前田玄以

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『常にこそ曇りもいとへ今宵そとおもうは月の光なりけり』(月岡芳年『月百姿』)前田玄以

前田 玄以(まえだ げんい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶武将大名豊臣政権五奉行の1人。

生涯

天文8年(1539年)、前田基光の子として美濃に生まれる[1]。はじめは尾張小松原寺の僧侶であったが[1]、後に比叡山延暦寺に入った。しかし織田信長に招聘されて臣下に加わり、後に信長の命令でその嫡男・織田信忠付の家臣となる[1]天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、信忠と共に二条御所にあったが、信忠の命で嫡男の三法師を連れて京都から脱出、美濃岐阜城、さらに尾張清洲城に逃れた[1]

天正11年(1583年)から信長の次男・信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられたが[1]、天正12年(1584年)に羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、秀吉の家臣として仕えるようになる。文禄4年(1595年)に秀吉より5万石を与えられて丹波亀山城主となった[1]

豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇聚楽第行幸では奉行として活躍している。また寺社の管理や洛中洛外の民政も任され、キリシタンを弾圧したが、後年にはキリスト教に理解を示し融和政策も採っている。慶長3年(1598年)、秀吉の命令で豊臣政権下の五奉行の1人に任じられた[2]

秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康会津征伐に反対した。慶長5年(1600年)、石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行った[2]。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、更には病気を理由に最後まで出陣しなかった。これらの働きにより関ヶ原の戦いの後は丹波亀山の本領を安堵され、その初代藩主となった。慶長7年(1602年)5月20日に死去。享年63。

長男の秀以は前年に早世していたため、3男(次男という説もある)の茂勝が後を継いだ。

人物・逸話

思慮深く私欲の無い性格で、信長・信忠父子からは信任が厚かったとされている。

かつて僧侶だった関係から当初キリシタンには弾圧を行っていたが、後年には理解を示し、秀吉がバテレン追放令を出した後の文禄2年(1593年)、秘密裏に京都でキリシタンを保護している。またポルトガルのインド総督ともキリシタン関係で交渉したことがあったとされる。ちなみに息子2人はキリシタンになっている[3]。また僧侶出身のため、仏僧の不行状を目撃することが多かったらしく、彼らを強く非難している(『フロイス日本史』第69章)。

同じ五奉行の増田長盛は、玄以同様大坂城に留守居役として残り、西軍の情報を提供するなど家康に内通したが、関ヶ原の戦い後に改易された。この違いは、玄以が持つ朝廷との繋がりを利用するため、玄以が家康に優遇されたからと推測される。

秀吉の聚楽第行幸に尽力し、その事を取り仕切った事を生涯誇りにしていた[2]

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
史料

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.271
  2. 2.0 2.1 2.2 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.273
  3. 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.272