蒲生賢秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 武士

蒲生 賢秀(がもう かたひで)は、戦国時代の武将近江日野城主。

生涯

天文3年(1534年)、六角氏の重臣・蒲生定秀の長男として生まれる。母は同じく六角氏の重臣馬淵氏の女。主君である六角義賢より偏諱を賜り、賢秀と名乗った。

父と共に六角氏に仕え、観音寺騒動が発生すると父・定秀とともにその収拾に尽力し、永禄10年(1567年)に制定された分国法・『六角氏式目』に父とともに連署している。

永禄11年(1568年)、義賢と織田信長による観音寺城の戦いでは、賢秀は柴田勝家蜂屋頼隆等に攻められるが、これを堅守した。しかし、義賢は信長に敗北し、六角家は滅亡する。賢秀は敗北を聞いてもなお1千の兵で日野城に籠もり、抵抗する様子を見せていた。しかし、賢秀の妹を妻としていた織田家の部将神戸具盛が単身日野城に乗り込んで説得した結果、賢秀は降伏し、賢秀は嫡男・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として差し出して信長の家臣となった[1]。信長は賢秀・氏郷父子を気に入り、氏郷に娘の冬姫を嫁がせて娘婿に迎えている。後に信長包囲網が敷かれると六角氏から誘われたこともあったが、断固断って織田家の部将として戦った。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、安土城の留守居を務めていた賢秀は濃姫等織田家の女性たちを保護して日野城へ立て籠もった。この時、明智光秀は法外な恩賞をもって賢秀を勧誘したが、賢秀は信長の恩を忘れることはできないと敢然と拒絶したという。天正12年(1584年)4月17日に死去。享年51。墓所は恵倫寺福島県会津若松市)。

人物・逸話

  • 明智光秀の勧誘を拒絶した律儀さにより「日野の頑愚どの」との異名を受けた。しかし一方で安土城に火を放たず、財物をそのまま残し退去したので、明智方に日野城まで攻め込まれるのを恐れてそのままにしたと、臆病者、小心者との評価もある(安土城と財物を明智方にくれてやる様な行動で有り、留守役の職務常識を逸脱している)。『老人雑話』に「日野の蒲生殿は陣とさえ言や、下風おこる」(戦と聞いただけで臆病風にふかれる)という小唄が紹介されている。
  • 神戸具盛、関盛信の妻はいずれも賢秀の姉妹にあたる人物であり、その縁から両者が織田信長によって追放された際は、身柄を預かっている。

脚注

  1. 『日本人名大事典 2 カ-コ』(平凡社