国鉄70系電車

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国鉄70系電車(こくてつ70けいでんしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)で運用された旧形近郊形電車形式群の総称である[1]

概要

横須賀線京阪神緩行線中央東線など通勤と中距離の輸送性格を併せ持った路線用に開発された3セミクロスシート車。1951年から1958年にかけて、中間電動車モハ70形および低屋根構造で歯車比の異なるモハ71形制御車クハ76形2等車サロ46形(後のサロ75形)の4形式合計282両が製造された。

本系列に類する20m3扉車の新造計画については、戦後間もない時期から存在していた。

その後計画が整理され、本系列は横須賀線と京阪神緩行線への投入が決定。3扉セミクロスシート車とされた。

  • ほぼ同時期に製造されていた80系電車と比較されることが多いが、長大編成による運用を考慮した中間電動車方式を80系に続いて採用した点以外は、メカニズム面を含め相違点が多く存在する。

車両

本系列の製造開始は80系2次車の登場後だったためクハ86形2次車と同様、前面2枚窓の「湘南形」とされた。

  • 当初の計画ではクハ76形の前面は、80系1次車と同様に半流線型で非貫通型であるが2枚窓といったタイプも計画されていた。しかしその前面には、ウインドシル・ヘッダーが巻いてあったことから、80系の前面2枚窓の試作車であるクハ86021・86022よりも、むしろ小田急1700形第3編成に似たデザインである。

車体および座席のレイアウトは戦前型の51系をベースに製造されたことから3扉セミクロスシートとされたが、2等車(のちの1等車グリーン車)は2扉クロスシートで製造された。また、東海道本線湘南電車)に比較すると乗車距離の短い横須賀線向けとされたことから、湘南電車80系のサロ85形とは異なり、70系の2等車は横須賀線在来車の32系サロ45形と同様にデッキと客室との仕切は未設置とされた。

基本的に同一系列のみで編成組成することを前提とした80系とは異なり、横須賀線では32系・42系と、京阪神緩行線では51系・72系と、中央東線では72系との混結がそれぞれ実施された。長編成での使用を想定していなかったことや他系列との混結が前提であったことから編成上の車両数を充足していた3等付随車は製造されていない。

初期には屋根が木造の半鋼製車であったが、1954年度には屋根を鋼製化、さらに1957年度製造の最終グループは全金属化され300番台を付番された。この他に国電初の全金属車・モハ71001が存在する。

前面スタイルの特徴は80系に類似するがメカニズム面では72系に近い。だが駅間距離の長い区間での高速運転も考慮して、モハ70形の歯車比はモハ80形・モハ54形と同一の1:2.56に設定された。

新造形式

以下で解説を行うが、設計図だけで終了した2・3等合造車のクロハ75形が計画されていた説も存在する。

モハ70形

本系列の基幹形式となる座席定員72名の中間電動車。モハ70001 - 70097・70101 - 70117・70120 - 70126・70300 - 70319の合計141両が製造された。窓配置は2D6D6D2で扉間にクロスシートを4組ずつ設置は51系と共通である。主要機器は以下を参照。

  • 当初はMT40A 1954年年度予算車以降はMT40B
  • DT16形:1950年度予算車
  • DT17形:1951年度予算車・1955年度一次債務予算車(モハ70053 - 70061)
  • DT20形:1954年度予算車以降
  • DT20A形:1956年製以降

さらに製造年度ごとの変化を以下に示す。

1950年度予算車
屋根は木製張り。
妻面に大きなよろい戸型の通風器を採用。
1951年度予算車
戸閉め機械と出入口周囲の天井灯の配置を変更。
1952年度予算車
妻面のよろい戸型通通風器を廃止。
2位側の配電盤の大型化および1位側の妻面に梯子の取付による前位妻窓の埋め込み。
1954年度予算車
絶縁ビニール布を貼った鋼板屋根の採用。
戸袋窓をHゴム支持として客用扉もHゴム支持の1枚ガラスに変更。
1955年度第一次債務予算車

:床板も鋼板化、その上に樹脂製シートを貼る。

1955年度第三次債務予算車

:床板が木製に戻る。

簡易運転台[3]を後位(非パンタグラフ)側に設置。
天井扇風機回路準備工事を施工。
1956年度予算・1957年度債務予算車
床板を鋼板としその上に合成樹脂製の敷物を貼り付け。
雨樋も木製から鋼製に変更し全金属車に近い形態となった。
1957年度予算車(300番台)
外装だけでなく内装も全金属車体に改められたことにより80系と同様に300番台に区分。
天井に蛍光灯と扇風機を落成当初から設置。
通風器と照明の配置を変更。

1951年の新製当時は東京・大阪でジャンパ連結器の引通線の芯数が異なっていたため横須賀線向けを001 - 、京阪神緩行線向けを101 - にそれぞれ番台区分を実施した。その後に仕様が東西で統一されたために番台区分の必要がなくなったが、1957年に京阪神緩行線に投入されたモハ70120 - 70126は再び100番台の車両番号となった。

  • 従来の車両と仕様が変わったわけではなく[4]、当初の番台区分に混乱を来さないよう配慮したための付番である。
    • 後に同様な理由で103系モハ102形が-899の続番が2001に飛ぶケースや205系では国鉄時代製造車両とJR化後製造車両と編成単位でのナンバリング等が異なるケースが発生している。

モハ71形

1952年に登場した中央東線向けの中間電動車。

主電動機や主制御器はモハ70形と同一であるが、モハ70形とは以下の相違点がある。

  • 同線に介在する狭小トンネル建築限界の関係で屋根全体の高さを低く抑えて[5]パンタグラフの折畳み高さを低減した。
  • 歯車比も72系と同一の1:2.87とし、平坦線での高速性能より勾配区間における登坂力に配慮させた。

当初製造の17両は窓配置がモハ70形と共通であるが、全金属試作車の71001・木造車の鋼体化改造名義の71002 - 71005・新造車の71006 - 71017の3タイプに分類される。

モハ71001
木造電車の鋼体化名義による全金属試作車。
当初70800の車番が予定されていたが落成が遅れたため71001で竣工。
化粧板は薄いピンク色のアルミ合金
座席布地はエンジ色ビニルクロス。
ドアチェックつきの貫通扉など従来車と異なる内装。
窓枠の構造も遠くから見ると一段窓に見える上段サッシュレス・下段上部アクリル[6]とした。
パンタグラフはPS11形を搭載。
台車はDT15形を装着。
末期には室内を再び改造され、通常のアルミサッシ・着色化粧板・モケット張り座席など通常の近代化更新車両と同様の状態となった。
モハ71002 - 71005
当初はモハ70801 - 70804と付番された。
木造電車や社形国電の鋼体化改造名義の車両で従来と同じ半鋼製車。
パンタグラフはPS13形。
台車はDT13に変更。
モハ71006 - 71017
同時期製造のモハ70形を低屋根化した構造。
台車はDT17形を装着。

クハ76形

座席定員60名の制御車。クハ76001 - 76036・76037 - 76051の奇数のみ・76052 - 76096・76097・76099・76101・76300 - 76315の合計106両が製造された。

  • 奇数車の製造がやや多かった理由は、横須賀線ではモハ43, 53形が偶数(横須賀線基準で下り側)向きであり、京阪神緩行線では51系の各系列に偶数向き車両が比較的多かったためである。

クハ86形と同様に後位(連結面)側にトイレを設置するが、奇数車では3位側に、偶数車では4位側に、それぞれ配置することで東海道本線でのトイレ位置を海側に統一した。クハ76形の年次変化は、ほぼモハ70形と共通であるが以下に示す。

1951年前期製
昭和25年度予算で製造されたクハ76001 - 76030。
窓配置は1dD6D6D2。
台車は戦前からのTR23形コロ軸受としたTR45形を装着。
トイレは後の増備車とは異なる大型を採用。
  • 出入口が客室側を向いており出入りする様子が他の乗客にわかりやすく乗客からは不評であった。
1951年後期製
昭和26年度予算で製造されたクハ76031 - 76036・76037 - 76051奇数。
トイレを小型化により海側窓配置を1dD6D6D1に変更
トイレ対面に当たる座席をクロスシートに変更。
1952年 - 1957年製
クハ76052 - 76096・76097・76099・76101
前面窓のHゴム支持化を実施。
台車をTR48形へ変更。
1957年・1958年製(300番台)
全金属車で基本的仕様変更はモハ70形と同一。
奇数・偶数を分けない両渡り構造を採用。
トイレ位置を3位側に統一。
運転台直後の客室部分に窓を設置したため配置が2・4位側が1d1D6D6D2、1・3位側は1d1D6D6D11に変更。
運行番号表示器を少し前に張り出した構造に変更。
運転台窓上部に通風口を設置。
前面下部に埋込式警笛を2基設置。

サロ46形→サロ75形

定員64名の2等付随車。1951年・1953年・1955年に合計18両が横須賀線として製造された。

通風器は本形式のみ押込式である。2等車であるため車体両端に幅700mmの客用扉を設置し、座席配置はサロ85形やオロ40形と同様の固定式クロスシートを採用。後位側にトイレと洗面所を設けたことにより窓配置はD8D1となったが、窓は高さが3等車他形式と同一の二段窓にしたものの幅はサロ85形と共通となる1,200mm大形窓である。

  • 形式番号が46と大きく飛んだのは、製造初年の1951年当時は70台の空き番号がなかった[7]ため。元々32・42・52系のサロハ46形が、戦前に全てサロハ66形またはクロハ59形に改造されて消滅して空きとなっていたことから充てられたためである。

製造年次により以下の相違点がある。

1951年製
座席布地はブルー塩化ビニール張り。
床はリノリウム張り。
台車はクハ76形のTR45形を改良したTR45A形を装着。
1953年・1955年製
座席布地をサランに変更。
内装をニス塗りから塗りつぶしに変更。
台車をTR45A形からTR48A形に変更。
1955年製の車両では通風器を8個から9個に増設。

本形式では座席の布地に化学繊維を多用していることが特徴である。当時はまだ化学繊維が珍しく、鉄道車両における活用も黎明期であったことから、目新しさを強調することを目的に採用したことがうかがえる。ただし後年に従来のモケット張りに変更された。

1959年6月1日の車両称号規程改正による改番でサロ75形に変更された。[8]

  • 同改正では旧形電車はトップナンバーを000とすることに変更されたために原番号-1で改番された。
  • サロ46001 - 46018→サロ75000 - 75017

改造形式・工事

クハ76形事故復旧車

1957年に横須賀線東逗子 - 逗子間で在日米軍トラックと衝突して脱線・大破したクハ76005に施工した復旧工事である。1958年に大井工場(現・東京総合車両センター)で300番台並の全金属車体で復旧し、新番号のクハ76351となった。

  • 実際は復旧名義のみで車体は台枠から新造している。300番台との相違点を以下に示す。
  • 正面運転席の通風器が小型化され、運転台窓下部に2箇所(運転席と助士席)に設置
  • 連結面の雨樋縦管を車体内に内蔵
  • 屋根上通風器の配置は1950年度製造のものを流用
  • 台車は種車のTR45形を流用

更新修繕

1951年前期製造車(昭和25年度製造)に対して、1959年から1960年にかけて施工した工事で内容はを以下に示す。

全形式実施

  • 屋根を鋼板屋根にして絶縁ビニールを貼付
  • 妻面のよろい戸通風器の封鎖
  • 戸袋窓のHゴム化

モハ70形

  • 配電盤の大型化による2位側妻面窓の埋込みと1位側妻面窓のHゴム化

クハ76形

  • 運転台窓のHゴム化と運転台窓下部への通風器取付(クハ76351と同じもの)
  • 前面下部にタイフォン取付
  • 運転台扉と客室扉の間に室内環境改善のために小窓(300番台の420mmに対して360mm)を取付
  • トイレの小型化およびトイレ対面座席のクロスシート化 
  • 窓配置を1dD6D6D2から1d1D6D6D2(トイレのない側)1d1D6D6D11(トイレ側)に変更

モハ70形→71形編入改造

改造前 改造後
モハ70002 モハ71018
モハ70003 モハ71019
モハ70001 モハ71020
モハ70004 モハ71021

更新修繕工事と同時にモハ70形のうち4両を低屋根化・歯車比の変更改造を施工してモハ71形に編入した。

なお豊川分工場施工の2両はぶどう色で出場し、1961年9月にスカ色へ変更されている。 テンプレート:-

モハ71001の一般化改造

全金属試作車として製造されたモハ71001に対して1962年に施工された内装を中心にした以下の量産化改造である。

  • サッシ窓を通常のアルミサッシに変更
  • 座席の布地をビニルクロスから通常のモケット張りに変更
  • 照明の蛍光灯化
  • パンタグラフをPS11形からPS13形へ変更

サハ75形(2代)

横須賀線専用であったサロ75形は、地方転出後1等車の需要が減少することから、1965年から1966年にかけて13両にサハ75形(2代)2等車(現・普通車)への格下げ改造が施工された。なお、サロ75形改造車の車両番号は種車のものをそのまま承継する。

  • サロ75000・75001・75003・75004・75007・75009 - 75016→サハ75同番号

クハ75形

1967年改造の5両は格下げと同時に先頭車化改造を施工。新形式のクハ75形とされた。

  • サロ75002・75005・75006・75008・75017→クハ75同番号
改造点
前位側に切妻構造の高運転台を取付
前位客用扉を移設のうえ1,000mm幅に拡大
前位客用扉直後に種車の座席を流用してロングシート化

これらの改造によって窓割はdD7D1となったほか、当初は3扉化する計画と形式図が存在する。

サハ75形100番台

1969年に中央西線および飯田線で運用されていたサハ75形にラッシュ対策のため3扉化改造[9]を施工したための番台区分である。

  • 車体中央部に幅1,000mmの客用扉を設置
  • 新設ドア周囲の座席を種車の座席を流用してロングシート化
  • 窓割をD4D3D1に変更

なお手続上の都合で改造と改番は同時ではない。

  • サハ75003・75007・75010 - 75016→サハ75101 - 75109

サロ85形のクハ77形(2代)への格下げ・編入改造

1968年の両毛線電化に際し不足する先頭車対策として横須賀線の編成に組込まれていたサロ85形を3扉化のうえ先頭車化改造を施工し、新形式のクハ77形(2代)として落成させた。

  • 前位側に切妻の高運転台を取付
  • 前位客用扉を移設のうえ1,000mm幅に拡大
  • 車体中央部にも幅1,000mmの客用扉を設置
  • 前位客用扉直後および中央部扉周囲に種車の座席を流用してロングシート化
  • 後位車端部のデッキ仕切を撤去

種車の関係でサロ85030改造のクハ77006のみ側窓が下降式(その他は上昇式)のほか、これらの改造によって窓割はdD3D31Dとなった。

  • サロ85006・85011・85012・85020・85024・85030→クハ77000 - 77004・77006

本形式ならびに上述クハ75形は、クハ103-269以降の高運転台車に類似する前面スタイルで、80系のサロ85形やサハ87形を同様に先頭車化改造したクハ85形とともに独特の外観を持つグループとなった。

投入線区向け特化改造

各地域の使用状況に応じた以下の改造を施工。

  • 警笛を運行番号表示器の部分に移設し耐雪カバーを取付(クハ75形の一部を除く新潟地区投入車)
  • 通風器を押込型に換装(仙石線用モハ70123 - 70125の3両に施工)
  • 前照灯シールドビーム2灯化(いわゆる「ブタ鼻」化)改造(長野地区に配置されたクハ76021・76073・76075の3両に施工)

製造年・製造所別一覧

製作年度 製造所 日支 汽車 新潟 日車 東急 日立 帝国 宇都宮 近車 川車 大井工 両数
形式
昭和25年
(1950年)
モハ70形 001, 002
117
005 - 008 009 109 - 112 010 115, 116 103, 104 003, 004 101, 102
113, 114
105 - 108 67両
クハ76形 001, 002
027, 028
013 - 016 025, 026 017 - 020 029, 030 023, 024 005, 006 011, 012 003, 004
021, 022
008 - 010
サロ46形 001, 002 005, 006 003, 004 007 - 010
昭和26年
(1951年)
モハ70形 023 - 032 011 - 022 033 - 042 801 - 804 51両
モハ71形 001
クハ76形 037 - 043奇 031 - 036 045 - 051奇
昭和27年
(1952年)
モハ70形 043 - 048 29両
モハ71形 006 - 013 014 - 017
クハ76形 057 - 060 061 - 063 053 - 056
昭和28年
(1953年)
サロ46形 011 - 016 6両
昭和29年
(1954年)
モハ70形 049 - 052 6両
クハ76形 065, 067
昭和30年
(1955年)
モハ70形 053 - 064 065 - 074 38両
クハ76形 064, 066
069, 071
068 - 076偶
073 - 081奇
サロ46形 017, 018
昭和31年
(1956年)
モハ70形 075 - 092 29両
クハ76形 078 - 086偶
083 - 093奇
昭和32年
(1957年)
モハ70形 090 - 097
120 - 126
20両
クハ76形 088 - 094偶
095 - 101奇
昭和32年本予算
(1957年)
モハ70形 300 - 319 36両
クハ76形 300 - 315
製造所別両数 31両 93両 3両 34両 3両 22両 6両 4両 17両 64両 5両 282両

テンプレート:-

車体塗色

先行した80系は車体塗色を湘南色もしくは関西急電色(クリームとマルーンのツートンカラー)として新製され、系列で統一されて運用されたこともあって塗色バリエーションがごく少ない<[10]のに対し、70系は他形式と混結されることが前提であったことから、併結する先行形式に合わせ、新製時から多様な塗色が採用された。

横須賀線向け塗装
クリーム色と青色の塗り分けで「スカ色(横須賀色)」と呼ばれた。
  • 同線では本系列登場以前の1950年から、在籍している32系や42系にぶどう色からの塗色変更を実施していた。
当初は青2号クリーム2号であったが、1963年以降は青15号クリーム1号に変更している。後に中央東線のモハ71形・クハ76形にも採用されるが、モハ71001 - 71007は当初従来車と混結して運用されたためぶどう色2号で落成した。
京阪神緩行線向け塗装
51系の増備として投入されたこともあり、従来の標準であったぶどう色2号一色で落成した。後にクハ76形も配置されたが同じくぶとう色2号であったため「茶坊主」とも呼ばれた。ただし後述の代用列車運用に投入された際は、誤乗防止のため編成を組むクハ68形とともに関西急電色に塗装された実績もある。
阪和線向け塗装
常磐快速線エメラルドグリーン青緑1号)を明るくした緑1号と肌色に近いクリーム3号のツートンカラーで「阪和色」と呼ばれた。
当初の塗り分けも横須賀線向けとはやや異なり、幕板部分までクリーム色に塗られていた関係で上部の緑色は雨樋の部分のみであった(後に横須賀線と同じ塗り分け線に変更)。
1967年以降に阪和色はスカ色に変更された。
新潟地区向け塗装
1962年から長岡運転所(現・長岡車両センター)に転配された車両は、当初はぶどう色2号1色とされたものの、中での視認性向上のため、1964年から他の旧形電車と同様に赤2号黄5号の「新潟色」と呼ばれる塗装に変更された。
その他の塗装
仙石線向け車両は、他の51系・72系と同じウグイス色(黄緑6号)に塗装。
福塩線向け車両は、当初は置換え対象の51系などに塗られていた青20号の単色を採用する計画だったが、廃車までスカ色のままで運用された。
京阪神緩行線のぶどう色2号一色塗装の車両も、他線に転属した際に標準色であるスカ色などに変更された。

上述のように本系列は後年になってもさまざまな塗色に変更された[11]

運用

本項では、新製配置された地区でと地方転用後に分類して解説を行う。

新製配置地区

横須賀線用は全体の50%強となる157両が田町電車区(現・田町車両センター)に、京阪神緩行線用は1/4弱である65両が明石電車区・宮原電車区(現・網干総合車両所宮原支所)・高槻電車区に配置。輸送力増強ならびに戦後混乱期に両線区に配属された63系や旧型車の置換えにも寄与した。

横須賀線・京阪神緩行線の両線区とも年々輸送力の増強に追われていたが、後継となる新性能近郊形電車の登場までまだ時間がかかることが予想された。その間にも特に横須賀線は逼迫した状況であったことから、1960年から1962年にかけて中央線快速山手線城東線西成線大阪環状線101系を投入して捻出した40系や72系を京阪神緩行線に転入。捻出した本系列30数両(34両・36両の2説あり)を横須賀線に転用させた。
  • ただし不足するサロについては、湘南電車や準急「東海」・「比叡」への153系投入で余剰となったサロ85形を充当。
  • 阪和線快速の輸送力増強や新潟地区電化に際しても同様の方法で車両捻出が実施され1964年は京阪神緩行線用本系列は10両のみとなった。
1964年以降は横須賀線への111・113系投入に伴い20両弱京阪神緩行線に転出し、京阪神緩行線のロングシート化に一時的な歯止めをかけた。

中央東線用は1952年に10%弱の26両が三鷹電車区(現・三鷹車両センター)に配置され富士急行への乗り入れや臨時列車にも充当された。

阪和線用1955年に1/8強の34両が鳳電車区(後の日根野電車区→現・吹田総合車両所日根野支所)に配置され、同線の特急(のちの快速、新快速)・急行 (のちに直行を経て区間快速)を中心に投入され従来の阪和形電車や52系に代わって主力車両となった。

横須賀線

1951年2月から3月にかけて、モハ70形10両 (70001 - 70010) ・クハ76形30両 (76001 - 76030) ・サロ46形が10両 (46001 - 46010) の合計50両が落成して、42系と組んでそれまでの主力であった32系の置換えを開始した。

  • 新製車にクハ76形が多いのは、当時の基本編成・付属編成の先頭車には極力クハ76形を充当して、戦災から復興する横須賀線のイメージアップを図る目的があったためである。

同年秋にはモハ70形32両 (70011 - 70042) ・クハ76形14両(76031 - 76051 うち76037 - 76051は奇数のみ)の合計46両を増備し、一部のクハ47形とサハ48形・サロ45形を除く32系とモハ42形・クハ58形など42系の一部を置換え、戦後の横須賀線の主力となった。

当時の編成は基本編成が7両。付属編成が4両もしくは5両。基本編成の中にはサロ2両組み込みとサロ1両の2種類があり、サロ2両組み込み基本編成については、そのうちの1両には極力サロ46形とし洗面所確保について考慮を図っていた。また、湘南電車の代走として東海道本線での運用、付属編成や予備車による高崎線上越線のスキー臨時電車へ投入のほか、クロハ49形(のちのサロハ49形)やクハニ67形・42系などと組成した伊東線ローカル列車など通常とは異なる運用もあった。本系列の増備に伴って横須賀線のダイヤも整備され、1950年代前半にはラッシュ時15分・日中30分ヘッドのパターンダイヤが確立した。

その後は宅地化による沿線人口の増加をはじめ東逗子駅や開業や横須賀線電車川崎駅停車など乗客の増加に伴い、増備で輸送力強化を図った。こうして順調に輸送力強化に努めてきたが、それでも輸送需要の伸びが旺盛であったことから1959年2月には終日15分ヘッドを基準ダイヤとしたほか、基本・付属編成を共通の6両編成として、ラッシュ時には2本併結の12両、日中は単独運行の6両での運転を開始した。その一方で横須賀 - 久里浜間は輸送需要が格段に落ちることから、日中はモハ43・53形 +クハ76形(クハ47形)の2両編成による現行ダイヤにつながる区間列車の運転が開始された。この時点での主な編成パターンを以下に示す。

テンプレート:TrainDirection
クハ76 モハ70 サロ46or45 モハ70 モハ70 クハ76
クハ76 モハ70 サロ46or45 モハ70 モハ43or45 クハ76
モハ43or45 サハ48 サロ46or45 モハ70 モハ70 クハ76

戦前・戦後の横須賀線の主力車両が混在編成であるが、サハ48形を中間車として組成する場合は「広窓流電・半流43系」同士で連結するなど編成美を考慮する一方で、43系とでは屋根高さが本系列が100mm低いことから高低差が目立った[12]

横須賀線用両数は、京阪神緩行線からの転入車も含めて1963年初めには175両に達した。しかし一方で1962年からは後継車となる111系が、1963年からは出力強化型の113系として本格的な量産が始まり、1964年から横須賀線に投入された。

  • 当初は湘南電車と共通運用のために湘南色の車両がスカ色の「横須賀線」表示を前頭部に掲出していたが、その後運用を分離してスカ色の113系を投入した。

本系列置換えを本格的に開始して、捻出された車両は新規電化区間の開業用や客車列車の電車化に投入され転用。横須賀線用車両は1968年までに113系に置換えられて全車転出。

京阪神緩行線

横須賀線と同時期の1951年2月から3月にモハ70形のみが17両配置された。塗装がぶどう色一色であることや51系と混結しての輸送力増強が目的であったことからジャンパ連結器も芯数が異なる点で100番台に区分された。その後しばらく増備は中断するが、1954年から1957年にかけてはクハ76形も含めて増備され以下の編成が組成された。

テンプレート:TrainDirection
付属編成
クハ76or68 モハ51or54 クハ76or68 モハ70 モハ70 クロハ69

京阪神緩行線運用で特筆すべきは代用「急電」(のちの快速)への投入である。1950年から急電に投入された80系は翌年からサハ87形を組込んで5連化され、ラッシュ時20分ヘッド、日中30分ヘッドで運行していた。しかし予備編成は1本しかなく、1952年夏期運用では日中に須磨まで延長運転した際に編成不足となった。そこで運用に余裕のあったセミクロスシート化改造のクハ55形とモハ70形をぶどう色のまま5両編成を組成し、客用ドア横に急行表示の掲出と前面への急電羽根型ヘッドマークを装着して投入した。

テンプレート:TrainDirection
クハ55064 モハ70117 モハ70116 モハ70115 クハ55087

電動車比率が高いこと(MT比3M2T 80系急電は2M3T)のほか、塗色がぶどう色のままだったため誤乗車が相次ぎ乗客からの苦情も多発したという。同編成は運用終了後には復元されたが、翌1953年の夏期運用時にも再度急電の須磨延長を実施されたために再投入の際には前年の反省と秋以降の急電増発を考慮し、塗色をマルーンとクリームの関西急電色に変更とヘッドマークを装着で運行された。

テンプレート:TrainDirection
クハ68078 モハ70116 クハ68060 モハ70115 クハ68009

この代用編成では中央客扉は締切扱いと座席の仮設を施工した。急電色に塗装変更したため誤乗車に関する苦情は減ったが、今度は洗面所がないことの苦情が発生したとも言われる。

その後は夏期運用終了の9月1日からは、急電の終日20分ヘッド化を実施した。このため代用編成は秋以降も運用を続け、1954年4月の新長田駅開業に伴う朝ラッシュ時の鷹取駅区間延長もあり、1年以上にわたって投入され続けたが、1954年12月に80系1編成が増備され現状復帰された。

  • その後は後述する中央東線から「山スカ」モハ71形とクハ76形を借り入れて運用した実績があるほか、1950年代後半にはモハ70形とクハ76形による代用快速[13]の投入記録がある。このときは短期間運用のため塗色変更も行われていない。その後1960年代前半には、湖東線の臨時列車に本系列のみの編成が投入され記録がある。

その後はロングシート化の進展に伴って最後まで残っていたモハ70形が1971年に転出。本地区での運用を終了した。

中央東線

戦前に甲府まで電化されていたが、山岳区間となる浅川(現・高尾)以西への定期の電車運転は1948年大月まで乗り入れが開始され、翌年には富士山麓電気鉄道河口湖線(現・富士急行富士急行線河口湖まで乗り入れた。これらの運用に当初はモハ33・34・41形のほか後には80系も投入されたが、桜木町事故後は狭小トンネル内でのパンタグラフ絶縁距離が見直され、屋根高さを低く抑えた専用の形式が求められた。応急対策として30系のダブルルーフをシングルルーフに改造して投入したが、その間にモハ71形を改造・新造してこれらの車両を置換えた。

  • 当初はモハ71形のみの投入で在来車と混結運用の観点から前述のようにぶどう色であったが、クハ76形が新製投入されモハ71形・クハ76形で編成組成となったために全車スカ色に塗り換え。「山スカ」の愛称で親しまれることになった。

しかし当時の中央東線では定期運用は河口湖直通列車と一部のローカル列車のみだったことから運用には余裕があった。そのためこの「山スカ」グループは、電化区間であればほとんどの線区に入線可能といった特性を生かした行楽や「自然科学電車」という遠足用をはじめとした波動団体臨時運用に投入されることも多かった。

また1954年から1956年にかけて常磐線電車の有楽町駅乗り入れにより車両が不足したため断続的に松戸電車区(現・松戸車両センター)に貸し出されたほか、関西急電の80系が更新修繕で編成不足となるため1954年11月から12月にかけて宮原電車区に貸し出され、中央の客扉を締切として急電運用に投入された。このときの編成を以下に示す。

テンプレート:TrainDirection
クハ76056 モハ71012 モハ71009 モハ71008 クハ76055
クハ76062 モハ71015 モハ71014 モハ71013 クハ76061
  • スカ色の塗分けで前面に急電のヘッドマークを装着していることから混乱は少なかったが、大阪駅では同じホームから発車する福知山線の利用客から同線で運用されているキハ45000系気動車と誤乗した苦情があった[14]

波動運用は1950年代後半に入ると減少したが、72系山岳対応車のモハ72850番台とクハ79形の増備、前述のモハ70形→モハ71形車の編入や横須賀線用のクハ76形の転入により、1965年には43両まで増加した。モハ72形850番台やクハ79形を編成中に組込んだ4両編成で運用され、中央東線ローカル列車運用が主とされ客車列車の電車化に貢献した。

  • 編成中に72系を組込んだのは、歯車比が同一なことと72系だけの編成組成ではトイレがないために中長距離運用に支障を来たすためである。

これら「山スカ」グループは、1966年から配置された115系と共に運用を続け、中央東線の電化区間の延伸に伴って小淵沢まで運用区間を拡大したが、1975年から1976年にかけて中央東線に新製冷房車の115系300番台が投入されたことによって広島運転所へ転出し、呉線で運用されることになった[15]

阪和線

戦前の阪和電気鉄道時代から電車による高速運転が常態化していた阪和線は戦時買収私鉄の中でも他路線とは一線を画す存在であった。戦時中の荒廃がひどかったことによって復興には時間がかかったが、1950年には、京都 - 神戸間の急電を80系に置き換えて捻出された「流電」52系や半流43系の3連×4本により、新設の特急と従来の急行に投入した。これらの車両は利用者から好評であり特急や急行も増発されていったが、利用者の増加のペースも速く、2扉の転入車はラッシュ時の乗降に時間がかかるようになった。また買収国電である阪和形電車も国鉄形に比肩する性能と収容力から依然主力として運用されていたが、1950年代に入ると国鉄標準仕様への改造工事を更新修繕と同時に実施していたことから工場入場期間も長くなり、車両数は慢性的に不足していた。

その一方で、1954年に南海電気鉄道南海本線の特急・急行用にオール転換クロスシート2扉車の11001系を投入し、阪和線に対して質的優位に立った。同時に南海が、当時他の戦時買収私鉄各社(鶴見臨港鉄道青梅電気鉄道など)とともに進めていた戦時買収線の復帰・払い下げ運動や阪和電気鉄道の旧経営陣が進めていた阪和電鉄の再興運動に加え、南海本線と比較して目に見えて復興の進まない阪和線に対して苛立ちを覚えた利用者や沿線住民の一部が同調し、大きな動きに発展する勢いがあった。国鉄としても阪和線に対し何らかの目に見える対策が必要であり、そのために阪和線専用の新車投入を計画した。

  • ライバルの南海11001系と同様なカルダン駆動転換クロスシート2扉車を開発・投入も考慮されたが、当時はカルダン駆動が技術開発の途上であり、転換クロスシートは当時の普通2等車の主力であるオロ35形やオロ41形と同レベルとなり2等車と3等車の格差がなくなるという点から投入が困難なだけでなく、ましてオロ35形が当時の紀勢西線直通の準急列車くまの」に使用されていたことから事実上無理難題であった。

以上の問題点とラッシュ時対応・乗り心地・居住性を考慮した結果本系列の投入が決定。阪和色4両編成×4本計16両が1955年の11月から12月にかけて鳳電車区へ新製配置され特急・急行運用を中心に運用を開始した。

  • 戦時買収私鉄に最新鋭電車が投入されることは空前であり、4連化されたことによる座席数増加・「流電・半流43系」より快適なクロスシート・明るい阪和色とあいまって利用者から好評をもって迎えられた。

第2陣は1957年暮れから1958年初めにかけて300番台が18両投入され、従来車と合わせて4両編成×8本+予備2両の合計34両が配置された。この結果、1958年2月には「流電・半流43系」が飯田線に転出し、阪和線の主力となった7本系列が国電としては異例な「特急」「急行」のヘッドマークを掲出して運用された。

  • 1958年10月には本格的な電車特急列車こだま」の運行開始や紀勢西線直通の気動車準急列車「きのくに」の新設に伴い、「特急」を「快速」に、「急行」を「直行」に、それぞれ列車種別が変更された。

1964年までに京阪神緩行線からの転入車も含めて4両×12本の48両にまで増加し、阪和形電車や40系などとともに快速・直行運用を中心に運用を続けた。1965年から天王寺 - 間で快速・直行の6両編成での運用が開始されると和歌山寄りに阪和形電車や40系の2両編成を増結された。その後阪和色からスカ色への塗装変更が実施され、1968年からは阪和線初のカルダン駆動車として103系が投入。日中の快速運用は103系に代替されることになるが、70系は直行から改称された区間快速を中心に運用を続けた。

  • 阪和線の旧形電車は、阪和形電車が旧形国電最強の出力[16]を誇っていたほか、従来から在籍していた40系の電動車は高出力主電動機 (MT30・40) 装備のクモハ60・61形であり、51系異端車の72系も同一モーターを装備していた。本系列の予備車が不足した場合はこれらの車両を組込んだことがあるほか、後年の6両化の進展に伴って各形式の混成編成がしばしば見受けられた。その一方で本系列300番台だけで組成された4両編成は阪和線だけに見られた編成である。

1972年3月のダイヤ改正で阪和線にも新快速が設定され、東海道・山陽快速の113系冷房改造車が鳳電車区に転入。103系や本系列も交えた運用の見直しを行った結果、本系列は余剰の8両が長野運転所(現・長野総合車両センター)に転出。翌1973年10月の関西本線湊町 - 奈良間の電化開業に際して、113系予備車の運用を阪和線・関西本線の共通運用としたため、ここでも余剰となった本系列12両が長岡運転所に転出。阪和線残存は28両と全盛期の半数近くまで減少した。しかし、40系や72系と組んだ区間快速運用を中心に快速から普通まで運用を続けた。

  • 1974年以降も同線向け103系・113系の増備はいずれも6両編成で投入されたことから、ホーム有効長が4両分しかない駅が存在する日根野以南には快速以上の列車種別でないと運用することができず、これらの各駅に停車する区間快速および普通列車には本系列をはじめとした旧形電車で運行されていた。

だが山手線・京浜東北根岸線からの103系の転入が進むにつれ6連運用は拡大され、1976年11月に日根野以南のホーム有効長4両分の駅について6両分に延長する工事を実施。羽衣支線を除く阪和線全駅のホームを6両対応とした。この時点で旧型車も含めて天王寺 - 和歌山間の完全6両化を実施。編成替えの中で多くの旧型車が運用を離脱する中、本系列は大半の20両が6両編成で再組成され本系列単独編成もしくは中間にモハ72形を組込み区間快速を中心に運用された。しかし1977年3月15日に阪和線の新性能化が完了。4月にモハ72形と組んでさよなら運転を実施した。余剰廃車となった4両を除く24両が福塩線に転出した。

転出線区

地方に転出した本系列は、新潟地区(信越本線上越線)や中央西線など大半の線区では編成単位で運用されたが、仙石線や飯田線のように一部の中間車のみが配置された地区も存在する。

新潟地区

1962年の信越本線長岡 - 新潟間電化開業時に京阪神緩行線からクハ68形とともに転入。その直後の38豪雪新潟地震といった災害発生時には、電車特有の機動力を発揮し有効性が証明された。その後も横須賀線と京阪神緩行線からクハ68形も含む転入が相次ぎ、当初の新潟 - 長岡間から運用区間も延長され上越線は高崎まで、信越本線は電化区間の拡大によって直江津から妙高高原まで拡大した。

特筆すべきは、塗装を赤2号と黄5号の「新潟色」に変更された点である。

  • 冬期における視認性向上や日本海側気候に打ち克つために明るい色を好む地域性から採用されたものである。しかし新緑の風景や越後平野水田にも映える塗色であったことからローカルカラーとして定着した。

その後も中央西線や阪和線から転入してきた本系列のみだけでなく、中間車用としてサハ87形が静岡運転所(現・静岡車両区)から転入し、これらの車両も「新潟色」に変更された。1972年の羽越本線白新線電化に伴って、運転区間も交流電化区間との境界である村上まで延長され、北陸本線の一部区間を除く新潟県内の直流電化区間で運用され続けた。

中央西線

1966年7月の名古屋 - 瑞浪間電化に伴い、横須賀線と京阪神緩行線から大垣電車区(現・大垣車両区)に転入してきたクハ68形を含む72両によって同区間における運用を開始した。同年10月からは運行区間を東海道本線浜松 - 米原間まで拡大。客車列車の電車化に貢献した。1968年には所属を新設の神領電車区(現・神領車両区)に移管。同年10月のダイヤ改正では中央西線では電化区間の延伸によって中津川まで拡大した。

中央西線では基本編成6両・付属編成4両で組成されラッシュ時には10両での運転も実施された。また基本編成の中間には格下げ車のサハ75形・サハ85形が組込まれており、これらの車両に等級帯がなく後に3扉化されたとはいえ横須賀線全盛期の雰囲気を漂わせていた。その後は東海道本線内の運用を80系に、中央西線ラッシュ時の運用の一部を72系にそれぞれ変更され規模を縮小。余剰車は新潟や長野に転出となった。

  • この過程でクハ68形は全車転出。

1973年の中央西線・篠ノ井線全線電化では坂下まで、1975年には南木曽まで運用区間を延長した。1976年には新規開通した岡多線に付属編成2本が投入された。

両毛地区

1968年の両毛線電化に際し横須賀線で最後まで運用されていた42両(クハ77形6両を含む)を4両編成に組替えて新前橋電車区(現・高崎車両センター)に配置した。

  • 一部車両は「房総夏ダイヤ」の臨時快速「富津岬」として千葉鉄道管理局へ貸し出した後に新前橋電車区へ転入している。

1970年の吾妻線長野原 - 大前間開業に伴い同線の一部運用も受持つことになった。1971年にモハ70形1両が仙石線に転出したほかは大きな動きはない。

長野地区

1972年3月のダイヤ改正で、阪和線および中央西線から長野運転所に転入した車両により信越本線長野地区で運転される普通列車の電車化を実施した。運用区間は軽井沢 - 柏崎間で、同時に投入された80系とは異なり「横軽越え」には投入されていない。

  • 妙高高原 - 柏崎間では新潟色車とスカ色車が運用された。

1974年には長野運転所への381系増備に伴って普通列車用の本系列と80系は松本運転所(現・松本車両センター)に転出となり、出入所運用として篠ノ井線松本まで運転区間を拡大した。また輸送力増強のため、1975年には仙石線からモハ70形3両、1976年には新潟地区からモハ70形を1両とクハ68形が2両転入した。

広島地区

電化前の呉線の通勤列車は、C59形C62形といった蒸気機関車が10両近く連結されたスハ32系オハ35系を牽引するものであった。電化時に一部EF58形牽引の客車列車は残ったもののローカル列車の主力は80系であり、通勤列車は首都圏から転入した72系10両編成で運行された。しかし、72系は確かにラッシュ時の詰込みはきくものの車内のアコモデーションや居住性は従来の客車列車や同時に投入された80系に比べて大きく劣るものであり、利用者から不満の声が出ていた。

一方、中央東線では115系300番台に置換えられた本系列であるが、転出先の線区の選定が難航していた。

  • 当初予定していた中部地方の山岳電化路線では最終的な条件が合致せず投入線区が二転三転していた。

しかし呉線通勤電車の72系置換えに白羽の矢が立ち投入されることになった。1976年1月から3月にかけて三鷹配置車からモハ71形全車とクハ76045・76071の2両を除く18両の合計39両が72系の一部とともに広島に転入。従来から配置されていたウグイス色のモハ72形の一部と10両編成3本・8両編成1本を組成して、 - 広島間の通勤列車をはじめ呉線・山陽本線広島 - 小郡(現・ 新山口)間で運用を開始した。

中間車のみ転入

編成単位での転入はなかったものの一部の中間車が転入したケースがある。

飯田線には1966年にサハ75形が4両転入。流電編成の中間車に組成された。1969年には3扉化改造を施工された。

仙石線には1971年に最後まで京阪神緩行線に運用されていたモハ70形が3両転入。通風器の押込形への換装や車体塗装もウグイス色に変更。同様に以前京阪神緩行線から転入していたクモハ54形・クハ68形と編成を組成され特別快速や快速を中心に運用された。同年に両毛線用のモハ70形が1両転入するが、1975年に3両が信越本線長野ローカル用に松本運転所に転出。配置は1両のみとなった。

運用の終了

本系列の廃車は1976年から開始された。

  • 1977年前半までは、首都圏に新車を投入し本系列運用線区に捻出された新性能車両を首都圏から転入させることで本系列を捻出する。そして他線区の老朽車両取替えや輸送力増強に充当する玉突き転配を実施していた。しかし1977年後半からは本系列運用線区に直接新車を投入して廃車する「直接置換え」に方針を変更した。この時期になると首都圏への新車投入が一巡したことや本系列も初期車両を中心に老朽化が進行していたからである。

1977年には、阪和線用として最後まで運用された4両、仙石線で1両のみ残留していたモハ70形、三鷹配置で波動輸送用として残留していたクハ76形もモハ72形と同時に廃車となった。以後は以下の要領で新性能電車への置換えが進行した。

信越本線長野地区

1976年1月 - 2月にかけての豪雪の際に信越国境の急勾配区間で本系列が空転を発生させ、多くの普通列車が遅延や運休を余儀なくされた。この事態を憂慮した当時の長野鉄道管理局が国鉄本社に対して置換えを要請。国鉄本社も当時推進していた地方線区近代化の一環として耐寒耐雪構造を強化した115系1000番台を松本運転所に投入。1978年1月に一気に置換えを完了した。

新前橋電車区

1977年から115系1000番台への置換えを開始していたが、1978年3月までに両毛線・吾妻線内の運用が置換えられ全車廃車。

新潟地区

置換えは大規模なもので、以下の2回にわけて実施された。

  • 1976年秋に首都圏地区に冷房化促進のため115系300番台を投入。捻出された0番台車が長岡所に転入し、一部車両が廃車に、少数が信越本線長野ローカル用に転出。
  • 置換えによる運用減で清水トンネルを通過する高崎までの運用が消滅。
  • 1977年以降は長岡所に115系1000番台を直接新製投入。0番台は80系置換えのために広島地区に転出。本系列は廃車とする。

当初は1978年7月までに置換え完了であったが、同年5月に発生した信越本線関山 - 妙高高原間での地すべりと6月の集中豪雨による柏崎駅冠水により計画が遅延した。

  • 開通区間運用のため急遽休車中だった本系列からMT比4M2Tの6両編成を組成し、関山 - 直江津間の運用に投入した。このときの編成を以下に示す。
テンプレート:TrainDirection
クハ76049 モハ70016 モハ70011 モハ70102 モハ70022 クハ76064

同年7月以降は115系の投入も順調に進んだことから、8月23日に上記編成によるさよなら運転を実施し、新潟地区での運用を終了した。

中央西線

1978年7月から神領電車区に113系2000番台を配置。同年10月からは岡多線に投入。12月には全車の置換えが完了した。同月17日に中津川 - 名古屋間でさよなら運転が実施された。

  • 同時期に飯田線のサハ75形も運用を離脱した。
広島地区

呉線・山陽本線では1978年9月から広島運転所の2000番台をはじめとした115系に置換えを開始し同年12月に営業運転を終了。1978年には福塩線[17]のみの運用となったが、105系の投入によって同線における運用は1981年3月1日に終了。

これをもって30年にわたる営業運転の歴史は終了した。

一時期モハ71001が広島工場内において保管されていたが、後に廃車解体されたため保存車両は存在しない。

廃車リスト

1964年(昭和39年)度(全車鶴見事故による廃車)
  • モハ70形
70042・70079(東フナ
  • クハ76形
76039(東フナ)
1967年(昭和42年)度(事故廃車)
  • モハ70形
70040・70055(名カキ
1976年(昭和51年)度
  • モハ70形
70013・70014・70021・70033・70101・70108・70109・70110・70112・70114・70117(新ナカ
70125(仙リハ
  • サハ75形
75000・75001・75004・75009(新ナカ)
75108・75109(名シン
1977年(昭和52年)度
  • モハ70形
70015・70034・70036 - 70039・70041・70043・70044・70047・70053・70066・70067・70069・70104 - 70106・70111・70113・70115・70116・70123・70124(長モト
70049・70062・70072・70086・70088・70095・70096・70301・70302(高シマ
70072, 70074(天オト
  • クハ76形
76006・76008・76010・76014・76019・76021・76072 - 76075(長モト)
76022・76028・76037・76068・76088・76091(高シマ)
76045・76071(西ミツ
76070・76079(天オト)
  • クハ77形
77001・77006(高シマ)
1978年(昭和53年)度
  • モハ70形
70005 - 70012・70016 - 70020・70022 - 70032・70035・70045・70046・70065・70068・70070・70071・70080・70081・70091・70092・70097・70102・70103・70126(新ナカ)
70048・70058 - 70061・70063・70074・70077・70078・70082 - 70084・70089・70090・70093・70120 - 70122(名シン)
70050 - 70052・70056・70057・70064・70084・70085・70087・70094・70107・70300・70303・70305・70306・70308 - 70310(高シマ)
  • モハ71形
71007・71008・71011・71013 - 71015・71017・71018・71021(広ヒロ
  • クハ75形
75002・75005・75006・75008・75017(新ナカ)
  • クハ76形
76001 - 76004・76007・76009・76011・76015・76016・76029・76041・76047・76049・76064・76067・76069・76076 - 76078・76080・76084・76087・70097・70099・76304(新ナカ)
76013・76018・76024・76026・76027・76031 - 76033・76043・76086・76095・76101・76300 - 76303・76305(名シン)
76020・76025・76065・76066・76081・76082・76085・76093(高シマ)
76035・76053・76054・76057 - 76059・76351(広ヒロ)
  • クハ77形
77000・77002 - 77004(高シマ)
  • サハ75形
75101・75102(静トヨ
75104・75105・75107(名シン)
1979年(昭和54年)度
  • モハ70形
70054・70304・70307(名シン)
  • モハ71形
71002 - 71006・71009・71010・71016・71019・71020(広ヒロ)
  • クハ76形
76017・76034・76036・76051・76055・76056・76060, 76061 - 76063・76306(広ヒロ)
76023・76030・76089(名シン)
76092(新ナカ)
  • サハ75形
75103・75106(静トヨ)
1980年(昭和55年)度
  • モハ70形
70073・70076・70311・70312・70314・70315(岡フチ
  • モハ71形
71001・71012(広ヒロ)
  • クハ76形
76083・76090・76094・76307 - 76311・76315(岡フチ)
1981年(昭和56年)度
  • モハ70形
70075・70313・70316 - 70319(岡フチ)
  • クハ76形
76312 - 76314(岡フチ)

脚注

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参考文献

  • 浅原信彦『ガイドブック 最盛期の国鉄車両2 戦後型旧性能電車』(ネコ・パブリッシング 2005年) ISBN 4777003485
  • 沢柳健一『旧型国電50年』I、II(JTBパブリッシング 2002年)I ISBN 4533043767/II ISBN 4533047173 
  • 電気車研究会鉄道ピクトリアル』各号(1966年9月号 No.188 特集:横須賀線電車、2002年2月号 No.713 特集:モハ70系電車) 
  • 交友社鉄道ファン』各号(1977年11月号 No.199 特集:旧形国電ここに健在、横須賀線ものがたり、1978年12月号 No.212 関西急電ものがたり (3) )
  • 鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』各号(1977年8月号 No.126 特集:旧型国電は生きている、1978年5月号 No.135 特集:鉄路の名ワキ役・近郊形車両、1979年4月号 No.146 RAILWAY TOPICS 国電の巨星あいついで堕つ、山スカの終焉、1980年12月号 No.166 特集:最後の旧型国電)
  • 関西鉄道研究会『関西の鉄道』No.15 1986年 京阪神国電特集

外部リンク

関連項目

テンプレート:国鉄の旧形電車リスト
  1. 開発当時の国鉄には、「」「系列」という概念が存在しない。
  2. Dは客用扉、dは乗務員扉、数字は窓の数をそれぞれ表す。
  3. 後年の新性能電車と異なり着座して運転する方式である。
  4. 0番台の最終グループでモハ70120 - 70126と同時期に製造され横須賀線に投入されたモハ70096・70097の2両が1958年に京阪神緩行線に転入している
  5. この時点ではパンタグラフ部分のみを低くするという発想はまだ存在しなかった。
  6. 後年登場した名古屋市電2000形が似た構造を採用した。
  7. 製造初年の1951年時点で(クハ76形を除く)70台の番号がサハ75形(初代)付随車(50系)、クハ77形(初代)制御車(62系)、サハ78形付随車、クハ79形制御車(以上63系72系)で埋まっていたことによる。
  8. 「75」の空き番号自体は1953年6月1日実施の車両称号規程改正におけるサハ75形(初代)のサハ17形300番台への改番時点で既に発生していた。
  9. 元1等車の3扉化改造は80系のサロ85形を格下げしたサハ85形100番台においても実施されている。
  10. 80系は東海道本線全線電化後に湘南色に統一(塗り分け線は関西急電色と同一)された。
  11. ちなみに80系では中間車の一部(サロ85形やサハ87形の一部)が他系列に編入された際、塗装がスカ色や新潟色に変更された。
  12. これは他の路線においても変わらない。
  13. 1957年に急電は快速に変更。
  14. 当時の気動車はスカ色と類似塗装であった。
  15. ただしクハ76形2両が72系とともに波動輸送対応で引き続き三鷹配置とされた。
  16. 端子電圧750V時定格出力149kWのMT900(東洋電機製造TDK-529A)を搭載。
  17. 福塩線は300番台全金属車を主体とした阪和線からの転入車だったが、どちらも私鉄買収線区だったのは偶然である。