津軽信枚

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津軽 信枚(つがる のぶひら、信牧とも)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名陸奥弘前藩2代藩主。津軽為信の三男。

生涯

天正14年(1586年)、陸奥津軽地方戦国大名・津軽為信の三男として誕生。母は側室の栄源院。

慶長元年(1596年)、父の命により兄の津軽信建信堅とともにキリスト教徒となった。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、津軽氏は父・為信が徳川家康方に、兄・信建が石田三成方についたともいわれている(これは親子兄弟が分かれて東西陣営両天秤にかけたともいわれている)。信枚の動向については、ある関ヶ原合戦図の東軍家康本陣には「卍」の旗が描かれており、これが信枚が家康本陣に詰めていたとする一史料とされている。また、戦後数々の親石田・西軍方的な動き[1]などが不問となり、父や兄を差し置いて、ひとり信枚だけが論功叙任されていること、わずかながらも上野国大館に加増2,000を受けており、前述の説が真実味を増す。

慶長12年(1607年)、兄や父の相次ぐ死により家督を継承した。家督相続のお礼言上に江戸へ伺候した際、天海に弟子入りする。天台宗に帰依改宗して教義を学び、藩内に天台宗寺院を建立して天海の高弟を迎え布教に尽力した。津軽藩の江戸藩邸は、天海のいる上野寛永寺そばに設けられ、後に津軽家の菩提寺津梁院となる。

徳川家との接近

ところが慶長13年(1608年)、兄・信建の遺児・熊千代(大熊)を擁する家中一派との、家督を巡る争いが起こる。一時、津軽氏は取り潰しの危機にさらされたが、信枚は江戸幕府に対して親睦策を取り、幕府人脈および幕閣の対立を背景にしてこの争いに勝利し、改易の危機を免れたという。その後、津軽建広ら熊千代派閥の粛清を行った(津軽騒動)。

慶長14年(1609年)には先代より整備が始まっていた高岡城(のち弘前城と城名が変わる)築城の正式許可が下りる。これを受け、5万石に満たない大名としては破格の五層の大天守をも持つ城郭を、着工から1年2ヶ月という早さで慶長16年(1611年)構築[2]し、城下に現在の弘前市に繋がる城下町を整備した。これは、幕府は北辺警備の都合も考慮して大城郭築城を許可したともいわれている。

また天海の推挽により、慶長18年(1613年)に徳川家康の養女・満天姫(再嫁。前夫は福島正之)を妻に迎えたことも、江戸幕府体制下での津軽氏の地位を固めた。信枚には辰姫を正室としていたが、満天姫を迎えるにあたり正室から側室に降格させている。この辰姫は豊臣秀吉正室の高台院の養女という身分であったが、実父は石田三成であり、幕府を憚った措置であるとも、幕府側から津軽家の態度を試す措置であったとも受け取れる。その後、上野国の飛び領地に住んだ辰姫は大舘御前と称され、信枚は参勤交代の度に訪ね、2人の仲は変わらず睦まじかったと伝わっている。元和5年(1619年)に辰姫は信枚の長男信義を生み、元和6年(1620年)には満天姫も男児(信英)を生んだといわれている[3]

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に徳川方として兵を率いて参陣したが、家康は信枚に江戸勤番を命じた。後に弘前藩が編纂した『津軽一統志』では「津軽は北狄の圧(おさえ)(略)要服の地たるにより(略)在国を憑(たの)むところなり、早速帰国に及ぶべし」と帰国を命じられたことにされている。

転封騒動

元和2年(1616年)、家康が死去し、家康を祀る日光東照宮が翌年建立されると、津軽家からも東照宮勧請願いが出され、これが徳川御三家や親藩を差し置いて許可される。これには幕府に影響力のあった天海の強い意向があったと伝わる。

ところが、元和5年(1619年)6月、幕府は安芸広島藩主である福島正則に津軽10万石への転封と蟄居[4]を、津軽家には信濃川中島藩10万石への転封を命じる内示を出した[5]。津軽よりも中央(江戸)に近い土地への転封、石高も増えているため一見栄転に見えるが、見かけの石高ではない実収入、移転にかかる諸費用、父祖の地を離れることなどを考えると、決して割のいい話ではなかった。これに対し、信枚は移転費用捻出のため佐竹義宣より借財し、家中の準備をさせる旨を家臣に通達している。また領内から転封の際は同行したい旨の嘆願が届いているなど、かなり現実的に実現手前まで進行していたことが窺える。しかし、内示から1ヶ月も経たない内に津軽家の移封は取り消しされた。これは一般には、信牧や家臣団、満天姫らの運動により中止となったとされているが、天海からも中止へのかなりの働きかけがあったと推測される。この移転話が持ち上がった背景は諸説あるが、関ヶ原の戦いでの家中二分策に対する咎とも、いまだ豊臣家に温情的な津軽家中に対する咎とも、幕閣の派閥争いの飛び火ともされている。最終的に福島正則が直接、信濃川中島藩4.5万石に減封移封された。

晩年

寛永4年(1627年)9月、高岡城の天主が落雷で炎上し、内部の火薬に引火して大爆発を起こして焼失した。この事件は、信枚の伯母(為信の正室・阿保良の姉)が為信のために失意の内に病死した祟りと当時信じられた。そのため、これまで「高岡」と呼ばれていた藩都を翌寛永5年(1628年)8月、天海が天台密教での破邪の法から名付けた「弘前」と改めた。これ以降、藩名も弘前藩と呼ばれるようになった。弘前の街造りだけではなく、領内の開発を行い、寛永元年(1624年)には陸奥湾の奥に青森港の港湾施設および街を構築し、蝦夷から上方、江戸との交易ルートを整備した(この青森港が現在の青森県庁所在地である青森市となった)。その他領内の新田開発、農地整備、新規人材登用も積極的に行い、弘前藩の基礎を整えた。

寛永8年(1631年)1月14日、江戸藩邸にて死去した。享年48。

家康養女である満天姫との子・信英(次男)など10人近い男子に恵まれたが、跡を継いだのは辰姫の子、つまりは石田三成の孫である長男の信義であった。これは長男であることや信枚の強力な意志によって、信義跡目と定められたと伝わっている。

脚注

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  1. 嫡男の信建は豊臣方に在し、石田三成の遺児である石田重成を匿っている。
  2. 為信が着手して信枚が完成させた高岡(弘前)城には、「館神」という守り神の社があった。この社は稲荷社であったがその稲荷様の後ろに厨子があり、その厨子は一度も開かれることがなく「館神」はその中に安置されていると言われていた。明治になってその「開かずの宮」の扉が開けられると中には豊臣秀吉の木像が入っていた。築城した為信と信枚は江戸幕府による改易の危険を顧みず、津軽家を独立した大名と認め領地安堵してくれた秀吉を城内に祀っていたのである。「館神」だった木造太閤秀吉座像は1957年津軽家から革秀寺へ寄託され、境内の津軽為信霊屋に安置(非公開)されている。
  3. ただし、信英については側室の生まれとする地元の資料があるとされ、満天姫の子ではないとする意見もある
  4. 無許可での城郭修築の咎。
  5. 福島正則は正室の満天姫の前夫である福島正之の義父。