前田利長

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前田 利長(まえだ としなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝天正17年(1589年)頃に利長と改名する。若年より織田信長豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。

生涯

出生から織田政権期

永禄5年(1562年)1月12日、織田氏の家臣・前田利家の長男として尾張国荒子城(現在の愛知県名古屋市)に生まれる。幼名は犬千代

初めは安土城で織田信長に仕える。天正9年(1581年)、父・利家の旧領越前国府中の一部を与えられ、信長の娘・永姫を室に迎える。天正10年(1582年)の本能寺の変は、永姫とともに上洛中の近江国瀬田(現在の滋賀県大津市東部)で聞き、当時7歳の永姫を前田の本領・尾張国荒子へ逃がし匿わせ、自身は織田信雄の軍に加わったとも、蒲生賢秀と合流して日野城に立て籠もったともいわれる。

豊臣政権期

信長死後は父・利家と共に柴田勝家に与する。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにも参加し、戦後は父と共に越前府中城へ撤退する。父が羽柴秀吉に恭順し、秀吉と共に勝家の本拠・北ノ庄城を攻める折り、秀吉は利長母のまつに「孫四郎は置いていく」と利長を残しておこうとしたが、まつはそれを断り、利長を従軍させた。利長はわずか2騎の供回りで北ノ庄城攻めに加わったと伝わる。

勝家の自刃後は秀吉に仕えた。天正13年(1585年)、秀吉により佐々成政が支配していた越中国富山県)が制圧されると、同国射水郡砺波郡婦負郡32万石を与えられた。秀吉の配下として九州征伐[1]小田原征伐などに従軍参加し、各地を転戦して功績を立てた。特に九州征伐では蒲生氏郷と共に岩石城を落とす活躍をしている。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。

慶長3年(1598年)には利家より前田家家督と加賀の金沢領26万7000石を譲られる。

利家死後

父の利家は豊臣政権において五大老の一人として徳川家康に対抗する位置にあった。慶長4年(1599年)閏3月3日、利家が病死したため、その跡を継ぎ五大老の一人(及び秀頼の傅役)となる。その翌日に五奉行の一人石田三成が襲撃されるなど党派抗争が始まり、前田氏は対徳川の急先鋒的立場に立たされる。

利家の遺言では3年は上方を離れるなとあったにもかかわらず、同年8月、家康の勧めにより金沢へ帰国した。翌月、増田長盛などが利長・浅野長政らの異心を家康に密告する。この時期、前田氏を屈服させようとする家康の謀略があったと考えられており、家康は強権を発動して加賀征伐を献言する。

この家康による加賀征伐に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため、実母の芳春院(まつ)の説得もあり、重臣の横山長知を弁明に3度派遣し、芳春院を人質として江戸の家康に差し出すこと、養嗣子・利常珠姫徳川秀忠娘、後の天徳院)を結婚させることなどを約して交戦を回避した(慶長の危機)。この際に浅野長政・浅野幸長大野治長などが連座している。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)、家康は会津上杉景勝討伐のために出陣し、利長にも出陣が命じられる。家康出陣中に石田三成らが五大老の一人毛利輝元を擁立して挙兵すると、利長は大聖寺城石川県加賀市)を攻略し、越前まで平定。金沢への帰路の8月8日には小松城(石川県小松市)主・丹羽長重軍に背後を襲われ、からくも撃退した(浅井畷の戦い)。9月11日、弟・前田利政の軍務放棄に悩まされながらも再び西上。18日には長重と和議を結ぶ。

北陸三ヶ国120万石の太守

関ヶ原の戦い後、西軍に与した弟・利政の能登の七尾城22万5,000石と西加賀の小松領12万石と大聖寺領6万3,000石(加賀西部の能美郡・江沼郡・石川郡松任)が加領され、加賀・越中・能登の3ヶ国合わせて122万5千石を支配する日本最大の藩・加賀藩が成立した。 利長は、関ヶ原の戦いで敗れて薩摩へ逃れていた宇喜多秀家の助命を家康に嘆願し、実現した。また家康の重臣・本多正信の次男の本多政重に3万石を与えて召し抱えた。

晩年

男子がなかったので、異母弟の利常(利家の四男、初名は利光)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した(隠居領は新川郡22万石)。幼い利常を後見しつつ富山城を改修、城下町の整備に努めた。慶長14年(1609年)、富山城が焼失したため一時的に魚津城で生活した後、射水郡関野に高岡城高山右近の縄張と伝わる)を築き移った。城と城下町の整備に努めるも、梅毒による腫れ物が悪化して病に倒れた。隠居領から10万石を本藩へ返納するなど自らの政治的存在感を薄くしていく。18年には豊臣より織田頼長が訪れ勧誘を受けるが、利長はこれを拒否した。

慶長19年(1614年)、病はますます重くなり京都隠棲、及び高岡城の破却などを幕府に願って許されるが、5月20日に高岡城で病死。服毒自殺説ともされる(『懐恵夜話』)。享年53。高岡に葬り、のち利常が菩提寺として瑞龍寺(堂宇は国宝)を整備した。高岡市立博物館で肖像画等の関連資料を常設展示している。

遺物・遺産

法名
瑞龍院殿聖山英賢大居士
墓所
肖像画
  • 富山県高岡市金屋町共有本
  • 高岡市石堤の長光寺本(原本焼失、複製:高岡市立博物館蔵)
  • 富山県魚津市教育委員会本
書跡
「前田利長書状」(高岡市立博物館、高岡市内の個人、財団法人前田育徳会、石川県立歴史博物館蔵など多数)

官職位階履歴

※日付=旧暦

  • 天正9年(1581年) - 越前国府中城主となり3万3000石を領有する。
  • 天正11年(1583年) - 加賀国松任城主となり、4万石を領有する。
  • 天正13年(1585年
    • 8月 - 越中国守山城主となり、32万石を領有する。
    • 9月11日 - 秀吉から羽柴の苗字を賜る。[2]
    • 11月 - 従五位下肥前守に叙任。
  • 天正14年(1586年) - 従四位下に昇叙し、侍従を兼任。能登一国を領有する。
  • 天正16年(1588年) - 豊臣の姓を賜る。[3]
  • 文禄2年(1593年)閏9月 - 左近衛権少将に転任。肥前守如元。
  • 文禄4年(1595年9月 - 左近衛権中将に転任。肥前守如元。
  • 慶長2年(1597年)9月28日 - 参議補任。
  • 慶長3年(1598年)4月20日 - 従三位権中納言に昇叙転任。利家の隠居で家督相続。
  • 慶長4年(1599年
    • 閏3月3日 - 利家が死去し、豊臣家五大老の一角として就任。
    • 12月20日 - 権中納言辞任。
  • 慶長6年(1601年) - 戦功による加増に伴い、約120万石を領有する。
  • 慶長10年(1605年)6月28日 - 隠居。
  • 慶長19年(1614年)5月20日 - 正二位権大納言追贈。

子供

  • 長女:満姫(まんひめ、慶長10年(1605年) - 慶長16年2月21日1611年4月4日))
    唯一の実子。母は、越中国射水郡二塚村(現・富山県高岡市二塚)の十村大坪助左衛門の娘。名前は石姫とも伝わる。法名は蓮成院殿妙侃大姉。2002年に菩提寺の高岡市本陽寺で、享年と没日と法名が記された坐像が発見された。生没年と法名はこれに基づく。それまでは、乳児のうちに死んだというのが定説であった。

脚注

  1. 父の利家は留守居として兵8000で畿内に残留。
  2. 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」、1996年。
  3. 村川前掲書。

関連作品

関連文献

関連項目

外部リンク

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