後陽成天皇

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後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日1571年12月31日) - 元和3年8月26日1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の第107代天皇(在位:天正14年11月7日1586年12月17日) - 慶長16年3月27日1611年5月9日))。和仁(かずひと)といい後に周仁(かたひと)と名乗った。

略歴

天正14年(1586年)7月に正親町天皇の東宮であった誠仁親王が薨去し、皇孫に当たる周仁親王が同年12月15日に、皇祖父にあたる正親町天皇から譲位され受禅した。

後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府の開始にまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。豊臣秀吉は、支配の権威として関白太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要があり、朝廷の威信回復に尽力した。天正16年(1588年)に秀吉の演出した天皇の聚楽第行幸は盛大に行われた。二十五箇条の覚書によれば文禄の役では秀吉が明を征服した暁には後陽成天皇を皇帝として北京に遷し、政仁親王智仁親王を日本の天皇にしようとした。また秀吉に切腹を命じられた豊臣秀次の菩提を弔う日秀尼(秀次の母、秀吉の姉)に、瑞龍寺 (近江八幡市) の寺号を与えた。(瑞龍寺は日蓮宗唯一の門跡寺院となった)秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させている。慶長8年(1603年)に、後陽成天皇は徳川家康征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開く。朝廷権威の抑制をはかる幕府は干渉を強め、官位の叙任権や元号改元も幕府が握る事となった。慶長14年(1609年)に宮中女官の密通事件(猪熊事件)では、幕府の京都所司代に厳罰を要請している。

これに先立って後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を皇位継承者とした。ところが秀吉が死ぬとこれを嫌って弟宮である八条宮智仁親王への譲位を望むが、廷臣や家康に反対される。関ヶ原の戦い後、後陽成天皇は家康の了承を得て良仁親王を強引に仁和寺出家させて第3皇子・政仁親王を立てる。

慶長16年、政仁親王(後水尾天皇)に譲位して、仙洞御所へ退く。だが、後水尾天皇とも上手く行かず、父子の間は長く不和であり続けたと伝えられている。元和3年(1617年)に崩御、宝算47歳。葬儀火葬で行われた。後陽成天皇より後の天皇は全員が土葬で葬られているので、後陽成天皇は、平成の現在において、最後に火葬で葬られた天皇である[1]

自著に『源氏物語聞書』『伊勢物語愚案抄』などがあり、『日本書紀』を慶長勅版として発行させる。

系譜

正親町天皇の皇子誠仁親王(陽光院太上天皇)の第一皇子。母は勧修寺晴右の娘、新上東門院・藤原晴子

系図

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諡号・追号・異名

→ 詳細は「後水尾天皇」項を参照。

在位中の元号

陵・霊廟

(みささぎ)は、京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は方形堂。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

演じた俳優

脚注・出典

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参考文献

  • 宮内省図書寮 編『後陽成天皇実録』1~2巻(ゆまに書房、2005年) ISBN 4843320269
  • 日本の近世 2 天皇と将軍(中央公論社、1991年)ISBN 4124030223

関連事項

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