阪和電気鉄道

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テンプレート:BS-headerテンプレート:Infobox UK railwayテンプレート:BS-tableテンプレート:BS-colspan 1940年11月当時 テンプレート:BS3テンプレート:BS5テンプレート:BS5テンプレート:BS5テンプレート:BS5テンプレート:BS5テンプレート:BS5テンプレート:BS5テンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BS5テンプレート:BS5テンプレート:BS5テンプレート:BS5テンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BSテンプレート:BS3テンプレート:BS5テンプレート:BS5テンプレート:BS3

|} 阪和電気鉄道(はんわでんきてつどう)は、昭和初期の関西鉄道会社。現在のJR西日本阪和線を建設した。

1926年に設立され(路線免許交付は1923年)、1940年南海鉄道に合併された。

営業不振や政府の交通政策などの事情故に会社法人としては短命であったが、戦前の「日本一速い電車」である「大阪 - 和歌山45分」ノンストップの「超特急」を運行したことで、日本鉄道史上、一種の伝説的存在として記憶される。

概要

開業の経緯

京阪電気鉄道の阪和間参入

京阪電気鉄道は大正 - 昭和初期にかけ、岡崎邦輔(第3代)・太田光凞(第4代)と2人の社長の下で、有力政党・立憲政友会との関係をバックに大幅な拡張政策を採り、近畿一円に一大電力コンツェルンを形成した。その一環として和歌山進出を目論み、1922年には和歌山県内の有力電力会社であった和歌山水力電気を買収して自社の和歌山支店とした[1]。そしてこの延長線上で、従来南海鉄道南海本線のみが通じていた大阪 - 和歌山間でこれに平行する新しい高速電気鉄道の建設計画に資本参加したのである。

この電鉄路線計画は、元々和歌山以南の紀伊半島沿岸を自社航路の勢力範囲とし、来るべき将来における国鉄紀勢線の全通で打撃を受ける大阪商船、南海鉄道だけでは地元の将来的な潜在貨物輸送需要を賄いきれないと判断した泉州の綿業資本家、大阪方面における安定的な電力消費先を欲していた大手電力会社の宇治川電気(後の関西電力)、それに和歌山の有力者達が合同して立案したものであり、最初の出願は1919年に行われている。

京阪の正式な参加は、建設計画が本格的に具体化し、会社が設立された1926年4月24日以後のことであった。もっとも、1920年内閣による南海鉄道国有化失敗後、この案件に仲介役として介入していた京阪は阪和電鉄の出願者グループと緊密な関係にあった。そのため、阪和電気鉄道線の免許取得に当たっては政治的な工作をこのグループから依頼されており、単純な株式引き受けに留まらない、複雑な経緯を経た末の資本参加であったことが伺われる[2]

京阪の起業参加に際しては、同社による和歌山方面の電力供給が約束されたほか、同社技術陣の派遣も行われている。他の設立メンバーには鉄道経営の経験者がほぼ皆無であったことから、実際の鉄道建設は京阪系のスタッフにその多くが委ねられることとなった。

建設過程

当初は、新京阪線同様の規格で、高速運転に有利な1,435mm軌間での建設も考慮されていた。この当時、鉄道省は南海鉄道の買収に失敗し、また同線に並行する大阪 - 和歌山間を結ぶ省線の新規建設も、折からの財政難で不可能となっていた。このため、建設中の国鉄紀勢線[3]は、路線を欠いて半ば宙に浮く事態となった。それゆえ、渡りに船とも言える内容を備えたこの阪和電鉄の申請に対し、鉄道省は将来の国家買収を視野に入れた付帯条件をつけて免許を交付した[4]。この結果阪和電鉄線は、必然的に国鉄と同じ1,067mm軌間で建設されることになった。この選択は、国鉄からの貨車直通、さらには当時建設が進行していた紀勢線への直通をも可能とするもので、その点では営業上有利[5]であった。

既存の南海鉄道が、大阪湾岸の紀州街道沿いの都市を経由したのに対し、阪和電気鉄道は、それよりやや内陸寄りの、農村地帯に敷設された。極力直線的なルートを取り、高速運転に適合した線路設備が整えられた。架線電圧も、路面電車並の低圧な直流600Vであった南海に対し、当初からより効率が良く高速向けの直流1,500Vとされた。電力については、開業の段階では大阪方面は宇治川電気から、また和歌山方面は京阪和歌山支店からそれぞれ供給を受けた。

しかし、国鉄線との連絡という付帯条件によって大阪側起点用地の確保は困難をきわめた。当初は大阪市南区木津大国町を予定した起点は、都市部ということもあって用地買収に難渋し、最終的に旧・南大阪電鉄が取得し、当時大阪鉄道(2代目。後の近鉄南大阪線の前身)が所有していた国鉄天王寺駅東側の台地上に確保された。

だが、この起点決定により、阪和電気鉄道線には鉄道省城東線関西本線、大阪鉄道本線、それに南海平野線の4つの既存鉄軌道を立体交差する必要が生じることになった。そのため、線形維持の必要性もあって、南田辺以北の約2.7kmの区間において高架構造の採用を強いられた。この高架橋は、大正時代末期以降、日本でも採用例が見られるようになった鉄筋コンクリート製で、八角形の断面を持つ橋脚を一部に採用するなど、特徴的な意匠を備え、大林組の施工になるものである。大林組はこれ以前に、関西の鉄道用鉄筋コンクリート高架橋の嚆矢となった、新京阪鉄道天神橋駅付近の高架工事や、奈良電鉄桃山御陵前周辺の高架工事などを手がけていた。

1929年7月18日、阪和天王寺(現、天王寺) - 和泉府中間と - 阪和浜寺(現、東羽衣)間で部分開業。翌1930年6月16日、阪和天王寺 - 阪和東和歌山(現、和歌山)間を全線開業した。

なお、当初の計画では浜寺支線(1926年3月4日免許出願)と同時に、粉河支線(山口[6] - 粉河間8マイル40チェイン)が単線で出願されていた。しかし財政難から、未着工のまま南海合併後まで棚上げされ続け、太平洋戦争開戦に伴う資材不足で本線の運行維持さえ困難になり、建設の見通しが全く立たなくなったことから、結局1942年7月28日付で免許失効となっている。

高速列車の運行

大型高速電車

1929年の開業当初より、狭軌鉄道電車としては当時日本最大級の、強力な全鋼製電車を投入し、高速運転を実施した。

大出力モーターを装備した大型電車によって、線形の良好な高規格新線で高速運転を行う、という米国のハイスピード・インターアーバン(高速都市間連絡電車)流のコンセプトそのものは、1927年に開業した京阪電気鉄道傘下の新京阪鉄道(現・阪急京都本線)と共通のものである。米国のインターアーバンは、自動車に押されてすでに衰退期に入っていたが、シカゴ都心への直通のために、線形や車両規格の改善を図ったノースショアー線、サウスショアー線など、大都市近辺の路線を中心に路線や車両の高規格化を行って生き残りを図るケースがあり、これを見習ったものと考えられる。

主力車となった全長19mの大型電車モヨ100形・モタ300形等は、腰高で屋根が高く、窓も小さく、さながら装甲車両を思わせる物々しい外観を備えていた。実際にきわめて頑丈な構造で、電動車では公称値で47t - 48tもの超重量級に達したが、電動車1両で600kW(800日本馬力)の大出力は、それを補って余りあるものであった。この系統の電車群は1937年までに合計48両が製造されている。

その電装品は東洋電機製造製の国産品で、当時の電車用としては日本最強クラスの定格出力149.2kW(≒200馬力)を発揮する大出力モーターをはじめとして、きわめて高度な仕様であった。また自動空気ブレーキは、アメリカウェスティングハウス・エアブレーキ社(Westinghouse Air Brake Co.:WH社、あるいはWABCOとも。現Wabtec社)の設計になる長大編成対応ブレーキを特に採用、当時の日本の電車が通常でも最長4両編成程度が限度だったところ、阪和では6両編成以上が可能[7]であった。

これらのスペックは、軌間の相違はあったものの、新京阪鉄道が開業時に投入した大型大出力電車P-6形(デイ100形)と概ね共通で、経営・技術両面における京阪の影響の強さを推察できる。

高規格軌道・貨物列車対策

当時としては未曾有の優等列車の超高速運転を実現するため、電車自体の性能強化以外にも可能な限りの方策が講じられていた。

この高速電車の性能を十分に活かすため、軌道設備も50kg/m相当の重軌条[8]を用いた当時の国鉄東海道本線に匹敵する破格の高水準とし、輸送密度の関係からか架線へのコンパウンドカテナリ[9]の導入こそ見送られたが、それでも通常構造ながら重い架線を用いたシンプルカテナリが採用され、最高速度が100km/hを超える高速運転への備えは万全であった。

また線内には貨物列車も運行されることになったが、電車列車のダイヤ組成の障害とならないよう、専用機関車として駿足な本線用電気機関車「ロコ1000形」を新規に開発した。そしてこの機関車が牽引する貨物列車は、後発の電車列車に追いつかれないよう、軽量な短編成による高速運転を行って待避可能駅に逃げ込ませることを運用の前提としていた。

ノンストップ超特急

和歌山までの開業当初は、阪和天王寺 - 阪和東和歌山間の61.2kmを「急行」が65分(各駅停車は80分)で結んだ。その後も路盤の安定に伴ってスピードアップをくり返し、1931年7月に天王寺 - 東和歌山間をノンストップ48分で走破する「特急」を運転開始した。

この特急は、1933年12月20日に阪和天王寺 - 阪和東和歌山間45分運転へスピードアップされ、種別を「超特急」に改める。この時の表定速度81.6km/hは、営業運転される定期列車としては1950年代以前の日本国内最高記録で、戦後に国鉄特急「こだま」号が東京 - 大阪間6時間40分運転(表定速度83.46km/h)を開始した1959年まで、実に26年間も破られない超絶的レコードとなった。

同時期、日本資本で経営されていた南満州鉄道の著名な特急列車「あじあ」号(1934年運転開始)は蒸気機関車牽引の客車列車ではあるものの、標準軌路線での運転で表定速度82.5km/hであったが、阪和超特急は狭軌線ながらそれにも匹敵する水準に達していた。

阪和間に限れば、超特急の消滅後はるか後年の1972年3月ダイヤ改正で設定された新快速が45分のタイ記録を達成するまで並ぶものはなかった[10]。そしてこの45分の壁は紀勢本線和歌山駅 - 新宮駅間の電化後も破られず、特急「くろしお」が電車化した時点でも未だ45分(阪和間無停車)のタイ記録に留まる状態が長く続く。そして国鉄の分割民営化を目前に控えた1986年11月1日のダイヤ改正で阪和線ダイヤの緩急結合を重視した私鉄形ダイヤへの移行と共に、特急列車に限り最高速度120km/hでの運転が許容されるようになり、特急「くろしお」が最速列車で阪和間41分運転を開始したことで、超特急運行開始から53年目にしてようやく完全な記録更新が果たされた。その後は関西国際空港開港に伴い、快速系統用として223系の大量投入が行われた1994年9月4日のダイヤ改正で「くろしお」の最速38分運転(表定速度96.8km/h)が実現した[11]

阪和電鉄の線路条件はおおむね直線で良好であったが、県境の山中渓駅付近には急勾配区間急曲線があり、振り子式車両(車体傾斜式車両)のない当時としては、平坦区間で極限の高速運転がなされたことが容易に推察される。阪和間45分運転を行うことは電車にも大きな負担をかけ、駆動歯車は鋸歯状になるほど消耗したという。

速度違反

阪和電鉄の認可最高速度は当時の国鉄同様95km/hだったが、現実にはしばしば120km/h - 130km/hにも達する速度違反が行われていたともいう[12]。もっとも、監督官庁が鉄道省であった当時、仮に国鉄線以上の速度で申請を出しても認可は得られなかった。

史実の一つに、回復運転の逸話がある。当時の阪和では乗客へのサービスのため、阪和天王寺駅では発車時刻になっても改札に客がいる場合は発車を待たせ、遅れた客を乗せたうえで発車させるようにしていたが、それでも定刻に東和歌山駅に到着させることが厳命され、乗務員は実際に回復運転を図って定時到着させていたというのである。これは高規格な軌道と、大出力電車の高性能に負うものであり、安全上での一応の余裕はあったが、恐るべき「暴走」ぶりであった[13]

また1935年頃の同社の営業案内には「最高時速は120粁(キロメートル)で日本一の快速電車である」と記されている。古い時代の鉄道では営業運転での最高速度でなく、実際に達することのない設計・計画最高速度をPRに使う誇大広告のケースがまま見られた。例えば、南満州鉄道の「あじあ」号について時折語られる「160km/h」という最高速度も、実際の営業運転では到達しておらず「130km/h」が最高であった。が、阪和では一見額面のみの「最高速度」を表示しつつ、実際にもそれだけの超過速力を出していたもので、阪和の徹底したスピード主義を読み取ることができる。

古く明治時代に軌道条例→軌道法準拠で開業して低速運転を強いられながら、監督官庁の目をかいくぐって無許可の高速運転を敢行した阪神電気鉄道以来、特に戦前の関西私鉄各社ではこの種の速度違反が日常的に行われていたことは確かである。阪和電鉄の手本となった新京阪線でも、途中の速度制限などから逆算すると法規を守っていればあり得ない所要時分の超特急を運行するなど、是非は別として、阪和だけが違反に手を染めていた訳ではなかったのが当時の実情であった。

超特急以外の列車

1935年1月には国鉄和歌山線と阪和電鉄線の交点に紀伊中ノ島駅[14]が設置された。和歌山線のガソリンカーが発着するときは阪和中之島に超特急を停車させたが、同駅に停車する超特急は所要時間が48分と遅くなるため、「特急」へ格下げられた。「特急」は同年3月からは鳳駅にも停車するようになった。

阪和電鉄では、他にも阪和天王寺 - 阪和東和歌山間を途中鳳・和泉府中・阪和岸和田(現、東岸和田)・阪和砂川(現、和泉砂川)に停車(特急同様、一部は紀伊中ノ島にも停車)して58分で結ぶ「急行」や、朝夕ラッシュ時に阪和天王寺 - 久米田間(南田辺杉本町・阪和堺(現、堺市)と上野芝以南各駅に停車)を結ぶ「準急」・阪和岸和田(現、東岸和田)を挟んで実質的に準急とは逆の停車駅(天王寺から阪和岸和田まで各駅停車でその先は熊取・阪和砂川に停車)となる「直急」・秋の行楽シーズンに運転された阪和天王寺から山中渓までノンストップ(後に長滝・阪和砂川にも停車)の「ハイキング列車」などの優等列車を運行した。

南海鉄道との競合

豪華電車・高速電車

在来路線である南海鉄道は、新興勢力である阪和電鉄の開業に対して危機感を持った。阪和電鉄の建設計画が持ち上がると、早くも南海は1923年から対抗策として、電車としてはそれ以前に日本で先例のない豪華な急行列車を大阪難波 - 和歌山市間に運転開始する。

これらは新たに開発した電7形・電付6形(電7系。のちにモハ1001形などへ改称)などで構成される4両編成で、これらの車両のうち、第6編成までは(船舶などと同様に)編成ごとに沿線の名所旧跡にちなんだ「浪速」・「和歌」・「住吉」・「濱寺」・「大濱」・「淡輪」という固有名称が与えられていた。この電7系は扇風機付きの喫茶・優等室を備え、便所も完備するなど日本における本格的な長距離電車列車の嚆矢と言える存在である。

だが大阪 - 和歌山間程度の距離では、むしろスピードに注力する方が現実的であった。このため南海は1929年、阪和モヨ・モタ車にも比肩する出力800馬力・20m級の大型鋼製電車・電9形(のちのモハ2001形)を開発し、電7系に代えて、南海本線の優等列車に投入した。

冷房電車

しかし、当初より都市間高速連絡輸送を企図して線形が決定された典型的な「インターアーバン」であった阪和電鉄に比し、南海本線は明治時代に沿線集客力を重視して、街道沿いに既存集落を縫うように建設された経緯から、曲線や踏切が多く、走行条件ではかなり不利であった。電9形の性能をもってしても、難波 - 和歌山市間所要は60分程度が限界であった(それでも阪和間48分ノンストップと広告した程の高速運転を行って挽回しようとしていた)。

このため南海は、車両のアコモデーション改善を図るなど、主に接客サービス面で阪和に対抗した。その顕著な例としては、1936年に日本の私鉄初の冷房電車試作に挑戦した事例が挙げられる。電動冷凍機を改造した巨大な車載冷房システムを大阪金属工業(現・ダイキン工業)で製造し、クハ2801形2802号車に試験搭載、南海本線の特急・急行列車に投入した。電力消費が膨大という問題はあったが、乗客から大好評を博した。翌1937年夏には2001系電車2両編成4本が冷房装置装備となり、冷房特急・急行の頻発を実現している。冷房車は大人気で、難波駅では先発の冷房なし電車を見送ってまで、後発の冷房電車に乗り込む乗客が続出、非常な混雑となったという。

このような事例に限らず、1930年代を通じて阪和・南海の両社は大阪 - 和歌山間直通の優等列車を頻発させて覇を競ったが、輸送需要に比して過大な供給状態であり、両社にとって非常な消耗戦であったと言うべきであろう。

浜寺海岸の抗争

両社は、大阪近郊の人気行楽地・浜寺海岸でも激しい角逐を繰り広げた。鳳から分岐する阪和線東羽衣支線は、浜寺への行楽客輸送をも狙って建設された路線である。

海水浴シーズンになると、阪和・南海両社とも難波・天王寺の各ターミナル駅から臨時列車(特に阪和のものはノンストップ運転だった)を設定し、往復割引の乗車券も販売した。そして浜寺海岸では、両社社員による熾烈な呼び込み合戦が繰り返され、ついにはお互いの社員による取っ組み合いの喧嘩沙汰にまで至ったという。

また当時、阪和電気鉄道の阪和浜寺駅(現、東羽衣駅)から浜寺海岸へ行くには、南海本線羽衣駅近くの踏切を横断する必要があったが、これに対して南海ではわざと同駅を発車・通過する電車をノロノロ運転させ、踏切を「開かずの踏切」にさせるという、いささか陰湿な手段まで繰り出したともいわれる。

この抗争の背景には、阪和と共同で「阪和浜寺海水浴場」を開設した大阪朝日新聞社と、南海と共同で「大毎浜寺海水浴場」を開設した大阪毎日新聞社との確執もあった。

なおこの抗争を経て阪和と南海が合併した1940年以降の一時期には、夏季に大阪(市内)から浜寺への定期券を購入すると、定期乗車券の経路に関わらず、南海難波・阪和天王寺以外にも高野線汐見橋駅阪堺線から浜寺・羽衣への利用を可能としたサービスを行った時期もあった(出典:関西の鉄道19号)。

またこの抗争が影響したのか、戦後も一時期南海は、天王寺支線天王寺駅から浜寺公園駅への臨時急行を運転したことがあった。

南紀直通列車「黒潮号」

紀勢西線の延伸

大正末から昭和初期、和歌山県内では紀勢西線の建設が南進する過程で、和歌山県南部の南紀地域が新たな観光地として開拓され始め、南紀の景勝地である白浜温泉が注目されることになった。

そこで当時の鉄道省大阪鉄道局は阪和間を走る南海と阪和の両社に、鉄道省の客車を使用して大阪から紀勢西線へ直通する南紀観光列車の運行を打診した。阪和はこれを受諾したが、南海は自社からのみの直通を希望し、難色を示した。このため直通運転は早期実施を求める世論もあって、当初は阪和単独で行われることになった。

「黒潮号」の登場

1933年11月に週末運転の準急列車(現、快速列車)「黒潮号」が、阪和天王寺 - 紀伊田辺間に登場した。阪和線内は電車で客車を牽引した。太平洋戦争以前の日本において、特急列車以外の国鉄列車に正式な列車愛称が付いたのは異例なことである[15]。なお列車名は、公募によって選ばれた。

当初は紀勢西線が紀伊田辺止まりのため、地元の明光自動車が白浜までの連絡バスを運行したが、1933年12月には紀勢西線が紀伊富田駅まで延伸、「黒潮号」も白浜温泉の玄関口である白浜口駅(現・白浜駅)へ足を伸ばした。

阪和線内は通常モタ300形あるいはモヨ100形電車2両[16]で、紀勢西線内は蒸気機関車8620形単機で牽引した。阪和電鉄線内ではノンストップ超特急と同様に45分運転[17]、紀勢西線でも東和歌山-白浜口間ノンストップで2時間9分運転(上り列車に関しては紀伊田辺に停車して所要2時間12分)という、急カーブが多くなおかつ当時ローカル線規格であった同路線の蒸気機関車列車としては限界一杯の運転が行われた[18]。天王寺から白浜口までの170km弱は3時間で結ばれた。

この過程では、電車による客車牽引に備え、東京地区からの電気暖房を装備する客車[19]の転用、客車への電車制御引き通し線や車掌台付き車への簡易運転台設置など、大がかりな対応措置が行われている。

対応の遅れていた南海も、1934年11月17日から阪和同様の電車牽引で、難波駅発の「黒潮号」を運転開始した。両社から直通の客車は複雑な入れ替え手順[20]を経て順に東和歌山駅で併結され、共に白浜へ向かうようになった。

成功と廃止

「黒潮号」のダイヤ設定は、土曜の午後に大阪を発って夕刻白浜着、日曜夕刻に白浜を発って夜に大阪へ戻るもので、週末の1泊温泉旅行に最適であった。ゆえに当時の関西方面の人々から大好評で、「黒潮列車」の通称で広く親しまれた。

しかし、1937年7月の日中戦争勃発に際し、リゾート列車「黒潮号」と南海鉄道の冷房装置は、共に不急不要の贅沢とされた。南海電車の冷房サービスはそのあまりの消費電力の大きさと当局の指導もあって1937年シーズン限りで休止、「黒潮号」は同年12月のダイヤ改正で廃止されて、それぞれ短い歴史を閉じた。

ただし温泉準急以外にも「南紀直通列車」が「黒潮号」と相前後して毎日直通運転されるようになっており、こちらは「黒潮号」廃止後も、阪和・南海線内電車牽引で存続した。戦時中の1943年にいったん廃止されるが、戦後に両者とも再開されている(阪和は国有化されたため紀勢線と系統を一体化。南海との直通は1985年に廃止)。

2012年3月現在、阪和線には戦前の「黒潮号」の流れをくむ優等列車として、特急「くろしお」が運転されている[21]

南海鉄道への合併・国家買収

阪和電鉄は、海岸部を走る南海鉄道に比べると、内陸の人口希薄な地域を走るため区間輸送需要に乏しく、また和歌山京都神戸に比して都市規模が小さいことから、両社は少ない直通客を取り合うことにもなった。結果的に後発の阪和の経営基盤は、常に不安定であった。乗客が伸び悩んで新車の投入資金も調達できなくなっていたため、室戸台風からの復興期や前述の浜寺海水浴場海水浴客への海水浴客で多数混雑する夏季には鉄道省(後の国鉄)や大阪電気軌道吉野線から車両を借り受けて運行を行っていたこともあった。

それでも1938年上半期決算からは、それまでの累積赤字を営業努力によって解消させ、株主への利益配当を行うようになっていた。しかし粉飾決算疑惑なども取り沙汰され、1937年には当時の社長・木村清が自殺するなど[22]、経営面の混乱が続いた。そしてついには、京阪電気鉄道が阪和から手を引くことになる。

1940年10月には紀勢西線が孤立線区の紀勢中線に接続して紀伊木本(現・熊野市)にまで延伸され、直行列車は天王寺-新宮間263kmを6時間フラットで走破した。しかし同年12月1日、阪和電気鉄道は南海鉄道に吸収合併され、同社の「山手線」となる。これは両社を合併させることで紀勢西線への直通列車に関するダイヤ改正交渉を一元化できる鉄道省や、1938年に公布された「陸上交通事業調整法」に基いて過度な競争を抑えて軍事輸送を強化したい国の意向によるものであった。

この時、国としては阪和電鉄買収の意思もあったようだが、1940年の時点では実現しなかった。阪和電鉄線は高規格であるため、買収費用が高額となることが予想された。また当時日中戦争の戦費確保が優先されていたために、買収資金調達のための国債発行も困難であった。このような事情から買収が見送られ、代わりに南海への合併という形で当座の措置としたと言われる。

ほどなく日本は太平洋戦争に伴う戦時体制に突入したが、南海は輸送量増大と酷使が原因の車両故障多発に応じ、山手線には優先して新造車や人員を投入した。また利便性を考慮して、1942年2月15日には高野線と山手線の交点に三国ヶ丘駅を設置している。

古くから阪和間の独自ルートを希求していた鉄道省はこの時勢に乗じ、懸案であった南海山手線の買収を決定した。南海からの反発も排され、山手線は1944年5月1日戦時買収により国有化、国有鉄道阪和線となった。なお、南海鉄道は、同年6月、関西急行鉄道と合併して近畿日本鉄道となった。近畿日本鉄道は、その後1947年に旧南海鉄道の営業路線については南海電気鉄道に分離している[23]

戦後、南海電気鉄道関係者から阪和線の返還運動、また旧経営陣や沿線住民(特に南田辺・東和歌山駅近辺)から阪和電鉄再興運動が起こされたが、いずれも実現しないまま現在に至っている。また紀勢本線沿線(特に三重県鵜殿村等)からは逆に、これら阪和線の再民営化に対する反対運動も起こった。

保有路線

1940年11月当時

  • 阪和天王寺(現、天王寺) - 阪和東和歌山(現、和歌山) 61.2km
  • 鳳 - 阪和浜寺(現、東羽衣) 1.6km

駅一覧

1940年11月当時

本線

浜寺支線

駅名改称

阪和電気鉄道の路線は前述のように現在のJR西日本阪和線となっているが、駅名の中には前述のように「阪和」などの社名を冠したものがあり、それらは南海鉄道との合併時と国有化時にそれぞれ改称が実施されることになった。また、それ以外にも国有化時には、私鉄風であって国鉄にはなじまないとされた駅名も改称されている。下記にその詳細を記す。

#: 南海鉄道に合併された1940年12月実施
*: 国有化された1944年5月実施
年号が記されているものは、上記以外の実施
  • 阪和天王寺駅→南海天王寺駅# →天王寺駅*
  • 阪和鶴ケ丘駅→南海鶴ケ丘駅# →鶴ケ丘駅*
  • 臨南寺前駅→長居駅*
  • 我孫子観音前駅→我孫子町駅*
  • 阪和浅香山駅→山手浅香山駅# →浅香駅*
  • 堺市駅→阪和堺駅 (1932) →堺金岡駅# →金岡駅*→堺市駅 (1965)
  • 仁徳御陵前駅→百舌鳥御陵前駅 (1938) →百舌鳥駅*
  • 阪和葛葉駅→葛葉稲荷駅# →北信太駅*
  • 土生郷駅→阪和岸和田駅 (1932) →東岸和田駅#
  • 阪和貝塚駅→東貝塚駅#
  • 泉ヶ丘駅→東佐野駅*
  • 信達駅→阪和砂川駅 (1932) →砂川園駅# →和泉砂川駅*
  • 中之島駅→阪和中之島駅 (1932) →紀伊中ノ島駅 (1936)
  • 阪和東和歌山駅→南海東和歌山駅# →東和歌山駅* →和歌山駅 (1968)
  • 阪和浜寺駅→山手羽衣駅# →東羽衣駅*

車両

高速運転を期してあらゆる面で高規格に建設された鉄道であり、車両の水準も高く、特に電車群は昭和初期における日本最高水準の性能を誇っていた。機関車2形式も珍しい特徴の多い車両である。

詳しくは、「阪和電気鉄道の車両」を参照。

年表

阪和電気鉄道時代

  • 1926年4月24日 会社創立。
  • 1927年2月20日 本線の工事に着手。
  • 1928年11月1日 浜寺支線の工事に着手。
  • 1929年7月18日 阪和天王寺駅(現、天王寺駅) - 和泉府中駅間と鳳駅 - 阪和浜寺駅(現、東羽衣駅)間開業。
  • 1930年
    • 5月25日 上野芝駅近辺で、兼業の上野芝向ヶ丘経営地と霞ヶ丘経営地の宅地分譲開始。
    • 6月16日 和泉府中駅 - 阪和東和歌山駅(現、和歌山駅)間開業により、本線全通。当初は全区間を急行が65分で走破。
    • 7月1日 阪和浜寺海水浴場を、阪和浜寺駅近くに兼業の一環として開設。
  • 1931年7月19日 阪和間48分運転の特急を新設。
  • 1932年12月10日 直営自動車路線(バス路線)として、上野芝駅中心の上野芝線と信太山駅中心の信太山線開設。
  • 1933年
    • 5月15日 阪和葛葉駅(現、北信太駅)付近で聖ヶ丘住宅地の分譲開始。
    • 7月1日 阪和砂川駅(現、和泉砂川駅)付近に砂川テント村を直営で開設。
    • 9月20日 阪和天王寺駅 - 和泉府中駅間に準急を新設。
    • 10月13日 紀勢西線(現、紀勢本線)直通列車の試運転実施。
    • 11月4日 紀勢西線直通列車「黒潮号」を阪和天王寺駅 - 紀伊田辺駅間で運転開始。
    • 12月20日 特急を阪和間45分運転にし、超特急へ格上げ。紀勢西線の延伸により、白浜口駅(現、白浜駅)まで「黒潮号」運転区間を延ばす。
  • 1934年11月17日 「黒潮号」に南海鉄道(現、南海電気鉄道)直通車両を併結。また、同列車以外にも「平日列車」・「日曜列車」として紀勢西線への直通列車を設定。
  • 1935年
    • 1月1日 阪和中之島駅に隣接して国鉄和歌山線紀伊中ノ島駅新設。超特急・急行の一部を同駅停車とし、阪和中之島駅に停車する超特急を特急へ格下げ。
    • 7月 長滝駅近辺に、直営で瀧ノ池キャンプ場開設。
    • 9月1日 自動車路線として、阪和岸和田駅(現、東岸和田駅)中心の葛城線を新設。
    • 10月 阪和砂川駅近くに、直営で砂川児童遊園(現、砂川公園団地・ほんみち)開設。
  • 1936年
    • 8月1日 自動車路線として、阪和砂川駅中心の佐野線を新設。
    • 10月 自動車路線として、国鉄和歌山線の船戸駅・打田駅を中心とする船戸線・打田線(後に統合して貴志川線となる)新設。
  • 1937年12月1日 「黒潮号」を廃止。
  • 1938年
    • 1月10日 上野芝駅近辺に、直営で阪和射的場(現、向ヶ丘第二団地)開設。
    • 4月13日 自動車路線として、紀伊駅と根来寺を結ぶ根来線新設。
    • 10月9日 子会社の阪和興業により、泉ヶ丘駅(現、東佐野駅)付近で泉ヶ丘住宅地の分譲開始。
  • 1940年
    • 自動車路線として、和泉府中駅を中心とする路線を新設。
    • 6月12日 阪和興業により、富木駅付近で富木の里住宅地の分譲開始。
    • 7月29日 南海鉄道との合併契約書に調印。

南海山手線時代

「阪和」ブランドの残滓

阪和電気鉄道から国鉄阪和線、JR阪和線と名を変えた今も、「阪和○○」と名乗るものが残っている。なお、阪和電気鉄道の子会社で住宅地を開発した阪和興業と同名の阪和興業(東証1部上場)が大阪市中央区に存在し、またかつて阪和銀行という第二地方銀行が存在したが、以上の各社は阪和電気鉄道とは関係ない。

堺市駅、百舌鳥駅の例はそれぞれ、「堺駅」「堺東駅」、「中百舌鳥駅」と見分けやすくする目的もある。

参考文献

脚注

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外部リンク

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  1. この際、和歌山水力電気が建設した軌道線を承継している。
  2. 岡崎邦輔は政友会の有力者でもあったため、認可に関係する鉄道・内務大臣との交渉にも当たった。
  3. 1918年より本格的に建設計画が開始された。
  4. 1923年に免許が交付されたが、この際、大阪側起点について国有鉄道線との連絡の義務が科せられた。
  5. 実際にも、後に阪和電気鉄道線から紀勢線へ直通する客車が運行されており、営業上大きな効果をもたらしている。
  6. 計画時の呼称。開業時点の駅名は紀伊となった。
  7. 実際にも、南紀直通客車の場合、自社の電動客車2両で鉄道省から借り入れた客車4両を牽引し、さらに必要に応じ編成後部に電動客車1両を増結して補機とすることで、最大7両編成での運用が存在した。
  8. 輸入品のRE型100ポンドレールが採用された。これは新京阪鉄道に採用されたのと同等品である
  9. 通常型の架線構造にもう一段の吊架線を加えて大直径の重架線の使用を可能とした架線構造。高速・高頻度運転に適した構造として米国のゼネラル・エレクトリック社が開発し、日本国内では京阪電鉄京阪本線、阪急電鉄神戸・京都線、阪神電鉄阪神本線など第二次世界大戦前に高速運転を実施していた関西地区各社線において集中的に採用されたほか、新幹線でも採用されている。
  10. その間、1958年に気動車準急「きのくに」が、1965年には気動車特急「くろしお」が登場したものの、いずれも最高速度は95km/hにとどまり、阪和間での所要時分は50分を要していた。新快速は途中に停車しながら阪和間45分運転を達成しており、実際の運転速度ではこちらが上回っていた。もっとも、新快速運用開始時点での阪和線ダイヤは天王寺 - 鳳間を中心に運行密度が非常に高く、また72系をはじめとする吊り掛け駆動の旧性能車が多数残存していたことから実際には45分運転の維持が困難であったことが指摘されている。この新快速は1977年3月のダイヤ改正で停車駅が追加(従来の鳳に加え、熊取和泉砂川の2駅に停車)されており、この時点で一旦阪和間45分運転を行う列車は消滅している。なお、運用に投入された113系電車の公式な最高速度は100km/h(当時)、設計最高速度は115km/h(歯車比が同一である117系の実績から)である。
  11. その後、余裕時分の見直しにより最速列車は再び41分となっている。
  12. 当時の関係者の証言による。また当時の阪和超特急乗車中にレールのジョイント回数を時計で計測することで、120km/h超過を確認したという鉄道趣味者の証言もある(通常のレールは長さが規格化されており、乗車中に継ぎ目の通過音を数える事で、列車速度の概算測定に利用できる)。なお、東和歌山全通直後に発行された東洋電機製造のカタログでは、急行のみ設定されていた当時でさえ、最高運転速度が105km/hとして設定されていたことが明示されている。
  13. 当時は、後世のATSのような自動的な速度制限を行う保安機器が出現する以前のことで、電車の運転台にはスピードメーターも付いていなかったため、鉄道省側にはこれを規制する手段はほぼ皆無であった。
  14. 阪和電鉄の駅としては1932年1月に開業し、和歌山線駅は1974年9月に廃止。1936年9月25日までは阪和電鉄線側の駅名は「阪和中之島」。
  15. これ以外にも地方局による独自命名の例はあった。
  16. 2両とも電動車。総出力1200kW=1600日本馬力。多客時には1両増結。電力回生制動機能を搭載するモタ300形325 - 327の竣工後は、これらを優先充当した。
  17. 阪和電鉄線内で上記の130km/h運転が行われたとすると,日本国内の鉄道史上最高速の客車列車となる
  18. 普通列車は当時同一区間に3時間程度を要した。
  19. 当時の電気暖房は後年のものと異なり、直流1,500V給電で動作する仕様であった。なおこの入替による時間ロスを回避しようとC57をモデルとした蒸気機関車をベースとした客車編成を導入しようと検討した。
  20. この入れ替えには間合い運用としてロコ1000形が充当された。
  21. 『JR時刻表』2012年3月号、交通新聞社
  22. 『鉄道史料』No35、40頁に木村社長自殺を知らせる新聞を掲載している。
  23. 近畿日本鉄道は、1960年には阪和線東和歌山(現・和歌山)駅前に和歌山近鉄百貨店(現・近鉄百貨店和歌山店)を出店している。
  24. 「運輸通信省告示第185号」『官報』1944年4月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)