中央アジア

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中央アジアのいくつかの定義。狭い順に
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中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが[1]、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタン東トルキスタンの東西に分割している。

西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタンキルギスタジキスタントルクメニスタンウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)

東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。

広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップジュンガル盆地チベットモンゴル高原アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む[2]UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタンイラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。 テンプレート:See also

定義

中央アジアの概念はドイツアレクサンダー・フォン・フンボルト1843年に提唱した。その他、古生物学などでは、モンゴルを中央アジア、中央アジア5か国を中部アジアと言って区別することがある。

旧ソ連における定義

ソ連は、現代の中央アジア5か国からカザフスタンを除いた地域に当たる、キルギスССРタジクССРトルクメンССРウズベクССРの4共和国Средняя Азияと定めていた。一方、より広い範囲(歴史的ロシアに含まれない範囲)を示すЦентральная Азияという語もあった。これらは共に中央アジア (Central Asia) と訳された。

ソ連崩壊後、中央アジア5か国はカザフスタンが中央アジアに含まれると宣言した。これが現在最もよく使われる中央アジアの定義である。

旧ソ連の文献では「スレドニャヤ・アジア(ミドルアジア)」と「ツェントラリナヤ・アジア(中央アジア)」とが使い分けらてもいた[3]。「ソ連領中央アジア(ソビエツカヤ・スレドニャヤ・アジア)」という言い方もあった。

UNESCOにおける定義

UNESCOは、より広い範囲を中央アジアと定めている。それには中央アジア5か国の他、中国新疆ウイグル自治区モンゴル地域(モンゴル国内蒙古自治区など)、チベット地域(チベット自治区青海省など)、アフガニスタンイラン北東部、パキスタン北部、インドジャム・カシミールロシアシベリア南部が含まれる。なお、この範囲が定められたのはソ連崩壊前である。

東洋史研究における定義など

日本をはじめとする東洋史研究においては従来、中央アジアという概念は、次の三つの観点から用いられてきた[4]

  1. シルクロードなどの東西交渉史、
  2. 中国による西域統治史
  3. トルコ民族史

このような「東西」軸の見方に対して、歴史家間野英二は中央アジア住民が意識していたのはむしろ、北方遊牧民との関係であり、南北軸の見方を提唱しながら、東のゴビ砂漠、西のカスピ海、南のコペト・ダウヒンドゥークシュ山脈コンロン山脈、北のアルタイ山脈カザーフ草原に囲まれた地域を、中央アジアとした[5]

西トルキスタン

西トルキスタンには、以下の国がある。いずれの国名も「イスタン」 (istan) で終わっているが、これは「国」を表す語であり、それぞれ特定の民族の国、を意味している。

西トルキスタンに含まれる地域

東トルキスタン

東トルキスタンに含まれる地域

歴史

中央アジアの歴史は、「中央アジア」をどう見るかによって様相を異なるが、一般に、ユーラシア大陸内陸部を拠点とする遊牧民族、およびオアシス国家[6]の歴史を指す。 テンプレート:Main 歴史上、中央アジアの遊牧民は、北アジアモンゴル高原から中央アジア・イラン高原アゼルバイジャンカフカスキプチャク草原アナトリアを経て東ヨーロッパバルカンまでを活動領域としてきた。匈奴サカスキタイの時代から、パルティア鮮卑突厥ウイグルセルジュークモンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、遊牧生活によって涵養されたの育成技術と騎射の技術と卓越した移動力と騎兵戦術に裏打ちされた軍事力と交易で歴史を動かしてきた。遊牧民を介してユーラシア大陸の東西はシルクロードなどを用いて交流し、中国火薬などの技術がモンゴル帝国を通じてヨーロッパに伝わってもいる。以下、東西の文献資料の記録から概説する。

古代

古代ギリシアローマの記録によると[7]紀元前6世紀の中央アジアにはダアイマッサゲタイサカイといった遊牧民族や、ソグディア人バクトリア人といった定住民族がおり、時の世界帝国であるアケメネス朝ペルシアに従属したり、敵対したりしていたという。なかでもマッサゲタイはトミュリス女王のもと、キュロス2世(在位:紀元前550年 - 紀元前529年)の侵攻に耐え、ペルシア軍を撃退し、キュロス2世を戦死させるほど強盛を誇った。

紀元前4世紀マケドニアアレクサンドロス3世はアケメネス朝を倒して東方へ進出、中央アジアにおいてサカイ、マッサゲタイを撃退し、ソグディア人,バクトリア人をその支配下に置いた。彼の死後、その広大な領土はギリシア系の後継王朝が支配することとなるが、特にグレコ・バクトリア王国にいたっては、東方におけるギリシア文化の発展と、北方遊牧民族から南アジア、西アジア文明を守る防壁の役割を果たした。紀元前2世紀、このギリシア国家はアシオイパシアノイトカロイサカラウロイといった北方の騎馬民族によって滅ぼされ、西方史料の情報もいったん途絶える。

西方史料に代わって中央アジアの歴史を伝えてくれるのが中国の歴史書である。中国の史料では、この「北方騎馬民族によるギリシア国家滅亡」によく似た事件を伝えている。紀元前2世紀に中国の甘粛省にいたとされる遊牧民族「月氏」が、モンゴル高原の遊牧民族「匈奴」によって撃退され、はるか西方の中央アジアに移動し、もともとそこにいた大夏国を征服して「大月氏」と称した。途中、月氏はセミレチエ地方において「」という民族を撃退したとあり、これを西方史料のいう「サカイ」に比定したり、「大夏」を「トカロイ」もしくはグレコ・バクトリア王国に比定したりする研究があったが、いずれにしても「中央アジアに北から遊牧騎馬民族が侵入してきた」という同事件を指している。

一方、中国史料は大月氏のほかに、カザフ草原の遊牧民族「奄蔡」や「康居」、フェルガナ盆地の「大宛」、天山地域の「烏孫」、タリム盆地のオアシス諸国「亀茲」,「焉耆」,「楼蘭」,「車師」,「于闐」,「疏勒」,「莎車」といった国々を記している。

東トルキスタンには、古くはインド・ヨーロッパ語族の言葉を話す人(いわゆるアーリア人)が居住していた。タリム盆地には疏勒,亀茲,焉耆,車師,楼蘭,于闐,疏勒,莎車などの都市国家交易により栄えたが、しばしば遊牧国家の匈奴や中国のの支配下に入り、その朝貢国となった。天山・セミレチエ地方の烏孫はもともと匈奴の従属国であったが、半ば独立して漢帝国と友好関係を結んだ。

1世紀、大月氏はクシャーナ朝に取って代わり、タリム盆地や北インドに進出し、大帝国を築いた。また、カニシュカ1世の時代に仏教を取り入れ、ガンダーラ美術を発展させた。クシャーナ朝は自身の記録を残しており、ギリシア文字バクトリア語で書かれた『スルフ・コタル碑文』や『ラバータク碑文』は有名である。クシャーナ朝は3世紀サーサーン朝の圧力を受けて衰退し、5世紀になって北東の遊牧民族エフタルに滅ぼされた。

中世

4世紀頃に北匈奴の残党ともいわれる遊牧民族のフン族の進出によってゲルマン民族の大移動が引き起こされる。その後も、遊牧民族の柔然突厥回鶻契丹が強大な軍事力でモンゴル高原からキプチャク草原に至るスッテプ地域を席巻した。

柔然

5世紀、モンゴル高原で強大化した柔然はタリム盆地のオアシス諸国を支配下に入れ、紀元前2世紀以来続いた烏孫の国家を滅ぼし、中央アジアでエフタルと隣接した。エフタルは東南ではインドのグプタ朝と戦い、西ではサーサーン朝と戦ってペーローズ1世(在位:459年 - 484年)を戦死させ、北では高車と戦って高車王の阿伏至羅の弟である窮奇を殺し、その子の弥俄突らを捕えるなど、周辺の国々と絶えず戦争を行った。

突厥

6世紀中頃の555年中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった突厥に滅ぼされる。柔然を滅ぼした突厥は西方攻略を進め、室点蜜(イステミ)を中央アジアに派遣し、サーサーン朝のホスロー1世(在位:531年 - 579年)と協同でエフタルに攻撃を仕掛け、徹底的な打撃を与えた。これによってエフタルはシャシュ(石国),フェルガナ(破洛那国),サマルカンド(康国),キシュ(史国)を突厥に奪われ、567年頃までに残りのブハラ(安国),ウラチューブ(曹国),マイマルグ(米国),クーシャーニイク(何国),カリズム(火尋国),ベティク(戊地国)も占領され、滅亡させられた。以後、中央アジアは突厥の支配下に入り、741年までその支配が続く。これにより中央アジアのテュルク化が進み、「トルキスタン」の基礎が形成される。

突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアを支配した[8]582年に東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡する。

ウイグル可汗国

タリム盆地の北に位置しモンゴル高原の南西にあるジュンガル盆地には、古来より遊牧民族が暮らしており、主にモンゴル高原を支配する遊牧国家(匈奴、突厥など)の勢力圏となっていたが、鉄勒の中からウイグル(回鶻)が台頭し、8世紀には突厥を滅ぼした。鉄勒は突厥以外のテュルク系民族を指す概念で、九姓(トクズ・オグズ)とも呼ばれていた。鉄勒は中央ユーラシア各地に分布し、中国史書では「最多の民族」とある。鉄勒は突厥に叛服を繰り返していたが、鉄勒の一部族の回紇(ウイグル)が台頭し、葛邏禄(カルルク)、拔悉蜜(バシュミル)といったテュルク系民族とともに東突厥第二可汗国を滅ぼした。この時期のウイグルは、タリム盆地、ジュンガル盆地、モンゴル高原など広大な領域を勢力圏とし、多くの部族を従えたため、ウイグル可汗国と呼ばれている。ウイグルの影響力は絶大であり、安史の乱等ではしばしばを助け、婚姻関係を結ぶなど関係を深めたが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。

モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の唐王朝と友好関係を築きシルクロード交易で繁栄したが、内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、840年に崩壊した。モンゴル高原より逃亡したウイグル人は甘州ウイグル王国天山山脈北麓ユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、天山ウイグル王国を建てた。天山ウイグル王国は東トルキスタン(タリム盆地、トルファン盆地、ジュンガル盆地)の東半分を占領し、マニ教仏教,景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰した。これらは東トルキスタンにおける定住型テュルク人(現代ウイグル人)の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。同時期に別のテュルク系民族がタリム盆地にカラ・ハン朝を興した。この結果、東トルキスタンの住民は、次第にテュルク化に向かい、カラ・ハン朝がイスラム教に改宗すると、イスラム化が進んだ。

カスピ海以西では、9世紀に遊牧民族のマジャルアールパード王に率いられハンガリー平原に移住したが、レヒフェルトの戦いにおいてオットー1世に敗れると、キリスト教化政策を進め、ハンガリー平原に統一国家を建設する。ほか、アヴァールブルガールハザールペチェネグが割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。11世紀になるとキメクの構成部族であったキプチャク(クマン人、ポロヴェツ)が南ルーシのキプチャク草原に侵入し、モンゴルの侵入まで勢力を保つ。

カラハン朝とテュルク・イスラーム

中央アジアではカルルク,テンプレート:仮リンク(テュルギシュ),キメクオグズといった諸族が割拠していたが、10世紀サーマーン朝の影響を受けてイスラーム化が進み、テュルク系民族初となるカラハン朝が誕生する。彼らはやがてトゥルクマーン(イスラームに改宗したオグズ)と呼ばれ、中央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったが、セルジューク家のトゥグリル・ベグによって統率されるようになると、1040年ガズナ朝を潰滅させ、ホラーサーンの支配権を握る。1055年、トゥグリル・ベクはバグダードに入城し、アッバース朝カリフから正式にスルターンの称号を授与されるとスンナ派の擁護者としての地位を確立する。このセルジューク朝が中央アジアから西アジアアナトリア半島にいたる広大な領土を支配したために、テュルク系ムスリムがこれらの地域に広く分布することとなった。また、イスラーム世界において奴隷としてのテュルク(マムルーク)は重要な存在であり、イスラーム勢力が聖戦(ジハード)によって得たテュルク人捕虜は戦闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝(ホラズム・シャー朝、ガズナ朝、マムルーク朝奴隷王朝など)が各地に建てられることもあった。こうした中でテュルク・イスラーム文化というものが開花し、数々のイスラーム書籍がテュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界におけるテュルク語の位置はアラビア語ペルシア語に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった。

東トルキスタンの西半分はイスラームを受容したカラハン朝の領土となったため、カシュガルを中心にホータンクチャもイスラーム圏となる。これら2国によって東トルキスタンは急速にテュルク化が進み、古代から印欧系の言語トカラ語ガンダーラ語)であったオアシス住民も11世紀後半にはテュルク民族と化した。

契丹と西遼

カラ・ハン朝は後に東西に分裂し、東カラ・ハン朝はに敗れて西遷してきたの皇族耶律大石率いる契丹族によって12世紀に滅ぼされた。彼ら契丹族がトルキスタンに建てた王朝はカラ・キタイ又は西遼などと呼ばれている。カラ・キタイはさらなる勢力拡大を目指し、西トルキスタンに割拠していた西カラ・ハン朝を攻撃して服属させるとともに、その援軍として現れたセルジューク朝の軍に大勝して中央アジアでの覇権を確立した。結果、天山ウイグル王国やホラズム・シャー朝を影響下に置くこととなった。

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13世紀前半の世界。

中央アジアの草原地帯にはカルルク,テュルギシュ,キメク,オグズといった西突厥系の諸族が割拠しており、オアシス地帯ではイラン系の定住民がすでにイスラーム教を信仰していた。他言語話者がテュルク語に変更するにはテュルク語でイスラーム教を布教するのが最も効果的なのであるが、西トルキスタンでは定住民がすでにムスリムであったり、遊牧民と定住民の住み分けがなされていたり人口が多かったために東トルキスタンほど急速にテュルク化が起きなかった。西トルキスタンの場合は、ホラズム・シャー朝カラキタイティムール朝シャイバーニー朝といった王朝のもとでゆっくりとテュルク化が進んでいった。

モンゴル帝国

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チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大。

13世紀頃、モンゴル帝国はモンゴル高原・中国・中央アジア・イラン・イラク・アナトリア・東ヨーロッパを支配するなど、強大な軍事力でユーラシア大陸を席巻した。モンゴル高原に割拠した遊牧民の部族は「モンゴル」・「メルキト」・「ナイマン」・「ケレイト」・「タイチウト」など。は遊牧民の帝国であるモンゴル帝国の一部である。

古代からモンゴル高原には絶えず統一遊牧国家が存在してきたが、840年のウイグル可汗国(回鶻)の崩壊後は360年の長期にわたって統一政権が存在しない空白の時代が続いた。これはゴビの南(漠南)を支配した契丹)や女真)といった王朝が、巧みに干渉して漠北に強力な遊牧政権が出現しないよう、政治工作をしていたためであった。当時、モンゴル高原にはケレイトナイマンメルキトモンゴルタタルオングトコンギラトといったテュルク・モンゴル系の諸部族が割拠していたが、13世紀初頭にモンゴル出身のテムジンがその諸部族を統一して新たな政治集団を結成し、チンギス・カン(在位:1206年 - 1227年)として大モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した。チンギス・カンはさらに周辺の諸民族・国家に侵攻し、北のバルグトオイラトキルギス、西のタングート西夏),天山ウイグル王国,カルルク,カラキタイ(西遼),ホラズム・シャー朝をその支配下に置き、短期間のうちに大帝国を築き上げた。チンギス・カンの後を継いだオゴデイ・カアン(在位:1229年 - 1241年)も南の金朝を滅ぼして北中国を占領し、征西軍を派遣してカスピ海以西のキプチャク,ヴォルガ・ブルガール,ルーシ諸公国を支配下に置いてヨーロッパ諸国にも侵攻した。ユーラシア大陸を覆い尽くすほどの大帝国となったモンゴルであったが、第4代モンケ・カアン(在位:1251年 - 1259年)の死後に後継争いが起きたため、帝国は4つの国に分裂してしまう。

モンゴル帝国時代にテュルクのモンゴル語化はあまり起きなかった。むしろイスラーム圏に領地を持ったチャガタイ・ウルス(チャガタイ汗国)、フレグ・ウルス(イル汗国)、ジョチ・ウルス(キプチャク汗国)ではイスラームに改宗するとともにテュルク語を話すモンゴル人が現れた。こうしてモンゴル諸王朝のテュルク・イスラーム化が進んだために、モンゴル諸王朝の解体後はテュルク系の国家が次々と建設される。

天山ウイグル王国は、カラ・キタイがホラズム・シャー朝の勃興により相対的に弱体化していたため、いち早くモンゴルに服属し、その駙馬王家としてモンゴルの王族に準ずる待遇を得た。オアシス定住民の統治に長けていた天山ウイグル王国はその後もモンゴル帝国の庇護を受け、14世紀後半にいたるまでその王権が保たれた。ウイグル人は高度な知識を持ち、モンゴル帝国の官僚として活躍し、またウイグル文字モンゴル文字の基礎になった。モンゴルの内紛が起きると天山ウイグル政権はトルファン地域を放棄したが、その精神を受け継いだウイグル定住民たちは現在もウイグル人として生き続けている。

モンゴル帝国支配下の東トルキスタンを大きく分けると、天山ウイグル王国の領域のほか、チンギス・ハンの第三子オゴデイ系の領地(オゴデイ・ハン国)と第二子チャガタイ系の領地(チャガタイ・ハン国)に別れていた。カラハン朝以来イスラーム圏となっていたタリム盆地西部以西にはモンゴル時代にチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)が形成され、天山ウイグル領で仏教圏であった東部もその版図となり、イスラーム圏となる。やがてチャガタイ・ハン国はパミールを境に東西に分裂するが、この要因の一つにモンゴル人のテュルク化が挙げられる。マーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)を中心とする西側のモンゴル人はイスラームを受容してテュルク語を話し、オアシス定住民の生活に溶け込んでいった。彼ら自身は「チャガタイ」と称したが、モンゴルの伝統を重んじる東側のモンゴル人は彼らを「カラウナス(混血児)」と蔑み、自身を「モグール」と称した。そのためしばらく東トルキスタンは「モグーリスタン」と呼ばれることとなる。

やがてモンゴル帝国は王族間対立などによって徐々に解体へと向かうこととなるが、オゴデイの孫カイドゥは、モンゴル帝国の宗主たるクビライに公然と反旗を翻し、帝国の解体に大きな影響を与えた。その後、東トルキスタンは長らくモンゴル系領主の支配を受けた。

ティムール朝

14世紀後半の1370年にティムール朝が興り、トゥーラーン・マーワラーアンナフル・ホラーサーン・ヒンドゥースタン・イラン・イラクを支配した。なお、それに先駆けて1299年にはオスマン帝国が興り、東欧・黒海沿岸・シリア・エジプト・イラクなどを支配している。

東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン)から台頭したティムールは西トルキスタンとイラン方面(旧フレグ・ウルス)を占領し、モグーリスタンとジョチ・ウルスをその影響下に入れて大帝国を築き上げた。彼自身がテュルク系ムスリムであったため、また西トルキスタンにテュルク人が多かったため、ティムール朝の武官たちはテュルク系で占められていた。しかし、文官はイラン系のターズィーク人が担っていたため、ティムール朝の公用語はイラン系のペルシア語と、テュルク系のチャガタイ語が使われた。

近世

ウズベク・カザフ

キプチャク草原を根拠地としたジョチ・ウルスはイスラームを受容し、多くのテュルク系民族を抱えていたためにテュルク化も進展した。15世紀になると、カザン・ハン国アストラハン・ハン国クリミア・ハン国シャイバーニー朝カザフ・ハン国シビル・ハン国といったテュルク系の王朝が次々と独立したため、ジョチ・ウルスの政治的統一は完全に失われた。

現在のウズベク人とカザフ人の祖先はジョチ・ウルス東部から独立したシバン家のアブール=ハイル・ハーン(在位:1426年 - 1468年)に率いられた集団であった。彼らはウズベクと呼ばれ、キプチャク草原東部の統一後、シル川中流域に根拠地を遷したが、ジャーニー・ベク・ハーンケレイ・ハーンがアブール=ハイル・ハーンに背いてモグーリスタン辺境へ移住したため、ウズベクは2つに分離し、前者をウズベク、後者をウズベク・カザフもしくはカザフと呼んで区別するようになった。アブール=ハイル・ハーンの没後、ウズベク集団は分裂し、その多くは先に分離していたカザフ集団に合流した。勢力を増したカザフはキプチャク草原の遊牧民をも吸収し、強力な遊牧国家であるカザフ・ハン国を形成した。やがてウズベクの集団もムハンマド・シャイバーニー・ハーンのもとで再統合し、マーワラーアンナフル,フェルガナ,ホラズム,ホラーサーンといった各地域を占領してシャーバーニー朝と呼ばれる王朝を築いた。

1599年にシャイバーニー朝が滅亡した後、マーワラーアンナフルの政権はジャーン朝(アストラハン朝)に移行した。ジャーン朝は1756年マンギト朝によって滅ぼされるが、シャイバーニー朝からマンギト朝に至るまでの首都がブハラに置かれたため、この3王朝をあわせてブハラ・ハン国と呼ぶ。また、ホラズム地方のウルゲンチを拠点とした政権(これもシャイバーニー朝)は17世紀末にヒヴァに遷都したため、次のイナク朝1804年 - 1920年)とともにヒヴァ・ハン国と呼ばれる。そして、18世紀にウズベクのミング部族によってフェルガナ地方に建てられた政権はコーカンドを首都としたため、コーカンド・ハン国と呼ばれる。これらウズベク人によって西トルキスタンに建てられた三つの国家を3ハーン国と称する。

ロシアの征服

13世紀に始まるモンゴル人のルーシ征服はロシア側から「タタールのくびき (татарское иго)」と呼ばれ、ロシア人にとっては屈辱的な時代であった。しかし、モスクワ大公のイヴァン4世(在位:1533年 - 1584年)によってカザン・ハン国、アストラハン・ハン国といったジョチ・ウルス系の国家が滅ぼされると、ロシアの中央ユーラシア征服が始まる。このときロシアに降ったテュルク系ムスリムはロシア側から「タタール人」と呼ばれていたが、異教徒である彼らはロシアの抑圧と同化政策に苦しめられ、カザフ草原やトルキスタンに移住する者が現れた。

16世紀末になってロシア帝国シベリアのシビル・ハン国を滅ぼし、カザフ草原より北の森林地帯を開拓していった。同じ頃、カザフ草原のカザフ・ハン国は大ジュズ,中ジュズ,小ジュズと呼ばれる三つの部族連合体に分かれていたが、常に東のモンゴル系遊牧集団ジュンガルの脅威にさらされていた。1730年、その脅威を脱するべく小ジュズのアブル=ハイル・ハンがロシア帝国に服属を表明し、中ジュズ,大ジュズもこれにならって服属を表明した。

ジュンガル、清の進出

16世紀にウイグル人国家であるヤルカンド・ハン国が成立したが、この支配者もチャガタイ系でモンゴル系であった。ヤルカンド・ハン国は、17世紀に北方からやってきたオイラト族のジュンガルに滅ぼされた。さらに、18世紀なかばにはジュンガルがにより征服され、その支配下に入った。清朝の支配では、イリ将軍統治下の回部として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味する「回疆」、もしくは「新しい土地」を意味する「新疆」と呼ばれた。

近代

19世紀の半ば、バルカン半島から中央アジアに及ぶ広大な地域を舞台に、大英帝国とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されていた。ロシア帝国はイギリスよりも先にトルキスタンを手に入れるべく、1867年にコーカンド・ハン国を滅ぼし、1868年にブハラ・ハン国を、1873年にヒヴァ・ハン国を保護下に置き、1881年に遊牧集団トルクメンを虐殺して西トルキスタンを支配下に入れた。東トルキスタンはかつてウイグリスタン、モグーリスターンとよばれ、西トルキスタンはマーワラーアンナフルと呼ばれていたが、これらの地域を「トルキスタン」と一括する慣習は19世紀以降のロシアによる。

19世紀の後期、西トルキスタンのフェルガナ盆地を支配していたコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクの手によっていったん東トルキスタンの大半が清から離脱する。しかし、間もなく清は欽差大臣左宗棠を派遣して再征服に成功した。この時期になると列強が積極的に東アジアに進出してきており、清はヤクブ・ベクの乱をきっかけにロシア帝国との国境地帯にあたる東トルキスタンの支配を重視し、1884年に清朝内地並の行政制度がしかれることとなった(新疆省)。

また、ロシア領内のテュルク人の間では、19世紀末からムスリムの民族的覚醒を促す運動が起こり、オスマン帝国を含めてテュルク人の幅広い連帯を目指す汎テュルク主義(汎トルコ主義)が生まれた。しかし、ロシア革命が成功すると、旧ロシア帝国領内に住むテュルク系諸民族は個々の共和国や民族自治区に細分化されるに至った。一方、トルコ革命が旧オスマン帝国であるアナトリアに住むトルコ人だけのための国民国家であるトルコ共和国を誕生させた結果、汎テュルク主義は否定される形となった。

20-21世紀

帝政ロシアの支配下にあった西トルキスタンは、帝国ロシア革命で倒された後は社会主義共和国が作られ、ソ連の傘下に組み込まれた。その際、各共和国の国境線は人為的に引かれたため、民族分布とは必ずしも合っていない。1991年ソビエト連邦崩壊後、旧ソ連から5つのテュルク系民族の共和国が悲願の独立を果たす。これら諸共和国やタタール人などのロシア領内のテュルク系諸民族と、トルコ共和国のトルコ人たちとの間で、汎テュルク主義の再台頭ともみなしうる新たな協力関係が構築されつつある一方、独立以降も経済的・軍事的には未だにロシアの影響は強い。また中央アジア連合創設への提案も行われている。

東トルキスタン乾隆帝に征服されて以来、清朝→中華民国中華人民共和国と異民族による支配が続いている。辛亥革命によって清が滅亡した際、東トルキスタンはイリ地方の軍事政権、東部の新疆省勢力圏などに分かれたが、やがて漢人勢力の新疆省がイリ地方を取り込んだ。この結果、藩部のうち、民族政権が維持されていたチベットモンゴルは手をたずさえて「中国とは別個の国家」であることを宣言(チベット・モンゴル相互承認条約)したのに対し、漢人科挙官僚によって直接支配が維持された東トルキスタンは、中華民国への合流を表明することとなった。ただし、中華民国中央が軍閥による内戦状態にあったため、新疆省は以後数十年に渡り事実上の独立国のような状態であった。

1933年および1944年から 1946年にかけてソ連の後援でウイグル人主体の独立政権である東トルキスタン共和国の建国が試みられたが、1949年中国共産党による中華人民共和国成立およびウイグル侵攻によって併合され、その支配下に入った。その後大量の漢民族が国策的に移民してきており、駐留する人民解放軍とあわせるとウイグル人よりも多くなると言われている[9]1955年には新疆ウイグル自治区が設置された。しかし、自治区とはいえ実際の政治・政策は北京の中国共産党政府主導のもとで行われている。1950年代から1960年代にかけてはカザフの新疆脱出が発生した。独立運動各派は弾圧され、中国政府は「政治犯」として50万人もの東トルキスタン人を処刑したといわれる。なお、独立運動の一派は2004年9月東トルキスタン亡命政府をアメリカで樹立している。

ソ連崩壊後

1991年12月、ソ連が崩壊した。中央アジア諸国は、資本主義経済へ移行していった。そのためには経済システムの刷新が不可避であった。

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. ブリタニカ国際大百科事典、TBSブリタニカ。1995年。
  2. 世界大百科事典、平凡社、間野英二執筆記事「中央アジア」
  3. 世界大百科事典、平凡社、間野英二執筆記事「中央アジア」
  4. 間野英二「中央アジアの歴史」講談社
  5. 間野英二「中央アジアの歴史」講談社,1977年、11頁
  6. 間野英二「中央アジアの歴史」講談社
  7. ヘロドトス歴史』、ストラボン『地理誌』
  8. そのため東ローマ帝国の史料、テオフィラクト・シモカッタ(Theophylact Simocatta)『歴史』にも「テュルク」として記され、その存在が東西の歴史に記される。なお突厥は自らの言語(テュルク語)を自らの文字(突厥文字)で記している。突厥碑文
  9. 新疆における歴史とその研究状況|新疆研究情報|新疆研究サイト