鍋島勝茂

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テンプレート:基礎情報 武士 鍋島 勝茂(なべしま かつしげ)は、安土桃山時代武将江戸時代前期の外様大名で、肥前佐賀藩の初代藩主

生涯

豊臣政権下から関ヶ原

天正8年(1580年)10月28日、龍造寺隆信の重臣であった鍋島直茂の長男として、石井生札の屋敷で生まれる。母は石井常延の次女陽泰院彦鶴姫。一時期、龍造寺隆信の次男・江上家種の養子になったこともある。

天正17年(1589年)、豊臣秀吉により豊臣姓を下賜された。

慶長2年(1597年)からの慶長の役では父と共に渡海し、蔚山城の戦いで武功を挙げた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、伏見城攻め(伏見城の戦い)に参加した後、伊勢安濃津城攻めに参加するなど、西軍主力のひとりとして行動した。しかし、父直茂の急使により、すぐに東軍に寝返り、筑後柳川の立花宗茂、同久留米の小早川秀包らを攻撃した。関ヶ原本戦には参加せず、西軍が敗退した後に黒田長政の仲裁で徳川家康にいち早く謝罪し、また、先の戦功により、本領安堵を認められた。

鍋島騒動から藩主へ

当時、佐賀藩は天正18年(1590年)に鍋島氏の主君であった龍造寺政家が病弱であったため、豊臣秀吉によって隠居させられ、家督は政家の長男・龍造寺高房が引き継いでいた。しかし幼少であることから、筆頭重臣である鍋島直茂が代わって国政を行う状態という、家督と国政の実権が異なる状況が続いていた。つまり鍋島氏は正式な大名ではなかったわけであるが、勝茂は豊臣時代からすでに大名世子としての扱いを受け、朝鮮出兵においても、父の直茂が総大将として出陣している。

ところが慶長12年(1607年)に高房、後を追うように政家も死去した。すると勝茂は幕府公認の下後を継いで佐賀藩の初代藩主となり、父の後見下で藩政を総覧した。勝茂はまず龍造寺家から鍋島家へのスムーズな政権移行に従事し、龍造寺家臣団と鍋島家臣団の整理を行い、各家臣から起請文を改めて提出させ、内乱の防止に成功したのである。

このように龍造寺家から鍋島家への継承は、他家の同様な例と異なり、ほとんど血を見ずに成功したものの、「鍋島化け猫伝説」などの説話が巷間に流れ、勝茂は歌舞伎や講談では主家を乗っ取った悪役とされてしまっている。これには、龍造寺高房が佐賀藩の実権を取り返せないことに絶望して自害したとされる(真相は不明)こと、勝茂の一子が突然死したこと、また寛永年間に高房の子・龍造寺伯庵が佐賀藩の統治権の返還を執拗に幕府に願い出たことなどによる。結局幕府はその都度伯庵の訴えを却下し、最後には江戸所払いにしたうえで第3代将軍・徳川家光の異母弟であり閣老の会津藩主・保科正之に50人扶持で永預けとした(伯庵死後、その遺児を300石にて取り立て、子孫は現在も続いている)。ただし、勝茂はこれらの件に対して、例えば一子の突然死後に半ば錯乱した父・直茂が巫女の占いを信じて家士数人を殺害するとこれを諌める書簡を江戸から送り、伯庵の訴えには穏便に処理するよう幕府に願い出たりしている。

一方で、旧家臣団と鍋島譜代の家臣団のいずれにもほとんど粛清がなかったために、石高のほとんどは家臣団への知行分となってしまい、藩主の直轄領が6万石程度しか残らず、藩政当初から財政面において苦しむこととなった。このため佐賀藩ではその後一貫して干拓など増収政策に取り組むこととなる。またこの間、検地を実施して35万7000石の石高があることを明らかにし、これに先立つ慶長7年(1602年)より佐賀城・蓮池城を近世城郭にふさわしい体裁を備えるべく築城(蓮池城は一国一城令のため破却)し、鍋島家統治のシンボルとした。

慶長19年(1614年)からの大坂の役では東軍に属した。

寛永14年(1637年)から翌年にかけての島原の乱に出陣するが、家臣が軍律違反を犯したために幕府に処罰された(一説には原城攻撃の期日を1日やぶって攻撃したのは、勝茂自身とされる)。

明暦3年(1657年)3月24日に死去。享年78。後を嫡孫の鍋島光茂が継いだ。

先代:
鍋島直茂
肥前鍋島氏当主
鍋島勝茂
次代:
鍋島光茂

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