上杉景勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 武士 上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名豊臣政権五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目で、上杉宗家(重房を初代として)17代目。

本姓平氏、後に藤原氏豊臣氏を経て藤原氏となる。家系は桓武平氏の血を引く長尾氏の生まれで、叔父・上杉謙信の養子となり上杉氏となる[1]

生涯

出生から家督争いまで

テンプレート:Main

弘治元年(1555年)、越後国魚沼郡上田庄(現・新潟県南魚沼市)の坂戸城下に上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれる[2]。 生母は上杉輝虎(謙信)の実姉・仙桃院。輝虎の甥に当たる。長兄が早世したので世子となるが、永禄7年(1564年)の父・政景の溺死を受け、春日山城(現・新潟県上越市)に入って叔父・謙信の養子となった[3]

永禄9年(1566年)に行われた謙信の関東出兵が初陣であると言われている。以降、景勝は上田衆を率いて越中の将・椎名康胤の取成や謙信旗本吉江資堅の軍役を定めるなど、謙信政権下で重要な役割を担っていく。

天正3年(1575年)、名を長尾顕景(ながお あきかげ)から上杉景勝(一説では長尾景勝)に改めると共に、謙信から弾正少弼の位を譲られた。同年の『上杉家軍役帳』によると総勢375人の軍役を負担し、謙信への尊称であった「御実城様」と似た呼び名である「御中城様」として上杉一門衆筆頭に記載される。

天正6年(1578年)3月13日、謙信が死去すると、後北条氏から人質として出され謙信が養子に迎えた上杉景虎との相続争いが勃発する[4]御館の乱)。これは謙信が後継者を指名しないで急死してしまったことや、越後国の長尾諸家を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んでいると言われる。3月24日、いち早く春日山城本丸と金蔵を占拠した景勝側が有利となり、春日山城下の御館(上杉憲政の屋敷)に立て籠もった景虎と争う。6月には甲相同盟に基づき武田勝頼が景勝・景虎間の調停のため信越国境まで出兵すると一転して景勝は窮地に陥った。

しかし、東上野の割譲と黄金譲渡を条件として武田氏と和睦したことによって武田家の後ろ盾を得た景勝は戦局を覆した。またこのときに勝頼の異母妹・菊姫と婚約し、翌年9月には正室として迎えることで甲越同盟を結び、武田との関係を強化した(上杉家当主が武田家から正室を迎えたのは室町期の上杉禅秀以来)。なお、勝頼は三河国徳川氏駿河国に侵攻したため、同年中に越後から撤兵している。

天正7年(1579年)、景虎正室である実姉(妹とも)・清円院は景勝からの降伏勧告を容れずに自害(没日の記録より、景虎とともに鮫ヶ尾城で自害したとの説もある)。同年3月、和議を申し出ようとした養祖父の上杉憲政が景虎の嫡男・道満丸とともに何者かによって討たれる[5]など徐々に立場を悪くした景虎は自害する。翌天正8年(1580年)には越後国の豪族も追従し、景勝は名実ともに上杉家の当主となった。そして戦後処理では自分に味方した豪族への恩賞は抑えて上田長尾系の家臣を大身に取り立て、謙信と共に戦った国人衆は景虎方だけでなく自派までも粛清して上田長尾が完全支配する体制を築いていく。

織田家との戦い

上杉氏は謙信期の天正4年に本願寺との和睦により織田氏と敵対関係になっていたが、御館の乱の混乱が続く天正9年(1581年)、乱の恩賞問題により対立状態にあった北越後の新発田重家織田信長と通じて造反した上、柴田勝家率いる織田軍に越中国にまで侵攻される。翌年には越中への出陣を約束していた武田氏の滅亡によって、その後ろ盾を失うなど、上杉家は滅亡の危機に立たされた。

天正10年(1582年)、織田軍は越中を完全に制圧(魚津城の戦い)して上杉氏は窮地に立たされる。魚津城落城の直前、景勝は魚津城の守将達へ激励の手紙を送っている[6]。この中で景勝は、城の守将一人一人のかつての武勲やこれまでの忠義を褒め称えている[7]。しかし結局魚津城は落城、守りの将達は討死を遂げた。

この年の5月、景勝は佐竹義重へ一通の書状を送る。そこには「自分は良い時代に産まれた。六十余州を相手に越後一国をもって戦いを挑んで対峙し、滅亡することは、死後の思い出である」と綴られていた[8]。景勝は、玉砕覚悟で信長との決戦を決意していた。七宮涬三はこの景勝の「遺言状」について、「若さが心の底から吹きあげてきたような言葉」と評している[9]。この時、景勝は27歳であった。

窮地に立たされた景勝だが、6月2日、信長が本能寺にて自害(本能寺の変)したために織田軍の北征は頓挫し、上杉家は九死に一生を得た。しかし、織田氏の侵攻に加えて御館の乱が長期化したため、領内に対する統治力が低下したことから、謙信が一代で拡大した上杉氏の国力は著しく衰退した。また、景勝の上田衆重用に不満を持ち謀反した新発田重家と放生橋にて戦い、菅名但馬守・水原満家・上野九兵衛ら名のある大将を討ち取られ、安田能元が重傷を負い、景勝自身も今一歩というところまで追いつめられる大惨敗を喫した。(放生橋の戦い)

豊臣政権時代

信長の死後は北信濃に侵攻して北条氏直と争うが、北信濃4郡の割譲を条件に講和した(天正壬午の乱)。その後、信長の天下統一事業を継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)と好を通じ、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは秀吉より、越中国侵攻を命ぜられた。しかし、柴田方に組した佐々成政と睨み合いになり、本国から動けず合戦には参加できなかった。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)、富山の役でも秀吉に味方し、佐々成政を牽制した。また同年、信濃国真田昌幸を一時的に従属下に置いた。

天正14年(1586年)6月、上洛して秀吉と会見し、養子・畠山義真(当時は上杉姓)を人質として差し出して臣従し、命脈を保った。その際に、越中国と上野国真田氏の大名としての独立)の領有を放棄、換わりに佐渡出羽の切り取りを許可される。このとき、景勝は正親町天皇に拝謁して右近衛少将に任じられた。

天正15年(1587年)、秀吉の後ろ盾と協力を得た景勝は、長年にわたり抗争状態にあった新発田重家を討ち(新発田重家の乱)、再び越後統一を果たした。天正16年(1588年)には上洛し、豊臣姓羽柴の名字を下賜され、6月15日従三位・参議に昇叙された[出典 1]。 天正17年(1589年)には佐渡国の本間氏を討伐し、佐渡国を平定した。これにより、越後、佐渡二国に信濃川中島四郡と本庄繁長最上義光と激しい争奪戦をして奪った出羽庄内三郡、併せて約90万石の支配領域が確定した。

天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐にも、山浦景国を先鋒として出兵し、前田利家や真田昌幸らとともに、上野・武蔵の北条方諸城を攻略した。

文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵が始まると、5,000人を率いて肥前国名護屋に駐屯し、翌文禄2年(1593年)の6月6日から9月8日まで、秀吉の名代として家臣の高梨頼親らを伴って渡鮮する。このとき朝鮮半島における日本軍最前線基地として熊川に城(倭城)を築城している。文禄3年(1594年)には中納言となり、「越後中納言」と呼ばれた。

文禄4年(1595年)1月、秀吉より、越後・佐渡の金銀山の支配を任せられた。同年豊臣家五大老の一人小早川隆景が家督を小早川秀秋に譲り隠居したため、空いた五大老に景勝が任命された。

慶長3年(1598年)、秀吉の命により会津120万石[10]に加増移封され、以後は「会津中納言」と呼ばれた。一説によると当初、秀吉は徳川家康ではなく景勝を関東管領の位置付けとして、関東に移封するつもりであったともいわれる。旧領地から引き続き統治が認められたのは、佐渡一国及び越後のごく一部(東蒲原)と出羽庄内地方のみで、後は伊達氏の領地だった出羽置賜地方陸奥伊達郡信夫郡刈田郡伊達政宗が征服した会津地方であった。また、各地は山地で隔絶され、現在でも交通の難所と呼ばれる峠道で結ばれているだけであった。常に北側に境を接する最上義光、伊達政宗と衝突の危険性が有り、宇都宮12万石に減移封された蒲生氏に代わり東北諸大名と家康の監視と牽制という重大な使命が科せられ、結果的に家康との対立は避けられないものとなる。景勝は要となる米沢城に家老の直江兼続を配置、対伊達氏最前線の白石城甘糟景継福島城の本庄繁長、梁川城須田長義東禅寺城志駄義秀を指揮させた。

会津征伐

テンプレート:Main 慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、家老の直江兼続が五奉行石田三成と懇意にあった事などの経緯から徳川家康と対立する。同年9月、秀吉の葬儀のため、上洛。慶長5年(1600年)2月になると、景勝は夏までに領内諸城の補修を命ずる。3月になると鶴ヶ城が将来手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城(神指城)の建築を命ずる。

4月、家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出るがこれを拒否する。この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。この際、兼続による挑発的な返答が、家康の会津征伐を煽ったとされる(直江状)。家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣し、景勝は神指城の突貫工事を命ずるが、6月になると普請を中断して家康軍の対応にあたる。7月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが挙兵(関ヶ原の戦い)し、家康が西上するとなると会津から出兵。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った(慶長出羽合戦)。しかし、9月15日の本戦で三成ら西軍が敗れたため、12月に家康に降伏することを余儀なくされた。

慶長6年(1601年)2月上旬、家康は結城秀康のとりなしで豊光寺西笑承兌を介して兼続に音信させ、景勝の上洛陳謝を促した。景勝が兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許された。なお、文禄4年(1595年)、景勝夫人・菊姫と兼続夫人・お船の方は証人として伏見邸に入っていたが、両夫人は引き続き徳川の証人として、伏見邸に留め置かれた[出典 2]。しかし改易は免れたものの、置賜・信夫・伊達の3郡からなる出羽米沢(30万石[11])藩主として減移封され、上杉家は景勝一代において北信越の大大名から出羽半国の一大名へと没落した。

米沢藩主時代から晩年

減封後は米沢藩の藩政確立に尽力した。

慶長8年(1603年)2月21には幕府から江戸桜田に藩邸を与えられる[出典 3]。 翌慶長9年(1604年)2月には菊姫が死去するが、同年5月には側室との間に嫡男・玉丸(定勝)が誕生している[出典 4]。 慶長10年(1605年)4月には徳川秀忠の将軍宣下に参列している[出典 5]。 慶長14年(1609年)2月には母の仙桃院が死去。翌慶長15年(1610年)4月には駿府で徳川家康と謁見し、同年末には江戸桜田邸に将軍秀忠が御成している。

慶長19年(1614年)正月には松平忠輝の居城高田城築城の際、伊達政宗の指揮の下天下普請を行なった[出典 5]。 同年10月、豊臣家が徳川家の江戸幕府への臣従を拒み起こった大坂冬の陣においては徳川方に起請文を提出し、先発した直江兼続とともに出陣する。10月12日には二条城において家康と謁見し、同25日の鴫野の戦いなどで大功を挙げる[出典 6]。 この年は大坂で越年し、翌慶長20年(1615年)2月にはいったん米沢へ帰国した。同年4月には豊臣家が、江戸幕府の要求した大坂からの退去を拒否したため出兵し、大坂夏の陣では京都警備を担当し、八幡山に布陣した。同年5月に大阪城は落城し、米沢へ帰国する。

元和5年(1619年)4月には将軍・秀忠の上洛に供奉する。同年末には直江兼続が死去。元和7年(1621年)9月には伊達政宗・佐竹義宣とともに秀忠から饗応をうけており[出典 7]、翌元和8年(1622年)9月には出羽山形藩主・最上義俊(最上義光の孫)の改易に際して、その居城である山形城の受け取りを務めた[出典 5]

元和9年(1623年)正月には嫡男・千徳が将軍・秀忠に謁見し、定勝と名乗る。同年3月20日、米沢城で死去。享年69。後は嫡男の上杉定勝が継いだ。石高の変遷はあったが、米沢藩上杉家は幕末まで続いた。

墓所:遺骨は和歌山県高野町の高野山清浄心院、遺灰と衣冠は山形県米沢市の上杉家御廟所に、それぞれ納められている。

経歴

※日付は大正記述以外は、旧暦

  • 弘治元年(1555年)11月27日生、幼名:卯松。
  • 永禄7年(1564年)実父・長尾政景溺死ののち、上杉謙信の養子となり、元服し、名を喜平次顕景と称す。
  • 天正3年(1575年)1月11日、養父上杉謙信より諱を景勝と改名させ、弾正少弼の官職を官途書出。謙信が称していた弾正少弼の官職を継承することによって、上杉家の家督後継者に浮上する。
  • 天正6年(1578年)~同7年(1579年)、御館の乱。上杉謙信養子である上杉景虎と戦い、上杉家の家督を相続。
  • 天正14年(1586年)6月22日、上洛により、豊臣秀吉と接見。従四位下に叙せられ、左近衛権少将に任官。これにより、秀吉から景勝宛の書状の宛先が「上杉殿」から「上杉とのへ」と書式が変わり、秀吉の家臣的立場となる。
  • 天正16年(1588年)5月26日、上洛し、従三位に昇叙し、参議に補任。清華家の家格に列す[12]
  • 天正17年(1589年)9月28日段階で近衛中将を兼帯している。羽柴の名字と豊臣の姓を与えられ羽柴越後宰相中将と称される[出典 8]
  • 文禄3年(1594年)10月28日、上洛し、豊臣景勝として、権中納言に転任。
  • 文禄4年(1595年)8月3日、公家武家の法度を徳川家康前田利家宇喜多秀家毛利輝元、小早川隆景とともに連署し、制定。豊家の重要施策において、加判する立場となる。
  • 慶長2年(1597年)6月以降、小早川隆景の薨去に伴い、豊家五大老入り。
  • 慶長3年(1598年)1月10日、豊臣秀吉から陸奥国会津へ移封(120万石)の命が下る。従前、越後中納言と称され、以後、会津中納言と称される。4月18日、権中納言辞任。
  • 慶長5年(1601年)8月16日、徳川家康より出羽国米沢(30万石)への移封の命が下る。
  • 慶長9年(1604年)、嫡子・上杉定勝が生まれる。
  • 大正11年(1922年)9月7日 贈正三位

人物 ・逸話

テンプレート:複数の問題

  • 感情を表に出すことがほとんどなかったといわれる。ある時、飼っていた猿が景勝の座に座って、もっともらしくうなずいたり、部下に指図したりといった自分の物まねをしていたのを目にし、そのあまりの可笑しさに思わず笑みをこぼしたが、これが生涯でただ一度家臣たちの目前で見せた笑顔であったという(上杉将士書・上)。テンプレート:信頼性要検証
  • 景勝が秀吉に招かれて上洛するとき、数百の供を連れた。上杉兵は将兵共によく威信が行き届いており、行軍中は無駄口を叩かず粛然としており、人馬の歩む音がするだけだったという(上杉将士書・上)。テンプレート:信頼性要検証
  • 上杉軍が富士川を渡るとき、兵が先を争って舟に乗り込んだため転覆しそうになった。景勝はそれを見て手に持っていた鞭を一振りしたが、それを見た上杉兵は縮みあがって我先に川に飛び込んだという(上杉将士書・上)。テンプレート:信頼性要検証
  • かなりの愛刀家であったとされる。卓越した鑑定眼を持ち、特に気に入ったものから選抜した「上杉景勝御手選三十五腰」と呼ばれる目録にまとめており、収集物には国宝や重要文化財が多数含まれている。
  • ある時、豊臣秀吉が京都・伏見城(もしくは大坂城)に各大名を招き宴が開かれたが、この宴の会場に前田慶次郎が紛れ込んでいた。宴もたけなわになった頃、慶次郎は末席から猿面をつけ手拭いで頬被りをし、扇を振りながら身振り手振り面白おかしく踊り出し、ついには列席している大名達の膝の上に座っては猿真似をやるという暴挙にまで至ったが、大名達は宴の余興ゆえに咎める者も怒り出す者もいなかった。しかし、上杉景勝の前に来ると慶次郎は膝に乗ることを避けた。その理由について尋ねられた慶次郎は、「景勝の前に出ると威風凛然としていてどうしても座ることが出来なかった」と語ったという。また「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝殿をおいて外にあるまい」と慶次郎が後に語ったということから[出典 9]、義を貫く人物は景勝をおいて他にはいないと見込んでの、慶次郎なりの敬意を示した行動だったともいわれている。
ファイル:Letter from Uesugi Kenshin to Uesugi Kagekatsu.jpg
上杉輝虎(謙信)書状 喜平次(景勝)宛
景勝の陣中見舞いに対する礼状。追伸で景勝の字が上達したことを褒め、習字の手本を送るとしている。
  • 叔父であり義父である上杉謙信との仲については諸説あり、尊敬、思慕の対象であったという見かたから、実は険悪であったという説まで様々である。これは謙信が後継体制を築く前に急死したことが影響しているともいわれる。また父の政景が謙信と対立していたことから謙信による政景暗殺説が存在するが、これらの影響か景勝による謙信暗殺説も存在する。しかしその一方、景勝は晩年病床に臥したとき、宗心という法名を名乗っている。これは謙信がかつて名乗ったことのある法名である。
  • 奥羽永慶軍記』には、景勝は身辺に女を一切近づけないほど極端な女嫌いで、当然ながら正室の菊姫と非常に不仲[13]であると共に、衆道を甚だしく好み、身辺にはもっぱら美貌の少年達のみを侍らせていたという話がある。しかし、この話には側室の四辻氏の出自を大谷刑部の家臣の娘であった遊女とし、直江兼続が世継ぎを生ませる為、この女を男装させて景勝に引き合わせて定勝を生ませたが、このことを知って激しく嫉妬した正室・菊姫の怒りを鎮めるためにこの女は自ら自害したとし、それを知って恨みを抱いた定勝が兼続を自らの手で殺害するという明らかに史実と異なる記述や考証がされており、信憑性には問題がある。景勝は慶長17年(1612年)8月に衆道禁止令を発布しており(「三重年表」)、これを根拠として男色家ではないとする説もある。[14]
  • 米沢への減移封の際、景勝は所領を大幅に減らされたにも関わらず、家臣の召し放ちを行わなかった。この事が後世の米沢藩の財政難の原因になっている。
  • 京都府京都市伏見区にある景勝町の地名の由来は、かつてこの地に景勝の伏見の下屋敷があったことに基づく。
  • キリスト教に寛容であり、幕府が禁教令を出し、領内での取り締まりを命じられても「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と答えて、領内のキリシタンを護ったと『日本切支丹宗門史』に記載されている(記事の原文は、1629年7月、会津若松の宣教師からイエズス会総長に送られた報告書である)。当時のイエズス会宣教師ペドロ=モレホンは景勝を評して「異教徒中の異教徒(大いなる異教徒)」と述べており、景勝自身がキリシタンに好意を有していた訳ではないといわれているが、長年苦楽を共にしてきた有能な家臣たちを失いたくなかったためと伝えられている。実際、元和6年(1620年)の仙台藩を皮切りに東北諸藩がキリシタンへの弾圧を開始するなか、米沢藩では景勝が元和9年(1623年)3月に没するまでの間、幕府の禁教令を受ける形でキリシタン禁制の高札を領内に立てこそしたが、実際にキリシタンへの取り締まりや弾圧を行った記録などは残されていない[15]
  • 名将言行録』によると会津征伐のとき、徳川家康への追撃を主張する兼続に対して、景勝は「太閤が他界する前、御前で生涯逆心しない旨の起請文を書き、その誓紙を太閤の棺に納めることは天下ことごとく知っている。この度のことは家康から仕掛けてきたので合戦の備えをしたが、家康が江戸に引き返した以上、こちらも会津へ引き返すのが道理と言うものだ。いま家康を追撃すれば先々申してきたことは全て偽りになり、天下最大の悪人として信用を失う」と述べたという。テンプレート:信頼性要検証
  • 景勝が弾正少弼を謙信から譲り受けた際の2通の書状が、景勝自身の筆跡と同じであるとし、景勝が自己を正当化する為、偽作したとの説(「新潟県史」「上越市史 通史編2 中世」)がある。しかし、上杉景虎が蘆名盛氏にあてた書状には「先日申入れ候如く、少弼曲なきからいゆえ」と景勝を少弼と呼んでいる処をみると、景勝官途は上杉家中において、公の事実と見て間違いないであろう。

家臣

脚注

テンプレート:Reflist

出典

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 『上杉景勝』児玉彰三郎(1979年、児玉彰三郎遺著刊行会)
  • 『上杉景勝のすべて』花ヶ前盛明(1995年、新人物往来社)ISBN 4404021801
  • 『上杉景勝伝』小野栄(2000年、米沢信用金庫叢書)
  • 『上杉景勝~転換期の時代を生き抜いた人生~』(2006年、米沢市上杉博物館)
  • 『上杉氏年表』池享・矢田俊文編(2003年、高志書院)ISBN 4906641733
  • 同書増補改訂版版 (2007年、高志書院) ISBN 4862150195
  • 『上越市史 通史編2 中世』(2004年、上越市
  • 『上杉家御年譜 2,3 景勝公』(原書房)
  • 『新装版上杉景勝のすべて』花ヶ前盛明(2008年、新人物往来社)ISBN 4404035780
  • 『守りの名将・上杉景勝の戦歴』三池純正(2009年、洋泉社)ISBN 9784862483621
  • 『上杉謙信・景勝と家中の武装』竹村雅夫(2010年、宮帯出版社)ISBN 9784863660564
  • 『上杉景勝』児玉彰三郎 復元版(2010年、ブレインキャスト)ISBN 9784939123306
  • 『世界人物逸話大事典』(角川書店
  • 山田邦明「日本史のなかの戦国時代」(山川出版社) ISBN 978-4-634-54695-0 
  • 七宮涬三 常陸・佐竹一族(新人物往来社) ISBN 978-4-404-03508-0

関連作品


テンプレート:越後長尾家歴代当主 テンプレート:山内上杉家歴代当主 テンプレート:豊臣政権

テンプレート:米沢藩主
  1. 後述する新発田重家との対立期の織田家の書簡には「長尾景勝」とあり、豊臣秀吉及び島津家の書簡にも「長尾」と散見される。ただし御館の乱前期に景勝が奉納した願文には「藤原景勝」と署名しており、少なくとも謙信没後には平氏長尾氏ではなく藤原上杉氏を称していたことだけは事実である。
  2. 南魚沼市樺野沢にある龍澤寺には上杉景勝公生誕の地の石碑がある。また坂戸城跡にも上杉景勝・直江兼続生誕の地という石碑があるが、『新編会津風土記』には景勝は樺沢城で生まれたと記載があることから、樺沢城が有力とされる。
  3. ただし、『上杉家御年譜』には永禄2年(1559年)頃には既に景勝が謙信の許にいたとする記述がある。
  4. 永禄年間に甲斐武田氏駿河侵攻に対して相模国のと越相同盟を結び景虎が養子として迎えられていたが元亀2年(1571年)に越相同盟は破棄され、武田氏と後北条氏の甲相同盟が回復していた。
  5. これには景勝の命令、景勝側の部下の裏切り、景虎側の部下の裏切り等様々な諸説があり断定はされていない。また、道満丸には信濃国豪族市川氏に庇護され、生存していたという説がある。
  6. 山田・55頁
  7. 山田・55-56頁
  8. 七宮・190頁
  9. 七宮・190頁
  10. 会津移封時、石高を明記した秀吉からの領地朱印状類は発給されていないが、「上杉家記」の「会津移封所領目録」には120万1200石余と記されており、会津120万石は通説として『藩史大事典 第一巻 北海道・東北編』(雄山閣、1988年)を始め多くの書籍に記載されている。なお「秋田家史料」(東北大学附属図書館蔵)の「全国石高及び大名知行高帳」には会津中納言として91万9千石。上杉将士書上には会津50万石国替。
  11. 幕府から上杉氏に与えられた領地判物の初見は寛文4年(1664年)の上杉綱勝宛領地判物「上杉家文書」であるが、景勝時代に軍役を賦課する場合の公式高としての30万石は大坂冬の陣での出勤数等より明らかとされている。(『山形県史 近世編上』第2章「藩の成立」64頁、115頁参照)また、原本、写本とも現存しないが、寛永11年(1634年)、家光より30万石の領地朱印状が交付されたと推測されている。(藤井穣治「寛永11年の領地朱印改と「寛永御朱印」」(『人文学報』74号、1994年) 参照)
  12. 『御湯殿上日記』天正16年8月17日条「越後の長尾、清華の御礼とて、御うま・太刀進上、観修寺・中山披露」。
  13. 「上杉家御年譜」には菊姫が病にかかった際、景勝がその病気平癒のために様々に手を尽くし、また菊姫が死去した際の景勝の嘆きの有様についての記述があり、菊姫の実家である武田家滅亡後も依然として正室であることも合わせて、少なくとも菊姫との夫婦仲が険悪だった可能性は低い。詳細は菊姫 (上杉景勝正室)参照。
  14. 他家もこの頃に衆道禁止令を相次いで発布している。この禁止令は上杉家も含む諸大名家当主らが、藩士間の衆道を原因とするいざこざ(著名な例として、大内義隆蘆名盛隆らが家臣との衆道のこじれが原因で、自身の死と家の滅亡を招いていることが挙げられる)を防ぐために発布したものであり、当主などの衆道に対する好悪との関わりは薄いと見られる。
  15. 景勝時代には常駐宣教師不在の中、甘糟信綱(甘糟景継の子とも、一族ともいわれている)親子や西堀式部(「寛永八年分限帳」に名前のみえる、御年寄衆西堀七左衛門政直の一族か)らが入信し、地道な布教活動が行われていたようだが、著しくキリシタンが増えるのは、景勝死後、アウグスチノ会の宣教師が置賜に常駐した寛永3年(1626年)以後のことと言われている。当時のフランシスコ会宣教師ディエゴ=デ=サンフランシスコの書簡には、当時米沢藩領内にいたキリシタンは一万人だが、半数の5000人は寛永3年からの五年間の内に受洗したと書かれている。これは、特に寛永元年(1624年)の仙台・秋田・南部諸藩の大迫害後、キリシタン禁制がゆるやかであった米沢藩内に活発な伝道が行われたことが窺われ、こうした信者の著しい増加が、藩庁や幕府の注目するところとなり、ひいては寛永5年12月(1629年1月)の米沢大殉教につながったとの見方もある。(参照 レオン=パジェス『日本切支丹宗門史』、菅野義之助『奥羽切支丹史』、浦川和三郎『東北キリシタン史』、『米沢市史・近世編1』)


引用エラー: 「出典」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="出典"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません