大谷吉継

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大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名である。越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされ[1]、大谷テンプレート:ルビの通称でも知られる。業病[2]を患い、晩年は頭を白い頭巾で隠していたとも言う。

生涯

出自

永禄元年(1558年)に近江国滋賀県)で生まれたとするのが通説であるが、永禄8年(1565年)を生年とする説もある[3]。父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もあるが[4]、当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず[5]六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である[6]

華頂要略の坊官大谷家系図に吉継の名があること、本願寺坊官下間頼亮室が妹であることなどから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子という説もある[7]。いずれにせよ、大名となるには難しい家柄である。

宮本義己が『兼見卿記』を調査し母が秀吉の正室の高台院の侍女である東殿であることが判明した。宮本義己「戦国母と子の争乱」(『歴史読本』1997年7月号)、これを根拠に豊臣秀吉の隠し子とする説もあるが、全くの俗説であり[8]、正確な出自は不詳である。兄弟姉妹が存在したようで、栗山林斉と祐玄の2人の甥が記録に見える。

秀吉に仕える(織田時代)

天正始め頃に秀吉の小姓となった[9]。天正5年(1577年)10月に秀吉が織田信長から播磨攻略を命令されて姫路城を本拠地としたとき、脇坂安治一柳直末福島正則加藤清正仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆の1人として大谷平馬の名前が見える[10]。天正6年(1578年)5月4日に尼子勝久上月城において毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、秀吉は尼子軍を救援するために出陣したが、このときに吉継も従軍している[11]

その後の三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも大谷平馬として名を連ねている[12]。このときの禄は150石とも250石であったともいうが定かでない。

天正10年(1582年)4月27日、秀吉は毛利方の清水宗治が立て籠もる備中高松城を攻めた。このときも吉継は秀吉の馬廻りとして従軍している[13]。しかし、ここまでの逸話の中で『武功夜話』が根拠となっている逸話については偽書説があるために信憑性について問題がある。

その2ヵ月後の6月2日に織田信長本能寺の変横死した。秀吉は6月13日に信長を殺した明智光秀を討ち、6月27日の清洲会議織田氏の主導権を獲得して台頭してゆく。

秀吉時代の活躍

秀吉と織田家筆頭家老である柴田勝家の対立は決定的となり、吉継はこの時期の秀吉の美濃侵攻にも馬廻衆として従軍した。そして天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こった。この時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させ、合戦においても先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される大手柄を立てた[14]

天正13年(1585年)、紀州征伐においては増田長盛と共に2000の兵を率いて従軍、最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った武功が『根来寺焼討太田責細記』に記されている。秀吉が伊勢長島城に移った織田信雄を祝いに赴いた際にも同行している。文書の発給もこの頃から見え、称名寺へ寺領安堵状を「大谷紀之介」の名で発給している(「称名寺文書」、日付不詳)。

天正13年(1585年)7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任したが、このとき諸大夫12名を置き、吉継は従五位下・刑部少輔に叙任される。これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになる。なお、刑部叙任に際して源姓を名乗ったという説があり、永賞寺の供養塔には「預修源朝臣」の刻銘が現在も残る。この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更したという(「古今武家盛衰記」)。9月には秀吉の有馬温泉湯治に石田三成ら他の近臣と共に同行している(「宇野主水日記」)。

天正14年(1586年)の九州征伐では、石田三成と共に兵站奉行に任じられ、功績を立てた。同年、三成が奉行に任じられると、その配下として実務を担当した。毛利輝元の著した『輝元上洛日記』には天正16年(1588年)に輝元が上洛した際、世話になったり挨拶周りをした豊臣家の諸大名の名とそれぞれへの献上品が細かく記されており、三成、増田らの下位に吉継の名も見え、この時点で奉行格に列していたことが分かる。

天正17年(1589年)に越前国の内で敦賀郡・南条郡・今立郡の5万石を与えられ、敦賀城主となった。同時に蔵入地10万石を代官地として預けられている。吉継は蜂屋頼隆の築いた敦賀城を大々的に拡大改修し、現在の敦賀市結城町と三島町にまたがる広壮な近代城郭とした他、三層の天守閣も造営し、笙ノ川・児屋ノ川の二川を境界として町立てを行い、町割を川西・川中・川東の三町に改めた。吉継の敦賀入封は日本海交易の要港、北国の物資の集散地であった敦賀港を秀吉直系の家臣に掌握させることにあり、敦賀城改築の用材は秋田実季らが軍役として賦課されている。

この敦賀新城は吉継の支配の下、北国から畿内への輸送の拠点、出兵時の物資の調達拠点として機能した。吉継は蜂屋頼隆時代から廻船屋を営む敦賀の川船座の頭分道川氏の一族・川舟兵衛三郎に間口19間、奥行10間の地子、諸役、舟三艘の役免除の特権を与えて支配体制に取り込み(天正20年2月、「道川文書」)流通を掌握した。

文禄3年(1594年)に伏見城(指月山伏見城)が築城された際の用材「太閤板」は、道川氏一族道川兵二郎の船で秋田から敦賀経由で伏見へと送られ、同じく道川一族の越後屋兵太郎は吉継に船を提供している。この他高嶋屋伝右衛門らの高嶋屋一族も特権を認められて吉継に協力し、慶長元年(1596年)に木幡山伏見城が築かれた際には高嶋屋久次が太閤板14間半、同2年(1597年)には高嶋屋良左衛門が50間を運んでいる。伏見城下においては現在の桃山町日向より北東に屋敷を構えた。この間文禄3年には草津に湯治に赴いており、直江兼続に宛てて「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」との書状を送っている。

この他、慶長2年(1597年)2月に鍛冶屋刀禰へ地子本銭790貫文を永代免許したという記録が残り(「刀根市左衛門文書」)、地場産業の育成を図ったことが見て取れる。

水軍も編成され、後の関ヶ原の戦い前田利長小松城を攻撃した際には、「大谷水軍が金沢を攻撃する」との噂を流させ撤退に追い込んでいる。

西福寺に対し発給した禁制など、文書も相当数が現在に伝わっている。寺社への寄進も積極的に行い、秀吉の命を受けて常宮神社を再興、氣比神宮に朝鮮から持ち帰った戦利品の鐘を奉納した他、八幡神社に本殿の欄間飾りや鳥居、灯篭などを寄進している。

「蓋し、吉隆、平日家臣に対して慈心深く、義をもつて之を奨励せし故、皆命を致して、其の恩に報ぜりと云う」「北国を経略し、士卒を訓練すること臂の指を使うがごとし」と言われ、家中の統制も行き届いていた。

天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、続いて東北地方奥州仕置にも従軍し出羽国の検地を担当した。この時蠣崎慶広と面会し、独立の承認と豊臣政権への臣従について助力を依頼されている。検地においては、配下の代官が抵抗する農民を斬ったことが発端となり一揆が発生したが、上杉景勝の支援を要請し鎮圧した。文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てている。同年6月には秀吉の命令で奉行衆の一人として長谷川秀一前野長康木村重茲加藤光泰・石田三成・増田長盛らと共に渡海し、特に大谷・石田・増田の三人は秀吉の指令を受けて朝鮮諸将の指導にあたると共に現地報告を取り纏めた。との和平交渉でも、明使(謝用梓・徐一貫)を伴って石田・増田と共に一時帰国し、文禄2年(1593年)5月23日に名護屋城で秀吉と明使との面会を果たした。その後、再度朝鮮へ渡海したが、6月に晋州城攻防戦で晋州城を攻略すると戦局は和平交渉により停滞し、閏9月上旬には帰国した。最終的に決裂した和平では、明国の秀吉冊封に際し、吉継は大都督(他に石田三成、小西行長宇喜多秀家、増田長盛)の官位を受けることになっていた。

慶長2年(1597年)9月24日、秀吉は徳川家康富田知信織田有楽斎らを伴い、伏見の大谷邸に訪問した。吉継は豪勢な饗宴で出迎えた。[15]。慶長3年(1598年)6月16日の豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには病をおして参列し、秀吉から菓子を賜った(「戸田左門覚書」)。慶長4年(1599年)には神龍院梵舜と女能を見物しており、病状の好転がうかがえる。

関ヶ原

病状が悪化したため、およそ文禄2年(1593年)から慶長2年(1597年)ごろまで、豊臣政権の中枢から外れていたがそれ以降は政権に復帰しており、慶長4年(1599年)には家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵している[16]。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護している。その後、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱や宇喜多家中の紛争を調停している。

慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い上杉討伐軍を起こした。家康とも懇意であった吉継は、所領地である敦賀・自らが代官を務める蔵入地から兵を募り、三千の兵を率いて討伐軍に参加するべく領国を立ち、途中で失脚していた五奉行の石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した(※異説有り、後述)。8月5日付の三成の書状「備えの人数書」によると、この後北国口の兵3万100の大将とされた。また大坂にいた真田昌幸の正室を預かるなど、西軍の一員としての行動を開始する。大谷氏は一族挙げて西軍につき、吉継の母東殿局は高台院の代理として宇喜多秀家が行った出陣式に出席している[17]

こうして西軍首脳の1人となった吉継は敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため越前・加賀における諸大名の調略を行った。その結果、丹羽長重山口宗永上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い。実際に前田軍と戦ったのは丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺して軍を加賀に撤退させる際、丹羽軍に襲われたという)。

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関ヶ原の戦いの大谷吉継陣跡
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関ヶ原にある吉継の墓(左隣は湯浅五助の墓)

9月、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治朽木元綱小川祐忠戸田勝成赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出する。そして9月15日10月21日)、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。この時、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣する。陣中にはこの他、織田信長の子織田信吉長次の兄弟、蜂須賀家政の重臣高木法斎らが加わっていた。吉継は当時業病とされていた病(ハンセン病と云われている)故に輿に乗って軍を指揮し、午前中は東軍の藤堂高虎京極高知両隊を相手に奮戦した[18]

正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、予てから小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという[19]。その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも伺える。

しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継も自害した。享年42。吉継の敗北は戦場の趨勢を一変させ、西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となった。

自害した吉継の首は側近である湯浅五助(隆貞)の手により関ヶ原に埋められ(『常山紀談』)、東軍側に発見されることはなかった。異説では切腹した吉継の首を家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたとも言われる。現地には首塚も建てられている。居城敦賀城は家臣・蜂谷将監が東軍に引き渡しを行った。この後、喜太夫は追腹を切り、五助は藤堂隊に駆け行って討ち死にした[20]

辞世の句は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」で、これは戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている[21]

人物・逸話

豊臣秀吉との関係

  • 天正13年(1585年)11月27日、28日頃から大坂では千人斬りという辻斬り騒動が起こっていた。その犯人として吉継の名前が噂されていた[22]。宇野主水日記によると天正14年(1586年)2月21日に秀吉の耳に届き、犯人を数ヶ月も逮捕できず自分への報告も怠っていた奉行を「追篭」にした。さらに秀吉は犯人(咎人)を知らせた者には黄金10枚(100両)を褒美として与えると高札に出した。しかし3月3日、4日に5人が斬り殺され、世間では吉継の仕業であるとまことしやかに囁かれた[23]。その後、千人斬りの犯人や事件がどうなったかは記録が無いため不明であるが、少なくとも秀吉は巷で流れる噂など信じずに吉継を変わらず重用した。一説に吉継の側近としての台頭を妬む一派の仕業ともいわれるが、秀吉・吉継主従の絆の強さを示すものであった。
  • 慶長2年(1597年)9月24日、秀吉は家康や織田長益らを従えて大谷家の伏見屋敷を訪問した。このとき吉継は秀吉・秀頼父子や北政所淀殿などに6万石の身とは思えぬ過分な献上品をしたとある[24]

徳川家康との関係

  • 吉継は三成のように最初から家康を敵視しておらず、むしろ親しかったという。秀吉が北条氏直と交渉を持っていたとき、小田原征伐を決めた秀吉は氏直の岳父である家康の出方を問題とした。そこで家康の協力を求めるために使者として駿府城に派遣されたのが吉継であった。天正16年(1589年)11月に吉継は家康との交渉に臨み、見事にその役目を果した[25]。この会見から吉継は家康の実力と器量を知るようになり、3月19日に小田原に赴く秀吉が駿府城に立ち寄ろうとしたとき、石田三成が「駿河大納言殿は北条左京と縁戚であり、謀略があるやも知れず、入城を見合わせては」と述べた。しかし浅野長政と吉継は「大納言殿はそのようなことをされる方ではない」と反論して秀吉に入城を勧めたという[26]
  • 秀吉没後、宇喜多秀家の家中で内紛が起きた際、吉継は家康の重臣・榊原康政と調停を務めた。このことから、家康の重臣とも親しい関係にあったことがわかる。しかし康政は家康から不興を買ってやむなく吉継に調停役を辞することを告げると江戸に帰還し、吉継もやむなく宇喜多家の騒動から手を引くことになった。このことから吉継は家康に不信を抱いたという[27]
  • 関ヶ原では三成との友情に殉じたとされるが、吉継自身は徳川家康とも親しく、当初は家康派だったと目される。家康は吉継の才能を高く評価し、慶長5年(1600年)7月、会津征伐が終わり次第12万石に加増することを約束したとも言われる。このため、吉継が西軍に与したことを知った家康は非常に狼狽したという逸話がある。
  • 慶長5年(1600年)春、上杉景勝が領国の会津で公然と軍備を増強し、隣国の越後の堀秀治からも上杉に謀反の動きありと家康に訴えがあった際、家康は自らだけでなく豊臣家の奉行である増田長盛と吉継にも連署した書状を作らせて上坂と弁明を求めた。しかし景勝は病気でしかも寒気が厳しいのでしばらく療養したら上坂すると返答した。そのため家康は再び増田・吉継と連署して景勝の上坂を求めた。このときの書状に「京都にて増右(増田長盛)、大刑少(吉継)、万事内府(家康)公へ申し含められ候間、御申し分候わば御申し越しこれあるべし」という一項がある。つまり景勝に何か申し分があれば、家康公に近く何でも申し上げられる増田、大谷に頼って申し上げられるがよかろう、と述べているのである。このことから吉継は家康とはこの時点でまだ仲が良かったと思われる。また景勝とも奥州仕置後の検地と仙北一揆などで協力して働き懇意にしていたから仲は良かったものと思われる。しかし景勝の家老である直江兼続は「増右、大刑少御出頭の由、珍重に候、所用の儀申し越すべく候」と返答して吉継が仲介する出番は遂に無かった[28]
  • 慶長5年(1600年)6月11日、家康は正式に上杉景勝を征伐するために会津征伐を決意し、大坂城で軍議を開いた。軍議が終了したあと、吉継は山内一豊と話し合った。そのとき一豊は「軍議において堀直政殿が征伐を行うのであれば慎重にすべきであり、上杉退治のことは中老・奉行が連署して来春まで出馬を待たれるよう進言されたが、内府殿は退けてすぐに出馬することを決められた。これはどうしてであろうか」と質問した。吉継は「ひとつには早く討伐の兵を挙げたほうが敵に十分な準備の暇を与えないで片付けるのに楽であること、先んずれば兵を制すである。また、来年を待たれよと進言した者の中には会津中納言(景勝)と親しい者もいる。もし彼らがうまく言を弄して発陣を遅らせ、中納言のために謀ってやろうという気持ちを抱いていたとしたら、そんな諫言にのって発馬を遅らせるのは愚かなことだ。それに今回の上杉の謀反は決して上杉だけのことではなく、他にも同心、与力する者が必ずあるはずだから、もしいたずらに日を延ばせば上杉方に味方する者たちも有利に戦備を整えられる。だから彼らの力がまだ整わない内に事を片付けてしまおうと内府殿は考えたのだ。堀殿が難所のことを取り上げてきついお叱りを受けたのは、確かに危険な個所があって用心せねばならぬことは事実だが、そのことを強調すれば他の諸将には危険を恐れて臆病風を起こさせることにもなる。だから内府殿はきつく叱って、そのくらいの危険を恐れてどうするか、と言われたのでそれを聞いた他の諸将も臆病風を起こすのをやめる効果があったのだ。かつて太閤殿下(秀吉)は内府殿を優れた軍師であると申されていたが、確かに事に当たって慌てることなく、軽率を避け、自然の情理や人情の動きを察して物事を考え、人の和を本とし、天の理に沿って行動しようとされている点は、まさに天下の主ともなる人だけのことはある」と家康の実力を高く評価していた[29]。7月に会津征伐に赴く際、近江佐和山城に立ち寄って石田三成から家康に対して挙兵に及ぶので共にしてほしいと誘われたときも、家康と三成の石高・兵力・物量の差から軍事経験の差、器量の差などを評して到底家康に勝てるわけがないと諌めていることから、家康と敵対しながらもその実力には到底及ばないことはよく認識していたようである[30]

石田三成との関係

  • 吉継は三成と「刎頚の友」と呼ばれるほど仲が良かったという。その理由として吉継と三成がほぼ同年齢であり、出身も同じ近江(吉継に関しては諸説があるが、『淡海温故録』は吉継を近江出身としている。最もこの史料は吉継を若狭小浜城主だったとしているなど信憑性が疑問視されている)だったためという。また秀吉は三成・吉継を「計数の才」に長けた奉行として重用しており、九州征伐の際には吉継と三成に命じて「兵三十万、馬二万疋、一年の長期滞陣」に必要な物資補給と輸送を担当する兵站奉行として活躍している。『甫庵太閤記』では「御扶持方渡し奉行」として三成と吉継、長束正家の3人を挙げている。天正18年(1590年)の小田原征伐でも三成と兵站奉行を、文禄の役でも三成と「船奉行」を務めている。また太閤検地でも三成と検地奉行を担当しており、天正14年(1586年)に三成が堺奉行になった際には三成の補佐役に付された。天正13年(1585年)9月14日に秀吉が有馬温泉に湯治に出かけた際にも、三成や増田長盛とその供を務めており(『宇野主水日記』)、このように2人一緒に行動を共にしたため友情を培ったのではないかといわれている[31]
  • 吉継と三成の友情の深さを示す事件が「神屋宗湛日記」に記されている。九州征伐が成功し、筑前まで凱旋してきた秀吉に、吉継はなんらかの諫言を行い、これに激怒した秀吉は吉継を下がらせたのち、呼び出して成敗しようとした。三成は吉継を逃がして宗湛に保護を依頼したが、この匿われている最中に、吉継は宗湛の保有する名高い茶器を見たいと所望している。この事件は、三成が吉継の母東殿局と共に北政所(高台院)と豊臣秀長に取り成しを依頼し、その結果秀吉は吉継を赦免し解決した。吉継の諫言の内容は不明だが、三成の研究者白川亨は、三成の妻の伯父尾藤知宣が改易された一件について、苦衷に立った三成を見かねて諌めたのではないかと見ている。
  • 関ヶ原の挙兵の直前、三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言したという[32]。本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言って諫言していることから、吉継と三成はお互いに言い合える仲であったことがわかる[33]。他にも「(三成は)智慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける」と忠告している[34]

その他逸話・評価など

  • 吉継が生まれる前、両親が子供が出来ないことに嘆き悲しんでおり、父の吉房が八幡神社へ参詣すると「神社の松の実を食べよ」という夢を見たという。そこで神社の松の前に落ちていた松の実を食べると吉継が生まれてきたという伝説があり、その幼名も慶松(桂松)という[35]
  • 吉継は当時の仏教観で先生(せんじょう)の罪業に因する病として忌み嫌われていた癩病(ハンセン病と思われるが、梅毒等の異説有り)を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていたとされるが、江戸中期頃までの逸話集にはこの描写は存在しない。目を病んでいたのは確かなようで、病が重篤化したと推定される文禄三年十月朔日付けの直江兼続宛書状の追伸で、目の病のため花押ではなく印判を用いたことへの断りを述べている[36]
  • 豊臣政権の五奉行で関ヶ原の戦いの際には共に挙兵した三成との間には深い友情が存在したとされ、友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在している[37]
  • 天正15年(1587年)、大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者達はさらにその茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったからもう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたとされる)、気軽に話しかけてきた。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。ただし、これは秀吉との話であったという説もある。[38][39]
  • 豊臣秀吉は「大谷紀之介(吉継)に100万の軍勢を与えて、自由に軍配を指揮させてみたい」と語ったと伝えられた。
  • 相州正宗の作、敦賀正宗を召料としていたという。
  • 自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹したが、この祟りによって秀秋は狂乱して死亡に至ったという噂がある[40]。秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に死亡した。
  • 吉継が死んだことを妻に見せた話が『石田軍記』に伝わる[41]
  • 吉継は名将として高く評価されており、「人となり、才智聡頴、勤労倦まず、能く秀吉の心に叶へり」「吉継汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人称して賢人と言ひしとぞ」とある[42]
  • 吉継が「義に厚い名将」として名を広く残した理由は関ヶ原における壮烈な活躍にある。西軍は日和見や裏切りが相次いだのに対し、吉継とその軍のみは寡兵ながらも最後まで奮戦して吉継は自害した。同時代の神龍院梵舜も吉継の死に感銘を受けたためか、小早川秀秋の裏切りと共に吉継が自害するまでの記録を梵舜日記に詳細に書き記している[43]。関ヶ原における大谷軍の奮戦は目覚しく、「士卒皆其恵に懐き、敢て離反する者なし、其敗るるに及びて、決然として自屠し、陵辱を受けず、人皆其智勇に服せり」とあるように、大谷軍は一人も戦線から離脱せずに吉継の指揮に従って勇猛に戦ったという[44]
  • 吉継の生き様は、「吉隆、人となり奇略衆に超え、勇決群に挺せり。夙に、秀吉の寵任を受けたり。癪を病み明を失ふに及びて、五奉行の職を辞す。然れども、秀吉其材を惜みて許さず。吉隆病と称して出でず、関ヶ原の役、起るに及びて、石田三成に与し、終に之が謀主と為る。去れども、其志に非ざるなり。吉隆、固より三成の敗るべきを知り、之に諌むること再三、去れども三成既に決て、逆に回すこと能はず、吉隆止を得ず、死を以て之に許るし、北国を経略し、士卒を訓練すること肘の指を使ふが如し。府中の城を攻めずして、直ちに北庄を救ひ、咫尺の書を馳せて、金沢の大軍を却く、其兵機に暁暢すること率ね斯の如し。東西塵戦の日に及び、予め金吾秀秋の異図あることを知り、六百の精鋭を選び、八千の頚兵に抗す」と記されている[45]
  • 関ヶ原にある吉継顕彰碑においても、「大谷吉隆は若年の頃より豊臣秀吉に仕え重用せられて越前敦賀の城主となる慶長5年関ヶ原役起るや石田三成の切なる勧誘に遭ひ之を阻止すれども聴かれず意を決して西軍に党し九月十五日此の宮に陣し攻戦大に努む然れども衆寡敵せず遂に自刃して逝けり吉隆人となり聡頴にして智勇兼備へ三成と共に秀吉を輔けて功あり其の蕨然として起ちしは一に主家の恩に酬ひ三成との義を重んぜしに因る固より成敗の跡を慮れるにあらさるなり而して盲目の身を以て悲壮なる最後を遂げ寡に武士道の亀鑑として永く名を青史に垂るる者と謂ふべきなり」と高い評価が刻まれている[46]

子孫

  • 子の吉治は関ヶ原の戦い後に浪人となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では義兄弟に当たる真田信繁らとともに大坂城へ入城し慶長20年(1615年)の大坂夏の陣福井藩松平忠直の軍勢と戦い、討死した。その子孫は帰農したが、後に直系は絶え、石田家より養子を迎えて存続している。
  • 大坂の陣よりのち、三男の泰重の子で吉継の孫にあたる重政福井藩松平家に仕官し、その子孫は家老の家格に列した。老中土井利勝らはこのことを知ると、「家康が知ったら喜んだだろう」と言ったという。
  • 娘(妹、姪を養女としたという説もある)の竹林院は真田信繁の正室である。関ヶ原の戦い後は信繁の配流に従い九度山に移り大坂の役で信繁が死去すると、娘・おかね夫婦の援助を受け京都で余生を送った。慶安2年(1649年)に死去。信繁の子のうち幸昌守信、あくり、阿昌蒲、おかねが竹林院の子とされている。
  • どの子の系統かは不明であるが、会津戦争に際して会津藩に組織された白虎隊士中2番隊の隊員で飯盛山で自刃したとされる19名に含まれている津田捨蔵は吉継の子孫と言われる。津田家には吉継の甲冑が伝来し、逸話を父から聞かされた捨蔵は鎧を着用すると三度宙に躍り上がり敵の首を斬る動作をしたという。

主な家臣

  • 湯浅隆貞(五助) - 近習。関ヶ原の折最後まで本陣に残った四人の家臣の一人。
  • 湯浅十郎左衛門 - 隆貞の子。後高力家に仕官した。
  • 三浦喜太夫 - 隆貞の従者。吉継の首を地中に埋めて隠した。
  • 諸角余市 - 近習。関ヶ原の折最後まで本陣に残った四人の家臣の一人。
  • 土屋守四郎 - 近習。関ヶ原の折最後まで本陣に残った四人の家臣の一人。
  • 笠井慶秀 - 武田旧臣・笠井満秀の子。関ヶ原後、日頃目をかけられていた井伊直政に召し出され仕官した。
  • 三位融盛
  • 岩田五助
  • 島信勝 -島清興の息子、軍奉行。名は清正とも。関ヶ原の戦いで藤堂隊と戦い討死。
  • 蜂屋将監 - 敦賀城留守居役。関ヶ原敗戦後、東軍に城を引き渡した。後福島正則に仕えた。
  • 蜂屋右京進 - 文禄5年(1596年)、秋田実季に対し「御橋板」受取状を発した。
  • 高橋二郎兵衛 - 同上。
  • 蜂屋市兵衛 - 老臣と目される。
  • 下河原惣左衛門 - 老臣と目される。
  • 佐久間与左衛門
  • 岩間伝五郎
  • 橋元久八
  • 岡部小衛門
  • 富永主膳
  • 中田六兵衛
  • 引塩伝右衛門 - 文禄3年(1594年)5月明の講和使節沈惟敬が来日した際「唐便萬事用所等承り、相調可申添奉行」を務めた。
  • 小岩内膳 - 同上。
  • 大滝源右衛門
  • 本多政重

このほか、蜂屋頼隆旧臣で召抱えられた者も多いと思われる。

関連作品

公認キャラクター

敦賀城主だった大谷吉継にちなんだ「よっしー」を、敦賀市は公認キャラクターとしている。もともとは2006年に敦賀市立博物館で開かれた企画展のイメ-ジキャラクターだったが、二年後に市の公認キャラクターに昇格し、2011年7月には着ぐるみも披露された[47][48]

小説
テレビドラマ
映画
漫画
ゲーム

脚注・出典

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参考文献

  • 荻原勝「小瀬甫庵『太閤記』を中心とする大谷吉継の軌跡』(『敦賀論叢』2号、1987年)
  • 宮本義己「戦国母と子の争乱」(『歴史読本』1997年7月号)
  • 花ヶ前盛明編 『大谷刑部のすべて』(新人物往来社、2000年)
  • 外岡慎一郎「大谷吉継と敦賀」(『敦賀論叢』15号、2000年)
  • 外岡慎一郎「青蓮院坊官大谷家と大谷吉継―その系譜をめぐって―」(『敦賀論叢』17号、2002年)
  • 石畑匡基「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」(『日本歴史』772号、2012年)
  • 歴史読本編集部『炎の仁将 大谷吉継のすべて』(中径出版、2012年)

外部リンク

  • 関ヶ原の戦いで西軍へ加担することを決めた際に、吉継では「(三好)義継」に音が通じて不吉であるという理由で吉隆に改名したという(安積澹泊『烈祖成績』)。関ヶ原古戦場にある陣跡を示す碑に「大谷吉隆陣所古址」、墓に「大谷吉隆墓」、それの案内板に「大谷吉隆(吉継)」とそれぞれ記されている。
  • 業病とは前世の罪の報いとして発する病気という意味で、非常に治りにくい病気・あるいは不治の病の総称として使われた。当時はハンセン病も業病の一種だと考えられていた。
  • 兼見卿記天正二十年一月三日 「ひかし殿子息刑部少輔廿八才」(数え年。満年齢27才の年である)このとき吉継の母である東殿は吉田神社の神主である吉田兼見に祈祷を頼んでおり(朝鮮出兵の戦勝祈願か)、この年齢も東殿の申告である可能性が高い
  • 太田亮の『姓氏家系大辞典』に「大谷刑部少輔吉隆は豊後の人にして」「子孫盛治の子吉隆、刑部少輔に任ぜらる」とある。『名将言行録』においても「吉隆は大友家の臣なり、大友家亡し時、浪遊し、姫路に来り、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ」とある。『国史大辞典』では「父は豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治であるといわれている」とある
  • 毛利氏に仕えた石見益田氏の家臣に平貞経を祖とする広瀬古土居城主・匹見大谷氏があり、この匹見大谷氏の初代に「盛」の字を持つ大谷盛胤がいること、16世紀半ばの当主に姓名官途とも同じ大谷吉隆がいることから、これとの混同が生じたものと思われる。この大谷氏は毛利氏の敵対勢力に内通した疑いで主家益田氏から族滅されているが、内通した勢力が大友氏であった場合、「大友氏の家臣だった大谷氏」との俗説には「毛利氏陪臣から大友氏家臣になった」ということで説明がつくが、吉継豊後出身説の証拠とはならない
  • 『淡海温故録』『輿地志略』で吉継は近江大谷村の出身としている
  • 敦賀論叢 第17号「青蓮院坊官大谷家と大谷吉継-その系譜をめぐって-」(外岡慎一郎著研究ノート)青蓮院坊官大谷家の系譜に大谷泰珍の子として吉継の名がみえる
  • 吉継の名が秀吉を継ぐ、すなわち吉継から出た俗説とされる
  • 『淡海温故録』で「秀吉公長浜御在城の頃召出され」とある
  • 武功夜話』の「天正五年十月十九日、羽柴筑前守播州発向の陣立て覚えの事」
  • 武功夜話』の「羽柴秀吉、尼子勝久を救えず上月城落城の事」
  • 武功夜話』「播州三木城責めの事」
  • 武功夜話』「天承十年四月、備中陣惣仕立ての覚えの事」
  • 『一柳家記』では賤ヶ岳七本槍や石田三成らと14人と共に柴田軍1万5000人相手に無類の働きをしたとある。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)17頁。
  • 鹿苑日録
  • 石畑匡基「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」2012年9月(『日本歴史』第772号、日本歴史学会、吉川弘文館)
  • 孫の一人に大坂の役に徳川方として参陣、功を賞されて家康から50石の加増を受けた大谷隆昌(隠岐、五右衛門)がおり、判明していない一族に徳川方についた者がいた可能性はある
  • 大谷勢全軍の指揮は身体の不自由な吉継に代わり平塚為広が揮ったとの説がある。
  • 『関原軍記大成』
  • 二木謙一『関ケ原合戦』
  • (『常山紀談』)。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)48頁・49頁。
  • このごろ千人斬りと号して、大坂の町中にて人夫風情の者、あまた打ち殺す由、種々風聞あり。大谷紀ノ介という小姓衆、悪蒼気につきて、千人殺してその血を舐れば彼の病(は)平癒するとて、この儀申し付くと云々。世上風聞なり」とある(『宇野主水日記』)。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)71頁。
  • 「大谷紀介所行の由、風聞す。一円雑説なり」(『宇野主水日記』)
  • 『鹿苑日録』
  • 『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)P109からP111
  • 『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)P112。大道寺友山の『異本落穂集』
  • 『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)P113からP116
  • 『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)116頁 - 118頁。
  • (『改訂後三河風土記』より)。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)118頁 - 119頁。
  • 『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)116頁 - 118頁。
  • 『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)122頁 - 130頁。
  • 大道寺友山『落穂集』では三成に対して「殊外へいくわい(横柄)に候とて、諸大名を始め末々の者迄も日比(頃)あしく取沙汰を仕る由也」とある。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)40頁。『常山紀談』
  • 『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)132頁。
  • 『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)41頁。
  • 『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)11頁。
  • 温泉草津資料
  • 『校合雑記』
  • 福本日南英雄論』『豊太閤
  • 神屋宗湛『宗湛日記』の補注が付いていたが、宗湛日記にはこの記述は存在しない。
  • 『関東軍記大成』
  • 朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、188頁。
  • (『名将言行録』より)。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)10頁。
  • 『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)58頁。
  • (『名将言行録』より)。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)48頁。
  • (『名将言行録』より)。『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)50頁。
  • 『大谷吉継のすべて』(新人物往来社、2000年)51頁。
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