ローマ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:コムーネ ローマテンプレート:Lang-it-shortテンプレート:Lang-la-short)は、イタリア首都欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県コムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。

概要

イタリアの首都で政治、経済、文化の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。そして昔のローマの大国さを表した「ローマは一日にして成らず」という諺もある。また、領土を持たないマルタ騎士団の事務所がコンドッティ通り68にあり、治外法権が認められている。

2007年現在の人口は約270万人で、イタリアで最も人口が多い都市である。2010年都市的地域の人口では271万人であり、世界128位である[1]。 かつてのローマ帝国の首都であったため西洋文明圏を代表する都市のひとつであり、カトリック教会の中枢であり、そしてまたその美しさから『永遠の都』と称される。

2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第32位の都市と評価されており、イタリアの都市では第1位であった[2]

テンプレート:Anchors観光都市としての側面もあり、2012年には7,800,000人の観光客が訪れた[3]。後述の「観光」、「聖地として」も参照。

紋章

ローマ市の盾形の紋章に書いてある「SPQR」の文字は、ラテン語で「元老院とローマの市民」の略称で、ローマ帝国時代には、領域内のあらゆる地で公共物に刻んだ。

今でも、ローマ市内に残るローマ帝国時代の遺跡や当時の建造物の他、現在のローマ市の盾形の紋章に使用されていることから、ローマ市内を走るバスタクシーマンホールの蓋にも紋章が入れられている。

地理

ティレニア海にそそぐテヴェレ川河口から25kmほどさかのぼった位置にあるイタリアの首都で、ラツィオ州の州都でありローマ県の県都。伝説によれば、ローマは紀元前753年、テヴェレ川東岸の「ローマの七丘」のひとつ、パラティーノの丘に建設されたという。七丘とは、パラティーノアヴェンティーノカピトリーノクイリナーレヴィミナーレエスクイリーノチェリオの丘をさしていた。しかし考古学的には、紀元前1000年にはすでに人が定住していたことが証明されている。歴史的に由緒のある地区は意外に狭く、そのほとんどがテヴェレ川東岸にある。ローマの過去の栄光をしめす記念建造物の大部分はこの地区にある。

隣接コムーネ

隣接するコムーネおよびそれに相当する区域は以下の通り。

歴史

主要記事:Storia di Roma(伊語) History of Rome (英語)

起源

伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスレムスにより建てられた。ロムルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロムルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる[4]

考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘で発見された[4]

他にもエスクイリーノの丘やクイリナーレの丘にも集落があったものと思われる[5]。当時のローマは低地は湿地帯で居住に向かず、丘の上に竪穴式木造家屋を建てて住む数千人の人々が小麦を栽培して生活していた[5]

発展

紀元前7世紀頃には都市国家としての整備が進んだ。パラティーノの丘とカンピドリオの丘の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設フォロ・ロマーノが作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。またカンピドリオの丘にはユピテル神殿が建設された[6]。これら土木・建築様式はエトルリアギリシアの影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる[6]

王政ローマ期に当たる紀元前6世紀の王セルウィウス・トゥッリウスの頃には、防衛の石垣セルウィウス城壁がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的にガリア人がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である[7]

共和政ローマ期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都としてますますローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ)が建設されたのもこの頃と言われる[8]。紀元前312年からはローマ街道の敷設が[9]、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道の建設が始まった[10]

ローマ帝国

ファイル:Forum Romanum Rom.jpg
フォロ・ロマーノは、古代ローマの中心部「フォルム・ロマヌム」の遺跡である。

ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した[11]。しかし皇帝ネロ統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた[12]

そしてこの頃、ローマ帝国は隆盛を極めた。皇帝ウェスパシアヌス在位期の69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能なコロッセオ石灰石を用いた化粧が施され、剣闘士の戦いなどの催しが行われた。さらに石灰岩と火山灰を混ぜたローマン・コンクリートが発明され、パンテオンなど様々な建物が次々と建設され[13]、ローマは大帝国の首府にふさわしい都市となった[14]。ここには、皇帝が権威を示し民衆の支持を得るために、都市建築を用いたことも影響している[14]。この栄華は皇帝ディオクレティアヌスがニコメディアに遷都するまで続いた。

395年にローマ帝国が東西に分かれた後は、西ローマ帝国に属したが、西ローマ帝国は首都をラヴェンナに置いたためその政治的重要性は大きく低下した。5世紀には西ゴート人ヴァンダル人の掠奪を受けて衰微し、西ローマ帝国も476年に滅亡した。その後は西ローマを滅ぼしたオドアケル、次いで東ゴート王国の支配下に入った。

6世紀中頃、東ゴートは東ローマ帝国に滅ぼされ、ローマは再びローマ領となった。だが、度重なる戦争で荒廃し、歴代の東ローマ皇帝はローマ維持には努めたものの、重要視はしなかった。ローマを訪れた最後の“ローマ皇帝”は663年のコンスタンス2世であるが、この人物以外にローマを訪れた東ローマ皇帝はいない。この時期のローマは、宗教的にはともかく、政治的、軍事的にはラヴェンナ総督府の影響下にあった。

しかし、751年にランゴバルド族の攻撃によりラヴェンナが陥落。ローマも脅かされることになる。ローマ教皇ステファヌス3世は、教義問題で対立する東ローマ皇帝コンスタンティノス5世ではなく、フランク族ピピン3世に救援を求め、結果、東ローマ帝国から独立を果たす。

文化の中心地

この後は『シャルルマーニュの寄進状』によれば800年にカールによりローマ教皇に寄進されたとされるが、この文書は今日では偽書とする見解が優勢である。15世紀半ば以降、ローマ教皇領の首都として栄え、ローマはルネサンス文化の中心地となった。教皇ニコラウス5世の時代には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマはフィレンツェにかわってルネサンスの一大中心地となり、ミケランジェロブラマンテラファエロなどの芸術家が教皇のために仕事をした。しかし1527年、ハプスブルク家の傭兵軍による、いわゆる「ローマ劫掠」によって、この都の盛期ルネサンスは終わりをつげた。なお、家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇シクストゥス5世の時代で、ポポロ広場から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、フェリーチェ水道を修復した。サン・ピエトロ大聖堂の丸屋根が完成したのもこの時代である。 対抗改革期のローマを特徴づけるバロック様式は、17世紀の建築物に多くみられる。ベルニーニボロミーニのような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。スペイン階段などにみられる18世紀前半のロココ様式の建物は、やがて新古典主義の建物にかわった。1797年ナポレオン1世はローマを占領し、多数の貴重な美術品を持ち去ったが、ウィーン会議の後、ローマはふたたび教皇領となった。

統一イタリアの首都

ウィーン会議後のオーストリア帝国によるイタリア支配は独立達成にむけてイタリア人を奮起させたが、援軍とあおいだナポレオン3世によるイタリア占領はイタリア人の反発をまねき、1861年、イタリアの大部分はサヴォイア家のもとで統一をはたした(リソルジメント)。教皇の本拠地だったローマは1870年、フランス軍の撤退後、1871年イタリア王国にローマ教皇領が併合されイタリアが統一され、ローマはフィレンツェに代わって統一イタリアの首都となった。

その後1930年代にはファシスト党の独裁者、ベニート・ムッソリーニがローマ郊外にローマ万国博覧会のための新都市、EUR(エウル)を建設したが、ムッソリーニ主導による第二次世界大戦へのイタリアの枢軸国としての参戦によりEURの拡大は一時的に中止となった。

現在

第二次世界大戦後には、航空機の発達により、日本をはじめとするアジアアメリカなどのヨーロッパ圏外からも多数の観光客が訪れるようになった。1970年代初めにミラノへ移るまではイタリアにおいてファッションの中心地であった。

現在はパリアテネなどと並び、ヨーロッパを代表する観光都市として親しまれている。また、イタリアの首都で政治経済文化の中心地的存在であるとともにカトリック教会の中枢でもあるほか、市内には国際機関や多国籍企業の本拠があり、イタリアを代表する大企業の本社や官公庁が立ち並ぶ世界的に重要な都市となっている。

行政

ファイル:Rome - Overview numbered.PNG
ローマのムニチーピオ
ファイル:Roma rioni mappa.png
ローマのリオーネ(黄色)
ローマのクアルティエーレ(黄色の外側)
ファイル:Plan Rome- Aureliaanse Muur.png
アウレリアヌス城壁(黒色線)

ローマはイタリア全土にあるコムーネのうちの一つで、都市規模・人口ともに最大である。市長および市議会がコムーネを管理しており、ローマにおける歴史的な政庁所在地であるカンピドリオに市庁舎は設置されている。また市庁舎の置かれる地名から、ローマ市政は「カンピドリオ」と通例呼ばれる。

行政区分では19のムニチーピオという地域に区分される。この区分は中心部への集中を分散化することを目的として創設され、各ムニチーピオは区長、および5年おきに選挙で選出される4人の議員が運営する。この行政区分は、伝統的な非行政区域の境界線を越えることがある。この歴史的な区分、リオーネは22の区域に分割され、一部を除いてアウレリアヌス城壁内の地域をさす。またローマは郊外区域、および52の農業区域を公式に指定しているが、後者は開発の対象となりやすいのが実情である。

ローマのムニチーピオ

ムニチーピオ(it)は、19の行政区に分けられる。 テンプレート:See also テンプレート:See also テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

ローマのリオーネ

リオーネ(it)は、以下の22の行政区に分けられる。 テンプレート:See also テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

ローマのクアルティエーレ(近隣住区)

クアルティエーレ(it)は、以下の35に分けられる。 テンプレート:See also テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

気候

テンプレート:Weather box

経済

2008年におけるローマの都市GDPは1440億ドルであり、世界第43位である。アメリカのダウ・ジョーンズらの2013年の調査によると、世界42位の金融センターと評価されており、イタリアではミラノに次ぐ2位である[15]

イタリアの首都であることから、政治の中心地であるが、ローマの経済は基本的に行政と観光によっており、労働者の大半はこの分野と卸売、小売業などのサービス業に従事している。ローマには、イタリアの大企業の本社や多国籍企業の本拠地、国営放送局 (RAI)、大手新聞社などのマスコミの本社、在外公館が集中し、また国際連合食糧農業機関 (FAO)、国際農業開発基金 (IFAD)、国際連合世界食糧計画 (WFP) の本部がおかれている。

市内には古代遺跡や美術館などが多く残り、世界各国から観光客が集まることから観光業界が重要な産業となっており、特にヴェネト通りスペイン広場周辺には高級ホテルレストランブティックが立ち並び一年中賑わいを見せている。

郊外には独裁者ベニート・ムッソリーニが作った世界的に著名な映画撮影所「チネチッタ」があり、フェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」や「インテルビスタ」など多数の名作が撮影された。イタリアの映画産業のみならずイタリアの近代文化にとっても重要な場所である。なお、フェリーニ監督は1971年に映画「Roma」 (邦題は「フェリーニのローマ」)を撮っている。都市名だけがそのまま題となっている映画は珍しいが(他には「カサブランカ」「シカゴ」など)、内容的にも特にストーリーの無い幻想的なローマ論で埋め尽くされており、キネマ旬報ベストテン2位など名作映画として評価されている。

観光

テンプレート:See also

ファイル:Trevi Fountain, Rome, Italy 2 - May 2007.jpg
トレヴィの泉。中央に水を司るネプトゥヌスが、左に豊饒の女神ケレース、右に健康の女神サルースが配置されている。
古代ローマ遺跡

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

広場・公園

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

ローマの七丘

ローマの七丘とは、ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置する古代ローマ時代の七つの丘のこと。 テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

ローマのオベリスク

テンプレート:Main

教会

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

宮殿

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

美術館・博物館

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

その他の建造物

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

市内の他の場所

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

バチカン市国内の観光名所

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

ローマ郊外の観光名所

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

聖地として

テンプレート:See also ローマ市内にはキリスト教の聖地のひとつバチカン市国があり、毎年多くの観光客や巡礼者が訪れる。特にサン・ピエトロ広場は大規模なイベント時にも多くの信者を収容できるよう、最大で約30万人が一度に入れる敷地を持っている[16]

商業施設

大型店舗

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

スーパーマーケット

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

格安系スーパーマーケット

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

文化

スポーツ

ローマは1960年ローマオリンピック開催地で、2020年夏季オリンピック開催候補地でもあった。2009年世界水泳はこのローマで開催された。

ローマで最も人気のあるスポーツはサッカーである。スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマでは1990 FIFAワールドカップ決勝試合が行われ、現在はセリエA屈指の強豪ASローマや他にもSSラツィオセリエC1アトレティコ・ローマの本拠地として使用されている。各チーム間には猛烈なライバル意識があり、ローマのスポーツ文化として定着している。ASローマのフランチェスコ・トッティダニエレ・デ・ロッシを初めとし、各チームでは有名選手が在籍、また有名選手が誕生しやすい傾向がある。

サッカー人気には遠く及ばないが、ラグビーも広く受け入れられてきている。スタディオ・フラミニオラグビーイタリア代表の本拠地で、シックス・ネイションズでは2000年以来試合が行われている。しかしながらその成績は決して優秀とは言えず、現在のところ優勝は一度もしていない。

毎年5月、テニストーナメントのATPマスターズ1000ローマ・マスターズが市内で行われている。サイクリング第二次世界大戦後に急速に人気を博し、1989年と2000年にジロ・デ・イタリアの最終部分が開催。しかし、サイクリング人気はここ10年で衰退してしまった。他にも、バスケットボールのパッラカネストロ・ヴィルトゥス・ローマ、バレーボール、ハンドボール、水球のチームがローマを本拠地とする。

ローマは1987年世界陸上競技選手権大会の開催地であり、スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマが会場として使用された。イタリア陸上競技連盟会長のプリモ・ネビオロにより1980年に創設され、2010年以降はIAAFダイヤモンドリーグの1大会に加わった陸上競技会・ゴールデンガラもスタディオ・オリンピコを会場として行われている[17]

交通

道路

ファイル:Estradas consulares.svg
他都市へのアクセス

テンプレート:See also

公共交通

ファイル:Roma Metropolitana e Ferrovia 2015.png
路線図(2015年完成予定)
市内・郊外

イタリア国鉄(トレニタリア Trenitalia)のローマ駅(ローマ・テルミニ駅)が市の中心駅である。市内の交通はATACの運営するバス網が中心である。イタリアの他都市同様、バスの乗車券は乗車前にキオスクなどで購入する。また、ATACの子会社のMet.Ro.が運営するローマ地下鉄が2路線(AB)あり、ローマ・テルミニ駅や、チネチッタなど郊外を結んでいる。他にもタクシーが安価な交通手段として多用されている。トラムもあり、これは渋滞を気にしないですむ[18]

長距離

長距離交通は、テルミニ駅を発着する長距離列車のほか、時速300キロで運行されているユーロスター・イタリア(ES*)などの高速鉄道、航空便や高速道路を使用する長距離バスなどで結ばれている。

航空

日本を含む長距離国際線とEU内国際線、国内線はフィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港)を使用し、EU内国際線と国内線は主にチャンピーノ空港(ジョヴァン・バッティスタ・パスティーネ空港)が使われる。フィウミチーノまではテルミニ駅から直通列車「Leonardo Express」が運行され、所要時間は30分ほどである。

テンプレート:Flagicon日本への就航都市

  • 大阪(関西国際空港
    • 成田国際空港と同様、アリタリア航空がフィウミチーノ空港への直行便運行している。

姉妹都市

テンプレート:Colbegin

テンプレート:Colend

関連項目

テンプレート:Sister テンプレート:Sister

参考文献

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Commons&cat 公式

日本政府

観光

テンプレート:Navbox テンプレート:ローマ県 テンプレート:夏季オリンピック開催都市 テンプレート:夏季パラリンピック開催都市 テンプレート:世界陸上競技選手権大会開催都市 テンプレート:欧州連合加盟国の首都

テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA

テンプレート:Link GA
  1. Demographia: World Urban Areas & Population Projections
  2. 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2014年4月公表)
  3. 2枚目(PDFのページ表記では1ページ)にある『Chart 1.』の12位。テンプレート:Cite web
  4. 4.0 4.1 考古学 - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト
  5. 5.0 5.1 ニュートン2003年9月号、pp.30-31、丘の上に数千人の集落を構えていたローマ
  6. 6.0 6.1 ニュートン2003年9月号、pp.32-33、先端技術を導入し、カピトリーノの丘の上に神殿をつくる
  7. ニュートン2003年9月号、pp.34-35、滅亡の危機に追い込まれたローマは、七つの丘を囲う城壁をつくった
  8. ニュートン2003年9月号、pp.36-37、共和制期、ローマの街は七つの丘一帯に広がっていた
  9. ニュートン2003年9月号、pp.38-39、ローマから四方八方にのびる街道づくりにとりかかる
  10. ニュートン2003年9月号、pp.40-41、山間部のきれいなわき水がローマの街を潤した
  11. ニュートン2003年9月号、pp.42-43、地中海世界の政治的中心地となったフォロ・ロマーノ
  12. ニュートン2003年9月号、pp.44-45、ローマ炎上!街の3分の1が灰と化す大惨事にみまわれた
  13. ニュートン2003年9月号、pp.46-47、5万人が入れるコロッセオや巨大な神殿パンテオンが登場
  14. 14.0 14.1 ニュートン2003年9月号、pp.48-49、大帝国の本拠地ローマの街は、かくして完成した
  15. Xinhua-Dow Jones International Financial Centers Development Index(2013) 2013年9月15日閲覧。
  16. テンプレート:Citation
  17. History 1980-2011: three decades of Compeed Golden Gala Diamond League-Rome.com. 2011年7月31日閲覧
  18. 前掲 テンプレート:Harv