石田三成

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石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代武将大名豊臣氏の家臣。豊臣政権五奉行の一人。
関ヶ原の戦いにおける西軍側の主導者として知られている。

生涯

秀吉の子飼い

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石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)

永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城(長浜市)主となった天正2年(1574年)頃から、父・兄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍した。

天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげたと『一柳家記』にある。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。

豊臣政権下

天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。同年末に秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年(1590年)に増田長盛、文禄4年(1595年)に長束正家と引き継がれており、テンプレート:誰範囲

天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる[1](異説あり[2])。秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後国上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきた時、これを斡旋した。

また、秀吉から奉行に任じられる。三成は堺を完全に従属させ、兵站基地として整備する。秀吉は翌天正15年(1587年)の九州征伐に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせるが、その勝因の1つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があったことである[3]。こうした秀吉の軍事機能を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であった。

九州平定後、命じられて博多奉行となり博多復興に従事した。また、天正16年(1588年)、取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。

天正17年(1589年)、美濃国検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構石田堤として周囲に現存している。関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。なお三成は取次として、常陸国佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。

文禄元年(1592年)の文禄の役では渡海し、増田長盛や大谷吉継とともに漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦い幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使謝用梓徐一貫を伴って肥前名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則ら武断派の反発を招いた。

文禄3年(1594年)、島津氏佐竹氏の領国を奉行として検地する。

文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件、最終的には秀次は秀吉に切腹を命じられた)。秀次の死後、その旧領のうち、近江7万石が三成の代官地になる(当初は同じく旧領であった尾張清須21万石が与えられる予定であったが、こちらは福島正則に与えられた)。また、同年に近江佐和山19万4000石の所領を秀吉から与えられた。

文禄4年(1595年)3月、蒲生氏郷が死亡したが、一部資料にはこれを三成の毒殺とするものがある。動機は上杉景勝に会津を与えるためというが、テンプレート:要出典範囲

慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒達が処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。

慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国筑前国を石田三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられた。慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた[4]。 しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。

秀吉死後

秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだ。しかし、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。三成は秀吉の死の直後、慶長3年(1598年)8月19日に家康を暗殺しようとしている。家康は覇権奪取のため、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。

しかし、閏3月3日に家康に匹敵する勢力を持っていた大老・前田利家が病死する。その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明7将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件がおきる。しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した。

なおこの事件時、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた(家康は豊臣家を内部分裂させるため、あえて三成を匿った)」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない。

利家の死去・三成の蟄居により、家康の専横は再び活発になり、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉の遺命で禁止されていた所領配分なども行っている。

関ヶ原

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笹尾山の石田三成陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

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慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉家の家老・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図る。その後、上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、家康に従って関東へ行こうとした大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして初めは反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。

7月12日、兄・正澄を奉行として近江国愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名、鍋島勝茂前田茂勝らの東下を阻止し、強引に自陣営(西軍)に与させた。7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止された。

7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以増田長盛長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守る伏見城を攻めた(伏見城の戦い)。しかし伏見城は堅固で鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しない。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、伏見城は陥落した。8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。

8月からは伊勢方面の平定に務めたが家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、当初の予定は狂い、また思いがけず小早川秀秋松尾山に陣取ったため、14日夕刻、三成は当初の大垣城に依り美濃で食い止める方策を捨て、関ヶ原で野戦を挑むこととなる。そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが、細川忠興黒田長政加藤嘉明田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられたが、高所という地の利と島左近蒲生頼郷舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。

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大徳寺三玄院前の石田三成墓所石碑
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高野山奥の院の石田三成墓所

その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。

一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。 9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌京都所司代)の監視下に置かれた。

10月1日、家康の命により六条河原斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。

辞世の句

  • 筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

人物

  • 三成は五奉行の中でも随一の実力者であり、毛利・上杉・島津などの大大名も秀吉への取り成しは常に三成を通じて行っていた。このため三成は次第に傲慢になっていったという[5]
  • 太閤検地においては検地尺を定めるなど、大きな実績を残した。豊臣家奉行の筆頭格であり、優れた行政能力を持った官僚であったという評価は定着している。『翁草』は世の人々が三成を「無双の才覚」と讃えていたと伝えている。
  • 三成が豊臣政権で絶大な権力を握っていたことを現す発言が残っている。
    • 「かの仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」(毛利輝元)(家臣の児玉某に脇差を譲るよう命じた手紙の一節)
    • 「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」(島津義弘)(三成が奉行として行う検地への協力のために、義弘が兄の義久へその協力が島津家のために必要であることを説得した手紙の一節)
    • 「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」(木食応其)(木食は三成と極めて親しい仲で、三成のために大津城の開城交渉にあたった人物である。これは、木食が三成への加担を徳川方から責められた時の発言であるので、自己弁護の可能性が高い。木食はその後も三成の三男佐吉を弟子にするなど、三成に好意的な行動をとっている)

家紋

定紋は定かではなく、「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)、または「大吉大一大万」が足軽たちに貸し出していた甲冑の胴や石田三成画像の裃に描かれている。石田氏としては九曜紋や桔梗紋の使用がある。大一大万大吉紋は文字の配置や書体は不明であるが鎌倉時代の武将、石田次郎為久源義仲を射落とした武将)も使用しており、ほかには備後山内首藤氏も使用している。

「大一大万大吉」というのは「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされる一方、近代以前にその意を示した文献はなく、本来は「一」を「かつ」と読み、縁起の良い文字を重ねたものともされる。

逸話

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ファイル:Statues of Hideyoshi and Mitsunari.jpg
JR長浜駅前にある三献の茶の場面を表した「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」。
  • 近江国伊吹山の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もあり)に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな知恵配り・心遣いに感じ入った秀吉は彼を家来として採用した。それが後の石田三成である、という逸話がある。これが俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれるエピソードである(武将感状記)。
    • ただし、このエピソードが載っている史料がいずれも江戸時代のもの[6]であること、また三成の息子が記した寿聖院『霊牌日鑑』では三成が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてと記されていること等から、後世の創作であるとする説もある。
  • 大谷吉継とは親友同士だった。秀吉の茶会で、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされた。らい病を患っていた大谷吉継は飲む振りのみで茶碗を回そうとしたが、顔から出たが茶に落ちてしまった。以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲む振りだけで茶碗を回していったが、三成は躊躇わず茶を飲み干した。それ以降二人の間には一層深い友情が生まれたという。
  • 秀吉が伏見城に井戸を掘るように命じた際、担当者は丘陵から水脈まで掘られねばならなかったため苦戦していた。それを聞いた三成は貫差しの銭を井戸の中に放り工事人夫たちに「井戸を掘り抜けばあの銭はお前達のものだ」と叫んだ。その結果人夫たちは全力で掘り井戸は驚くほど早く完成した(『前橋旧蔵聞書』)。
  • 三成の検地での働きから、秀吉が九州に33万石の領地を与えようとしたところ、三成は自分が九州の大名になってしまうと大阪で行政を担当する者がいなくなり国政に支障が出る、という理由で加増を断った。
  • 「奉公人は主君より授かる物を遣いきって残すべからず。残すは盗なり。遣い過ぎて借銭するは愚人なり」という言葉を残している。
    • 関ヶ原の合戦の3日後に居城の佐和山城も落城。佐和山城に乗り込んだ小早川秀秋、脇坂安治らの武将は、19万石の大名であり、秀吉に寵遇された三成の城はさぞかし豪勢で、私財を貯えているだろうと思っていたが、壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には風情のある植木もなく手水鉢は粗末な石、金銀も少しもなく、あまりの質素さに驚いたという(甲子夜話)。
  • 名護屋城建設では下準備と後方支援の三成と建設指揮の加藤清正のコンビネーションで短期間に十数万の人間を収容できる基地を建設している。2人の仲が破綻するのは文禄の役の講和問題が持ち上がった時期と思われる。
  • 前田利家の死後、加藤清正・福島正則らが三成を襲撃するという事件が起こり、家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居することになった。三成が佐和山城への護送役を務めた結城秀康に「無銘正宗」を贈ると、秀康はこれを喜び、「石田正宗」と名付けて終生大切にしたという。この「正宗」は三成が秀吉から拝領したものといわれるが、江戸時代享保期に出版された書物『刀剣名物帳』では、毛利輝元が所持していたものを宇喜多秀家が買い取り、三成に贈ったと記されている。現在は東京国立博物館が所蔵(重要文化財e国宝の画像と解説)。
  • 関ヶ原の戦いで敗走した三成は、自身の領地である近江国(滋賀県)の古橋村に身を潜めた。初めは三珠院を頼ったが、その時、住職の善説より「何を所望か」と問われて、「家康の首が欲しい」と答え、善説を呆れ且つ恐れさせたとされる。その後、与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠した。与次郎はこの時、徳川軍による咎めの責任を一身に引き受けるために妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に咎めが及ばないよう、与次郎を説得して自分の居場所を徳川軍へ告げさせた。徳川軍を代表して三成の捜索に当たっていた田中吉政は、近辺の村々に対し、三成を生け捕りにした場合にはその村の年貢を永久に免除する、生け捕りにせず殺した場合にはその者に賞金百両を与える、逆に三成を匿った場合には当事者のみならずその親族および村人全員に至るまで処刑すると触れを出していたが、最終的には与次郎が三成の説得に従って自首したため、村は虐殺を免れている。つかまったとき三成はの体でボロをまとい、兵糧米を少し持ち、破れ笠にて顔を隠していたが、田中の兵でかつて三成の顔を知っている者がおり看破された[7][8]
    • この時、与次郎が死を覚悟で三成を匿ったのは、かつて古橋村が飢饉に襲われた際、三成が村人たちを救うために米百石を分け与えたことがあり、与次郎はそのことに深く恩義を感じていたためとされる。
    • しかし他説では、三成が村人達に対し、「私がこのように逃れてきたのは、再び家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。天下統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人達はこの言葉に惹かれて三成を匿った。しかし、隣村の出身で与次郎太夫の養子であった者が裏切って徳川軍に密告したため三成は捕らえられたとする。これ以降、古橋村では他村から養子を取らない慣習ができたという。
  • 処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人に、家康が小袖を与えた際、他の二人は受け取ったが、三成は「この小袖は誰からのものか」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「上様といえば秀頼公より他にいないはずだ。いつから家康が上様に成ったのか」と言って受け取らなかった(『常山紀談』・『武功雑記』)。
  • 家康がやはり処刑前の三成に会った際、「このように戦に敗れることは、古今良くあることで少しも恥では無い」といった。家康も「三成はさすがに大将の道を知るものだ。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じた(『常山紀談』)。
  • 三成が処刑直前に喉が乾いたので警護の者に水を所望した際、「水は無いが、がある。代わりにそれを食せ」と言われたのに対し、三成は「柿はの毒であるのでいらない」と答えた。これを聞いた警護の者は「もうすぐに首を切られる者が、今から毒断ちをして何になる」と笑ったが、三成は「大志を持つ者は、最期の瞬間まで命を惜しむものだ」と言い、泰然としていたという(『茗話記』・真田増誉の『明良洪範』)。
  • ある年の10月、毛利輝元から季節外れの桃が秀吉への献上品として届けられた。三成は毛利家の重臣を呼び、「時節外れの桃とはいえ中々見事でござる。しかし時節外れゆえ、公(秀吉)が召し上がって何かあれば一大事でござるし、それでは毛利家の聞こえも悪くなりましょう。ゆえに時節の物を献上なされよ」と突き返したという。心ある人は「もっともな事であり、三成のような才人こそ武人の多い豊臣家で公に最も信任されているのだ」と評したが、大半の人は秀吉の権勢を傘に着て横柄だと評したという(小早川能久の『翁物語』)。
  • 三成は関ヶ原の数日後に捕縛されて大津城で曝されたが、このとき福島正則が「治部。おのれは分際も弁えず無用の乱を起こしおって。恥を知れ」と罵った。すると三成は冷静に「わしになかったのは武運と二心を抱く者を見抜く目だ。それさえあれば、今この場にお主を曝していただろう。お主の所業、あの世で太閤殿下(秀吉)にしかとお伝えする」と言い返したという(『武功雑記』)。
  • 関ヶ原の直前、三成は増田長盛と密談した。三成は「五畿内の浪人を集めて兵力とし、家康に決戦を挑もう」と述べ、長盛は「いや、時節を待とう」と言った。すると三成は苦笑いし、「生前の太閤殿下は貴殿と拙者に100万石を与えると言われたが、我々は分不相応ですと断った。思えばあのとき、100万石を受けていれば今になって兵力の心配などする必要もないのに」と述べて長盛のもとを去ったという(多賀谷英珍の『遺老物語』)。
  • 三成の腹心である島左近は徳川家の重臣である柳生宗矩と親しく、関ヶ原の直前に家康は左近を調略するために宗矩を送り込んだ。左近は笑いながら答えた。「主の悪口になるが、主は決断が遅くそのためにいつも失敗する。わしは主に徳川殿に味方する諸大名にへりくだり、遺恨を無くすよう取り計らい、彼らと交わり親しむべきと申したのだが、主は一時逃れでへりくだるのは嫌だと申して受け入れぬ。とはいえ、わしは主を裏切れぬ。お許しあれ」と述べた。宗矩は最初から左近が裏切るとは思っていなかったから、諦めて帰った。後に宗矩からこの話を聞いた樫原彦右衛門は「光秀久秀は無双の反逆者だが、事を決断する速さに並ぶ者は無かった。だが治部は決断が遅すぎた」と評したという(『常山紀談』)
  • 大谷吉継が三成への与党を決意したとき、三成に対してこう述べた。「お主は才智に長けているが勇が足りない。誰よりも真っ先に命を捨てる覚悟で戦陣に挑んでもらいたい」「お主は横柄で傲慢だと上は大名から下は民百姓までが噂している。お主には失礼だが人望が無い。人の上に立つ者(総大将)は人望が無ければならぬ。お主がでしゃばれば、豊臣家大事を誓う者まで内府(家康)のもとへ走らせる。ゆえに総大将は安芸中納言(毛利輝元)殿、副大将は備前宰相(宇喜多秀家)殿を立て、お主は影に徹しよ」と諫言した(『常山紀談』)[9]

三成と淀殿及び高台院

テンプレート:独自研究 一般的に広まっている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家は近江の土豪であり、京極氏に代々仕官していた国人である。間接して、浅井氏にも仕えていた(浅井氏が京極氏を保護していた)こととなるが、基本的には、当時の浅井氏と京極氏は敵対関係にあったため(浅井氏は、京極氏への下剋上で当時、台頭していた)、淀殿は「仇敵の娘」ともいえる。

また、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説があるが、淀殿不行跡の史料的根拠である『萩藩閥閲録』において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があること及びこの話の出典が江戸中期以降ということから、現在では三成や淀殿を貶めるために幕府の御用学者が捏造したと考えられる。秀頼は文禄2年8月3日(1593年8月29日)生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていた三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。

その一方で白川亨は、三成が秀吉の正室である高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、これまでの通説とは正反対の説を唱えている。その論拠として白川は、

  • 三成の三女・辰姫は高台院の養女となっている(杉山家由緒書・岡家由緒書)。
  • 高台院の側近の筆頭である孝蔵主は三成の縁戚で関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っている。
  • 淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいない

ことなどを挙げている(詳しくは高台院を参照)[10]

肖像画

少なくとも3種類から4種類程度確認されているが、ここでは特に、三成自身(と伝えられる)の頭蓋骨から復顔した肖像画を取り上げる。

関ヶ原の戦いから約300余年を経た明治40年(1907年)、東京帝國大学の渡辺世祐が三成の伝記執筆のために、三玄院にある三成のものと思しき墓を発掘、京都帝國大学解剖学教室の足立文太郎が遺骨を鑑定調査し、その時に頭蓋骨の写真を撮影した。調査の結果は「優男の骨格・頭形は木槌型・反っ歯・没年41歳相当」。下って昭和51年(1976年)、末裔の一人である石田多加幸(写真家)からの依頼を受け、東京科学警察研究所元主任技官・長安周一が石膏復顔を行い、それをもとに関西医科大学の石田哲郎の指導のもと、昭和55年(1980年)3月、日本画家前田幹雄の手によって石膏の復顔肖像画が制作された。この肖像画は現在大阪城天守閣に保管されている。同時に身長の推測も行い、156cmと試算された。小柄であるとされていた石田三成であるが、当時の男子の平均身長は160cm程度であり、骨格から考えると取り立てて小柄であったとは言いにくい。

評価

江戸時代には三成は悪人と見なされた。テンプレート:要出典範囲三成の再評価を志した三井の朝吹英二は、三成の墳墓発掘などを行った他、歴史家・渡辺世祐に依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年に『稿本石田三成』を上梓、三成奸臣説に論駁している。現在では実証的な評論が行われ、正確な三成像を描く模索が続いている。

肯定的材料

  • 後世に五人組となる制度の元を築いた。これは、江戸時代を通じて農政の基本となった制度である。
  • 豊臣秀吉が短期間で天下を統一できた理由のひとつとして、三成ら有能な吏僚が常に後方補給などの輜重役を担当したことが挙げられる。実際に文禄の役の際にも兵站度外視で無闇に戦線拡大する諸将を説得して漢城(ソウル)に集結させ、碧蹄館の戦いでの勝利の基礎を作った。
  • 佐和山で善政を敷いていたため領民から慕われ、三成の死後も佐和山の領民はその遺徳を偲んで、佐和山城付近に地蔵を築くなどしてその霊を慰めたという。
  • 領内の古橋村が飢饉に襲われた時、年貢を免租したばかりか前記の通り村人たちを救うために米百石を分け与えたと言われる。古橋には当時、三成の母の菩提寺である法華寺があり、三成は手厚い保護を与えていたという。
  • テンプレート:要出典範囲
  • 天元実記』には「三成は武道に名誉ある者であれば何をおいても召抱えた為、関が原における石田家の兵の働き、死に様は尋常ではなかった」と記されている。
  • 桃源遺事』によると、徳川光圀は「石田三成は憎い人物ではない。人はそれぞれ、その主君に尽くすのを義というのだ。たとえ敵でも、君のために尽くした者を悪く言うのは良くない。君臣ともそう心がけるべきだ」と言ったとされる。
  • 恩顧を受けた人に対しては誠意をもって応える気概があり、『老人雑話』では「奉公人は主君より取物を残すべからず。残すは盗也。つかい過して借銭するは愚人也」と語ったという。三成は主君の負託に対しては精神的にも物質的にも全てを捧げるようにという信念を持っていた。また島清興や蒲生郷舎など名臣に恵まれていたのは、三成が人を遇する道を知っていたためである[11]
  •  小説『のぼうの城』など、忍城攻めの失敗を根拠に三成を戦下手だと評する文献がある。しかし、水攻めは秀吉が北条方に対するパフォーマンスとして厳命したものであり、三成がこれに強く反対したのに対して再度厳命した書状が残されている[12]

否定的材料

  • 関ヶ原の戦いの直前、会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取ろうとしたが、細川ガラシャに自害されたりして失敗し、腹心の島左近の諫言でようやく中止した。この処置がかえって東軍の諸大名を激昂させた[13]
  • 三成が傲慢だったことを示す話が毛利家の『萩藩閥閲録』に記録されている。豊臣秀次が関白となって全盛の頃、毛利輝元の家臣である児玉三郎右衛門が貞宗の脇差を持っていることを聞いて、その脇差を手に入れたいと思って輝元にその斡旋を頼んだ。輝元は児玉に書状を送ったが、その書には脇差の存在は秀次にも知られているので秀次も欲しがるかも知れないが、その前に三成が手に入れたがっている、彼の仁は大いに気を使うから、三成の機嫌を損じないためにも三成に脇差を差し出すように求めている[14]。家康にも横柄な態度で接したとする記録があり(江戸時代の記録ではあるが)、三成が浅野長政と大坂城で頭巾をかぶったまま火にあたって暖をとっていると家康が登城してきた。相手は明らかに格が上であるから長政は頭巾を取るように促した。しかし三成は注意を聞き流して頭巾を取ろうとしなかったため、長政は怒って頭巾を取って火中に投じた(『寛元聞書』)[15]。また三成があるとき家康といたとき、三成は杖を落とした。家康は杖を拾って三成に渡したが、三成は礼を述べずにこれを受け取った(『淡海落穂集』)[16]
  • 『常山紀談』、『落穂集』などによれば、三成の傲慢な態度は多くの人の反感を買っていたという。長年の盟友である大谷吉継でさえ三成の挙兵前に、普段から諸大名に対する態度がことのほか横柄なので、諸大名はじめ末々の者までも悪く取り沙汰していると諫言した[17]
  • 『北川遺書記』では「三成はその所志を必ず貫徹せざれば止まざるの士にして、容易に人に聴かず、自ら信ずる事頗る厚し」とある。つまり三成は自信家であり、なかなか自説を枉げず鼻っ柱が強くて人の意見にあまり耳を貸さない、また自らの意思に反する者を排撃するという激しく不器用な一面があったという[18]
  • 朝鮮に渡海していた加藤清正らが博多に帰国してきたとき、三成は博多に赴いて清正ら在鮮の将をねぎらった。そして来秋に上洛したときに茶会を催して慰労したいと述べた。清正は7年も朝鮮で戦って莫大な人員と戦費を失っていたのに茶会とは世間知らずめと激怒し、「自分は兵糧もなく、茶も酒も持たないので、稗粥でおもてなししよう」と返した(『清正記』)[19]

疑義のある否定的材料

  • 豊臣秀次事件において、三成は秀吉に対して、「御謀反調議ノタメニ、山々ニ在留セラル」と讒言し、これが秀吉に秀次排除を決意させたとされるが、現在は秀次の謀反説及び讒言説は否定されている。三成は秀吉の意向を受けて働いただけであり、三成1人の策謀とするのは無理がある。ただし秀吉の意向を受けて秀次の調査を行なっており、秀次は謀反の嫌疑で処断されているから三成の調査に不備があったとも言える。またこの事件で淀殿の信任を得た反面、北政所との関係は疎遠になり、また秀次事件に連座して処分された浅野幸長らからも深く怨まれたと言われるが[20]、前述のように三成の娘が北政所の養女になったのは事件後であり、淀殿と三成が姻戚関係になったり、淀殿の側近に三成と親しい人物が入るなどの事実がないことから見てもこの解釈は少なくとも三成と北政所、淀殿の関係においては間違い言える。[21]
  • 慶長2年(1597年)に小早川秀秋が慶長の役で失態を犯したとして秀吉に讒言したという説があり、『藩翰譜』などがこの説を支持している。理由は秀秋の筑前と筑後2郡を狙ってのものとされるが[22]、これは否定的な意見もあり[23]、また実際には三成は秀秋の旧領への国替えを秀吉から示唆された時これを辞退している。
  • 改正三河後風土記』等には豊臣秀吉臨終時の五奉行の会議で、徳川家康前田利家に秀吉の死を連絡するか否かの議案に反対したにも拘らず、個人的に密使を二人に送って秀吉の死を知らせたことが記されている。そのせいで一時期三成は家康と利家の心象を良くし、逆に二人と仲が良かったものの議決に従って秀吉の死を秘した浅野長政には不信の念を抱かせている。結局、この独断専行は最終的には三人に露見してしまい、激怒させる結果に終わっている。ただしこれら史料は江戸時代に成立していることに留意すべきで、同時代の史料には全くそのような記述はない。[24]
  • 蒲生氏郷を毒殺したという疑惑も存在するが(『蒲生盛衰記』、『続武者物語』)、現在では氏郷の死因は膵臓癌であったという記録があり(曲直瀬玄朔の『医学天正記』)、否定的な見方が大勢を占めている[25]。氏郷に症状が出始めた頃、三成は朝鮮にいたため、少なくとも直接毒を盛った可能性はない。
  • 蒲生家の騒動(蒲生騒動)を仕掛け、蒲生家の弱体化を三成が謀ったとも言われるが、根拠となる記録はなく、蒲生家の多くの旧臣が三成に仕え、更には三成と敵対したとされる人物の家臣であった者達も後に三成に仕えているため、現在では否定的な意見も多い。むしろこのような豊臣家の内紛や正当な理由もなく秀次を謀反人扱いするのは豊臣政権を弱体化させるだけだと反対の立場を持っていたとされる。その証拠に秀次ゆかりの人物を多く助けていること、それら秀次家臣を多く召し抱えたことなどから秀次への敵対、濡れ衣を着せたなどの話は江戸時代に幕府が意図的に三成を貶めるために流布させた嘘や創作である可能性が高い[26]

系譜

兄弟
子女

3男3女もしくは2男5女がいたとされる。

  • 長男:石田重家 - 関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家。父三成と親交が深かった春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に祖心尼がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる岡吉右衛門に娘おたあを嫁がせている(以下、次女某の項参照)。
  • 次男:石田重成 - 関ヶ原の戦い後、津軽信建の助力で畿内を脱出。津軽氏に匿われ、杉山源吾を名乗る。後に家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。
  • 長女:某 - 石田家臣の山田隼人正に嫁ぐ。山田隼人正の叔母は家康の側室茶阿局でその縁から石田家没落後は妻(三成の娘)を連れ松平忠輝に2万五千石にて仕えた。山田隼人正は忠輝改易後は妻の妹辰姫の縁で津軽藩から捨扶持として150石を賜り、草山と号して江戸で余生を送った。子孫は津軽藩士となり、側用人などを務めた。(ただし異説あり)
  • 次女:某 - 蒲生家臣の岡重政(岡半兵衛)室。重政が蒲生家の御家騒動に関与し(藩主蒲生忠郷の母振姫(家康の三女)の勘気に触れ)、幕府により江戸に呼び出されて切腹処分になると会津を離れる。のち若狭に住み、若狭小浜で没したと伝わる。子の岡吉右衛門の娘は徳川家光の側室お振の方(自証院)(三成の曾孫にあたる)となり、家光の長女千代姫を産んだ。尾張徳川家に嫁いだ千代姫の血筋は7代藩主徳川宗春まで続く(異説有)。
  • 三女:辰姫 - 高台院養女。弘前藩2代藩主津軽信枚の正室、のち満天姫(家康養女)降嫁により側室に降格。子に3代藩主津軽信義
  • 三男:佐吉 - 佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄石田正澄に仕えていた津田清幽 が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた長谷川守知が裏切り小早川秀秋田中吉政の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起こった。違約に怒った清幽が家康に迫って生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。

上記の三男三女は全て正室の皎月院の所生だが、この他に側室との間に数人の庶子がいたとの伝承がその子孫に伝わっている。写真家石田多加幸の家には三成の次男の子孫という伝承があり(ただし杉山重成の家に伝わる系図に該当する子孫はなく、重家と重成の間に産まれた側室所生の次男の子孫と考えられる)、「石田三成の末裔として育った」を書いた澁谷理恵子の家には三成の末子の姫が乳母に抱かれて越後高田に落ち延びたのが祖先だとの口伝が残っている。

偏諱を与えた人物

家臣

脚注

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参考文献

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研究書籍

関連項目

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関連作品

小説
テレビドラマ


ゲーム
アニメ
漫画
舞台
マスコットキャラクター
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  • しゃべってキャラ ミニブシ(レキシ堂、声:種田梨沙

外部リンク

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  1. 元の位置に戻る 『常山紀談』
  2. 元の位置に戻る 三成が左近を召抱えたのは、左近の先主・羽柴秀保が死去した文禄4年以降とも言われており、この場合、三成は既に佐和山19万石の城主になっている(二木謙一1982『関ケ原合戦』)。また、水口4万石の半分の2万石で召し抱えたという説もあるが、三成が水口を領有した事実はないため、これは誤りである。
  3. 元の位置に戻る 安井(1996)p.19
  4. 元の位置に戻る 「島津家文書」二‐九七八
  5. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P221。
  6. 元の位置に戻る 熊沢正興 正徳6年(1716年)『武将感状記』など
  7. 元の位置に戻る 『田中系図』
  8. 元の位置に戻る 酒井忠勝原撰1981『関ケ原合戦始末記 : 実録天下分け目の決戦』教育社
  9. 元の位置に戻る 『大谷刑部のすべて』(新人物往来社花ヶ前盛明)P131・P132・P213
  10. 元の位置に戻る 『石田三成とその一族』など。
  11. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P226、P227。
  12. 元の位置に戻る 中井俊一郎『石田三成からの手紙』(サンライズ出版。
  13. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P154。
  14. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P221、P222。
  15. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P225。
  16. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P225。
  17. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P151、P223。
  18. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P223、P225。
  19. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P234。
  20. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P74、P75。
  21. 元の位置に戻る 白川亨『石田三成とその一族』テンプレート:要ページ番号、三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』テンプレート:要ページ番号など。
  22. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P81、P82。
  23. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P82、P83。
  24. 元の位置に戻る 白川亨『真説石田三成の生涯』テンプレート:要ページ番号など。
  25. 元の位置に戻る 今井林太郎『石田三成』(吉川弘文館)P76。
  26. 元の位置に戻る 白川亨『石田三成とその一族』テンプレート:要ページ番号など、三池純正『義に生きたもう一人の武将石田三成』テンプレート:要ページ番号