自虐史観

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自虐史観(じぎゃくしかん)とは、太平洋戦争後の日本の歴史学界において主流であった歴史観を批判・否定的に評価する側が用いる蔑称である。彼らの主張は、戦後の歴史観を自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価し、日本を貶める歴史観であるとみなしている。

ほぼ同種の造語として、日本悪玉史観東京裁判史観がある。「自虐史観」への批判者たちが連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による戦後統治と極東国際軍事裁判(東京裁判)を通じて「日本は悪である」との考え方を「押し付けられた」とみなしているためである。

藤岡ら自由主義史観論者の主張では)対義語は自由主義史観であるとされる。

概要

自虐史観とは

戦後の歴史観を「自虐史観」と呼ぶ層の主張は概ね以下のとおりである。

太平洋戦争での敗戦により、GHQによる統治が行われる中で、歴史学界や教育界の一部(学校教育の現場、日本教職員組合に入っている教師ほか)などでは、占領政策を支え、GHQに迎合するかたちで、なぜ敗戦に至ったのかという視点から過去への反省がなされることとなり、その過程で戦前の日本国民が共有していたすべての価値観は根底から覆され、否定される事になった。アメリカとの比較で日本の近代化の遅れや、民主主義の未成熟などが問題とされることが多かった。また、戦前には皇国史観が歴史研究に影響を及ぼしたことを踏まえ、マルクス主義の影響を強く受けた歴史研究(唯物史観)が主流となった。また、GHQによる「真相はこうだ」などの歴史検証番組の放送や、墨塗り教科書、戦前の思想的基礎となった図書の焚書などもそれに拍車をかけた。

一方、秦郁彦は「自虐史観」も「東京裁判批判」も語義は曖昧だと指摘する[1]

沿革

秦によると1970年代に入った頃に、まず「東京裁判史観」という造語が語義がやや不分明のままに論壇で流通し始めたという[1]

冷戦終結で日本の最大の同盟国・アメリカ合衆国が唯一の超大国となったことから、その庇護を受ける日本でも日中戦争太平洋戦争は侵略戦争ではなかったとして伝統文化などにおいて歴史を再評価する傾向が表れ、自由主義史観を唱えた教育学者藤岡信勝らによる「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動が活発となった。「つくる会」は、主として近代史において、これまで主流であった歴史認識を「自虐史観」であるとして批判する。そして戦後の歴史教育は日本の歴史の負の面ばかりを強調し過ぎ、あまりにも偏った歴史観を自国民に植え付ける結果となったと批判している。その教育を受けた結果、「自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」、「日本は反省と謝罪を」という意識を植え付けられ、いわゆる戦後民主主義教育によって連合国の思うがままの誤った歴史観、つまり自虐史観が蔓延したとして、「つくる会」の言うところの「暗黒史観」や「土下座教育」の改善を主張している。

2014年1月には自由民主党が運動方針案に「自虐史観に陥ることなく日本の歴史と伝統文化に誇りを持てるよう、教科書の編集・検定・採択で必要措置を講ずる」と明記した[2]

論争

テンプレート:Main 戦後の歴史観を「自虐史観」と呼ぶ層は“日本の歴史学戦後民主主義教育によって著しく歪められた”とする。一方でこのような主張は「歴史修正主義」であるとして批判する層も存在する。

「自由主義史観」の提唱者は軍国主義や皇国史観へ回帰し民主主義を否定するわけではなく、“歴史は一面的に捉えることはできない。正と負の歴史の真実を見つめなおそう”という立場をとっているとしている。一方、批判者は、「自由主義史観」運動の提唱者や支持者に右翼勢力が含まれており、また彼らが唱える歴史認識には日本史の「負」の側面がほとんど描かれていないと主張して、「自由主義史観」運動は戦前への回帰運動であり、軍国主義・皇国史観の復権であると批判している。前者が歴史を物語ととらえ、後者が歴史学を科学ととらえていることも対立の一因となっているテンプレート:要出典

注釈

  1. 1.0 1.1 テンプレート:Cite book
  2. 自民14年運動方針案 安倍カラー 保守鮮明 東京新聞2014年1月9日

関連項目