文明

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文明(ぶんめい、テンプレート:Lang-en-shortラテン語: civilizatio キーウィーリザティオー)とは、人間が創り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す。

文明の概念

文明の発生

農耕の発生は、現在、オリエントの三日月地帯で、11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。日本でも同時期に農耕が開始される。これらは、2万年前に最も寒くなった寒冷期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。その後は小さな変動はあっても大きな変動はない。灌漑施設が文明の発生に大きな影響を持ち、この時期はBC5300年頃のウバイド文明で、その後の、ウルク期のBC3200年の文字の発明まで、気温に小さな変動はあったが、大きな変動はない。

文明の発生の契機が何か解っていない。しかし、乾燥化による移住と言う説や、地球寒冷化による移住によるとする説がある。

  • 地球寒冷化によってそれまでの分散していた生活環境が苛酷になった為、河川周辺への人口集中が促されるなど、文明の発生に大きな役割を果たすという説[注 1][注 2]
  • サハラ砂漠は2万年を頂点に12,000年前まで乾燥し、その後、7000年前まで森林が増え、5000年前まで森に覆われていた。その後、乾燥により砂漠化が今も進行している。砂漠化により、砂漠にとどまるものと、ナイル河畔に移動したものにわかれた。移動と共に生活様式を変えたものが、ナイル河畔で文明を創ったと言う説がある[注 3]

文明の特徴

西欧語の "civilization"(英語)などの語源は、ラテン語で「都市」「国家」を意味する "civitas" に由来する。ローマ時代の文明とは、字義通りに都市化や都市生活のことであった。

文明の要素

マルクス主義の考古学者ゴードン・チャイルド(1892年-1957年)の定義では、文明と非文明の区別をする指標として次のように挙げている[1]テンプレート:Col

チャイルドの定義以外に、すべての文明に共通するものとして次がある。   

文明の機構
チャイルドは文明を構成する要素に注目したが、機構に注目すれば以下の定義により、政府やネットワークが浮かび上がる。
  • 大きな人口を維持するには効果的な食料生産と食料分配の制度や分業・階層化を可能にする中心機構を持った政治システムが必要で、「文明とは国家という政治システムを持つ社会」と言う定義[2]
  • いろいろな文化のサブ・システムを包含する、広域的ネットワークとして、広い範囲に普遍的に広がり、大規模で高度な組織、制度、統合がなされていると言う定義[3]

文明の変遷と完成、文明の型

文明のゆるやかな成立
新石器時代の狩猟採集から、原始的な農業を経て、村、町、都市へとゆっくりと発展して、文明が成立していくため、文明が一気に成立するわけではなく、文明に至る階段を登ることになる。例えば、シュメール文明は最古の文明の一つだが、BC5300年頃のウバイド文明から、ウルク期のBC3200年の文字の発明まで2000年を要している。原始的農業を経て灌漑技術を生み出し、都市を構成し、冶金技術も生まれ、神官階級が文字を生み出し、歴史時代が始まる[4][5]
また、アンデス文明は、BC1000年頃文明が発生し、AD1500年頃滅び、文字はあまり重要ではなく、インダス文明も同様である[6]、冶金術はメソアメリカ文明ではあまり発達しなかった[1]
灌漑文明
シュメール文明の成立以前の、肥沃な三日月地帯にあった新石器時代エリコチャタル・ヒュユクのような初期定住社会は文字を持たない。これに対し、灌漑文明であるシュメール文明は文字を持ち、記念碑的施設を持っていた[7]
世界最初の文明である、メソポタミア文明エジプト文明インダス文明黄河文明テンプレート:Refnestテンプレート:Refnestは、灌漑文明で[8]、チャイルドの文明の要件、都市への定住と分業、パピルスや粘土板に記された文字など、以外に次の特徴を持つ。
* テンプレート:要出典範囲
非灌漑文明
この地域と、メソアメリカ文明アンデス文明などのアメリカ大陸の文明以外では、例えば、欧州と日本の文明は、巨大灌漑文明ではない。

文明の種類

これまで独自の文化圏を持つとして文明に分類されたものをあげる。

文明論

文明論の概要

文明論の始まり
歴史学考古学は、歴史の始まりを画すものとして文明を眺めた。もう一つは、直接文明を対象にするのではなく、未開に関心を寄せた文化人類学であった。両分野は手法と対象は異なるものの、文明の始まりという同じものを見ようとする。
フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー『ヨーロッパ文明史』、ヘンリー・バックル『イギリス文明史』などがある。近代ヨーロッパの考古学では人類の初期の古代文明のうち、特にエジプト文明の研究などから、「肥沃な三日月地帯」や「文明のゆりかご」(Cradle of civilization)という概念で研究した。福沢諭吉は1875年、『文明論之概略』で西洋文明と日本文明を比較したテンプレート:Refnest
哲学者の和辻哲郎は1935年に『風土 人間学的考察』で、モンスーン(日本も含む)、砂漠牧場の三類型の風土において独自の文化が形成されたと論じた[9]
挑戦と応戦
20世紀、オスヴァルト・シュペングラーは、『西洋の没落』において、ヨーロッパ中心史観・文明観を批判した。アーノルド・J・トインビーは、文明とは、個人が強く識別する、最も広範囲なアイデンティティーに相当し、家族・部族・故郷・国家・地域などよりも広い、強固な文化的同一性であるとした[注 5]。そして、多くの文明[注 6]への、「挑戦と応戦」の過程で、文明は発生し、興隆し、やがて終末を迎える。文明の終末において、新たな文明を生む繭が生まれ、古い文明を崩し文明を再生する。例えば、キリスト教会が、崩壊してゆく古代ローマ文明の中で繭として成長し、新しい文明を築いたと主張した。
文明の舞台と環境
  • 世界最初の文明は巨大河川での、灌漑であった。
  • 1944年、カール・ポランニーは『大転換-市場社会の形成と崩壊』で、資本主義社会の市場構造の分析をした。 
  • 1949年、フェルナン・ブローデルは『地中海』で、文明における海の役割を際立たせた。
  • 1957年、梅棹忠夫は、『文明の生態史観』で、砂漠の決定的な重要性について指摘している[注 7]
  • 1974年、イマニュエル・ウォーラーステインは、資本主義経済を史的システムとする『近代世界システム』を打ちだした。ブローデルの影響が濃い。
  • 1988年、梅棹は、環境に制約された文明は、やがて、環境の制約を離れ、環境に情報が取って代わり、情報を中心とした文明になると、情報文明論で述べた[10]
  • 1997年、川勝平太は、インド洋から東シナ海を中心とした交易圏の中での、日本の文明の役割を文明の海洋史観として提示した。
  • 1997年、ジャレド・ダイアモンドは、文明を成り立たせる要素及び人間の考え方が、文明の成立や構造にどのような影響を与えるか、『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』で、考察した。
文明の遷移と系列
日本において、梅棹忠夫は文明の変遷の原理をしめした。梅棹は1957年『文明の生態史観[11]で、生態学的気候区で「ユーラシア両端、日本・欧州」と、「ユーラシア中央部」とに2分し、2つの文明の型で遷移が異なるとした。砂漠の遊牧民が農耕地帯を征服し、文明が瓦解し、大陸中央部は遷移が起きず振り出しに戻る。これに対し、遊牧民の征服をまぬかれた日本と欧州は、文明が破壊されす遷移を繰り返し、平行進化するとしたテンプレート:Refnest。文明とは、環境からの離脱の過程であり、装置群、制度群が次第に発達し、情報文明にいたるとする[注 8]
2000年頃、梅棹の文明論を批判した多くの「…史観」が現れた。川勝平太は、歴史主義を標榜し、梅棹には理論がないと批判した[注 9]。そして、川勝は、ヨーロッパと日本が、海洋交易や技術進歩で、大陸中央部を追い抜いていったとする『文明の海洋史観』を示したテンプレート:Refnest。川勝の背後には、ブローデルの地中海があり、大きな影響を受けたと述べる。
また、村上泰亮の日本の家社会を例とした、文明はいろいろな系の間の移行により発達の経路が異なるという、文明の多系史観が発表された。村上は、梅棹の遷移理論に対し、文明発展の経路が偶然により異なり、また系の間を移ることがあり、一度経路が決まると、次の分岐点まで文明の型は変わらないとした。
経済の構造
マルクス系のポランニーは、労働と土地は再生産出来ないが、資本主義の市場は再生産できない財を市場で取引しすると言う特徴があり、資本主義体制の市場は普遍的なシステムではないと指摘した。そして、古代や未開民族の経済を調べ、いろいろな経済社会システムがあり、市場がなくとも、経済構造を維持できることを示した。
その他、および時評としての文明論
安田喜憲の文明環境史観、森谷正規の文明技術史観、文明のエネルギー史観、嶋田義仁のアフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明論がある[注 10]
帝国」の概念と「文明」がオーバーラップするとしてノーム・チョムスキーは、500年にわたる西洋の帝国を経験的に記述した。アントニオ・ネグリマイケル・ハートは、共著『帝国』で、より理論的な分析を展開し、諸文明の同時代的な分析を構成している[注 11]。東西冷戦が終わると、アメリカの勝利が明白になり、フランシス・フクヤマは『歴史の終わり』1992年で、民主主義と自由経済が文明の最終形態で、王朝の交代や、革命という大変革は起きないとした。その後、アラブの問題が生起し、サミュエル・P・ハンティントンが、『文明の衝突』で、キリスト教やイスラム教などの宗教を中心とする文明間の対立や摩擦が21世紀の国際政治の特徴になると主張した。

文明と野蛮・未開

伝統的に、文明は野蛮未開と対置されてきた。ここには、高い文化を持つ文明の光と、その光が届かない野蛮や未開の闇という世界像がある。都市生活の素晴らしさや、野蛮・未開の劣等性を知識人たちが疑わなかった時代には、文明とは何かという理論的問題は発生しなかった。しかしそこが疑われるようになると、自民族・自文化中心主義をとりはらった文明の定義が求められるようになった。20世紀前半まで圧倒的に主流を占めたのは、劣った野蛮に対する優れた文明という見方で文明を定義するものである。歴史や社会の発展段階論に結びつくと、野蛮は未開とも呼ばれる。この見方は、ギリシャローマ西欧(ローマ人対蛮族)に共通のものであり、また、中国中華思想朝鮮小中華思想、また日本も同様の思考様式を持っており、華夷の別は王化に浴するかどうかで本国(いわゆる中国)と周辺服属国(夷)、独立地域を分けた。

これらの思想は自文明中心主義と結びついて周辺支配のためのイデオロギーとなった。文明概念は、文明人は野蛮人より、文明国は未開社会より、優れた道徳的規範を持ち、優れた道徳的実践を行なうと想定する。文明は、人道的、寛容で、合理的なもので、逆に野蛮は、非人道的で、残酷で、不合理なものとされた。文明側の自己讃美は、それが文明人の間の行動を規制するために主張されたときには、道徳性を強める働きをしたが、野蛮人や未開人に対して主張されたときには、文明人による非人道的で残酷な行為を正当化することがしばしばあった。

しかし、同じ分類方法をとりながら、野蛮や未開の方が逞しさ、自由、道徳性の点で優れていると考える人々もいた。高貴な野蛮人という言葉で要約できるこの考えは、ローマのタキトゥスにその片鱗を見ることができ、後に西洋近代にロマン主義として一大流行になった。とはいえ、この考えが主流派に対する異議申し立ての地位を越えた時代はない。

近代西欧における「歴史の進歩」という考えは、未開から段階を踏んで高度な文明に達するという時間的区別と、文明的西欧、半未開あるいは半文明のアジア諸国、未開のその他地域という地理的区別とを重ね合わせた。啓蒙主義の時代には、文明は野蛮を征服し教化するものであり、またそうすべきであると考え、また対外的な侵略と支配を正当化した(帝国主義)。19世紀には進化論が大きな役割を果たし、社会進化論を生み出して、文明と野蛮について説明するようになった。本来「進化」には下等から高等へ一直線に段階を経るといった意味はなく、また進化しなかったものが即劣っているというわけではなくそれぞれの環境においてどのように適応出来たかというのを考察するものであった。

日本や中国などは、近代化にあたって文明と未開の二分法はそのままに文明の内容を西洋文明に置き換えた。明治日本では「文明開化」とよばれた。

近代以後におけるドイツになどにおいては、内面的・精神的な「文化」に対して、外在的・物質的なものを指して「文明」と捉える考え方も広がった。

脚注

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注記

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注釈

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出典

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参考文献

関連項目

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  1. 1.0 1.1 大貫良夫 , 渡辺和子 , 前川和也 , 屋形禎亮 「世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント」中央公論社,1998年,p127-9
  2. 大貫良夫 , 渡辺和子 , 前川和也 , 屋形禎亮 「世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント」中央公論社,1998年,p131
  3. 伊東俊太郎、「比較文明学とは何か」、7頁、伊東俊太郎編、『比較文明学を学ぶ人のために』、世界思想社、1997年
  4. チャイルド『文明の起源〈上〉(下)』
  5. 小林登志子 『シュメル―人類最古の文明』中央公論新社、2005年
  6. 大貫良夫 , 渡辺和子 , 前川和也 , 屋形禎亮 「世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント」中央公論社,1998年,p140
  7. 小林 登志子 『シュメル―人類最古の文明』、2005
  8. 8.0 8.1 四大文明のシミュレーションモデルの研究 池田誠、JSD学会誌 システムダイナミックス No.8 2009。
  9. [1]藤井聡「実践的風土論にむけた和辻風土論の超克-近代保守思想に基づく和辻「風土:人間学的考察」の土木工学的批評-」土木学会論文集D,62(3),pp.334-350,2006 、[2]オーギュスタン・ベルク「空間の問題 ハイデッガーから和辻へ」関西学院大学社会学部講演1996年10月16日
  10. 梅棹、1963年、情報産業論
  11. 梅棹忠夫、「文明の生態史観」、『中央公論』、1957年、梅棹忠夫監修、比較文明学会関西支部・編 『地球時代の文明学--シリーズ 文明学の挑戦 (1)』 京都通信社、2008年、1986年、伊東俊太郎比較文明学会を立ち上げている。