目として生まれる。名前(炳五)の由来は、「丙午」年生まれの「五男」に因んだもの。坂口家は代々の旧家、大地主であり、「阿賀野川の水が尽きても坂口家の富は尽きることがない」と言われるほどの富豪だった。父仁一郎は、「阪口五峰」の号で著書『北越詩話』のある漢詩人でもあり、新潟新聞(現・新潟日報)の社長なども務めた。政治家としては、安吾が「三流の政事家であった」と言い[1]、若槻禮次郎、加藤高明らと、文学者としては会津八一と親交があった。仁一郎は政治活動に金銭を注ぎ、安吾の生まれた頃は家は傾きかけていた。アサは仁一郎の後妻で、安吾はこの傾いた家計を支えるのに苦労していた母親から愛されなかったという思いを抱いて成長する。また兄の献吉は、後に新潟日報社やラジオ新潟(現:新潟放送)の社長などを務めた。
幼少時は破天荒な性格で知られ、ガキ大将として近所の子供を引き連れ、町内や砂丘で遊び回る。立川文庫の『猿飛佐助』を愛読し、忍術ごっこに興じる。小学校での成績はよかったが、中学に入って近眼で黒板の字が読めなくなり、また横暴な上級生への反抗の気持ちが強くなってほとんど授業に出なくなり、海岸の砂丘の松林で寝転がるなどして過ごす。2年の時には4科目で不合格となり留年。家庭教師をつけられたりしたが逃げ回っていた。再び落第の恐れがあり、東京の私立豊山中学校(現・日本大学豊山高等学校)3年に編入、父や兄献吉らと東京府豊多摩郡戸塚町大字諏訪に住む。この時、「学校の机の蓋の裏側に、余は偉大なる落伍者となっていつの日か歴史の中によみがえるであろうと、キザなことを彫ってきた」と「いづこへ」に記している。
小説類は、早くから読んでおり、芥川龍之介、谷崎潤一郎などを愛読、反抗的な落伍者への畏敬の念が強く、他にエドガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレール、アントン・チェーホフなどにも影響を受けた。詩歌では石川啄木、北原白秋などを愛読、短歌を作り、仏教にも関心を寄せた。また日本史に興味を持ち『講談雑誌』を愛読。自伝小説「風と光と二十の私と」には、ボクシング小説「人心収攬術」の翻訳を、友人Sの名前で『新青年』に掲載したとあるが、今日当の記事は(結局掲載されなかったのか)見当たらない。18歳前後は、野球や陸上競技に熱中、5年次の1924年(大正13年)にインターミドル(全国中等学校陸上競技会、インターハイの前身)のハイジャンプで1m57cmの記録で優勝した。
1923年(大正12年)に父・仁一郎が死去し、1925年(大正14年)から兄と荏原郡大井町に転居。豊山中学校を卒業し、同郡世田ヶ谷町の荏原尋常小学校(現・若林小学校)の代用教員に採用され、その分教場(現・代沢小学校)の代用教員となる。
1926年(大正15年)に私立豊山中学校が真言宗の中学であったことから仏教に興味を持ち研究を決意し、代用教員を辞めて東洋大学印度哲学倫理学科(現・インド哲学科)に入学。睡眠時間を4時間にして仏教書、哲学書を読み漁る猛勉強の生活を1年半続けて、遂に神経衰弱に陥るが、サンスクリット語、パーリ語、チベット語など語学学習に熱中することで克服した。次いでラテン語、フランス語を学び、モリエール、ヴォルテール、ボーマルシェなどに触れて、アテネ・フランセに通い始める。ここでは賞をもらうほど成績優秀であり、また級友と読書会を行ったりした。この頃『改造』誌の懸賞小説に応募して落選する。
新進作家へ
1930年(昭和5年)東洋大学を卒業。本格的に20世紀フランス文学を学び始め、アテネ・フランセの友人葛巻義敏、江口清らと同人誌『言葉』を創刊。創刊号にマリイ・シェイケビッチ「プルウストに就てのクロッキ」の翻訳を掲載。翌年第2号に処女小説「木枯の酒倉から」を書き、小説家としての資質に自信を持つようになる。『言葉』は2号まで刊行後、5月に『青い馬』と改題して岩波書店から新創刊、創刊号に小説「ふるさとに寄する讃歌」、評論「ピエロ伝道者」、翻訳「ステファヌ・マラルメ」(ヴァレリー)、「エリック・サティ」(コクトー)を発表。続いて2号に散文ファルスとも言うべき「風博士」、3号に「黒谷村」を発表する。この「風博士」と「黒谷村」を牧野信一が激賞、島崎藤村と宇野浩二にも認められ、一躍新進作家として注目され、次いで「海の霧」「霓博士の頽廃」を発表。牧野信一主宰の春陽堂の『文科』に「竹薮の家」を連載。
1932年3月、『青い馬』は5号で廃刊、この最終号には「FARCEに就いて」を掲載。雑誌『文科』に「竹薮の家」を連載した頃、この同人の小林秀雄らと知り合う。また3月から京都に1か月ほど滞在し、大岡昇平を通じて加藤英倫、安原喜弘らと交遊して帰京。年末から翌年正月にかけて、青山二郎行きつけの酒場ウヰンザアで、加藤の紹介で矢田津世子と知り合い交際が始まる。1933年に田村泰次郎、井上友一郎、矢田らと同人誌『桜』に参加。5、7月に「麓」を連載するが、『桜』は第3号以降の刊行が難しくなり、10月に矢田とともに脱退。
1936年に矢田と絶交し、長篇『吹雪物語』の執筆を始める。翌年京都に下宿し、『吹雪物語』に専念しながら、碁会所を開くなど囲碁三昧の生活を送る。1938年に、安吾作品では最も長い700枚の渾身作「吹雪物語」を脱稿して上京するが、失敗作と評され失意に陥る。同年『文体』12月号に「閑山」、翌年2月に「紫大納言」を発表し、ファルスの文学で復活。私生活では取手の取手病院の離れに住み込み、1940年には取手の寒さに悲鳴をあげ、三好達治の誘いで小田原に転居。1941年に大井広介と出会い『現代文学』同人となって東京に出て、蒲田で母と住むようになるが、翌42年に母は息を引き取る。1944年に徴兵逃れのために日本映画社の嘱託となり、記録映画「黄河」などの脚本を書いたが映画化はされなかった。
戦時中は作品発表の場が大幅に減り、歴史書を読み漁り、「黒田如水」「二流の人」(戦後に発表)などを執筆していた他、エッセイ「日本文化私観」「文学のふるさと」「青春論」、自伝小説「二十一」などを執筆、創作集『真珠』は一部の表現が時局に合わないとして再版を禁じられた。
時代の寵児
1946年(昭和21年)4月に「堕落論」、6月に「白痴」を発表、敗戦に打ちのめされていた日本人に衝撃を与える。続いて「デカダンス文学論」「外套と青空」「女体」「恋をしにいく」「桜の森の満開の下」などを立て続けに発表。織田作之助、石川淳、太宰治らとともに「新戯作派」「無頼派」と呼ばれて時代の寵児となる。反響は大きく執筆のペースは大幅に増え、アドルム、ヒロポンを服用しながら次々と作品を発表し、また「道鏡」や「二流の人」と、独特の歴史観による作品も発表。また自伝的作品「石の思い」「いずこへ」「風と光と二十の私と」「暗い青春」などをこれらと並行して発表。1947年2月からは初の新聞連載小説『花妖』を、岡本太郎の挿絵で連載を開始するが、新聞小説としては型破りであったために読者の評判は悪く連載中断となってしまい未完となる。
この後は連作長編『金銭無情』などファルス的な作品が多くなり、8月に『日本小説』に推理小説『不連続殺人事件』の連載を始める。続いて『復員殺人事件』など推理小説も多く手がける。1947年10月に「青鬼の褌を洗う女」発表。また新宿の酒場「チトセ」で梶三千代を紹介され、秘書として手伝いをしてもらうようになり、結婚する。この頃写真家林忠彦と酒場ルパンで知り合い「カストリを飲む会」を通じ交友し、自宅の紙屑だらけの仕事場で撮られた写真も後に有名になった。
ちょうど太宰の自殺した1948年6月頃から、鬱病的精神状態に陥る。これを克服するために、短編やエッセイの仕事は断り、長編『火』の執筆に没頭する。しかし不規則な生活の中でアドルム、ヒロポン、ゼドリンを大量に服用したため、病状は更に悪化し、幻聴、幻視も生じるようになり、1949年1月に取材のために京都へ行った後には狂乱状態となり、夫人や友人達の手により2月に睡眠薬中毒と神経衰弱で東京大学医学部附属病院に入院。4月に薬品中毒症状と鬱病は治癒し退院。生活のために執筆を再開するが、軽く使用した薬物のために7月に病気再発、伊東に転地療養して健康を取り戻し、1949年4月読売新聞に「精神病覚え書」「僕はもう治っている」を掲載。この夏から夫人とともに伊東に移り、1950年1月には「肝臓先生」発表。続いて『安吾捕物帖』『安吾巷談』『安吾新日本地理』『安吾史譚』などを連載し評論家として活躍、巷談師を自称する。
末年
流行作家としての収入があっても使い切ってしまう安吾に税金を払わせようとする国税庁に腹を立て、1951年には税金不払い闘争を行い、差し押さえを受け、「負ケラレマセン勝ツマデハ」を書く。続いて伊東競輪のあるレースの着順に不正があったのではないかと調査し、当時の運営団体である静岡県自転車振興会を検察庁に告訴するという伊東競輪不正告訴事件を起こす。11月にはこれについて書いた「光を覆うものなし」発表し、その中で安吾は判定写真のすり替えによる不正を主張していたが、12月に嫌疑不十分で不起訴となった。この競輪告訴事件の泥沼化により伊東から離れて転々と居場所を変えることになり、石神井の檀一雄宅を経て、1952年2月に『現代文学』同人だった南川潤の紹介で桐生の書上家の離れに身を隠す。これらの間小説の執筆は激減するが、6月には「夜長姫と耳男」発表、10月から翌年3月まで新聞連載小説『信長』執筆。1953年4月、アドルムの大量服用で錯乱状態となったことで、南川とも絶縁。
1953年8月に檀一雄と信州に旅行し、ここで暴れて留置場に入れられ、釈放された朝、長男(綱男)の誕生を知る。子供が出来たために、財産が無いことを案じ(「人の子の親となりて」)、貯金をしようかという気になり始め(「近況報告」)、また子にはパパ、ママと呼ばせる(「砂をかむ」)。1955年、『中央公論』での連載『安吾新日本地理』連載のために高知へ取材、2月15日夜に桐生市の自宅へ戻り、17日朝に倒れ、脳出血により死去。テンプレート:没年齢。葬儀は青山斎場で行われ、新津市大安寺(現・新潟市秋葉区)の坂口家墓所に葬られた。ただし墓には安吾の名や戒名は一切印されていない。
小説としての絶筆は『中央公論』1月号の「狂人遺書」、没後にエッセイとして3月に「諦めている子供たち」「砂をかむ」、4月に「育児」「青い絨毯」「世に出るまで」が発表される。『知性』連載の『真書太閤記』は未完となった。
1949年から54年まで芥川賞選考委員を勤め、五味康祐「喪神」、松本清張「或る「小倉日記」伝」を強く推すなど新風を吹き込んだ。
1957年、新潟市寄居浜の護国神社境内に「ふるさとは語ることなし」の詩碑が建立された。また毎年2月17日は安吾忌が催されている。
作品
1946年に発表した「堕落論」は終戦後の暗澹たる世相の中で、戦時中の倫理や人間の実相を見つめ直し、「堕ちきること」を考察して多大な反響を呼んだ。小説「白痴」との2作によって安吾は戦後の世相に大きな影響を与え、これによって人気作家となる。
自伝的作品として「風と光と二十の私と」などがある。主に20代の青春期の精神遍歴が連作風に書かれ、特に「二十七歳」「三十歳」では当時新進女流作家であった矢田津世子との恋愛についてを描いており、安吾自身も年代記の眼目としている。
歴史小説としては、三好達治の影響で切支丹に興味を持った1940年に「イノチガケ」を発表、続いて「島原の乱雑記」「鉄砲」を書く。1944年に「黒田如水」発表、翌年「二流の人」執筆。1947年「家康」「道鏡」を発表。「道鏡」は、戦前の史観では悪逆非道とされていた人物を取り上げた安吾らしい作品としてセンセーショナルに迎えられ、内容はむしろ女帝としての孝謙天皇を描いたものだったが、天皇家の権威を否定する史観も含んでいた。1951年から日本各地を取材してその歴史考察を記した『安吾の新日本地理』を『文藝春秋』に連載、古代王朝に関する大胆な仮説も提唱した。鋭い感性からくる歴史観はその後の小説家(松本清張、黒岩重吾など)が古代史を論ずる際の嚆矢となった。翌年には『安吾史譚』を『オール讀物』に連載。1955年に『安吾新日本風土記』を『中央公論』で連載開始するも未完のままとなる。1952年10月から翌3月まで新聞『新大阪』に覆面作家として連載長編小説『信長』を発表。連載と並行して作者名を当てる懸賞募集も行われ、応募総数2784通のうち正解は1299名だった。
少年時代から推理小説の熱烈な読者であった安吾は、第2回探偵作家クラブ賞を受賞した『不連続殺人事件』の他、長編『復員殺人事件』、短編「能面の秘密」など、時代ものとして『明治開化 安吾捕物帖』を書いた。『復員殺人事件』は連載誌『座談』が廃刊となったため中絶していたが、死後の1957年に『宝石』誌で『樹のごときもの歩く』に改題し、4回分の遺稿に続いて、高木彬光による続きが書かれて完結した。安吾の推理小説は「推理を楽しむ小説」「パズルを解くゲーム」という考え方によるもので、推理作家としてはアガサ・クリスティを最高の作家として挙げている。天才的名探偵には批判的だったが、『不連続殺人事件』に登場する巨勢博士だけは短編の「選挙殺人事件」「正午殺人事件」でも活躍させ、『安吾捕物帖』では探偵結城新十郎が勝海舟との談話を交えながらシリーズで解決役となる。自身は推理小説を読んで真犯人を当てるのはまれで、「彼の推理は不可思議な飛躍をする」ことが多かったようだ(推理小説好きの仲間であった大井広介による回想)。
将棋や囲碁も好んでおり、特に囲碁は強く、京都滞在時には碁会所席主として生活していたほどで、後に塩入逸造三段に五子で勝っている(「私の碁」1948年)。囲碁の呉清源の十番碁や、将棋の木村義雄、升田幸三、塚田正夫らの名人戦の観戦記なども多数執筆して評価が高く、木村義雄が千日手を回避して敗北したときに木村を厳しく批判した「散る日本」は名作として名高い。また、大山康晴を主人公にした小説『九段』もある。また、王将戦で升田幸三が木村義雄との香落ち番の対局を拒否した陣屋事件についても、事の詳細[2]を記した随筆(「升田幸三の陣屋事件について」)が安吾の死後に見つかり[3]、関係者の間で証言が食い違うことの多かった陣屋事件における、貴重な考証資料のひとつとして注目を浴びた。
他の主要作品
小説
評論・随筆
著書一覧
- 『黒谷村』竹村書房 1935年
- 「木枯しの酒倉から」「ふるさとに寄する讃歌」「風博士」「黒谷村」「竹薮の家」「蝉」収録
- 『吹雪物語』竹村書房 1938年(新体社 1947年)
- 『炉辺夜話集』スタイル社 1941年
- 「閑山」「紫大納言」「勉強記」「盗まれた手紙の話」「イノチガケ」収録
- 『真珠』大観堂 1943年
- 「母」「古都」「孤独閑談」「木々の精、風の精」「風人録」「波子」「真珠」収録
- 『日本文化私観』文体社 1943年
- 「青春論」など6編収録
- 『逃げたい心』銀座出版社 1947年
- 「海の霧」「蝉」「小さな部屋」「麓」「姦淫に寄す」「淫者山へ乗りこむ」「逃げたい心」「禅僧」「篠笹の陰の顔」収録
- 『いずこへ』真光社 1947年
- 「石の思い」など9編収録
- 『白痴』銀座出版社 1947年
- 「風博士」「孤独閑談」「外套と青空」「閑山」「紫大納言」「勉強記」「盗まれた手紙の話」「白痴」「二十一」収録
- 『堕落論』銀座出版社 1947年
- 「日本文化私観」「青春論」「堕落論」「続堕落論」「デカダン文学論」「戯作者文学論」「FARCEに就て」「文学のふるさと」「萼堂小論」「文芸時評」「風俗時評」「長島の死に就て」収録
- 『いのちがけ』春陽堂 1947年
- 「黒谷村」「竹薮の家」「木々の精、風の精」「イノチガケ」「風人録」「波子」収録
- 『道鏡』八雲書店 1947年
- 「木枯しの酒倉から」「霓博士の廃頽」「蒼茫夢」「金談にからまる詩的要素の神秘性に就いて」「おみな」「土の中からの話」収録
- 『欲望について』白桃書房 1947年
- 「大阪の反逆」など20編収録
- 『外套と青空』地平社 1947年
- 「風博士」「禅僧」収録
- 『青鬼の褌を洗う女』山根書店 1947年
- 「散る日本」など4編収録
- 『二流の人』思索社 1948年
- 『風博士』山河書院 1948年
- 「木枯しの酒倉から」「風博士」「閑山」「勉強記」「盗まれた手紙の話」「土の中からの話」「桜の森の満開の下」収録
- 『金銭無情』文藝春秋新社 1948年(「出家物語」併録)
- 『教祖の文学』草野書房 1948年
- 『風と光と二十の私と』日本書林 1948年
- 「黒谷村」「孤独閑談」「古都」収録
- 『不良少年とキリスト』新潮社 1948年
- 「戦争論」など11編収録
- 『竹薮の家』文藝春秋社 1948年
- 『ジロリの女』秋田書店 1948年
- 「無毛談」など5編収録
- 『不連続殺人事件』イブニングスター社 1948年
- 『勝負師』作品社 1950年
- 「精神病覚書き」「日月様」「勝負師」「行雲流水」「わが精神の周囲」「小さな山羊の記録」「退歩主義者」収録
- 『現代忍術伝』講談社 1950年(「投手殺人事件」併録)
- 『天明太郎』(林房雄らと合作)宝文館 1950年
- 『安吾巷談』文藝春秋新社 1950年
- 『街はふるさと』新潮社 1950年
- 『火 第一部』講談社 1950年
- 『安吾捕物帖 (1-3)』日本出版協同 1953-54年
- 『信長』筑摩書房 1953年
- 『夜長姫と耳男』講談社 1953年
- 「夜長姫と耳男」「梟雄」「水鳥亭」など7編収録
作品集
- 『坂口安吾選集』(全9巻)銀座出版社 1947年
- 『定本坂口安吾全集』(全13巻)冬樹社 1967-72年
- 『坂口安吾選集』(全12巻)講談社 1982-83年
- 『坂口安吾全集』(全18巻)筑摩書房〈ちくま文庫〉 1989-91年
- 『坂口安吾全集』(全17巻+別巻)筑摩書房 1998-2000年、※別巻2012年12月
文庫作品集
- 新潮文庫『白痴』(1948)『堕落論』
- 角川文庫『白痴・二流の人』(1970)『道鏡・狂人遺書』『堕落論』『暗い青春・魔の退屈』『ふるさとに寄する讃歌』『外套と青空』『ジロリの女』『夜長姫と耳男』『散る日本』『安吾巷談』『安吾史譚』『安吾新日本地理』『不連続殺人事件』『明治開化安吾捕物帖』『能面の秘密』『復員殺人事件』『私の探偵小説』
- 旺文社文庫『信長』(1974)
- 創元推理文庫『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』(1985)
- 河出文庫『安吾史譚』(1989)『安吾新日本地理』『安吾新日本風土記』『日本論』
- 講談社文芸文庫『桜の森の満開の下』(1989)ほか9冊
- 人物文庫『勝海舟捕物帖』(2006)
- 岩波文庫『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』(2008)『桜の森の満開の下・白痴 他十二篇』『風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇』
- 宝島社文庫『信長』(2008)
年譜
- 1906年(明治39年) - 新潟県新潟市西大畑町で誕生。
- 1913年(大正2年) - 新潟尋常高等小学校に入学。
- 1918年(大正7年) - 新潟尋常高等小学校を卒業。
- 1919年(大正8年) - 県立新潟中学校(現・県立新潟高校)に入学。
- 1922年(大正11年) - 県立新潟中学校を放校処分。豊山中学校に編入。
- 1923年(大正12年) - 父仁一郎死去。
- 1925年(大正14年) - 豊山中学校を卒業、代用教員となる。
- 1926年(大正15年) - 代用教員を辞し、東洋大学入学。
- 1928年(昭和3年) - アテネフランセ入学、ボーマルシェなどのファルスを愛読した。
- 1930年(昭和5年)- 東洋大学卒業。アテネフランセの中等科から高等科に進む。池袋の借家から荏原郡矢口町に移る。
- 1931年(昭和6年)- 『言葉』2号に処女作「木枯の酒倉から」発表。後継誌『青い馬』に「ふるさとに寄する讃歌」、「風博士」、「黒谷村」発表。
- 1932年(昭和7年)- 酒場ウヰンザアで矢田津世子と知り合う。この酒場では、中原中也とも知り合っている。
- 1934年(昭和9年)- 酒場ボヘミアンのマダムと同棲し、大森のアパートに移る。8月に越前、北陸を放浪。
- 1935年(昭和10年)- 処女小説集『黒谷村』出版。長野県の奈良原鉱泉で一夏を過し、次いで蒲田に転居。
- 1936年(昭和11年)- 1月から「狼園」を『文學界』に連載するが、3月に牧野信一の自殺に衝撃を受けて連載を中絶。6月に矢田に絶交の手紙を送り、長編小説の構想を始め、11月に「吹雪物語」の執筆を開始。翌年から京都で「吹雪物語」に専念。
- 1938年(昭和13年)- 帰京して本郷の菊富士ホテルに滞在、その後取手に移る。
- 1940年(昭和15年)- 7、9月に「イノチガケ」を『文学界』に発表。12月、「風人録」を同人誌『現代文学』に発表。
- 1942年(昭和17年)- 母死去。
- 1943年(昭和18年)- エッセイ集『日本文化私観』を刊行。日本文学報国会『辻小説集』に「伝統の無産者」寄稿。
- 1944年(昭和19年)- 1月に「黒田如水」を『現代文学』に、2月に「鉄砲」を『文藝』に発表。
- 1946年(昭和21年)- 「堕落論」「白痴」を『新潮』に発表。文藝春秋社『座談』で阿部定と対談。
- 1947年(昭和22年)- 「風と光と二十の私と」を『文芸』に、「戯作者文学論」を『近代文学』に、「桜の森の満開の下」を『肉体』に発表。梶三千代と結婚。10月「青鬼の褌を洗う女」を週刊朝日別冊『愛と美』に発表。
- 1948年(昭和23年)- 『風と光と二十の私と』、『不良少年とキリスト』、『不連続殺人事件』を刊行。『不連続殺人事件』が第2回探偵作家クラブ賞受賞。
- 1949年(昭和24年)- 薬中毒により東京大学医学部附属病院に入院。『座談』誌に『復員殺人事件』連載を始めるが翌年休刊のため中絶。
- 1950年(昭和25年)-「安吾巷談」で文藝春秋読者賞を受賞。
- 1951年(昭和26年)- 『新日本地理』のため、全国を旅行。それらいくつかの文章を『文藝春秋』に掲載。
- 1955年(昭和30年)- 脳出血のため桐生市本町の自宅にて急死。
映画化作品
公開年月日 | タイトル | 監督 | 主演 | 製作 | 配給 |
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1951年4月27日 | 天明太郎 | 池田忠雄 | 佐野周二 | 松竹大船撮影所 | 松竹 |
1958年1月9日 | 負ケラレマセン勝ツマデハ | 豊田四郎 | 森繁久彌 | 東京映画 | 東宝 |
1975年5月31日 | 桜の森の満開の下 | 篠田正浩 | 若山富三郎 | 芸苑社 | 東宝 |
1977年3月15日 | 不連続殺人事件 | 曾根中生 | 瑳川哲朗 | タツミキカク / ATG | ATG |
1998年10月17日 | カンゾー先生 | 今村昌平 | 柄本明 | 今村プロダクション / 東映 / 東北新社 / 角川書店 | 東映 |
1999年11月13日 | 白痴 | 手塚眞 | 浅野忠信 | 手塚プロダクション | 松竹 |
2011年11月19日 | UN-GO episode:0 因果論 | 水島精二 | 勝地涼 | ボンズ | 東宝 |
2013年4月27日 | 戦争と一人の女 | 井上淳一 | 江口のりこ | 戦争と一人の女製作運動体 | ドッグシュガームービーズ |
文献
評伝
- 坂口三千代『クラクラ日記』文藝春秋 1967年
- 檀一雄『太宰と安吾』虎見書房 1968年
- 庄司肇『坂口安吾』南北社 1968年
- 檀一雄『小説坂口安吾』東洋出版 1969年
- 奥野健男『坂口安吾』 文藝春秋 1972年、文春文庫、1996年
- 若園清太郎『わが坂口安吾』昭和出版 1976年
- 杉森久英『小説坂口安吾』河出文庫 1984年
- 村上護『安吾風来記』新書館 1986年
- 野原一夫『人間坂口安吾』 学陽書房・人物文庫 1996年
- 七北数人『評伝坂口安吾 魂の事件簿』集英社 2002年
- 出口裕弘『坂口安吾百歳の異端児』新潮社 2006年
- 相馬正一『坂口安吾―戦後を駆け抜けた男』人文書館 2006年
- 半藤一利『坂口安吾と太平洋戦争』PHP研究所 2009年
- 長尾剛『坂口安吾・人生ギリギリの言葉』PHP研究所 2009年
関連書籍
- 石川淳『諸国畸人伝』筑摩書房ほか 父・阪口(坂口)五峯についての評伝
- いしかわじゅん『ちゃんどら』双葉社 1983年 風博士という人物が登場する
- 荻野アンナ『アイ・ラブ安吾』朝日新聞社 1992年
- 柄谷行人『坂口安吾と中上健次』太田出版 1996年
- 坂口綱男『安吾と三千代と四十の豚児と』集英社 1999年
- 坂口綱男『安吾のいる風景』 春陽堂書店 2006年 フォトエッセイ
- 杉山直樹『血をわたる』自由国民社 2011年 ISBN 978-4-426-10888-5
- 西部邁・佐高信「坂口安吾『堕落論』」『西部邁と佐高信の快著快読』光文社 2012年 191-227頁
- 野崎六助『安吾探偵控』(2003年)『イノチガケ』(2005年)『オモチャ箱』(2007年)東京創元社
- 林忠彦『カストリ時代』朝日ソノラマ 1970年、新版ピエ・ブックス 2007年
- 『文士と小説のふるさと』ピエ・ブックス 2007年 安吾の仕事場の写真を収録
- 『日本の写真家25 林忠彦』岩波書店 1998年 以上にも所収。
- 山田正紀『弥勒戦争』早川書房 1976年 焼跡の酒場で自身の経験による恋愛論などを語る安吾が登場する
- 『坂口安吾論集 1.2.3』ゆまに書房 2002年、2004年、2007年
- 『ユリイカ詩と批評 太宰治・坂口安吾』 2008年8月号:青土社
脚注
関連人物
- 野田秀樹(劇作家・俳優、『贋作・桜の森の満開の下』を発表)
関連項目
外部リンク
- 安吾賞ホームページ
- 坂口安吾デジタルミュージアム
- テンプレート:青空文庫著作者
- 坂口安吾専門ページ【安吾的】(安吾全集の索引有り)