青函トンネル
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青函トンネル(せいかんトンネル)は、本州の青森県東津軽郡今別町浜名と北海道上磯郡知内町湯の里を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道トンネルである。
目次
概要
津軽海峡の海底下約100mの地中を穿って設けられたトンネルで、全長は53.85 kmである。これは1988年(昭和63年)の開業以来、交通機関用のトンネルとして世界一の長さ[注 1]を保っているが、全長57.091kmの鉄道トンネルとして建設中のスイスのゴッタルドベーストンネルが開業[注 2]すると、世界一の座はそちらに譲ることになる[注 3]。また、全長が約53.9kmであることからゾーン539の愛称がある。なお、青函ずい道と表記されていたこともある[1]ほか、トンネル出入口の扁額には青函隧道と表記されている。
青函トンネルの木古内駅方には、非常に短いシェルターで覆われたコモナイ川橋梁、さらに長さ約1.2kmの第1湯の里トンネルが続き青函トンネルに一体化しており、これらを含めたトンネル状構造物の総延長は約55kmになる。
青函トンネルを含む区間は海峡線となっており、北海道函館市と青森県青森市を結ぶ津軽海峡線の一部だが、新幹線規格で建設されており、将来北海道新幹線も通る予定になっている。
長大なトンネル内の安全設備として、列車火災事故などに対処するため、青函トンネル途中(海岸直下から僅かに海底寄り)に消防用設備や脱出路を設けた「定点」という施設が2箇所設置された。これは1972年(昭和47年)に国鉄北陸本線の北陸トンネル内で発生した列車火災事故を教訓にしたものである。なお、開業初日には3か所の火災検知器が誤作動を起こし、快速海峡などが最大39分遅れるトラブルも発生している。また、開業後はこの定点をトンネル施設の見学ルートとしても利用する事になり、吉岡海底駅([[[:テンプレート:座標URL]]41_26_31.7_N_140_14_21.6_E_region:JP&title=%E5%90%89%E5%B2%A1%E6%B5%B7%E5%BA%95%E9%A7%85 地図])と竜飛海底駅([[[:テンプレート:座標URL]]41_15_26_N_140_20_52.6_E_region:JP&title=%E7%AB%9C%E9%A3%9B%E6%B5%B7%E5%BA%95%E9%A7%85 地図])と命名された。この2つの駅は、見学を行う一部の列車の乗客に限り乗降できる特殊な駅であるが、吉岡海底駅は2006年8月に長期休止となった[2][3]ほか、竜飛海底駅も2013年11月10日をもって休止となった[4]。なお、この両海底駅は2014年3月15日に駅としては廃止され[5]、現在は「吉岡定点」、「竜飛定点」となっている。トンネルの最深地点には青色と緑色の蛍光灯による目印がある。
また、青函トンネルは通信の大動脈でもある。青函トンネルの中には開通当時の日本テレコム(現在のソフトバンクテレコム)が光ファイバーケーブルを敷設しており、北海道と本州を結ぶ電信・電話の重要な管路となっている。
青函トンネルは「世界最長の海底トンネル」という特殊条件であることから、万が一の事故・災害防止のために厳重な安全対策が施されており、トンネル内は終日禁煙・火気使用厳禁となっている。トンネル内には一般建物用より高感度の煙・熱感知器が多数設置されているので、微量なタバコの煙を感知しただけでも列車の運行が止まってしまう。
日本鉄道建設公団により建設工事が行われ、公団を引き継いだ独立行政法人である鉄道建設・運輸施設整備支援機構がトンネルを所有している。トンネルを走行する列車を運行しているJR北海道は、機構に対してトンネルの使用料を払っている。その額は租税および管理費程度とされており、年額4億円である。また、トンネル内の鉄道敷設部分についてはJR北海道所有として整備されており、この部分の維持管理費は年間約8億円となっている。1999年度(平成11年度)から改修事業が行われており、事業費のうち3分の2を国の補助金でまかない、3分の1をJR北海道が負担している[6][7]。
歴史
- 1961年(昭和36年)3月23日:北海道側吉岡で斜坑の掘削開始。
- 1963年(昭和38年)2月11日:北海道側吉岡で「クワ入式」(着工式)。
- 1967年(昭和42年)3月24日:北海道側で先進導坑の掘削開始。
- 1971年(昭和46年)11月27日:本坑の起工式。
- 1983年(昭和58年)1月27日:先進導坑貫通[注 4]。
- 1985年(昭和60年)3月10日:本坑貫通。
- 1988年(昭和63年)3月13日:海峡線中小国 - 木古内間の開業とともに供用開始[注 5]。吉岡海底駅、竜飛海底駅が開業。
- 2006年(平成18年)8月28日:吉岡海底駅が長期休止駅となる[2][3]。
- 2013年(平成25年)11月11日:竜飛海底駅が休止される[4]。
- 2014年(平成26年)3月15日:吉岡海底駅、竜飛海底駅が廃止[5]。それぞれ吉岡定点、竜飛定点となる。
- 2016年(平成28年)3月:北海道新幹線新青森 - 新函館北斗間の開業により、海峡線と新幹線共用開始(予定)。
経緯
かつて青森駅と函館駅を結ぶ鉄道連絡船として、日本国有鉄道(国鉄)により青函航路(青函連絡船)が運航されていた。しかし、1950年代には、朝鮮戦争によるものと見られる浮流機雷がしばしば津軽海峡に流入、また1954年(昭和29年)9月26日、台風接近下に誤った気象判断によって出航し、暴風雨の中、函館港外で遭難した洞爺丸他4隻の事故(洞爺丸事故)など、航路の安全が脅かされる事態が相次いで発生した。
これらを受けて、太平洋戦争前からあった本州と北海道をトンネルで結ぶ構想が一気に具体化し、船舶輸送の代替手段として、長期間の工期と巨額の工費を費やして建設されることとなった。
青森県東津軽郡三厩村(現在の外ヶ浜町)と北海道松前郡福島町を結ぶ西ルート、青森県下北郡大間町と北海道亀田郡戸井町(現在の函館市)を結ぶ東ルートが検討され、当初は距離が短い東ルートが有力視されたが、東ルートは西ルートよりも水深が深い上、海底の地質調査で掘削に適さない部分が多いと判定されたため、西ルートでの建設と決定した。なお、もし東ルートに決定していれば、かつて青函連絡船代替航路として建設され未完に終わった大間線と戸井線の建設が再開され、開通していたとも言われている。
当初は在来線規格での設計であったが、整備新幹線計画に合わせて新幹線規格に変更され建設された。整備新幹線計画が凍結された後、暫定的に在来線として開業することになったものの、軌間や架線電圧の違いを除けば、保安装置(ATC-L型)も含めて新幹線規格を踏襲しており、のちに考案されるスーパー特急方式の原型となった。
トンネルは在来工法(一部TBM工法・新オーストリアトンネル工法)により建設された。トンネル本体の建設費は計画段階で5,384億円であったが、実際には7,455億円を要している[8]。取り付け線を含めた海峡線としての建設費は計画段階で6,890億円、実際には9,000億円に上る。
しかし、完成時には北海道新幹線の建設が凍結になっており、また関東以西と北海道が鉄道と青函航路で結ばれていた着工当時と打って変わり関東から北海道への旅客輸送は既に航空機が9割を占めており、さらに完成後も大量の湧水を汲み上げる必要があるなど維持コストも大きいことから、巨額な投資といえども埋没費用とみなし放棄した方が経済的であるとされた。そのため「昭和三大馬鹿査定」発言において言及され、「無用の長物」、「泥沼トンネル」などと揶揄されたこともあった。
トンネルの有効活用としては「道路用に転用すべきだ」、「キノコの栽培をすべきだ」、「石油の貯蔵庫にすべきだ」などのアイデアも報じられたが、結局は在来線で暫定使用を行う事になった。なおこの時、青函トンネルカートレイン構想としてカートレインの運行を行うことも定められていたが、実現には至っていない。
しかし、開通後は北海道と本州の貨物輸送に重要な役割を果たしており、一日に21往復(定期列車。臨時列車も含めると上下合わせて約50本)もの貨物列車が設定されている。天候に影響されない安定した安全輸送が可能となったことの効果は大きい。特に北海道の基幹産業である農産物の輸送量が飛躍的に増加したとされる。また首都圏で印刷された雑誌類の北海道での発売日のタイムラグが短縮されるなど、JR北海道にとっては赤字事業であるものの外部効果は高いといえる。対照的に、旅客は航空輸送の高度化・価格破壊などから減少が進んでいる。2007年(平成19年)9月1日には青森・函館間を1時間45分で結ぶ高速船ナッチャンReraが、2008年(平成20年)5月2日にはナッチャンWorldが就航し、青函トンネル旅客輸送における新たな競合相手となっていたが、これらは2008年(平成20年)11月1日で運航休止[注 6]となった。このような状況ではあるが、今後は北海道新幹線開業による輸送量増加が期待される。
海底にあるため施設の老朽化が早く、線区を管轄するJR北海道にとって、青函トンネルの保守管理は大きな問題になっている[9]。
また、開業当初は、乗車券のみで乗れた青函連絡船の代替という意味もあり、主たる輸送が快速「海峡」にて行われ、特急「はつかり」は一部速達性を要する時間帯のみであったが、2002年(平成14年)12月の東北新幹線八戸開業により列車体系が大幅に変更され、特急・急行列車のみとなった。
ちなみに、青函トンネルの中央部は、公海下の建造物ということで、開業前にその帰属および固定資産税の課税の可否が問題となったが、トンネル内には領土と同様に日本の主権が及ぶものと判断された。それに伴い各自治体へ編入され、固定資産税もそれに応じて課税されることとなった[注 7]。
全工程においての殉職者は34名。竜飛崎に殉職者の碑が建っている。
技術
当初はTBM(トンネルボーリングマシン)を使用して掘削していけば、ほぼ計画通りの工期で完成すると考えていたが、実際には軟弱な地層に進むにつれ多発した異常出水や、機械の自重で坑道の下へ沈み込み前進も後退もできずに、やむなくTBMの前方まで迂回して坑道を掘って前から押し出すなどあまり役に立たず、早々にTBMでの掘削を諦めた。本坑に先駆けて先進導坑を掘り進み、先の地質などを調査しながら本坑が後を追うという形式で掘り進むことになる。
海底にさしかかるに従い次第に地質が軟弱になり、出水も増えてきた。そのため青函トンネルで培われた技術が、セメントミルクを超高圧で岩盤へ注入し、セメントが固まった後そこを掘っていく方法である。つまり坑道の太さ以上にセメントで自ら硬い岩盤をあらかじめ作り、そこを掘り進む理屈である。それでもなお大量の出水を防ぐ事ができず、坑道の途中で進む事を断念し坑口を塞いだうえでその坑道を避けて掘った箇所が先進導坑に数カ所存在する。
掘削が終わり、鉄道が開通した後も湧水(塩水)が常に出続けている。そのため竜飛側と吉岡側のそれぞれ先進導坑最下部にポンプが備えられており(竜飛側はさらにもう1か所)、常時ポンプで湧水を汲み出すことでトンネルが維持されている。
北海道新幹線
2005年(平成17年)に北海道新幹線の新青森 - 新函館北斗間が着工され、青函トンネルについては貨物・夜行列車なども引き続き通れるように三線軌条とし、上下線の間に遮風壁を設ける事、トンネル両側の津軽今別駅[注 8]と旧知内駅[注 9]に待避施設を建設する事になっている。2007年(平成19年)には保安装置の動作確認などの試験目的で、上下線6kmの三線軌条化工事が行われた。また、これらの工事のために吉岡海底駅は休止されていた。
また、速度が大きく異なる貨物列車と新幹線を同時に走らせることによるダイヤへの負荷などを解消するべく、狭軌用の貨物列車を列車ごと標準軌用列車に乗せ、新幹線用レール上を高速で走行させるトレイン・オン・トレイン技術がJR北海道によって研究されている。
これとは別に、当初の予定通り青森側・北海道側にそれぞれターミナルを建設してカートレインを運行させようという構想もあるが、実現の目処は立っていない。
2014年(平成26年)3月15日に北海道新幹線の開業工事に伴い、2つの海底駅(竜飛海底駅・吉岡海底駅)が廃止された。
走行車両
青函トンネルは海底の長大トンネルであるため、走行する車両には下記の装備が要求されている。
なお明示された条件ではないが、本トンネルは海底を通ることから湿度が常に100%であるため、これに耐えうる構造であることも重要である。
火災事故防止のため、トンネルを通行する営業用列車が電車または電気機関車牽引の客車・貨車のみに制限されており、内燃機関を用いる車両(気動車・ディーゼル機関車)は救援目的のディーゼル機関車を除き、当線内は自走・牽引は出来ない。さらに青函トンネルを通る冷凍コンテナは、熱感知機の反応で列車が足止めされないよう、機関車の運転席からの遠隔操作によりコンプレッサーの動力となるディーゼルエンジンを切るための専用回路を搭載したタイプに限られている[注 10]。
本州と北海道間で車両を輸送する際は、内燃機関を停止した上で基本的に電気機関車の牽引により甲種輸送される[注 11]。
なお、1988年(昭和63年)10月にはオリエント急行の車両が本トンネルを通行している[10]が、オリエント急行に使用される車両は内装に木材を使用している[10]上、食堂車では石炭レンジを使用しており[10]、火災対策上通行が認められない車両であった[10]。しかし、この時には各車両に車内放送装置と火災報知器を設置した上[10]、防火専任の保安要員を乗務させるという条件[10]で特別に通行が認められている[10]。
現在運用中の車両
- 電車
- 電気機関車
- 客車
- 気動車
- キハ183系:上記の通り、青函トンネル内で内燃機関を使用して自走することはできないものの、一部車両はED79形に牽引されての営業運転(客車と同等の扱い)に対応している。2010年時点で走行可能な車両は5200番台「ノースレインボーエクスプレス」と6000番台のお座敷車両のみ。キハ183-1も「ノースレインボーエクスプレス」の先頭車として入線可能であったが、2010年初頭に廃車されている。
- キヤE193系:総合軌道試験車両「East i-D」。2009年6月にED79形牽引の甲種輸送列車として、初めて通過した。毎年5月にJR東日本秋田車両センターからJR北海道に貸し出され、管内の路線を検測している。
- ディーゼル機関車
- DE10形:救援用として、木古内駅と津軽今別駅にそれぞれ2両が常時待機している。
導入予定車両
過去の車両
- 電車
- 電気機関車
- ED76形電気機関車(550番台)
- 客車
扁額
扁額の揮毫は、本州側が開通当時の内閣総理大臣中曽根康弘、北海道側が同じく運輸大臣橋本龍太郎である。扁額には「青函トンネル」ではなく「青函隧道」と書かれている。
揮毫した中曽根康弘は三公社民営化を悲願とし、橋本龍太郎は国鉄分割民営化時の運輸大臣であったことから、国鉄の介錯役と言える両政治家が揮毫した事となった。 テンプレート:-
記念発行物
- 記念切手
- 60円が1988年3月11日に発行された。図柄は寝台特急「日本海」のヘッドマークを付けたED79形電気機関車である。
- 記念貨幣
- 500円白銅貨が1988年(昭和63年)8月29日に発行された。
映画
テレビ番組
開業当日は民放各局が開業式典から生放送した。その中継は函館駅・青森駅だけではなく吉岡海底駅・竜飛海底駅からも行われた。さらには旅客一番列車[注 12]の特急「はつかり10号」がトンネルに入った様子を車内からも生放送した。
列車内からの中継はNHKが代表取材し、その映像を運転席に設置したFPUから地上に送信し、地上ではその電波を受信し再度中継した。開業一番列車の写真を見ると運転席に「NHK」と書かれたパラボラアンテナが映っているのはそのためである。民放各局はこのNHKの映像を受信し再送信したため、なんの前振りもなく突然NHKのアナウンサーが民放の画面に現れた。
また、海底駅からの中継には当時やっと実用化され始めていた放送中継用の光ファイバー伝送装置が使用された。
本中継の番組ではないが、NHKで2000年(平成12年)4月11日に『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「青函トンネル 友の死を越えて」が放送された。また、青森放送でも1988年(昭和63年)に『竜飛の二人』という青函トンネルをテーマにしたドキュメンタリー番組も制作、放送した。
開通直後の1988年(昭和63年)4月4日には月曜・女のサスペンス初回拡大スペシャル「青函特急から消えた男」(夏樹静子原作のトラベルサスペンス)がテレビ東京系列で放送されている。
脚注
注釈
出典
関連項目
- 一本列島
- 青函トンネル開通記念博覧会
- 青函トンネル記念館
- 津軽海峡大橋 - 本州 - 北海道間に道路単独吊り橋を架設する構想。世界最長の吊り橋「明石海峡大橋」を大きく上回るため、建設や維持管理が非常に高コストになることから実現の目処が立っていない。
- キャッツキルアケダクト - アメリカ合衆国・ニューヨーク州の水道水の40%を供給する水道トンネル。全長147.2kmで土木構造物としてのトンネルでは世界最長。
- 海峡 (映画)
- 英仏海峡トンネル - 海峡部分は世界最長だが、トンネル自体は海底トンネル中2位の長さ。
- 延長別トンネルの一覧
- 延長別日本のトンネルの一覧
外部リンク
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タグがありません- ↑ 運輸省「新幹線鉄道建設に関する整備計画」1973年11月13日。
- ↑ 2.0 2.1 テンプレート:Cite press release
- ↑ 3.0 3.1 テンプレート:Cite press release
- ↑ 4.0 4.1 テンプレート:Cite press release
- ↑ 5.0 5.1 テンプレート:Cite press release
- ↑ 引用エラー: 無効な
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 青函トンネルの費用便益帰着表
- ↑ 日刊建設工業新聞 北海道版、JR連合 政策ニュース。
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 10.6 『鉄道ジャーナル』2008年11月号(通巻505号)p105