司馬遼太郎

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司馬 テンプレート:JIS2004フォント太郎(しば りょうたろう、1923年大正12年)8月7日 - 1996年平成8年)2月12日)は、日本小説家ノンフィクション作家評論家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪府大阪市生まれ。筆名の由来は「司馬遷テンプレート:JIS2004フォント(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。

産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』など多くがあり、戦国幕末明治を扱った作品が多い。『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。

経歴

生い立ち

1923年(大正12年)8月7日大阪府大阪市浪速区西神田町(現・塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県[[北葛城郡|北テンプレート:JIS2004フォント城郡]]當麻町(現・[[葛城市|テンプレート:JIS90フォント城市]])の母の実家に里子に出されていた。

1930年昭和5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草立葉小学校)に入学。性格は明るかったが、学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。また、当時の少年たちには特別ではなかったのであるが、大陸の馬賊に憧れていた。後に戦車隊の小隊長となることでこの夢は結実した。

1936年(昭和11年)、私立上宮中学校に進学。入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける[1]。3年生から松坂屋の横の御蔵跡町の図書館に通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。古今東西のあらゆる分野の書物を読破し、しまいには釣りや将棋などの本まで読んだという。阿倍野のデパートでは吉川英治の宮本武蔵全集を立ち読みで読破した。いつも立ち読みばかりするので頭にきた売り場の主任が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと、「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから…」と言ったそうである。また、半ば趣味として山登りを好み、大阪周辺の名山は大抵踏破している。高等学校への受験に際して、家計の都合で私立学校への進学は許されず、官立のみと父親から釘を刺されていた。

1940年(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。1942年(昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現在は大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学。入学時に校内食堂で上級生が新入生に催す歓迎会では、上級生が木刀、竹刀を振り回し下駄を踏み鳴らして『こらーっ!』と怒鳴りながら入り、訓辞や軍歌指導を行なった。その際に司馬青年は見事ながまの油を一席やったが、これは彼の性格の明るさを表す一端である。当時の学生の大半がそうであったように語学が嫌いで、早稲田大学の中国文学に鞍替えしようかと考えたこともあった。しかし読書は依然として好み、ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。2年上に庄野潤三(英語学科)、1年上に陳舜臣(印度語学科)、同期に赤尾兜子(中国語学科)らの「創作グループ」がいたが、その輪には加われなかった。当時の司馬青年は、色白でふっくらした童顔であったが、旧制高校に憧れて下駄履きで登下校したという。教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒間で人気があり人が集まる中心にいた。天性の性格の明るさと、博学博識からの雄弁によるものであろう。授業でもよく発言をした。食事はよく食べ朝飯を5杯おかわりするのが常であった。「中庸の徳」が座右の銘であったという。

1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現:小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興し、集合の合図には一番遅れて来た。翌44年4月に、満州四平四平陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。戦車学校では文系であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転属したが、成績の悪かった者はそのまま大陸に配属になったが、これが生死を分けた。卒業後、満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。翌45年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。その時にある若い将校が、アメリカ軍(連合国軍)が東京に攻撃に来た場合に、栃木から東京に移動して攻撃を行うという作戦に「市民と兵士が混乱します。そういった場合どうすればいいのでしょうか。」と、大本営からきた東北人の少佐参謀に聞いたところ、参謀は「轢き殺してゆく」といい[2](ただし、この問答の存在自体に当事者から疑念が呈されている[3])、22歳だった司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。佐野での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあったと考えられる。復員後は直ちに図書館通いを再開する。

記者時代

戦地からの復員後、生野区猪飼野東五丁目8にあった在日朝鮮人経営の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。1946年(昭和21年)、ふたたび大竹とともに新日本新聞京都本社に入社。同僚に青木幸次郎がいた[4]。このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。入社して1か月も経たない1948年(昭和23年)6月28日午後、福井地震が発生し、その日のうちに福井の取材に行く。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる。

翌年大阪本社に異動。1950年(昭和25年)には金閣寺放火事件の記事を書いた。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎が考えたこと』に所収)に記されている。その後文化部長、出版局次長を務めた。

同年に最初の結婚。1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、公的には一切公表されず、司馬にとって「隠したい過去」であったのではないかと思われる。

1955年(昭和30年)、『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表。この作品は本名で発表したが、このほかにも「饅頭伝来記」など数作本名で発表した作品があるといわれる。さらに、当時親しくなっていた成田有恒(寺内大吉)に勧められて小説を書くようになる。1956年(昭和31年)5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞に応募(「司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎」の名で投稿)、海音寺潮五郎の絶賛を受け同賞を受賞し、出世作となる[5]。また、寺内とともに雑誌『近代説話』を創刊した。『近代説話』『面白倶楽部』『小説倶楽部』に作品を発表し続け、1958年(昭和33年)7月、「司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。さらに「梟のいる都城」(のち『梟の城』に改題)の連載を開始。

1959年(昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚[6]。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居。同じアパートに南海ホークス時代の野村克也がいた。『大坂侍』『梟の城』を発表。1960年(昭和35年)、『梟の城』で第42回直木賞を受賞し、翌年に産経新聞社を退職し、作家生活に入る[7]

小説家時代

初期は直木賞を受賞した『梟の城』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代・伝奇小説が多い。推理小説も書き、『豚と薔薇』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。だが、1962年(昭和37年)より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』、1963年(昭和38年)より『国盗り物語』を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を本格化させた。この辺りの作品より、作者自ら、作中で随筆風に折込解説する手法が完成している。1964年(昭和39年)には、終のすみかとなる布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居した。近所に上宮中学のクラスメートの大地主の山澤氏が居られた。のちに「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と記している。1966年(昭和41年)、菊池寛賞を受ける。その後も『国盗り物語』に続き、『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓した。

1971年(昭和46年)から、紀行随筆『街道をゆく』を週刊朝日で連載開始した。1972年(昭和47年)には明治の群像を描いた『坂の上の雲』の産経新聞での連載が終了。また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』(日本芸術院賞)に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。1970年代中期から80年代にかけ、明治初期の『翔ぶが如く』や、『胡蝶の夢』、江戸後期の『菜の花の沖』、戦国期の『箱根の坂』などを著し、清朝興隆の時代を題材にした『韃靼疾風録』を最後に小説執筆を止める。「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ『風塵抄』、『この国のかたち』に絞り、日本とは、日本人とは何かを問うた文明批評を行った。

1981年(昭和56年)に日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者となり、1993年(平成5年)に文化勲章を受章した。このころから腰に痛みを覚えるようになる。坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となる腹部大動脈瘤であった。それでも「街道を行く 台湾紀行」取材の折に、当時台北台湾総統だった李登輝との会談「場所の悲哀」[8]を行ったり、「街道を行く」取材で青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続ける。また、晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった[9]

1996年(平成8年)1月、「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院。2日後の2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去した。テンプレート:没年齢。同日は「菜の花忌」と呼ばれている。死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆「濃尾参州記」は未完となった。親族・関係者による密葬を経て、3月10日に大阪市内のホテルで「司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列した。法名は、「テンプレート:JIS2004フォント望院釋淨定」。政府から従三位を追賜された。

翌年に司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎記念財団が発足し、[[司馬遼太郎賞|司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎賞]]が創設された。2001年(平成13年)に、東大阪市の自宅隣に[[司馬遼太郎記念館|司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎記念館]]が開館。司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎記念室がある姫路文学館では毎年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎メモリアル・デー」を開催している。また、NHK大河ドラマ原作となった作品数は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」(後にNHKスペシャルドラマと変更)と称する「坂の上の雲」を含めると7作品である。

年表

特徴

歴史小説家としてはW・スコット以来の人物中心主義の流れを汲んでおり、筆名からも判るように、直接には司馬遷史記列伝の形式を範にした作家とみることができる。

特徴としては、基本的に登場人物や主人公に対して好意的であり、作者が好意を持つ人物を中心に描く。それによって作者が主人公に対して持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長し、ストーリーの中に読者を巻きこんでゆく手法をとることが多い。また歴史の大局的な叙述とともにゴシップを多用して登場人物を素描し、やや突き放した客観的な描写によって乾いたユーモアや余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本の歴史小説の伝統から見れば異質なものであり、その作品が与えた影響は大きい。「余談だが……」の言葉に代表されるように、物語とは直接関係ないエピソードや司馬自身の経験談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語内にちりばめていく随筆のような手法も司馬小説の特徴の一つであり、そこに魅了されている読者も多い。

評論家の川本三郎からは「一平二太郎」(藤沢周平、司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎、池波正太郎)の一人として、「大人の日本人男子」の嗜みとして読むべき作家と評されている。

そのユニークな文体は、のちに、渡部直己清水義範パスティーシュの対象になったり[10][11]、あるいは酒見賢一後宮小説』のようにリスペクトした作品が現れたりした。

作品中の人物の内面描写にはそれほど深入りしないため“浅薄である”とされたり、長編では主題が破綻しているとの批判がある。しかし多くの登場人物を一筆書きにしながら物語を展開してゆく司馬の手法においては、ある程度仕方のないことという反論もなされる。特に内面描写を避けることは、人間を外部から把握し単純化(典型化)して示す18世紀ヨーロッパ小説や漢籍の史書の影響によるところが大きく、「典型としての人間」か「典型からそれようとする内面描写か」という問題は、小説の流儀の問題(18世紀型小説か、19世紀型小説か)であると捉える見方もある。長編の構成力が弱いことも指摘され、前述した「余談だが…」といった言葉で話が脇道にそれることもあるように、たとえば丸谷才一の「全体の五分の三あたりのところから雑になる」「最初の伏線が後半で生かされない」という評がある。ただし、こうした「雑さ」「とりとめのなさ」が磨かれた結果、様々な人物が次々に登場し、ゴシップを振りまいては消えてゆくというグランド・ホテル形式の小説として成功していると評される作品もある(例:『ひとびとの跫音』)。

作家として後半期は、小説創作から遠ざかり随想や批評を主としたが、抽象的な思索や哲学性よりも具体的な歴史評論や文明批評を主にし、合理的思考を掲げて考証を進めたところに特徴がある。

歴史観

時代性

司馬の歴史観についての議論を見る上で時代性に関しての視点は重要であろう。思想的な流れとしては司馬が小説執筆に専念した当時は、一般に第二次世界大戦の反動から日本の近代史全体に否定的な見解が強かった。そのため第二次世界大戦を痛烈に批判する論者の多い中で、その他の近代史に光をあてたことを評価する向きもある。

また、司馬の登場以前、日本の歴史小説はいわゆる史伝ものか大衆娯楽を重んじた講談風の作品が中心だった。しかし司馬は資料収集を重視し、出版社や司馬に肯定的な立場の評論家等は高い実証性を持った歴史小説の形式を確立したことを採り上げ、上質な娯楽として読むに足る物として高く評価されてきた。実際には同時代に実証性を重視した小説家が存在しなかったわけではなく、例えば吉村昭大岡昇平などは実証性の高い小説やノンフィクションを発表し、それらの多くは「暗い昭和」を対象とし、歴史研究者が二次資料として挙げることもある[12]。司馬が採り上げた時代についての歴史研究やノンフィクションは当時から多数存在していた(司馬は小説執筆にあたり膨大な資料を集めたことで知られるが、その事自体が既存の成果物が多数存在していた傍証とも言える)。しかし、一般への人気なども相まって、実証性の高い歴史小説という分野での司馬の評価の高さにつながっている。

影響

司馬の影響を受け、自著で司馬の考え方を引用する者、司馬に憧れて小説家や歴史研究者となったことを述べている例も多く、高い視聴率で知られた大河ドラマにも複数回採り上げられている。そのため、司馬は新しい視点と斬新な描写で彼自身の歴史観を作って日本社会に広く影響を与えた国民的作家であると言われており、死後においても司馬の影響力は大きい[13]

司馬の作品はベストセラーかつロングセラーとなり、又多くが映像化された。織田信長豊臣秀吉徳川家康西郷隆盛福澤諭吉らは多くの作品に重複して登場しており、現代の日本人が彼らに対して持つ人物イメージは司馬の小説に大きく影響を受けている。

また、幕末越後長岡藩家老河井継之助のような本来はマイナーな人物が、一般の人々の間に人気が高いのは、あきらかに司馬の小説の影響であり、他にも、江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛や、幕末の軍政家・大村益次郎、幕末明治の政治家・江藤新平浪士組の創設者・清河八郎等々も、司馬小説以外ではあまり描かれない人物にもかかわらず、司馬小説の影響で知名度の高い人物となった。人々は「歴史的人物としての彼ら」ではなく「司馬作品の登場人物としての彼ら」を愛しているともいえる。

司馬に関する議論の場合には、受容の様態も対象となる。擁護派は司馬の言葉から教訓を汲み取ろうとする傾向があり、批判派は神格化を行っている者を信者のように捉えての批判は、司馬本人への賛否にかかわらずなされる。

歴史観への批判

司馬の作り上げた歴史観は、しばしば「司馬史観」として論争の対象となってきた。ただし、司馬自身は「史観」という考え方自体に、そもそも、否定的な見解を述べており、この論争は、司馬の作品をどう解釈するかと言う論争の側面が強い。「司馬史観」という名称は司馬自身が名付けたものではないという指摘がある一方で、出版社や司馬を好意的に評価する者までが「司馬史観」という言葉を広めているいるという側面もある[14]。したがって、司馬史観という言葉を利用しているのは批判派だけではない。

批判側の観点はいくつかに分けられる。歴史観は必然的に思想的な性格を持つものだが、この点からの批判としては近代合理主義への偏重が一定の限界を与えていたという指摘が代表的である。例えば、同時代の指導者の観点からの把握に重きを置き、民衆の観点や通時的な観点からの把握を怠っている(歴史の切り取りかたの問題)、明治期の戦争を肯定的に描きながら昭和期の戦争を否定的に描いている(いわゆる「明るい明治」と「暗い昭和」の分断)、各時期代の描写が前記の偏向(例えば昭和期の日本軍に対する憎悪)により客観的な分析が欠如している、合理主義への解釈を巡って対立がある、などである。また、司馬が称揚した合理主義自体も西洋哲学の中で発展を遂げる過程で解釈の多様化が起こり、帝国主義ナチズム共産主義、あるいは過度の資本主義などと関係づけ、その行き過ぎに対して批判がなされることも多い[15]。司馬に限らず提唱者の唱える『合理主義』という言葉がどのような考えを指し、提唱者が言葉通り実践しているかについては慎重に議論する必要があり、批判の中で触れられる事もある。

ただし、「明るい明治」は司馬自身の作家としての研究・調査による合理主義からくるもの、「暗い昭和」は自身が徴兵された自己の体験による実証主義によるものであり、作家として個人の主観が影響するのは当然である。

また、歴史教科書問題などの歴史認識をめぐる論争において、自由主義史観派が司馬の歴史観に依拠していると主張していることから、左右を問わず、自由主義史観を批判する立場から上記の諸点を強く批判することがある。中村政則佐高信などの革新派の流れを汲む者からは「戦争、植民地支配を美化・正当化している」と批判され、西部邁小林よしのりなどの一部の保守派(主に反米保守派)からは「大東亜戦争を否定する自虐史観」「ポチ保守の史観」と批判される[16]。思想的、史観的な面からの見直しについては新聞でも紹介した例がある[17]

この他に司馬が、東アジアあるいはヨーロッパの文化的少数派に一貫して関心を持ち続けてきたことを評価しながら、彼らを作品中にとりあげたり論じた際に、「彼らを文明化・支配した帝国側」の意味について深く分析せずにやりすごしている、という批判もある[18]

モンゴルの専門家である佐々木健悦は「司馬の歴史認識は上からの視点であり、高みに立てば、天才や選良たちの目立った動きしか目にとまらない」と批判している。そして彼の知的怠慢と知的不誠実さにより、ノモンハン事件が書けなかったとある。モンゴル憲法についての記載も間違っている。[19]


フィクションへの批判

より学究的な立場からは、実証性の面からも批判されることがある。司馬の著作は多くがフィクションであるにもかかわらず、高い実証性をもっているとの一般的なイメージにより、資料の誤読や資料批判の不徹底等による事実誤認などが問題点として指摘される(思想的批判と併せて書かれた場合、評論が評価の対象となった場合には歴史修正主義の亜種と批判される)。この立場の代表的論客は別宮暖朗福井雄三などである。また、一坂太郎は司馬の価値観を基本的には否定していないが、実証性については検討を行っている。

また、「司馬は自身の著作を、"フィクションである"とはっきり言明している」ことを実証性の問題に対して持ち出されることがあるが、一方、司馬は晩年を中心に歴史評論的な性格の強いルポルタージュ・エッセイを多く発表し、加えて雑誌等でのインタビューにも応じ、新潮社から販売されているような講演活動も行い、新聞にも寄稿している。これらの著述物が蓄積され、司馬の歴史観・価値観は小説以外の手段でも読者に提供された。『街道をゆく』のように小説以外の作品が映像化された例もある。また小説以外の作品のいくつかも、小説同様に現在でも容易に入手が可能であり、雑誌のバックナンバーなどは公共図書館で閲覧できる。とは言え、司馬に限ったことではないが、たとえ実証性の高さを売り物にしていたとしても、時事評論などは別として小説のような創作物については“歴史の真実を記述した史書”と考えることは適切とは(通常は)言えない。これは歴史学では基礎的な認識として教育されていることである。

戦史研究者でも、創作としての価値を認めつつも、特定個人の歴史観を事実であるかのように錯覚させる手法の危険性を指摘し、作品批判と絡め述べる論者もいる[20]。後年設定考証のレベルの高さを前面に売り出された一部の架空戦記ほどではないにせよ、真実性については同質の問題を抱えているといえる(なお、架空戦記のヒットメーカーとなり、代表的存在となった佐藤大輔は、作品内に司馬を登場させ、記述法の類似性や乃木等の歴史上の人物への否定的評価で司馬を髣髴とさせる表現があり、司馬の歴史観を継承した影響が高梨俊一などにより指摘されている)。

作品中に出典を記さないことに対する批判もある。これは実証性を謳う姿勢に合致していない。すべてを根本資料から調べ上げたように錯覚を生じさせるような表現もみられる。フィクションの内容を歴史の真実であるかのように読者が錯覚してしまうのは、それだけ司馬の作家としての手腕が優れていることの証明でもあるともいえるが、批判側にとってはその錯覚させる手腕自体が問題となる。

エピソード

人物

  • 速読家として知られ、ある友人と家で話していたとき、その友人がコーヒーを1杯飲み終わるうちに、会話しながらであるにもかかわらず、文庫本くらいの大きさの本1冊を読み終わっていたというエピソードがある。この時読んでいたのは小説の資料(当事者の日記など)である。
  • 資料集めへの執念はすさまじく、一度に何千万円単位という巨費を投じて買い集めた。司馬が資料を集め始めると、関連する古書が業界から払底したという逸話があった。当初は、軽トラックで乗り込み、古本屋に乗り込むや否や手当たり次第に乱読購入し、関係者らと荷台に乗せていったという。『坂の上の雲』執筆に際しては、神田神保町神田古書店街古書店主らに依頼し、「日露戦争」という記述のある本を片っ端から買い集め、当時同じ題材の戯曲を書いていた井上ひさしが古書店に行っても資料がなかったという逸話も残る。
  • 名字とその人の顔つきなどから、出身地や先祖を当てるという特技があり、たびたび周囲の人を驚かせた。
  • 私生活の面では中村玉緒のファンで、そのお辞儀の美しさに見とれたという。舞台『竜馬がゆく』で、萬屋錦之介と共演した。また錦之介は竜馬を生涯の持ち役とした。
  • 一方でスポーツにはあまり関心がなかったらしい。大阪市のアパート(西長堀アパート:現在で言えば最新の高層マンションのような高級物件であり、いわゆる下駄履きアパートではない)に住んでいたころ、当時の南海ホークスの主砲野村克也が同じアパートにいたが、野村の顔も名前も知らなかったので、昼過ぎに家を出て深夜に帰ってくる大男を怪しげに見ていたという。
  • 喫煙者。
  • 執筆活動以外はごろ寝をしてテレビを見るくらいで、ゴルフやギャンブルといったようなものへの興味は生涯なく、バンダナ収集が唯一の趣味であった。外出の際は気に入ったバンダナを身につけていた。その多くは遺族が保存し、記念館で一部展示している。
  • 話し上手・聞き上手として有名で「座談の名手」と呼ばれ、対談集を数多く出版した。交友関係も広く、池波正太郎をはじめ、桑原武夫井上靖梅棹忠夫榊莫山上田正昭ドナルド・キーン萩原延壽安野光雅貝塚茂樹湯川秀樹兄弟など多岐にわたった。池波は小説家として共に駆け出しのころの親友であり、お互いに忙しくなってからは次第に疎遠になったそうだが、司馬は池波の『鬼平犯科帳』など愛読していたという。また、小説家としての初期に励ましを受けていたのは海音寺潮五郎で、海音寺の励ましがなければ小説家として立っていたかどうか疑わしいと司馬は回想している。晩年は宮城谷昌光を高く評価し、宮城谷から送られてくる作品を読んで手紙などで励ましつづけ、没する間際には宮城谷に「どうしても会っておきたい」と述べて会談を行っている。またアニメ作家宮崎駿の作品、特に『ルパン三世 カリオストロの城』『となりのトトロ』を高く評価し、宮崎と対談も行っている。

その他

  • 直木賞選考委員だった時に、SF作家広瀬正の作品を何度も、候補になるたびに高く評価したが、他の選考委員の賛成を得られず、授賞に至らなかった。後に早世した広瀬の作品集がまとめられた際には、『広瀬正・小説全集2 ツィス』の解説を書いた。
    直木賞選後の司馬の評に、どれほど広瀬を評価し、同席した他の選考者があきれていたかが推察できる。当時の評から一部抜粋すると、「一読者として、一番面白かったのは、広瀬正氏の『マイナス・ゼロ』であった。SFには読み方が要る。頭から空想譚に騙まされる姿勢で読まねばならないが、それにしてもこの人の空想能力と空想構築の堅牢さにおどろいた」というものである。この一節は「マイナス・ゼロ」の帯広告にも用いられた。
  • 芸術家・岡本太郎が万博協会から大阪万博プロデューサーへの就任を打診された時、岡本は司馬に万博プロデューサーを引き受けるべきか相談。司馬は「ぜひやったほうがいい」と岡本を励ました[21]
  • 古巣の産経新聞社をはじめとするフジサンケイグループの鹿内家支配を「企業の私物化だ」と批判しており、羽佐間重彰(当時産経新聞社社長)・日枝久(当時フジテレビジョン社長、産経新聞社取締役)らによる鹿内宏明会長解任を喜び、羽佐間・日枝に色紙を贈ったという[22]
  • 元台湾総統の李登輝とは学徒出陣の同期であり、李が愛読者でもあったことから懇意となった。『台湾紀行』取材に際しては、総統時代の李と対談を行った。
  • 堤堯(『諸君!』、『文藝春秋』の元編集長)によれば、生前の司馬から、「日本には自民党共産党、この二つがあればエエ。現実政党と批判政党の二つや」という言葉を直接聞いたことがあるという。これは、堤が雑誌コラムなどでたびたび書いている話だが[23]、司馬自身は著作ではこのような趣旨の事は書いていない。あくまでも、司馬が堤との雑談の中で述べた、戦後日本の政党政治を極端に単純化したジョークと思われる。
  • 祖父・福田惣八は兵庫県姫路市の浜寄りの郊外の広という村の出身で、そこに江戸時代のあいだずっと百姓をしていた家系に生まれた[24]。戦国のころは播州三木城にその先祖が籠城(ろうじょう)したということであるが、身分はわからない[25]浄土真宗西本願寺の熱心な門徒で、三木城が落ちてから他の籠城兵ととも広村に落ち、そこで田地を耕した[25]。惣八の嫁(司馬遼太郎の祖母)は、広に近い高浜の人で是定(しじょう、司馬遼太郎の父親)を産んでほどなく亡くなった[26]。惣八が明治維新をむかえたのは18か19のときだった[27]。“百姓にも姓がつくそうな。”ということになり、当時村にいた惣八の一族たちは会合して申しあわせ、三木という姓にすることにした[27]。先祖が三木籠城(ろうじょう)したということでそうなったというのだが、そのころ惣八は親類中と喧嘩をしていて、親類の者から「おまえだけは別の姓にしろ」といわれた[27]。惣八は、無類の珠算ずきで、ついには和算までやりだし、ソロバン開平開立を解いたりした[27]明治維新以降、かれはかれ自身のわずかな財産からすれば大相場を張り、すってんてんになってしまい、土地にいられなくなった[28]夜逃げ同然で村を出、大阪へゆくべく飾磨の湊から船に乗った[28]。難波に店をもった[28]。かれは屋を開業した[28]。餅とおかきをつくった[28]

作品

長編小説

短編小説

※は、後に(他社・改編も含め)文庫・単行判で再刊。

  • 白い歓喜天 (1958年7月、凡凡社) - 処女出版
「ペルシャの幻術師」「戈壁の匈奴」 「白い歓喜天」「兜率天の巡礼」
  • 大阪侍(1959年12月、東方社)- ※数作入れ替え、講談社文庫で再刊。
「和州長者」「泥棒名人」「盗賊と間者」「法駕籠のご寮人さん」「大坂侍」「難波村の仇討」
  • 最後の伊賀者(1960年11月、文藝春秋新社)-※講談社文庫で再刊
「外法仏」「下請忍者」「伊賀者」「最後の伊賀者」「蘆雪を殺す」「天明の絵師」
  • 果心居士の幻術(1961年3月、新潮社)- ※新潮文庫で再刊
「八咫烏」「朱盗」「牛黄加持」「果心居士の幻術」「飛び加藤」「壬生狂言の夜」
  • おお、大砲 (1961年10月、中央公論社)- ※数作入れ替え、「言い触らし団右衛門」(中公文庫)の題名で再刊。
「言い触らし団右衛門」「岩見重太郎の系図」「売ろう物語」「雑賀の舟鉄砲」「おお大砲」
  • 一夜官女(1962年3月、東方社)- ※「女は遊べ物語」「京の剣客」を追加し、中公文庫(初版1984年)で再刊。
「一夜官女」「雨おんな」「侍大将の胸毛」「伊賀の四鬼」 
  • 真説宮本武蔵(1962年11月、文藝春秋新社)- ※講談社文庫で再刊
「真説宮本武蔵」「越後の刀」「京の剣客」「千葉周作」「奇妙な剣客」「上総の剣客」
  • 花房助兵衛(1963年10月、桃源社)
「伊賀者」「奇妙な剣客」「花房助兵衛」「軍師二人」「割って、城を」「千葉周作」「上総の剣客」
  • 幕末(1963年12月、文藝春秋新社)- ※文春文庫再刊
「桜田門外の変」「奇妙なり八郎」「花町屋の襲撃」「土佐の夜雨」「逃げの小五郎」「死んでも死なぬ」「浪華城焼討」
「鬼謀の人」「英雄児」「慶応長崎事件」「人斬り以蔵」「喧嘩草雲」
「酔って候」「きつね馬」「伊達の黒船」「肥前の妖怪」
  • 豊臣家の人々(1967年12月、中央公論社)※ - 安土桃山時代豊臣秀吉につながる10名を描いた連作短編、角川・中公文庫再刊
  • 王城の護衛者(1968年5月、講談社)- ※同名の講談社文庫(初版1971年)で「人斬り以蔵」を追加。
「加茂の水」「王城の護衛者」「英雄児」「鬼謀の人」
  • 喧嘩草雲(1968年5月、東方社) - 表題は幕末の画家田崎草雲の数奇な人生を描く
  • 故郷忘じがたく候(1968年10月、文藝春秋)※ - 文春文庫再刊
「故郷忘じがたく候」「斬殺」「胡桃に酒」
  • 人斬り以蔵 (1969年12月、新潮文庫)- 文庫判での新版作品集
「鬼謀の人」「人斬り以蔵」「割って、城を」「おお、大砲」「言い触らし団右衛門」「大夫殿坂」「美濃浪人」「売ろう物語」
  • 馬上少年過ぐ(1970年8月、新潮社)
「馬上少年過ぐ」「重庵の転々」「城の怪」「貂の皮」
※ 同名の新潮文庫(初版1978年)で、「英雄児」「慶応長崎事件」「喧嘩草雲」を追加。
「木曜島の夜会」「有隣は悪形にて」「大楽源太郎の生死」「小室某覚書」
  • おれは権現(1982年、講談社文庫) - 以下は文庫判での新編
「愛染明王」「おれは権現」「助兵衛物語」「覚兵衛物語」「信九郎物語」「若江堤の霧」「けろりの道頓」
  • 軍師二人(1985年、講談社文庫)
「雑賀の舟鉄砲」「女は遊べ物語」「嬖女守り」「雨おんな」「一夜官女」「侍大将の胸毛」「割って、城を」「軍師二人」
  • アームストロング砲(1988年、講談社文庫) - 幕末期の群像短編
「薩摩浄福寺党」「倉敷の若旦那」「アームストロング砲」「理心流異聞」「侠客万助珍談」「斬ってはみたが」「五条陣屋」「壬生狂言の夜」「大夫殿坂」
  • ペルシャの幻術師(2001年、文春文庫) - 初の文庫化
兜率天の巡礼」「ペルシャの幻術師」「戈壁の匈奴
  • 侍はこわい(2005年、光文社文庫) - 著者生前には未収録の作品集
「権平五千石」「豪傑と小壺」「忍者四貫目の死」「狐斬り」「ただいま十六歳」「侍はこわい」「みょうが斎の武術」「庄兵衛稲荷」
  • 花妖譚(2009年、文春文庫) - 新聞記者時代に、本名「福田定一」名義で書いた短編幻想小説集。
「森の美少年」「チューリップの城主」「黒色の牡丹」「烏江の月 謡曲『項羽』より」「匂い沼」「睡蓮」「菊の典侍」「白椿」「サフラン」「蒙古桜」

単行本・全集未所収作品

  • 魔女の時間(「主婦の友」1961年12月号〜1962年11月号。全12話)司馬には珍しい、BG(ビジネスガール)を女性主人公とした現代小説。
  • 豚と薔薇(1960年、東方社。1968年再版)、「兜率天の巡礼」を併収。推理小説。作者は東方社版のあとがきで、この作品は自らすすんで書いたものではないと明言し、またこれから後は推理小説は書かないつもりだとも記している。全集に未収録の上に、文庫化もされていない。これらの経緯から見ても「古寺炎上」と共に、復刊の可能性は今後も低いと思われる。
  • 古寺炎上(1962年、角川書店:新書版)、「豚と薔薇」を併収。なお今日双方とも、相当な古書価となっている。

戯曲

紀行・随筆・対談

紀行
  • 歴史を紀行する(1969年2月、文藝春秋)
  • 街道をゆく(1971年9月 - 96年11月、朝日新聞社、43巻目で絶筆)
  • 人間の集団について ベトナムから考える(1973年10月、サンケイ新聞社)
  • 長安から北京へ(1976年10月、中央公論社)
  • 歴史の舞台(1984年3月、中央公論社)
  • アメリカ素描(1986年4月、読売新聞社)
  • 草原の記(1992年6月、新潮社) 
随筆・評論ほか
  • わが生涯は夜光貝の光と共に(1950年、「ブディスト・マガジン」創刊号、浄土宗西本願寺)、福田定一名で出した初めての作品。
  • 役の行者(1958年、「吉野風土記」所収、吉野史談会)
  • ある不倫(1960年、「小説中央公論」所収、中央公論社)
  • 名言随筆サラリーマン哲学(1960年、六月社) → ビジネスエリートの新論語(1972年、六月社書房)。
     両方とも福田定一名で「二人の老サラリーマン」は、「文藝春秋 臨時増刊号」2005年5月号に所収。
    • 新聞記者司馬遼太郎(2000年、産経新聞社/2013年、文春文庫)。文化部記者時代のコラム15本を収録。
  • 手掘り日本史(1969年6月、毎日新聞社
  • 歴史と小説(1969年、河出書房新社
  • 歴史と視点(1974年10月、新潮社)
  • 歴史の中の日本(1974年10月、中央公論社)
  • 古今往来(1979年9月、日本書籍)
  • 歴史の世界から(1980年11月、中央公論社)
  • 微光のなかの宇宙(1984年3月、中央公論社)。美術論集
  • ある運命について(1984年6月、中央公論社)
  • ロシアについて(1986年6月、文藝春秋)
  • 二十一世紀に生きる君たちへ(1987年5月、大阪書籍刊『小学国語 六年下』に収録)
  • 「明治」という国家(1989年9月、日本放送出版協会) 
吉田直哉演出のNHKスペシャル「太郎の国の物語」〈全6回〉、1989年秋に放映
  • この国のかたち(全6巻、1990-96年、文藝春秋)。「月刊文藝春秋」の巻頭随筆
  • 風塵抄 (一.1991年、二.1996年、中央公論社)。産経新聞での月一回巻頭コラム
  • 春灯雑記(1991年11月、朝日新聞社)
  • 十六の話(1993年10月、中央公論社)
  • 「昭和」という国家 (1998年3月、日本放送出版協会)。NHK教育テレビで1986年に放映されたドキュメント番組での語りをまとめた。
  • 歴史と風土(1998年10月、文春文庫)、「全集」月報ほか
  • 以下、無用のことながら(2001年2月、文藝春秋)、晩年の随筆集
  • 人間というもの(1998年12月、PHP研究所)、アフォリズム
  • 司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎アジアへの手紙(1998年、集英社)
  • もうひとつの「風塵抄」(2000年2月、中央公論新社)、※福島靖男との往復書簡
  • 司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎からの手紙(上下)(週刊朝日編集部編、2004年、朝日文庫)
対談・鼎談・座談

全集・選集

発行部数ランキング

(単行本・文庫本の合計:出典『ダカーポ』2005年9月7日号(567号)p.65)

数年を経たので、上位作品は更に数百万部、それ以外でも数十万部が上乗せされていると考えられる。
一例に、『讀賣新聞』2010年1月1日朝刊第2面広告欄では、『竜馬がゆく』は「2400万部」、『坂の上の雲』は「1900万部」となっている。
順位 作品 部数
1位 竜馬がゆく 2125万部
2位 坂の上の雲 1475万部
3位 翔ぶが如く 1070万部
4位 街道をゆく 1051万部
5位 国盗り物語 674万部
6位 項羽と劉邦 669万部
7位 関ヶ原 520万部
8位 菜の花の沖 475万部
9位 花神 453万部
10位 世に棲む日日 445万部
11位 功名が辻 395万部
12位 播磨灘物語 392万部
13位 この国のかたち 365万部
14位 322万部
15位 城塞 307万部
16位 新史太閤記 262万部
17位 義経 240万部
18位 箱根の坂 238万部
19位 胡蝶の夢 231万部
20位 最後の将軍 220万部

関連作品

映画

テレビドラマ

ドキュメント

他にもNHK番組を中心に多数出演している。
  • NHKスペシャル 街道をゆく(全13巻、NHKビデオ)
  • 新シリーズ 街道をゆく(全24巻、NHKビデオ)

受賞歴

評伝・作品評論

尾崎秀樹山折哲雄松原正毅、磯貝勝太郎、道川文夫、田中直毅
以下は(歴史観などの)各立場で、作品の受容と評論を紹介
小山内美江子鶴見俊輔出久根達郎半藤一利 
半藤一利、山折哲雄童門冬二吉岡忍村松友視
雑誌特集
編集者、古書店店主、批評家(複数)などが寄稿。他にも、文春の雑誌では司馬に縁のある記事が多数掲載されている。「坂の上の雲」臨時増刊号が3冊刊
週刊朝日『週刊司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎』シリーズ

他、司馬の著作物に付与された解説、新聞、雑誌での批評記事、更に『週刊朝日』が没後発表した『未公開講演録 愛蔵版 司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎が語る日本』シリーズに続けて連載された「司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎からの手紙」シリーズや「週刊司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎」などの宣伝記事、PHP文庫の『文蔵』や文藝春秋の企画記事など、出版社による企画広告やその流れを汲む記事など。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

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外部リンク

第10回例会(1998年7月25日)中村政則の講演の要約。質疑応答も掲載。

テンプレート:司馬遼太郎 テンプレート:毎日芸術賞 テンプレート:日本芸術院賞

テンプレート:Normdaten
  1. 生涯井伏作品を愛読している。『別冊アサヒグラフ 井伏鱒二の世界』(朝日新聞社、1992年)にも井伏論を寄せている。
  2. 「百年の単位」(『中央公論』1964年2月号)
  3. 「座談会 もしも本土決戦が行われたら」、中央公論社の雑誌『歴史と人物』増刊「太平洋戦争-終戦秘話」、1983年8月(通巻第150号)より
    近藤新治(戦車第二十八連隊中隊長)は「あの話は、われわれの間で大問題になったんです。司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに当ったけれど、だれもこの話を聞いていない。ひとりぐらい覚えていてもいいはずなのですがね。」と述べている。一方、昭和史研究で著名な半藤一利のように、出版業界で歴史畑を長く扱ってきた者(司馬の担当者であった事もあり)この発言を信じ込み、帝国陸軍批判の材料とする者もいる。
    『NHK人間講座.半藤一利 清張さんと司馬さん』NHK出版 2001年10月、改訂版2002年10月/ 文春文庫、2005年10月
    「恐ろしい言葉です。逃げてくる無抵抗な民衆を、作戦の邪魔になるから「ひき殺していけ」と言う。それを軍を指揮する「大本営参謀」が言ったというのです。しかも、司馬さんの質問に答えてなんですから、また聞きとか、伝聞とかではないんです。名前まではさすがに出されていませんでしたが、わたくしには当時の参謀本部作戦課の秀才参謀たちのいくつかの顔が思い浮かんできました。」などと、推測を交えた記述がなされている。なお、他の部隊関係者に事実確認当した旨の記述を半藤はしていない。
  4. 青木は後に『中外日報』編集局長、西本願寺の雑誌『大乗』の編集長を歴任。『梟の城』は、青木の伝手で『中外日報』に連載されている。
  5. 多くの選者が無視し、一人がもっともな理由で痛烈に否定し、一人がそれ以上の激しさで推賞した。それが海音寺であった(中公文庫 『歴史の世界から 改版』 中央公論新社 ISBN 978-4122021013、211p)。
  6. プロポーズの場所は大阪市電の電停であった(中公文庫 『歴史の中の日本 改版』 中央公論新社 ISBN 978-4122021037)。
  7. この時期までは、産経新聞社『新聞記者司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎』(文春文庫、2013年)、後輩の三浦浩『青春の司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎』(朝日文庫、2000年)に詳しい。
  8. 李登輝は同世代の愛読者であった。この対談は内外の注目を起こした。なお1989年には韓国ソウルで、当時韓国大統領だった盧泰愚と対談した(『文藝春秋』1989年8月号)。
  9. 東京新聞コラム「筆洗」(2007年4月30日)。なお、同コラムに書かれている半藤一利は、司馬の遺志を継ぐ意味も込めて、司馬の死後に『ノモンハンの夏』を著した。下記『清張さんと司馬さん』では司馬の心情を推量している。
  10. 渡辺については、『レトリックス—大衆文芸技術論』収録の「神の自意識-司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎」を参照。
  11. 清水については、彼の初期の短編小説「猿蟹の賦」および「商道をゆく」(講談社文庫の『蕎麦ときしめん』所収)を参照。
  12. 例:白井明雄『日本陸軍「戦訓」の研究 大東亜戦争期「戦訓報」の分析』芙蓉書房出版 ISBN 4-8295-0327-0 (2003年) 典型的な歴史研究書だが、『レイテ戦記』を参考に挙げている。
  13. 例えば霍見芳浩「学者が斬る(97)米国の対イラク攻撃と司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎の警告」『エコノミスト』81巻2号(2002年、毎日新聞社養老孟司「没後十年をむかえて 特別寄稿 司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎さんの予言 司馬さんは今の危機を見通していたかのようだ」『文藝春秋』2006年1月号
  14. 例えば新潮社は自社のウェブサイトにて司馬の講演テープ
    司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎が語る 第二集 歴史小説家の視点』を「作家、司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎の歴史に対するスタンスを提示した「司馬史観」の原点ともいえる講演」と宣伝しており、この例のほか『司馬史観がわかる本』と命名された司馬を好意的に扱った書籍も存在する。
  15. 詳細は「経済人」、「限定合理性」、「フリードリヒ・ハイエク」などの項を参照。「Category:価値観」の各項目も参照。
  16. 小林よしのりは保守系批判派としては司馬に言及した回数が多いが、代表的なものとしては『戦争論』シリーズ(幻冬舎)、『台湾論』(小学館)を参照のこと。
  17. 読売新聞2004年2月21日13面「現代に生きる日露戦争」
  18. 成田龍一『戦後思想家としての司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎』(筑摩書房)
  19. 『徳王の見果てぬ夢』 2013年 佐々木健悦 社会評論社 ISBN 978-4-7845-1349-9 pp.216-217
  20. 白石博司「戦史雑感(その4) 歴史書(叙述)と歴史小説」『陸戦研究』平成9年9月号(1997年) 当時幹部学校、戦史教官室長 桑田悦「司馬テンプレート:JIS2004フォント太郎著『坂の上の雲』対する軍事的批判」『動向』2000年6月号
  21. 出典:「地球にひとりだけの人」-『岡本太郎著作集』第5巻月報 講談社(1979年)
  22. 日経ビジネス2005年6月6日号「検証 狙われたフジサンケイグループ 資本のねじれ解消暗闘の13年」。また鹿内に、司馬は「ハイジャッカー」とのニックネームをつけて呼んでいた(週刊ポスト 平成21年6月5日号)
  23. 『リベラルタイム』2007年5月号「永田町仄聞録 だから民主党はダメなのだ」など参照
  24. 『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅(かいこう)⑧ある明治の庶民』9-10頁
  25. 25.0 25.1 『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅(かいこう)⑧ある明治の庶民10頁
  26. 『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅(かいこう)⑧ある明治の庶民』35頁
  27. 27.0 27.1 27.2 27.3 『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅(かいこう)⑧ある明治の庶民』11頁
  28. 28.0 28.1 28.2 28.3 28.4 『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅(かいこう)⑧ある明治の庶民』13頁