キエフ
テンプレート:世界の市 キエフ(テンプレート:Lang-uk [ˈkɪjiʋ キーイーウ][1])は、ウクライナの首都。ドニプロ川の中流に位置する。同国最大の都市で、政治・経済・社会・学術・交通の中心地である。特別自治都市。5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落から発展した。中世にはキエフ・ルーシの都であったが、近世にはコサックのキエフ連隊の中心となった。20世紀中にウクライナ人民共和国、ウクライナ国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都であり続けた。キエフ市内の人口はおよそ279万人であるが、キエフ首都圏の人口はおよそ400万人となっている。東ヨーロッパにおける最古の都市で、キリスト教の聖地の一つである。都内にある聖ソフィア大聖堂とキエフ洞窟大修道院は世界遺産に登録されている。
目次
名称
キエフという名称は「キーイの都市」を意味し、キエフを創建した伝説の公爵キーイの名前に由来する。キエフは他国の支配を受けた歴史があるため、文献によってその名称が異なっている。
- ウクライナ語:Київで、発音は[ˈkɪjiʋ](ケィーイィウ)に近い。古ルーシ語の テンプレート:Script/Slavonicに由来する。ラテン文字転写としては簡略なKyivが正式な表記とされているが、政府の発表により表記が統一されるまでは各文字を機械的に転写したKyijv、Kyjivなどが用いられていた。
- ロシア語:Киевで、発音は[ˈkʲijef]( キーイェフ)に近い。ラテン文字転写としては、最も多いKievの他、Kijev、Kiyevなどが用いられる。
- ポーランド語:Kijówで、発音は[ˈcijuf ](キーユフ)に近い。日本語転写としては「キユフ」と書かれる。日本語文献では、ポーランド支配時代に関する記述等でこの名称が使われることがある。
- 英語:KyivまたはKiev。独立以前はKievが公式のラテン文字表記であったが、独立以降は唯一の公用語(国家語)のウクライナ語の名前であるКиївから、Kyivとの表記がウクライナ政府によって決められた。これに従い国内の道路標識や空港や駅等の表記は「Kyiv」で統一されている。ウクライナ国外では新聞や雑誌等のメディアは慣例からKievの表記を使う方が現状もっぱら一般的である一方、学術的な専門書ではKyivが使われることが多い[2]。
- 日本語:ウクライナ語名に沿った「キイウ」、「キーウ」、「キーイウ」、「キーイヴ」等の表記がされる場合はあるが、現時点ではまだ使用頻度は少ない[3]。外務省発表も含め、各メディアともロシア語名に沿った「キエフ」と表記がなされることが多い。アクセントを表す長音符を保持して「キーエフ」と書かれることもある。また、「キイフ」、「キーフ」と書かれる場合もあるが、これらはウクライナ語の表記をロシア語等の読み方に沿って誤って転写したものである。また、漢字表記は「計由」である[4]。
ウクライナの独立後、本国では公式な名称をロシア語名からウクライナ語名に変更された。現地では政策としてロシア語の使用は制限されている。また、上記にあるようにロシア語に沿ったラテン文字表記である Kiev (Kiyev) も同様の扱いである。ロシア語表記はかつてのロシア帝国・ソ連の支配を快く思わないウクライナの人々の感情を害しかねないこともあり、近年英語圏における出版物では、政府発表の正式ラテン文字表記であるKyivと書かれるのが一般的である。日本でも、その傾向を受けて学者等から「キーウ」等とウクライナ語に準ずる表記が推奨される機会が増えつつある。しかし、現状では、日本やロシアにおけるウクライナ語の知識をもつ人口が少ないことや、以前は学会等でもウクライナに言及する場合、歴史的にロシア語文献を参照した研究が多かった経緯もあり、まだまだ慣例として「キエフ」と呼ばれる事例が圧倒的に多い。
ウクライナ語の認知度が相対的に低いため、政府や各メディア等々でもロシア語に沿った従来の「キエフ」という表記を用いている。しかし、上の問題を受けて、今後ウクライナ語名に沿った表記「キーウ」を用いることが必要との意見もある。
概要
東ヨーロッパ有数の世界都市である。週末になると、歩行者天国になる市の中心部を通るフレシチャーティク通りや、2001年の独立10周年を記念して整備され、地下ショッピングセンターなどを備えた独立広場(マイダン・ネザレージュノスチ)などで人々が賑わっている。
市内にはキエフ大公国時代の建築物が多数残されているが、戦火や共産党政権などによって破壊されたものも少なくない。その上で、黄金の門のように復元されたものも少なくない。ウクライナは両大戦において主戦場となったためそれにまつわる多くの記念碑が建てられているが、キエフ市内及び郊外にも数多くの記念碑が見られる。それ以外には、現在のキエフに戦火の傷跡を見つけることは難しい。
町は年々発展しており、他の主要都市などと比べても外観・内容ともに豊かである。
地理
キエフの旧市街は、ドニプロ川を見下ろす小高い丘の上にある。
市はドニプロ川を挟んで広がっているが、その内丘陵地帯の西岸側が古い建物の残る従来の市街地で、それに対し低地である東岸側は、高層建築物の目立つ新市街となっている。川の中州にはかつてドイツ軍に破壊された村の跡にヒドロパールクがつくられている。
1986年4月26日、キエフの北130kmにあるチェルノブイリ原子力発電所で原子力事故が発生した(チェルノブイリ原子力発電所事故)。直後にソビエト連邦上層部によって全住民350万人の疎開が検討されたが、風向きの関係で健康への影響は無いと判断され、疎開は中止された。現在はキエフを起点としたチェルノブイリの観光ツアーが存在し、事故を起こした4号炉を間近に見ることも可能である。
気候
大陸性気候であり、ケッペンの気候区分では湿潤大陸性気候(Dfb)に属する。最も暑い7月の平均気温は20.5°Cで、時に30°Cを超えることも少なくない。最も寒い1月の平均気温は−3.5°Cで急速に平年値は上昇したものの、近年は寒冬になることも多く、時に零下20度を下回ることも珍しくない。過去最高気温は1936年7月31日観測された39.4 °C、過去最低気温は1929年2月7日と9日に観測された−32.2 °Cである。年間降雪量は355cmと欧州の大都市の中ではかなり多い方である。 テンプレート:Weather box
歴史
中世前期
ウクライナの最古記録『ルーシ年代記』の伝説によれば、キエフはポリャーネ族の公爵キーイ、ならびに彼の兄弟シュテーク、ホリーウとリービジによって創建されたという[6]。しかし、年代記には創建の年代は記載されていない。考古学の資料によると、キエフは5世紀末から6世紀初頭に形成した集落として発展してきたという[6]。当時の集落の中心地はドニプロ川の右岸に位置する城山にあったとされる[6]。6世紀から7世紀にかけて集落は城山から周りの丘陵への拡大したのである[6]。キエフはドニプロ川の貿易ルート、森林と草原が接する地帯、そして多民族が交わる境界地に位置していたため、ドニプロ川の中流における政治・経済・文化的拠点として成長した[6]。6世紀のゴート人の歴史家ヨルダネスは、「ドニプロ川の町」という意味のダナピルスタディル (Danapirstadir) という名で記録している。
8世紀末にキエフは、「ルーシの地」と呼ばれる南方の東スラヴ人の共同体の中核的都市であった[6]。882年に北欧のヴァリャーグ(ヴァイキング)がその都市を征服すると、キエフは「ルーシ」という国家の首都、いわゆる「ルーシの都市の母」[7]となった[6]。8世紀から9世紀にかけてキエフでは、古キエフ山にある山の手(古キエフ)と山麓にある下町(ポジール)というの2つの区域が形成された。前者では貴族と聖職者、後者では庶民が暮らしていた[6]。当時のキエフは、東ローマ帝国、北欧、西欧、イスラム系諸国と貿易をし、国際都市として発展した。10世紀前半にキエフでは始めてのキリスト教の聖堂が建立された[6]。
ヴォロディーミル聖公の代(980年–1015年)には、キエフの山の手の範囲が拡大され、防衛が強化された。研究史では改善された山の手は「ヴォロディーミルの町」と呼ぶ[6][8]。山の手は高い土塁によって囲まれて、土塁には3つの大門が設けられた。正門であるソフィア門は町の南方に置かれた[8]。988年にルーシがキリスト教を国教にすると、キエフはコンスタンディヌーポリ総主教庁のキエフ府主教区の中心となった。キエフの最大の教会は、「像の市」と呼ばれる市場と大公の宮殿の隣に建立された什一聖堂であった[8]。ヴォロディーミル聖公の子息、ヤロスラーウ賢公(1019年–1054年)は、さらに山の手をおよそ80ヘクタールまで拡大させ、いわゆる「ヤロスラーウの町」を建設した[8]。本城を囲む土の城壁の長さは3.5キロメートまで達した[8]。これによってキエフは東欧の最大の都市となった[8]。ヤロスラーウ賢公はキエフの正門を黄金の門に改め、キエフ府主教の座として聖ソフィア大聖堂を建立した。ヤロスラーウ賢公の子孫イジャスラーウ (1054年–1068年, 1069年–1073年)とスヴャトポールク (1093年–1113年)は新たな「イジャスラーウ・スヴャトポールクの町」を建設した。この町における中心的な建造物になったのは聖ミハイール黄金ドーム大聖堂であった[8]。
キエフの最大の地区は下町ポジールであった。12世紀から13世紀前半にかけてポジールの面積は約200ヘクタールに及んでおり、土塁と柵によって囲まれていた[8]。ポジールの中欧にはキエフ最大の市場「市の場」(トルホーヴィシュチェ)が位置しており、その周りにプィロホーシュチャ聖堂、ボリス・フリブ聖堂、ミハイール聖堂などが並んでいた[8]。古キエフの西部ではコープィル隅という地区があり、スヴャトスラーウ2世の代(1073年-1076年)にはそこで聖シメオン修道院が建立された[8]。キエフ郊外ではキリーロ修道院、クローウ修道院、洞窟修道院(1598年以降はキエフ洞窟大修道院)、ヴィードゥビチ修道院などの正教会の修道院が置かれた[8]。キエフの周りにプレドスラーヴィネ村、ベレストーヴェ村、公爵と貴族の別荘、ドロホージチ谷とハンガリー谷があった[8]。
12世紀半ばにキエフは約5万人の人口、400の教会と8つの市場を有していた。キエフの総合面積はおよそ400ヘクタールであった[8]。
中世後期
12世紀後半以降、キエフはルーシの聖地の役割を保ちながら、政治的な中心として衰退した。ムスチスラーウ大公(1125年 - 1132年)の後、キエフを治める有能な統治者がなく、ルーシというキエフ大公国を構成して諸公国は独立しはじめた。1169年にウラジーミル・スーズダリ公国の公爵アンドレイは武力でキエフを占領して掠奪し、キエフ大公に即位せず帰国した。さらに、1203年にチェルニーヒウ公国の公爵リューリク2世はキエフを攻略して同様な掠奪を行った。このような事件によってキエフ大公の地位と威厳は大きく損なわれた。また、1223年にキエフの軍勢はカルカ川でモンゴル軍に敗北し、1235年にチェルニーヒウの公爵ミハイール2世はキプチャクを連れてキエフを陥落させた。1239年にハリーチ公国の公爵ダニーロはキエフを獲得し、最後のキエフ大公となった。
1240年にモンゴル帝国の軍勢キエフを包囲して破壊させた。決定的な打撃を受けた古キエフは全滅され、ルーシというキエフ大公国は名実と共に亡国となった。キエフの中心地は下町ポジールへ移った。
支配する勢力は、1264年までのハールィチ・ヴォルィーニ大公国から非スラヴ系国家のリトアニア大公国に移り、1569年にリトアニアが同君連合を結んでいたポーランド王国とルブリン合同を結んでポーランド・リトアニア共和国を形成すると、ウクライナ貴族はシュラフタとして共和国のうちのポーランド王国への帰属移動を求め、キエフ県としてポーランド王国に加盟した。その後、ドニエプル川の中流に興ったザポロージャ・コサックの統治地域に加わった。コサックたちはポーランド・リトアニア共和国の中央政界(セイム)との対立を深め、1648年には県全体がヘーチマン国家(コサック国家)の一部としてポーランド・リトアニア共和国からの自治権を得た。キエフはヘーチマン国家の文化的中心として再び栄え、ウクライナ・バロック文化が養われた。
近世・近代
1654年、ヘーチマン国家はモスクワ大公国・ロシア帝国に対する政治的な闘争に敗れ、その宗主権下に入ることとなった。1667年、ウクライナ・コサックを巡るポーランドとロシアの戦争が講和を迎え、キエフを含むヘーチマン国家は正式にロシア帝国の版図と定められた。
その後、キエフは徐々にロシアの一地方に地位を落としていったが、それでもやはりウクライナ文化や政治運動の中心地のひとつとしての機能を担っていた。そのため、モスクワ政府はキエフを強力な監視下に置くようになり、時期により差異はあるとはいえ、ウクライナの文化的あるいは政治的運動は「マゼッパ主義」や「裏切り独立主義」などと呼ばれ弾圧を加えられた。
現代
1917年のロシア革命後、ウクライナはロシア内戦・ウクライナ内戦の主戦場となった。ウクライナの中心都市であったキエフは多くの勢力によって次々に支配をされた。
1917年秋、キエフのウクライナ中央ラーダがウクライナ人民共和国の事実上の独立宣言をするとロシアのボリシェヴィキはウクライナに侵攻を始め、ウクライナ・ソビエト戦争が開始された。共和国の首都となったキエフは赤軍による攻撃を受けた。1918年1月29日、ウクライナ人民共和国軍はキエフ郊外のクルトィ駅の戦いで赤軍に敗れ、ウクライナ勢力の劣勢が決定的になった。その後、1918年2月8日にロシアの占領軍によってキエフの住民の虐殺が行われた。
この内戦で、ウクライナの古都キエフはウクライナ民族主義の拠点となった。一方、赤軍に協力するウクライナ人民共和国(ウクライナ・ソビエト共和国)の首府は、ロシア人やユダヤ人の多いハリコフに置かれた。
1918年4月29日にはドイツ帝国の軍事力と農民層の支持を後ろ盾とするヘーチマンの政変がキエフ・サーカス場にて発生し、キエフを首都とするウクライナ国が建設された。だが、12月にはドイツ軍の撤退により同国はディレクトーリヤに倒され、ディレクトーリヤはウクライナ人民共和国を再建した。
1918年にウクライナからの要請によって始められたポーランド・ソビエト戦争でも、キエフは主戦場の一つとなった。1920年には、ポーランド軍と合同したディレクトーリヤ軍によるキエフ攻勢が実行され一時はキエフを奪還したが、最終的には赤軍に敗れた。
結局、ウクライナの独立各派は相互の協力に失敗し、またイギリスやフランス、そしてポーランドなどのような外国勢力も非協力的であったことからソビエト政府に対して敗北を喫し、ウクライナの独立は潰えた。それに伴い、ソ連時代初期のウクライナ社会主義ソビエト共和国の首都は民族主義熱の高かったキエフを避け、1934年6月24日にキエフに戻るまでハリコフに置かれた[9]。1937年、国号はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に改称されたが、キエフはその首都であり続けた。
第二次世界大戦中の1941年9月19日、侵攻して来たナチス・ドイツ軍がバルバロッサ作戦の一環としてキエフを占領した。同年の9月29日と30日に、キエフ近郊のバビ・ヤールで、ナチス親衛隊の特別殺戮部隊が、33771人のユダヤ人を虐殺した。 キエフ市は1943年11月6日に赤軍によって奪還されるまでドイツの占領下にあった。市街や郊外はドイツ軍による激しい破壊を受けたが、戦後復興に力が入れられ、比較的早い時期に復興を果たした。1941年の激しい戦いを記念し、キエフは戦後「英雄都市」の称号を贈られた。
現在
1991年にウクライナが独立してソ連が崩壊すると、キエフは新たな独立ウクライナの首都となった。
独立後は、それまでのロシア語優遇政策が改められ、市内の表記も広告等ふくめ全てウクライナ語に制限されるようになった。テレビ放送は放送法により、外国語の放映に関してはウクライナ語字幕をかぶせなければならなくなった。そのためロシアで製作されたロシア語番組はウクライナ語字幕つきロシア語放送となっている。 ただし、キエフでは2006年の調査によると人口の半数程が家庭においてロシア語を主に話しているとされ、また、ウクライナ語とロシア語を併用している住民も非常に多く、ウクライナ語のみで生活している人はむしろ少数派である。そのため、街中で見られる表記はウクライナ語であるものの、聞こえる言語はむしろロシア語の方が多くなっている。TVではロシア語放送も行われ、新聞などもロシア語での発行が許されている。
行政区分
区 | 面積(km²) | 人口(人) |
---|---|---|
ドニプロ川の右岸(西部): | ||
ホロシーイウ区 Голосіївський район | 156 | 232.800 |
オボローニ区 Оболонський район | 110 | 314.900 |
ペチェールシク区 Печерський район | 27 | 139.800 |
ポジル区 Подільський район | 34 | 190.300 |
スヴァトシネ区 Святошинський район | 101 | 334.300 |
ソロミャンカ区 Солом'янський район | 40 | 342.500 |
シェウチェーンコ区 Шевченківський район | 25 | 231.100 |
ドニプロ川の左岸(東部): | ||
ダルヌィツャ区 Дарницький район | 134 | 312.000 |
デスナ区 Деснянський район | 148 | 356.700 |
ドニプロ区 Дніпровський район | 67 | 345.800 |
人口
2001年ウクライナ国勢調査によるデータ。
- 総人口:テンプレート:Nts人[10]
- 都市人口:テンプレート:Nts人(100%)[11]
- 性別人口:男性はテンプレート:Nts人(47%);女性はテンプレート:Nts人(53%)[12]
交通
市内交通
キエフ市内には、いくつかの公共交通手段と半公共交通手段が存在する。
公共機関としては、まず地下鉄が、3路線が走っている。これらは現在も建設中であり、今後路線数と総延長共に伸びる予定である。旧市街と新市街にはそれぞれキエフ市電が、また旧市街と南西の郊外を結ぶライトレールも運行されている。この他、トロリーバスと路線バスが走っている。公共交通機関は充実しており、また料金も乗車1回に付き一律2フリヴニャという低価格に抑えられている。
これらに加え、半公共交通機関といえる営業免許制のマルシュルートカ(ワゴン車・マイクロバス等を利用した個人経営のバス・乗り合いタクシー)が無数に運行されている。これは、料金は乗車距離に応じた運賃制度で公共交通機関よりかなり割高であるとは言え、低速の路線バスなどに比べ所要時間や運用本数・路線数で大きなメリットがあり、やはり市民にとっては欠かせない交通手段である。しかし、路線網が複雑なので外国人が利用する際には注意を要する。
地下鉄車両や路面電車、バスやトロリーバスには、ソ連時代に製造されたソ連製やチェコスロヴァキア製、ハンガリー製の車両の他、新型のウクライナ製やドイツ製のものも多く見られる。しかし、一般に設備の悪い古い車両が多いというイメージは利用者の間で根強い。
郊外・国際交通
郊外に向かって運行される交通機関には、キエフ旅客駅などから発着するウクライナ鉄道がある。鉄道には近距離の「エレクトルィーチュカ」と長距離の「ポーイズド」があり、夜行列車や国際列車も運行されている。この他、鉄道のない地域を補うための長距離バスが地下鉄スヴャトーシン駅前ターミナルなどから発着している。
この他の交通機関としては、ドニエプル川を航行する遊覧船などの発着する船着場キエフ河川港がある。また、旧市街の低地から高台を結ぶキエフ・ケーブルカーも運行されている。
空港
キエフには、周辺都市を含めいくつかの空港が所在する。しかし、本格的な国際空港といえるだけの設備と規模を持った空港はいまだ整備されていない。
市内に所在するキエフ・ジュリャーヌィ国際空港は、かつてはウクライナの空の玄関口として機能した空港であるがその後衰退し、現在では主に国内線と近距離の国際線が乗り入れている。この他、個人の所有するビジネスジェットなども数多くこの空港を利用している。これについては、空港の私物化との批判がある。この他、空港にはウクライナ空軍の使用機等を展示する国立航空博物館も併設されている。この空港は、市内にあり利用の便は非常によいが、安全面と土地の問題から本格的な国際空港への拡張は困難である。
スヴャトーシン地区に所在するキエフ・スヴャトーシノ空港は、ウクライナの航空産業初期から存在する空港であるが規模が小さく、また町に隣接しているため拡張できない。現在では、O・K・アントーノウ記念航空科学技術複合体やアヴィアーント・キエフ航空機工場の使用する小規模な飛行場となっている。
キエフ市外に隣接するキエフ・チャイカ空港は、民間のスポーツ用の小規模な空港である。
ボルィースピリ国際空港は、厳密にはキエフ市ではなく東隣のボルィースピリ市に所在するが、「キエフ空港」と呼ばれる空港のひとつとなっている。主に国際線が乗り入れる国際空港であるが、鉄道や地下鉄のアクセスはなく、タクシーが必要になるなどキエフからのアクセスは不便であるが、近年はキエフ旅客駅から定期的にシャトルバスが運行されている。所要時間は1時間ほど。
ホストーメリ空港もキエフ市に所在する空港ではなく、隣のホストーメリ市に所在する。小規模な空港で、別名アントーノフ空港と呼ばれるとおり、アントーノフの機体の試験に使用されている。
教育
- Universität Kiew.jpg
キエフ大学
(科学全般) - NaUKMA today.jpg
キエフ・モヒーラ・アカデミー国立大学
(人文科学・社会科学) - Kiev-PolitekhnichnyiInstytut 02.jpg
キエフ工学大学
(自然科学・技術) - NPU Dragoman01-Kiew.jpg
キエフ教育大学
(教育学・人文科学)
- キエフ言語大学(言語学・人文科学)
- キエフ経済運営大学(政治学・経済学)
- キエフ美術大学
- キエフ劇場・映画・テラビ大学
キエフの風景
建物
キエフの聖ソフィア大聖堂は、キリスト教を広めようとする東ローマ帝国の協力の下、ビザンティン様式の華麗な教会を模して、1037年に建てられた。コンスタンティノープルにあるハギア・ソフィア大聖堂と同じように、「聖なる知恵」に捧げたものであったが、建物の姿形は全く異なるものである。四角い建物の上に一つの半球状のドームがあるコンスタンティノープルの大聖堂に対して、キエフのハギア・ソフィアは、円柱状の建物の上に13のハート状のドームがある。この教会は過去に幾度か損傷を受け、最近の修復作業により装飾しなおされている。
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外務省 - Kiev Conservatoriy.jpg
キエフ芸術学校 - Bogorodica-Pirogoscha.jpg
聖母マリア教会 - Olga Monument.jpg
キエフ大公オーリハ像 - Illy Proroka Churrch in Kyiv4.jpg
スポーツ
- 五輪スダジウム:ウクライナ最大の陸上競技場。
- キエフ・スポーツ宮殿
- FCディナモ・キエフ:キエフを本拠地とするサッカークラブ。
- FCアルセナル・キエフ:キエフを本拠地とするサッカークラブ。
出身の人物
- Anne of Kyiv.jpg
アンナ・ヤロスラヴナ
フランスの王妃 - Mykola Pymonenko-Avtoportret.jpg
ミコーラ・プィモネーンコ
ウクライナの画家 - Golda Meir 03265u.jpg
ゴルダ・メイア
イスラエルの政治家 - Sikorsky, Igor.jpg
イーゴリ・シコールスキイ
アメリカの発明家 - Reinhold Glière.jpg
レインゴリト・グリエール
ウクライナの作曲家 - Casimir Malevich photo.jpg
カジミール・マレーヴィチ
ウクライナの画家 - Serge Lifar Harnasie 1936.jpg
セルジュ・リファール
フランスのバレエダンサー - Valeri Lobanovsky.jpg
ヴァレリー・ロバノフスキー
ウクライナのサッカー監督 - Milla Jovovich Cannes 2011.jpg
ミラ・ジョヴォヴィッチ
アメリカの女優
姉妹都市
- テンプレート:Flagicon 京都市(日本)
- テンプレート:Flagicon キシナウ(モルドバ)
- テンプレート:Flagicon トビリシ(グルジア)
- テンプレート:Flagicon ベオグラード(セルビア)
- テンプレート:Flagicon アンカラ(トルコ)
- テンプレート:Flagicon アテネ(ギリシア)
- テンプレート:Flagicon ブダペスト(ハンガリー)
- テンプレート:Flagicon シカゴ(米国)
- テンプレート:Flagicon エディンバラ(スコットランド)
- テンプレート:Flagicon ミュンヘン(ドイツ)
- テンプレート:Flagicon パリ(フランス)
- テンプレート:Flagicon トゥールーズ(フランス)
- テンプレート:Flagicon ワルシャワ(ポーランド)
- テンプレート:Flagicon ウィーン(オーストリア)
- テンプレート:Flagicon ローマ(イタリア)
- テンプレート:Flagicon トロント(カナダ)
- テンプレート:Flagicon ストックホルム(スウェーデン)
- テンプレート:Flagicon ブリュッセル(ベルギー)
注
関連項目
参考文献
- テンプレート:Ja icon 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
- テンプレート:Ja icon 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556
- テンプレート:Uk icon Історія міст і сіл Української РСР: Київ. — Київ: УРЕ АН УРСР, 1968.
- テンプレート:Uk icon Толочко П. П., Івакін Г. Ю., Верменич Я. В. Київ // Енциклопедія історії України. — Київ : Наукова думка, 2007. — Т. 4. — С. 201–218.
外部リンク
- 公式
- 旅行
テンプレート:Navbox with columns テンプレート:ウクライナの都市 テンプレート:英雄都市
テンプレート:Link GA
- ↑ 公用語のウクライナ語に沿った表記では「キーウ」などと転写されるが、本項ではロシア語名に沿った表記であるが、日本語名として公式に用いられている「キエフ」で記述する。
- ↑ 2011年現在確認。補足だが、主要メディアに対してKievからKyivへと表記を変えるようにウェブ署名を行う等の活動が散見される。また、英語版ウィキペディアのノートでもこの表記に関して長年議論が繰り返されている。
- ↑ 使用例は以下の通りである。
- キーウ
- 『ニューエクスプレス ウクライナ語』中澤英彦著. 白水社, 2009
- キーイウ
- 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫共著. 山川出版社, 1998(巻末の地図のみ)
- キーイヴ
- 『ウクライナ語のための日本語学習辞典 Українсько-Японський Японсько-Український Словник Навчальний Словник Японських Ієрогліфів』ボンダレンコ I.・日野貴夫共著. アリテルナティーヴィ出版所, 1998
- ↑ 重訂萬國全圖 明治4(1871)年。
- ↑ 新訂万国全図
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 6.7 6.8 6.9 Толочко 2007:201.
- ↑ 「都市の母」とは、スラヴ語の翻訳借用で、ギリシア語のメトロポリス(「メトロ」(母)・「ポリス(都市)」)に由来する。
- ↑ 8.00 8.01 8.02 8.03 8.04 8.05 8.06 8.07 8.08 8.09 8.10 8.11 8.12 Толочко 2007:202 .
- ↑ 中井 1998:040.
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web