木村義雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 将棋棋士 木村 義雄(きむら よしお、1905年明治38年)2月21日 - 1986年昭和61年)11月17日)は、将棋棋士十四世名人棋士番号は2。東京都墨田区(当時は東京市本所区)表町出身。

経歴

テンプレート:出典の明記 江戸っ子である下駄屋の職人の子として育ち、幼い頃から囲碁と将棋が強く、大人にも負けなかったという。父は弁護士か外交官になることを望んでいたが、知人の説得に負けて義雄に囲碁の道場に通うことを許した。しかし職業上米食が常食であった義雄は、囲碁の先生の家で出される麦飯になじめず、それを知った父は今度は将棋の会所に義雄を通わせたという。

浅草の将棋道場で指していたところを関根金次郎に見込まれ、1916年(大正5年)にその門下になる。1917年(大正6年)には関根の紹介で柳沢保恵伯爵邸に書生として住み込み、慶應普通科に入学。柳沢邸での下働きや外務省の給仕などを務め、夜学に通いつつ将棋に励んだ。この頃に阪田三吉(坂田三吉)や小野五平の指導を受ける機会に恵まれたという。同年のうちに初段格として朝日新聞の新聞棋戦に参加。

1918年(大正7年)には二段に、1919年(大正8年)には三段となる。同門の兄弟子の金易二郎花田長太郎を目標としていたという。

1920年(大正9年)には四段にまで昇る。同年、國民新聞主催で実施された三派花形棋士の三巴戦に関根派を代表して出場。土居市太郎派の金子金五郎大崎熊雄派の飯塚勘一郎と戦って優勝を果たす。

1921年(大正10年)には五段に昇る。同年に死去した、小野五平十二世名人の跡を受けて師の関根が名人に推挙され、十三世名人となる。

1924年(大正13年)、六段に昇る。報知新聞嘱託として入社し、観戦記を執筆する。同年には三派が合同を果たし、東京将棋連盟(後の日本将棋連盟の前身)が発足する。この年に阪田が関西で名人を僭称した。

1925年(大正14年)、七段に昇る。9月には新昇段規定により八段の資格を得たが、これを辞退した。この年に、花田と初のラジオ対局を行う。

1926年(大正15年)の3月、再び昇段点を獲得して八段に昇る。

22歳の若さでの八段は前例のない快挙であったが、木村はそれでは満足せず、他の先輩格の八段全員を半香の手合いに指し込む快挙をなしとげたという。その後まもなく指し込み制度は廃止となった。後に木村はこのことを非常に憤ったことを自著において述懐している。

1928年(昭和3年)、『将棋大観』を出版する[1]

1935年(昭和10年)、関根が引退を表明し実力制名人戦がスタートする。神田辰之助の八段昇段をめぐる将棋界の分裂劇もあったが(神田事件)、八段の中でも実力抜群であった木村は次第に頭角を現していく。

1937年(昭和12年)、将棋大成会成立後も関西で孤塁を守っていた阪田との対戦を周囲の反対を押し切って実現させ、2月5日から11日にかけて京都南禅寺で対戦して勝利する。同年の12月6日には花田を破り第1期名人戦の勝者となる。 1938年(昭和13年)2月11日に名人就位式を実施する。

1940年(昭和15年)に、かつて「土居時代」を築いた実力者である土居を4勝1敗で下し、1941年(昭和16年)には関西の期待を一身に担う神田を4連勝で下した。1942年(昭和17年)には挑戦予備手合で当時の八段陣を下し名人位を維持した。1943年(昭和18年)には挑戦資格者が現れず、そのまま名人防衛となった。この頃から関西の升田幸三大山康晴が台頭する。

1947年(昭和22年)の第6期名人戦で塚田正夫は木村から名人位を奪取した。若い塚田には将棋以外の仕事を木村同様にこなすのは困難であったため、木村には前名人の称号が与えられ、これまで通り棋界第一人者の立場で社会活動することが認められた。しかし金銭面での待遇は大幅に下がったため、生活に苦慮したともいう。

1948年の第7期名人戦では不振だったものの、1949年第8期名人戦(この期のみ五番勝負)では3勝2敗で塚田を破り、名人に復位する勝負強さを見せた。その後、第9期(1950年)、第10期(1951年)名人戦ではそれぞれ大山、升田を退けた。

1951年(昭和26年)の暮れから行われた第1期王将戦では、連敗して指し込みに追い込まれ、升田に香を引かれる事態になる。この時、香落ち戦の第6局を升田が対局拒否をする陣屋事件が起こった。升田の処遇をめぐって将棋界は紛糾したが、最終的には木村が裁定を下しその混乱を収拾した。

しかし、もはや盤上ではすっかり精彩を欠くようになっていた木村は1952年(昭和27年)の第11期名人戦で1勝4敗で大山に敗れ、名人を失冠する。この時勝った大山は、敗れた木村に深々と頭を下げたという。「よき後継者を得た」との言葉を残し、同年8月14日に引退を表明した。

人物

将棋界の第一人者として最強を誇り、当時の上位棋士を全て指し込むなど、戦前・戦中の将棋界に名を轟かせ、「常勝将軍」と呼ばれ恐れられたという。一般人にも相撲で不敗を誇った双葉山と並んでよく知られていた。将棋大成会の組織・運営にも辣腕を振るい、段級位の廃止や順位戦の導入を提案するなど将棋界の近代化に尽くした。将棋の連盟の度重なる分裂にも心を痛め、分裂の原因となっていた、師弟関係・親子関係を排斥するために、新進棋士奨励会を設立した。

戦後、若手棋士たちは木村を倒すために持ち時間の短い将棋に有利な急戦腰掛け銀定跡の研究を行ったという。しかし木村は、名人失冠後に腰掛け銀の研究に打ち込み、先手必勝の角換わり腰掛け銀定跡(木村定跡)を完成させたという。

坂口安吾は、第8期名人戦第5局の観戦記「勝負師」において、「彼(木村)は十年不敗の名人であり、大成会の統領で、名実ともに一人ぬきんでた棋界の名士で、常に東奔西走、多忙であつた。明日の対局に今夜つくはおろかなこと、夜行でその朝大阪へついて対局し、すぐ又所用で東へ走り西へ廻るといふ忙しさであつた。」と述べ、また「青春論」では「彼(木村)は心身あげて盤上にのたくり廻るという毒々しいまでに驚くべき闘志をもった男である」と讃えている。

加藤一二三の著書によると洗礼を受けたクリスチャンであったとのことである。

報知新聞嘱託として長く観戦記を執筆し、名文家として知られた。

門下・縁戚

弟子に花村元司がおり、晩年は弟子の花村とともに仲良く競輪場へ通っていた。1985年に花村に先立たれ、木村は「(花村は)とてもよい弟子だがたった一つ悪いことをした。師匠より早く死んだことだ」と悲しんだという。

三男の木村義徳も棋士になり八段まで昇り、引退後に贈九段となった。

名勝負の数々

木村には名勝負と呼ばれているいくつかの対局がある。それを以下に記す(段位、タイトルはその時点のもの)。

南禅寺の決戦
阪田三吉関西名人、1937年(昭和12年)2月5日 - 11日。
関西名人を称していた阪田を破り、東西に分裂していた将棋界を統一した一戦として、当時のマスコミに宣伝された一戦である。近代将棋の第一人者の木村と、関西将棋の第一人者阪田の決戦ということもあり、大評判となった。阪田の初手が端歩突きであったことも有名である。織田作之助に至っては新聞で報じられた端歩突きを見て「初めて感動というものを知った」と言わしめたほどであった(「聴雨」)。しかし、対局そのものは将棋から遠ざかっていた対戦相手阪田の実力が衰えており、木村が終始優勢で、木村は非常に楽観的に指すことが出来、三日目終了後、報知新聞の記事を書いて酒を飲むほどリラックスしていた。逆に阪田は火鉢をかき回すなどあせりの色が濃く、付き添いの娘(阪田玉枝)をしきりに見ていたという。
阪田の将棋に詳しい福崎文吾によれば、阪田の将棋の中でももっとも不出来な対局であるといい、阪田に代表される力将棋の時代が終わり、木村に代表される理論に基づいた近代将棋の時代が来たことを告げる対局であったといえる。
定山渓の決戦
土居市太郎八段、1940年(昭和15年)6月25 - 27日(第2期名人戦第3局)。
2回に及ぶ千日手指し直しの末に行われた一局。土居の唯一の勝局になったが、木村は土居を「天才」と賞賛した。
済寧館の決戦
塚田正夫名人、1949年(昭和24年)5月24、25日(第8期名人戦第5局)
皇居済寧館で行われた。「別冊文藝春秋」誌(昭和24年第12号)に掲載された坂口安吾の観戦記「勝負師」に詳しい。

定跡研究に尽くす

木村は将棋が強いばかりではなく、将棋普及にも尽くした。これまでの定跡書が素人には良く分からないとされていたのを改善し、名著『将棋大観』を著し、駒落ち定跡を定めている。現在でも『将棋大観』掲載の定跡は、「大観定跡」といわれ駒落ち将棋の基本となっている。また、平手戦でも数々の定跡を発見・確立した。

昇段履歴

成績

獲得タイトル

一般棋戦優勝

  • 王将戦 1回(第1回-1950年度 = タイトル戦となる前年)
  • NHK杯戦 1回(第1回-1951年度)

栄典・表彰

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 木村義雄『勝負の世界 将棋随想』(恒文社、1995年(六興出版社から1951年に出版された同名の書の復刊))
  • 大山康晴『日本将棋大系 第15巻 木村義雄』(筑摩書房、1980年)
    • 山本享介「人とその時代十五(木村義雄)」(同書243頁所収)

関連項目

テンプレート:将棋永世名人 テンプレート:日本将棋連盟会長

テンプレート:名人戦 (将棋)
  1. 誠文堂。『大日本百科全書』の一巻として
  2. 順位戦では2期だけしか指していないが、順位戦での負け越しがないまま引退した唯一のケースである。(第2期で7勝7敗、第3期で7勝2敗)