越中国

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テンプレート:Pathnav テンプレート:基礎情報 令制国 越中国(えっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の富山県にあたる地域である。

沿革

7世紀末には、越国(高志国)が分割されており、後の越前国越中国越後国の前身となる行政区分が置かれていたと考えられている[1]大宝元年(701年)8月3日-同2年(702年)10月14日までに、大宝律令が制定され、全国的な施行に至ることから、遅くともこの頃までには、令制国としての越中国が成立していた。

律令施行時の大宝2年(702年)3月17日に、越中国の4郡を分ち越後国に属する[2]という記録がある。これが文献上の越中国の初見である。越中国は礪波郡射水郡婦負郡新川郡の4郡で構成される令制国となり、現在の富山県と領域をほぼ同じくする。

養老2年(718年5月2日越前国から分立して成立した能登国天平13年(741年12月10日に越中国と併合したが、天平宝字元年(757年)に能登国は越中国から再び分立した。

天平18年(746年)に大伴家持国司として赴任してくると万葉集の数多くの歌が詠まれた。

天平宝字2年(758年)、越中国に駅鈴が初めて設けられた[3]宝亀6年(775年)3月2日、大小員を設置した。延暦23年(804年)6月10日、上国に定められた[4]

越中には大きな勢力がなく、豪族国人と呼ばれる小勢力が散らばっていた。彼らは時勢にしたがい木曾義仲北条氏の支流で守護名越氏桃井直常などに協力し活躍した。

室町時代には、桃井氏や斯波氏との抗争を勝ち抜いた畠山氏守護職を得て守護大名となったが、守護自身は在京して、現地の統治は神保氏といった守護代に任せることが多かった。明応の政変神保長誠の手によって将軍足利義材放生津に迎えられ、一大政権を築き放生津幕府と称された。この頃に浄土真宗が広まり一向一揆も多発した。

戦国時代になると、守護畠山氏は神保氏と仲違いをし、代わりに分家の能登畠山氏の力を借りて統治を維持しようとしたが、畿内における内紛が激しくなる中で勢力を失った。そうした中、神保氏を始めとする畠山氏の被官の氏族が台頭する。新川郡の守護代である椎名氏越後長尾氏上杉氏)の支援を受け、射水郡婦負郡の守護代である神保氏と抗争を始め、越中大乱と呼ばれる争いが勃発した。

この抗争は上杉氏側の国人が勝利したが、敗れた神保氏も織田信長の支援を受け、柴田勝家を司令官とする織田氏の北陸侵攻が始まり、やがて越中の上杉氏の勢力は駆逐されていった(魚津城の戦い)。

本能寺の変で信長が横死した後、柴田勝家の支援の下で佐々成政が越中を統一したが、勝家が羽柴秀吉に敗れると、成政は秀吉に帰服せず、秀吉方の隣国の加賀・能登の前田利家と争った。前田氏を支援した羽柴秀吉による富山の役により、成政は敗北。その所領は新川郡のみとなり礪波郡・射水郡・婦負郡は前田氏に与えられた。

江戸時代初期には土方氏布市藩があったが、能登国内の領地と交換して、越中全域が前田領となった。後に加賀藩の支藩として富山藩(婦負郡と新川郡の一部)が置かれたが、国内の大半は加賀藩領であった。その後は改易されることもなく、廃藩置県を迎えた。

近代以降の沿革

国内の施設

国府

国府は、射水郡にあった。現在の高岡市伏木古国府。現在の勝興寺の附近が国府跡とされており、境内に「越中國廰址」の石碑が立てられている。また、近くの高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)が「東館(ひがしだち)」という小字名から国司館跡と想像され、「國守館址」の石碑が立てられている。しかし、敷地内からは9世紀の建物跡が発掘されているが、奈良時代のものは確認されていない。 平安時代末に新湊(現射水市)に移されたことがあり、太平記には新湊での戦いが記録されている。

国分寺・国分尼寺

国分僧寺は現在の高岡市伏木一宮にあり、気多神社の近くの「国分寺跡」に薬師堂が建立されている。

尼寺の遺構は、現在まで発見されていない。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社1社1座・小社32社33座の計33社34座が記載されている。大社は射水郡にあったとされるが、写本により異同があり、以下の2社の説がある。
  • 射水郡 気多神社 - 九条家本(最古の写本)に拠る。高岡市伏木一宮。
  • 射水郡 射水神社 - 出雲本に拠る。江戸時代までは高岡市二上にあったとされる。
総社一宮

能登国が越中国の一部であった時代、越中国の一宮は現在の気多大社であったが、能登国を分立する際に二宮であった射水神社が越中国一宮とされた。白山比咩神社の社伝『白山記』には、「二神(射水神社)が元々の一宮であったが、新気多(気多神社)に一宮を取られた」とあり、気多大社から分祀して国府の近くに新たに創建された気多神社(新気多)が力をつけ、二上と新気多とが勢力争いをした結果、新気多が勝って一宮を名乗るようになったということになる。延喜式の写本における名神大社の異同もこの勢力争いの結果によるものとみられる。ただし、気多神社は新しく作られた神社ということで、名神大社でありながら射水郡の最後に書かれている。

後に気多神社の社勢が衰え、また、平安時代末の一時、国府が礪波郡に移された関係から、礪波郡の高瀬神社南砺市高瀬)が一宮を名乗るようになった。一宮について各国一社のみを記す書籍では、越中国の一宮は高瀬神社と記しているものが多いが、だからと言って高瀬神社のみが一宮であるということでもない。江戸時代に全国の一宮を巡拝した橘三喜は、「越中の一宮は礪波郡にあるらしいが、それらしき社は見えず」とし、射水と気多にのみ参って高瀬には参っていない。

中世に書かれた『神道集』では、越中一宮は立山権現雄山神社立山町))であると記されている。これは中世以降の立山信仰の普及に伴い、その中心地である立山権現が一宮とみなされたものとみられる。

現在では射水・気多・高瀬・雄山の4社ともが「越中国一宮」とされるが、射水神社・雄山神社は一宮の称を積極的には使用していない。

地域

※以下四郡は、天平13年(741年)12月-天平宝字元年(757年)5月の能登国が越中国に併合された期間のみ

人物

国司

越中守

越中介

越中掾

越中目

越中史生

守護

鎌倉幕府

室町幕府

(以後畠山氏)

武家官位としての越中守

脚注

  1. 『日本書紀』持統天皇6年(695年)9月癸丑条、『続日本紀』文武2年(698年)3月丁卯条
  2. 『続日本紀』大宝2年(702年)3月甲申条 
  3. 『続日本紀』天平宝字2年(758年)9月丁酉条
  4. 『日本後紀』延暦23年(804年)6月癸丑条
  5. 旧高旧領取調帳」は越中国分が欠けているため、木村礎の手により「天保郷帳」をもとに作成され、「日本史料選書13 旧高旧領取調帳 中部編」(近藤出版社、1977年)に掲載されたデータが国立歴史民俗博物館によりデータベース化されている。

参考文献

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