高松宮

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高松宮(たかまつのみや)は、かつて存在した日本皇室宮家1913年大正2年)7月6日創設。伏見宮系皇族の臣籍降下後に存続した宮家のなかでは、もっとも創設時期が古い。ただ、有栖川宮の祭祀や資産を継承していることから、宮家としての伝統はさらに遡るとも言える。

歴史

「高松宮」の号は、有栖川宮の旧称であった。有栖川宮の最後の当主威仁親王が、嗣子栽仁王に先立たれたまま1913年に薨去したが、大正天皇の特旨により、第3皇子宣仁親王(当時8歳)が有栖川宮の祭祀を継承した。旧皇室典範では皇族の養子縁組が禁じられていたため、宣仁親王は有栖川宮そのものを相続するのではなく新たな宮家を創設したうえで、有栖川宮の祭祀や土地などの資産、そして一部の旧臣を継承するという形がとられ、宮号には有栖川宮にゆかりの「高松宮」が与えられた。

宣仁親王は、徳川慶喜の孫娘であり、威仁親王の外孫でもある徳川喜久子と結婚したが、夫妻の間に子はなかった。

1987年昭和62年)2月3日宣仁親王、また2004年平成16年)12月18日には妃喜久子がそれぞれ薨去し、断絶となった。

宮邸

ファイル:Residence of prince takamatsu.jpg
高輪皇族邸(旧高松宮邸)の正門アップ

高松宮邸は始め、東京市麹町区三年町(現在の東京都千代田区永田町、内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を引き継いだが、昭和に入って同建物が外務大臣官邸に転用されることに伴い、港区高輪一丁目にあった高輪御殿に移転した。同地は江戸時代、大石良雄らの切腹地として知られる肥後細川家の下屋敷跡であり(大石良雄外十六人忠烈の跡を参照)、大正時代には皇太子であった昭和天皇が一時期東宮御所としていたこともある。戦後、広大な敷地は宣仁親王の意によって縮小され、払い下げられた場所には港区立高松中学校や都営高輪アパートなどが建てられた。また、残った敷地内にあった本館も、「光輪閣」として改装のうえ一般開放された。光輪閣はかつて宣仁親王の国際関係特別秘書官であった川添浩史を支配人に迎え、結婚式場などとして貸し出された。またかつては夏になると、宮邸の庭にあったプールも近隣の子供たちに開放されていた。

光輪閣を出た宣仁親王夫妻は、敷地内に小さな木造平屋の邸宅を建てて居住していたが、光輪閣が老朽化によって1972年に取り壊されると、翌年、跡地に再び平屋建の宮邸本館を建設し、2004年に宣仁親王妃喜久子が薨去するまで使用した。現在、宮邸敷地および邸宅は「高輪皇族邸」として無人のまま宮内庁の管理下におかれている。また、かつて払い下げられた土地の一部には高級マンションが建設され、一室に高松宮妃癌研究基金の本部事務所が入居している。この事務所内には宮邸の居室が再現され、宣仁親王や喜久子妃が愛用した調度品が展示されている。

また高松宮は、有栖川宮から翁島別邸(福島県耶麻郡翁島村他)・葉山別邸(神奈川県三浦郡葉山村)と麻布御用地(東京市麻布区麻布盛岡町他)を引き継いだが、麻布御用地は間もなく東京市に払い下げられ、有栖川宮記念公園として整備された。翁島別邸も1952年に福島県に払い下げられ、現在は天鏡閣および福島県迎賓館として公開されている。葉山別邸のみ昭和後期まで継続して保有されたが、宣仁親王の薨去に伴う相続税支払いのため、喜久子によって金融機関へ売却された。跡地には現在、神奈川県立近代美術館・葉山館が建設されている。他には、1933年宮ノ下御用邸を取得して宮ノ下別邸として所有していた。この別邸は1946年富士屋ホテルへ譲渡、同ホテルの別館「菊華荘」として現存する。西園寺公望の別荘であった坐漁荘も一時期高松宮が所有していた。

関連項目

外部リンク

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