石見銀山
テンプレート:半保護 テンプレート:Coor title dms
石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めていたという[1]。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)と呼ばれた。明治期以降は銅などの鉱物が主に採鉱された。
目次
概要
鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44年)に国によって史跡に指定。2007年(平成19年)6月28日にニュージーランドのクライストチャーチで開催されていた世界遺産委員会でユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決まり、7月2日に正式登録された。一般に銀山開発においては銀の精錬のため大量の薪炭用木材が必要とされたが、石見銀山では適切な森林の管理がなされたことにより環境への負荷の少ない開発がなされ、今日に至るまで銀山一帯には広葉樹などを含む森林が残されてきている点が特に評価されている[2](後述の「登録までの経緯」の節参照)。2007年には日本の地質百選にも選定されている。
初期には仙ノ山山頂付近から自然銀に富む福石(ふくいし)が主に産出し、開発が進行するにつれ地下深くなり、銀を多く含む黄銅鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱などの永久鉱床(えいきゅうこうしょう)の採掘に移行していった。
石見銀山の発見
石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は鎌倉時代末期の1309年(延慶2年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩(北極星)の託宣により銀を発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の採掘がなされていたものと考えられている[3]。
その後、大内氏が一時的に採掘を中断していた石見銀山を再発見し、本格的に開発したのは博多の商人・神谷寿貞(姓については神屋、名については寿禎・寿亭とも表記される)であるとされている[4]。海上から山が光るのを見た神谷は[5]領主大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した[6]。義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法[7]に日本で初めて成功した[8]。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町馬路)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。
銀山争奪
1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、1556年(弘治2年)忍原崩れ、1559年(永禄2年)降露坂の戦い、1561年(永禄4年)~1562年(永禄5年)の雲芸和議をへて最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた[9]。同年12月には石見銀山を朝廷の御料所として献呈する。その後、1584年(天正12年)に毛利氏が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた[10]。 1591年(天正19年)、毛利輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため林就長および柳沢元政を奉行に任命した。1597年(慶長2年)には輝元より秀吉に銀3000枚(129貫、約480キログラム)が運上されている[11]。
商業への影響
石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていた。このため、製錬された灰吹銀はソーマ銀と呼ばれ、そのまま日本産銀の銘柄のひとつとして商取引に利用され、またこの灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀およびその後の徳川幕府による慶長丁銀は基本通貨として広く国内(主に商人が活躍した上方を中心とする西日本)で流通したばかりでなく、明(中国)、16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガル、17世紀初めに来航したオランダ東インド会社などとの間で、石見銀山の銀を媒介とする世界規模の交易が行われた。特に明は大口の商取引、兵士への給与などのため広く秤量銀貨が使用され、この多額に上る銀需要の吸引力は莫大なものであった[12]。また、私貿易を禁止する明の海禁政策にもかかわらず、日明間の密貿易が活発となり、海賊化していった(後期倭寇)。当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の一(その生産量の平均は年間200トン程度、内石見銀山が38トン(10000貫)程度であったと推測されている[11])に達し、スペインのペルー副王領ポトシ(現ボリビア、世界遺産)のセロ・リコと並ぶ銀産出地として西欧・明でも有名になった。石州丁銀は秤量貨幣(額面が無く重量で価値が決定。取引の際は必要に応じ切り分けて使用)のため、原形をとどめる物は希少であるが、島根県は2007年までに石見銀山の銀で製作されたとされる御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん)、文禄石州丁銀、御公用丁銀を購入し、これらは島根県立古代出雲歴史博物館における企画展などで展示される[13]。
その殷賑ぶりは、当時のポルトラーノ地図にも記載されている。航海術の発展に伴って西欧諸国の王侯、特にスペイン国王はイスラム圏から入手した地図を大量に持っており、更には独自にかなりの地図を作成した。この地図を持った船団が、インド・マレー半島・明・日本にも貿易の手を伸ばし、石見銀山で産出される銀を求めてやってきた。
銀山を手中にした武将(大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏)は積極的にこれらの海外諸国と貿易を行い、その輸入品の中に当時貴重であった火縄銃が含まれていた可能性も指摘されている。
なお、イギリス船やオランダ船は日本で産出される銀を「ソモSomo」あるいは「ソーマSoma」と呼んでいたといわれるが、これは銀鉱のある大森地区の旧名である「佐摩」に由来するとされる[14]。
江戸幕府による支配
石見銀山領の設置
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1600年(慶長5年)11月に石見銀山の接収のために大久保長安と彦坂元正を下向させ、石見の江の川以東を中心とする地域(石見銀山の所在地、邇摩郡大森を中心に安濃郡・邑智郡・那賀郡の4郡146か村と、美濃郡・鹿足郡で6か村の飛地)を幕府直轄領(天領)とし、翌1601年(慶長6年)8月に初代銀山奉行として大久保長安を任命した[15](なお、初代奉行については『石見銀山旧記』や『石見銀山紀聞』などで大久保長安とされているが、『石見国名跡考』では彦坂元正であるとされている[16])。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村には直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置された。大久保長安は山吹城の下屋敷のあった吉迫の陣屋で支配を行ったが、後任の竹村丹後守により大森に奉行所が置かれた[17]。
幕府による銀山開発
大久保長安は山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。1602年(慶長7年)に安原伝兵衛が釜屋間歩を発見して産出された銀を家康に献上すると、家康は非常に喜び、安原伝兵衛に「備中」の名と身につけていた辻ヶ花染胴服を与えた[18]。
安原伝兵衛の釜屋間歩の発見などにより17世紀初頭(慶長年間から寛永年間)に銀の産出はピークに達し、『当代記』によれば1602年(慶長7年)の運上銀は4~5千貫に達したといわれる[19]。その後、銀産出量は次第に減少し、1675年(延宝3年)に銀山奉行の職は大森代官に格下げされた(大森の奉行所は大森代官所となる)。
海岸部には炭生産のノウハウを有するたたら経営者の製鉄工場が林立し、たたら経営者は銀採掘に使われる道具などで消費される鉄と銀製錬のために消費される炭とを供給することで貨幣としての銀を引き出すという持ちつ持たれつのシステムが築かれていた[20]。
銀の輸送
当初、産出した灰吹銀は現大田市の鞆ヶ浦(仁摩町)や沖泊(温泉津町)から船で搬出されていた。冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、大久保長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」(大森~粕淵~九日市(美郷町)~三次~甲山~御調~尾道)を整備し、尾道から京都伏見(1608年(慶長13年)に洛中の両替町に移転)の「銀座」へ輸送するようにした。大森町にある熊谷家は幕府に上納するための公儀灰吹銀を天秤で掛け改め勘定を行う掛屋として任命され、現在、この熊谷家住宅は内部が見学可能である。幕府(直轄地外では沿道各藩)による取り締まりの下、直轄地内の郷村に対する人的・物的負担や、街道各村にも銀の輸送にあたる人馬や経費負担(警備・接待など)の提供が厳しく課せられ、大きな負担となった。時として訴え出る者や争議が起こったが、この輸送は幕末まで続いた。
井戸平左衛門
1731年(享保16年)、大岡忠相の推挙により任ぜられた、第十九代代官の、井戸平左衛門正明(いどへいざえもんまさあきら)は60歳の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、領民から「いも代官」として慕われ、現在の島根県だけでなく鳥取県・広島県にも功績を称える多くの頌徳碑が建てられている。その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(さつまいも)導入・普及をもたらし、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免した(後年、備中国笠岡で没した原因として病死説と切腹説があり、前者が概ね定説となっているが論議も続いている)。
なお、1977年(昭和52年)に作家杉本苑子は代官井戸平左衛門正明を題材にした小説「終焉」を発表している。
幕府による銀山支配の終焉
石見銀山は江戸時代前期にも日本の膨大な銀需要を支えた(銅も産出)が、元禄期になると次第に産出量が少なくなり、江戸末期には深く掘らなければ銀を産出できなくなり地下水にも悩まされ採算がとれなくなっていった。
1866年(慶応2年)6月の第二次長州戦争において、幕府は石見国に紀州藩・備後福山藩・浜田藩・松江藩の藩兵を出動させたが、長州軍の進発を食い止めることができず、7月に浜田藩主・松平武聡は浜田城を脱出しその後落城した。これにより長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、最後の大森代官・鍋田三郎右衛門成憲は7月20日の夜に銀山付の役人を引き連れて備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた[21]。
以後、旧石見銀山領は長州藩によって支配されることとなり、鍋田成憲が逃亡したのちに発生した一揆は長州藩などによって鎮められた。そして、1869年(明治2年)8月に大森県が設置されたことによって長州藩による支配は終わった[22]。
明治期以降の石見銀山と終末
石見銀山は1867年(明治元年)の太政官布告による民間払い下げにより田中義太郎が経営権を取得したものの、1872年(明治5年)の浜田地震の被害を受けてしばらく休山となった[23](1873年(明治6年)頃に松江市の安達惣右衛門が別の鉱区を経営していたともいわれるが記録が少なく詳細についてはわかっていない[24]。)。その後、1886年(明治19年)からは大阪の藤田組(後に同和鉱業から現在はDOWAホールディングス)により再開発の試みが続けられた。藤田組は採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷(仁摩町大国)の「永久鉱山」に移したが、鉱山から主に採掘されていた銅の価格の暴落や坑内の環境の悪化などにより1923年(大正12年)には休山するに至った[25]。その後、日中戦争、太平洋戦争の最中、軍需物資としての銅の国産化を目論んで、1941年(昭和16年)より銅の再産出を試みるものの、1943年(昭和18年)の水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となる。鉱業権はDOWAホールディングスが保有している。
現在でも銀山採掘のために掘られた「間歩」(まぶ)と呼ばれる坑道が500余り残り、大久保間歩及び龍源寺間歩の一部が一般公開されている(大久保間歩の公開はツアー形式での限定公開)。
副産物
- 石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石(自然砒素、硫砒鉄鉱など)と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物を大量に含んでおり、これを焼成した上で細かく砕いたものは亜ヒ酸を主成分とし、殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた。
- 金銀の精錬工程として当時の日本においては先進的であった「灰吹法」という技術が使われ、その際に酸化鉛の粉塵を吸い込んだ鉱夫たちは急性または慢性の鉛中毒を発症した。鉛には発がん性もあると考えられているため、坑道内の出水・高温多湿や鉱滓・煤塵などの劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であり、30歳まで生きられた者は尾頭付きの鯛と赤飯で長寿の祝いをしたほどであったという。大森地内には若くして死んだ鉱夫たちの慰霊を目的として各宗派の寺院が多数建てられ、鉱夫たちの家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみであったと伝えられている。「灰吹法」と似たものとして、水銀を用いるアマルガム法がある。
世界遺産
市・県・国による文化財指定と保護
石見銀山にある歴史的な建造物や遺構は市・県・国などによって文化財に指定・選定され保護されてきた。1967年(昭和42年)に石見銀山は島根県から「大森銀山遺跡」として県指定史跡に指定され、さらに1969年(昭和44年)には国から「石見銀山遺跡」として史跡に指定された。さらに、大森銀山地区の町並みは1987年(昭和62年)に重要伝統的建造物群保存地区(種別 鉱山町)として選定され、銀の積出港であった温泉津地区の町並みは港町・温泉町として2004年(平成16年)に重要伝統的建造物群保存地区(種別 港町・鉱山町)として選定された。なお、大森銀山伝統的建造物群保存地区は2007年に、温泉津伝統的建造物群保存地区は2009年に、それぞれ選定区域を拡大している[26]。
登録までの経緯
日本政府は「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている、世界に類を見ない鉱山である」として[27]、「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指し、2001年に世界遺産登録の前提となる「暫定リスト」に掲載し、2006年1月にユネスコ世界遺産委員会に推薦書を提出した[26]。
2007年5月、各国から推薦された世界遺産登録候補を審査するユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が、遺跡の「顕著な普遍的価値」の証明が不十分であることを理由に「石見銀山は登録延期が適当」と勧告した[28]。それを受け、日本政府や地元は「世界遺産への登録は極めて厳しい」と判断したが、ユネスコの日本政府代表部は、委員会構成国の大使や専門家に、勧告に反論する110ページにわたる英文の「補足情報」を送るなどして、石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという、環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介し、巻き返しのための外交活動を展開した[29]。
結果、「21世紀が必要としている環境への配慮」がすでにこの場所で行われていたことが委員の反響を呼び、6月28日、世界遺産委員会の審議により、世界遺産(文化遺産)としての登録が満場一致で決定された。日本の世界遺産登録としては14件目であり、文化遺産としては11件目、産業遺産としてはアジア初の登録となる[1]。
石見銀山の登録に向けて日本側の代表として外交活動を率いた、近藤誠一ユネスコ大使は、2007年9月8日に、島根県大田市で開かれたシンポジウムの中で、銀山周辺に残る自然が逆転登録の決め手になったことを明かしている。近藤大使はICOMOSによる登録延期勧告を受け、各国の政府代表などに対し、石見銀山が伐採した分だけ植林していたことなど、自然に対する配慮の歴史を積極的に説明したところ、政府代表らの反応が良く強い手ごたえを感じたという。[30]
登録対象
和名は島根県教育庁文化財課世界遺産登録推進室による公式サイトの表記、英語表記と数字はユネスコ世界遺産センターによる世界遺産登録物件名と世界遺産登録ID。
銀鉱山跡と鉱山町
- 銀山柵内 (Ginzan Sakunouchi, 1246-001a)
- 代官所跡 (Daikansho Site, 1246-001b)
- 矢滝城跡 (Yataki-jô Site, 1246-001c)
- 矢筈城跡 (Yahazu-jô Site, 1246-001d)
- 石見城跡 (Iwami-jô Site, 1246-001e)
- 大森銀山伝統的重要建造物群保存地区 (Ômori-Ginzan, 1246-001f)
- 宮ノ前地区 (Miyanomae, 1246-001g)
- 重要文化財 熊谷家住宅 (House of the Kumagai Family, 1246-001h)
- 羅漢寺五百羅漢 (Rakan-ji Gohyakurakan, 1246-001i)
- 佐毘売山神社
石見銀山街道
- 鞆ヶ浦道 (Iwami Ginzan Kaidô Tomogauradô, 1246-002a)
- 温泉津沖泊道 (Iwami Ginzan Kaidô Yunotsu-Okidomaridô, 1246-002b)
港と港町
- 鞆ヶ浦 (Tomogaura, 1246-003a)
- 沖泊 (Okidomari, 1246-003b)
- 温泉津重要伝統的建造物群保存地区 (Yunotsu, 1246-003c)
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core
石見銀山方式パーク&ライド
世界遺産委員会では石見銀山が環境を大切にしていた鉱山であるという点が評価されたことから、その観光についてもパークアンドライドといった環境負荷の少ない観光モデルへの取り組みが行われている[33][34]。
登録後の動き
2004年6月26日、住民を主役として官民一体で石見銀山遺跡の保全・活用を議論するための石見銀山協働会議がおこなわれた。そこでは、石見銀山が世界遺産に登録されることによる地域経済の活性化を期待する声が上がる一方で、観光地化による生活環境への影響を懸念する声も上がった。このように世界遺産の活用に関して住民が初めから参加しての取り組みが行われたのはアジアで初めてのことであり、この会議への公募に対して120人の応募者が集まった[35]。2005年5月23日には、官民の連携のために「石見銀山維持・保全活動連絡会」が組織され、民間団体主導での石見銀山の清掃活動などが行われてきた[36]。ICOMOSによる登録延期勧告が行われた直後の2007年5月28日に近藤誠一ユネスコ大使が石見銀山の視察に訪れた際には、地元住民たちが石見銀山の世界遺産登録に向けた熱意を持っていると報道され[37]、世界遺産登録後も、登録1周年の2008年に行われた清掃活動である「クリーン銀山」のような地元住民らによる活動が続けられている[38]。このような積極的な地元住民の活動の一方で、石見銀山は単なる「穴」だとして世界遺産登録に困惑しているという地元住民の声も取り上げられた[39]。
登録翌年の2008年には観光客は81万人に達した[40]。しかし、石見銀山が世界遺産に登録されて以降、観光ルートに暮らす住民らは観光客の殺到による治安悪化や騒音などの観光公害に直面し、不安の声が上がっていた。そのため、バスでの乗り入れの制限を行うなどの対応がとられたが今度は観光客の減少が起こり、観光振興と地域生活のバランスも課題となっている[41]。ただ、地元の関連団体などでは産業遺産には理解が難しいところがあるためガイドが重要であり、観光客の満足度を上げるためにも観光客数は30万〜40万人がキャパシティ的には適切とみている[42]。
環境負荷の少ない移動手段の導入
- 馬車型電気自動車(導入予定)
- 島根県次世代自動車等技術研究会(島根大学、島根県産業技術センター、企業で構成)が試作したもので2013年10月には試乗会も行われ石見銀山において実用化される予定[43][44]。
- ベロタクシー
- 銀山公園から龍源寺間歩の2.3kmの区間などを運行[43][33]。最大定員は大人2人[43](幼児1人も乗車可)。天候によって中止の場合もある。
- レンタサイクル
- 大森代官所前や大森バス停で貸し出しが行われている[33]。
交通アクセス
- 出雲空港から出雲市駅までリムジンバスで約30分、出雲市駅からJR大田市駅まで普通列車で約40分。大田市駅より石見交通バス(世界遺産センター方面)に乗車。
- 山陰自動車道出雲ICまたは江津ICより国道9号を利用。大田市の市街地から島根県道46号大田桜江線に入るルートと、仁万交差点から島根県道31号仁摩邑南線に入るルートがある。
脚注
関連項目
外部リンク
- 島根県/文化財課世界遺産登録推進室/石見銀山(日本語及び英語)
- 石見銀山資料館
- 国指定文化財等データベース
- しまねバーチャルミュージアム企画コーナー/丁銀
- 島根県遺跡データベース
- 世界遺産・石見銀山の真価 岡部陽二
- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 島根県教育委員会『石見銀山とその文化的景観』(53頁)2007年
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 大田市三十周年記念誌編さん事務局編『大田市三十年誌』(53頁~54頁)1983年
- ↑ これは山頂に露頭した自然銀が月光に反射したものであると考えられている。(豊田p.36)
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 灰吹法の伝播経路は、中国由来説と朝鮮由来説がある。前者は田中健夫『中世海外交渉史の研究』(東京大学出版会、1959年)など、後者は小葉田淳『日本鉱山史の研究 』(岩波書店、1968年)など。
- ↑ 『大田市三十年誌』(54頁)
- ↑ 仁摩町誌編纂委員会編『仁摩町誌』(169頁)1972年
- ↑ 『仁摩町誌』(169頁)
- ↑ 11.0 11.1 小葉田淳 『日本鉱山史の研究』 岩波書店、1968年
- ↑ 『輝きふたたび 石見銀山展』島根県立古代出雲歴史博物館,石見銀山資料館,2007年
- ↑ しまねバーチャルミュージアム
- ↑ 石村禎久著『石見銀山-戦国の争乱・鉱山社会・天領』(84頁)1988年
- ↑ 『大田市三十年誌』(57頁)
- ↑ 『仁摩町誌』(178頁)
- ↑ 温泉津町誌編さん委員会編『温泉津町誌(中巻)』(91頁)1995年
- ↑ 石村禎久著『石見銀山-戦国の争乱・鉱山社会・天領』(99頁)1988年
- ↑ 『仁摩町誌』(177頁)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 『温泉津町誌(中巻)』(522頁)
- ↑ 石村禎久著『石見銀山-戦国の争乱・鉱山社会・天領』(189頁)1988年
- ↑ 原龍雄編『目で見る石見の100年』(42頁)1999年,郷土出版社
- ↑ 石村禎久著『石見銀山-戦国の争乱・鉱山社会・天領』(195頁)1988年
- ↑ 『大田市三十年誌』(69頁)
- ↑ 26.0 26.1 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 43.0 43.1 43.2 テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web