小牧・長久手の戦い
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 小牧・長久手の戦い | |
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戦争:小牧・長久手の戦い | |
年月日:天正12年(1584年) | |
場所:小牧山・長久手 他 | |
結果:羽柴軍の戦略的勝利。 徳川・織田連合軍の戦術的勝利。 | |
交戦勢力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 羽柴軍20px | 織田・徳川連合軍15px15px |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 羽柴秀吉20px | 織田信雄15px 徳川家康15px |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 約70,000 | 約35,000 |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 2,500以上[1] | 550以上 |
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小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)に、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。当時は長久手ではなく長湫と表記された。
目次
名称について
この戦いの名称は、江戸時代には江戸幕府・徳川氏の公式記録(東照宮縁起、尾張藩『小牧陣始末記』など)「小牧陣(こまきのじん)」と呼ばれていた。別に「岩崎口の戦い」と記録した文献もある。
成島司直の改正三河後風土記では、岩崎城軍付秀次敗走の事、長湫合戦付池田森討死の事、秀吉出軍付忠勝猛勇の事、などと個別に題名が付いている。
その長久手における戦いは「長久手合戦」と呼ばれて両者は区別されたが、「小牧陣長久手合戦屏風」のように混ぜて使われることもあった。当時の戦闘を記した文献では、「小牧軍記」・「小牧陣始末記」・「長久手合戦覚書」・「丹羽長久手軍記」・「別本天正記」・「天正征伐記」等「小牧」と「長久手」を同一にした名称を使った書物はきわめて少ない。明治維新後には参謀本部が、戦争や戦役すなわち各対立陣営同士が行った戦い全体を「役」。その中で行われた小戦闘を「戦(たたかい)」などとする統一的な表記を公的に使い始め、戦役の方は「小牧役(こまきのえき)」、戦闘の方は「長久手戦」などとする表記を行った。「小牧・長久手の役」という表記もある。
これは、戦場となった地域が当時としてはかなり広い範囲に散らばっていたこと、小牧が陣地構築による対峙であったのに対し長久手とその近辺では機動戦が行われ、戦闘の性格が大きく異なるものであったこともあったものと思われる。
現在ではこの戦役を「小牧・長久手の戦い」と呼ぶことが定着している。
合戦の経緯
秀吉の台頭と織田信雄・徳川家康
天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康は甲斐国の武田勝頼を滅ぼし上方に凱旋するが、同年6月には信長が家臣明智光秀によって討たれる(本能寺の変)。本能寺の変後には織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が光秀を討ち清洲会議において台頭し、有力家臣の柴田勝家とは敵対的関係となった。また三河の徳川家康は本能寺後、織田政権の承認のもと[2]、織田遺領の甲斐・信濃を確保し、五カ国を領有した。
天正11年(1583年)4月、秀吉は近江賤ヶ岳の戦いにおいて織田信長の次男の信雄を擁立して、信長の3男・信孝を擁する柴田勝家に勝利した。賤ヶ岳の戦いの後、柴田勝家の領する越前は丹羽長秀に与えられ、摂津・大坂の池田恒興は美濃を与えられ、大坂の地は秀吉が接収し、同年暮れ新築した大坂城に信雄を含む諸将を招いている。
天正11年に信雄は秀吉によって安土城を退去させられ、これ以後信雄と秀吉の関係は険悪化する。秀吉は信雄家臣の津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の3家老を懐柔し傘下に組み込もうとするが、信雄は天正12年(1584年3月6日)に親秀吉派の三家老を処刑し、徳川家康と同盟を結んだ。こうして信雄は家康とともに挙兵し、家康が3月7日に出陣したことから[3][4]、実質的には秀吉と家康との戦いとなる。
秀吉包囲網の形成
小牧の役に当たっては、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫した。
雑賀衆・根来衆の動き
雑賀衆・根来衆が海陸から北上して羽柴軍へ攻勢をかけたため、秀吉の尾張国への出陣はかなり遅れた。秀吉の出陣後も、雑賀衆・根来衆は大坂周辺を攻撃し、秀吉を牽制する。
小牧・長久手の戦い
羽黒の戦い
前半は小牧山周辺での戦いである。
3月13日、家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り犬山城を占拠した。家康はこれに対抗するため、すぐさま翌々日の15日には小牧山城に駆けつけた。同時に羽柴軍の森長可(恒興の女婿で本能寺の変で信長とともに戦死した森蘭丸の兄)も小牧山城を狙っていた。3月16日、長可は尾藤知宣に小牧山攻めの許可を求め、承認を得ると森と尾藤は夕方に出撃し、夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に着陣する[5]。しかし、この動きは直ぐに徳川軍に知られ、同日夜半、酒井忠次、榊原康政ら5,000人の兵が羽黒へ向けて密かに出陣する。翌3月17日早朝、酒井勢は森勢を一気に奇襲。森勢は奮戦したものの酒井勢の猛攻に加えて戦術的な後退を敗走と勘違いするなど指揮系統の混乱も起こり支えきれず潰走した(羽黒の戦いまたは八幡林の戦い)。敵襲の心配がなくなった家康は3月18日、小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築かせ羽柴軍に備えた。
後半は長久手周辺での戦いが中心になる。秀吉は3月21日に大坂城を出発、3月27日に犬山城、4月5日に楽田(犬山市)に着陣する。家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は全くの膠着状態に陥った。
中入り
この状況を打開するため秀吉は徳川軍の陣地帯を迂回し、三河国方面にでる迂回作戦(中入り)を策定。中入り部隊は4隊、総勢2万人で4月6日夜、家康の本拠地である三河国の岡崎城へと向けて出撃した。通説ではこの作戦は恒興の献策とされるが、長久手の戦い直前に秀吉が丹羽長秀に宛てた書状などから、真相は秀吉自身の策である可能性が高い[6]。通説は『甫庵太閤記』が初出と思われる。
各隊の主な編成は以下の通り:
- 第一陣 - 池田恒興、池田元助、池田輝政 - 兵6000人
- 第二陣 - 森長可、遠藤慶隆、関成政 - 兵3000人
- 第三陣 - 堀秀政、堀直政、多賀秀種 - 兵3000人
- 第四陣 - 羽柴秀次、田中吉政、長谷川秀一 - 兵8000人
岩崎城の戦い
家康は4月7日に羽柴秀次勢が篠木(春日井市)・上条城の周辺に、2泊宿営した頃に近隣の農民や伊賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知。翌4月8日に小幡城(名古屋市守山区)に入った。その夜半陣立てを決め、翌4月9日未明から地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら4,500人を別働隊として秀次勢の追撃を開始させ、家康・信雄も間髪いれず出陣した。
秀次勢は家康が小幡城に入った8日に行軍を再開し、9日未明には池田恒興勢が丹羽氏重(氏次の弟)が守備する岩崎城(日進市)の攻城戦を開始する。氏重らは善戦したが、約三時間で落城し玉砕した(岩崎城の戦い)。
- 通説では先鋒の池田勢が岩崎城から出撃した氏重勢の挑発の銃撃を受け、それが恒興が乗っていた馬に命中、落馬して激怒した恒興は、この作戦が「奇襲」ということを完全に忘れ岩崎城攻略に取り掛かったとされている[7]。
この間、羽柴秀次、森長可、堀秀政の各部隊は、現在の尾張旭市、長久手市、日進市にまたがる地域で休息し、進軍を待った。しかし、その頃すでに徳川軍は背後に迫っていた。
白山林の戦い
岩崎城で攻城戦が行われている頃、羽柴秀次勢は白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)に休息していたが、後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢、側面から榊原康政勢の一斉攻撃に見舞われた。この奇襲によって秀次勢は成す術なくほぼ潰滅する。秀次は自身の馬を失い、供回りの馬で辛くも逃げ遂せた。また、目付として付けられていた木下祐久[注釈 1]やその弟の木下利匡を初めとして多くの木下氏一族が、秀次の退路を確保するために討ち死にした(白山林の戦い)。
桧ケ根の戦い
羽柴秀次勢より前にいた堀秀政勢に、秀次勢の敗報が届いたのは約2時間も後のことであった。堀勢は直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を組み込んで桧ケ根に陣を敷き、迫り来る徳川軍を待ち構えた。秀次勢を撃破して勢いに乗った徳川軍は、ほどなく檜ヶ根(桧ケ根、長久手市)辺りで堀勢に襲い掛かったが、戦上手なことから「名人久太郎」と尊称される秀政の前に敗退した(桧ケ根(檜ヶ根)の戦い)。
この間、家康は羽柴軍を分断するために迂回し、長久手を見渡せる色金山に着陣。そこで別働隊の敗退を知り、堀勢後方の現在は「御旗山」と呼ばれる高地へ前進して池田恒興・森長可勢との間を分断した。この時、秀政は家康の馬印である金扇を望見し、戦況が有利ではないことを判断して兵を引いた。
岩崎城を占拠した先鋒・池田恒興、次鋒・森長可に徳川軍本隊出現の報が伝わったのはこの頃、両将は驚愕し大慌てで引き返し始めた。その頃、家康は榊原康政勢の敗残兵を組み込み、御旗山から前山と呼ばれる辺りに陣を構えた。右翼に家康自身3,300人、左翼には井伊直政勢3,000人、これに織田信雄勢3,000人を足して計9,000人以上。一方、引き返して対峙した恒興・森勢は右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)、次男・池田輝政勢4,000人、左翼に森勢、後方に恒興が陣取りこちらも計9,000人。数では互角であったものの、地の利においては山に陣取り斜面に鉄砲隊を3段構えで配するなど万全の構えである徳川軍に対し、羽柴軍の恒興勢は機動力が奪われる湿地の長久手の地での布陣を余儀なくされるなど、完全に後手に回った形となっていた。対峙は2時間ほど続いたという。
長久手の戦い
成島司直の『改正三河後風土記』に詳しい。→「長湫合戦付池田森討死の事」
4月9日午前10時ごろ、ついに両軍が激突。両軍入り乱れての死闘は2時間余り続いた。戦況は一進一退の攻防が続いたが、森長可が鉄砲隊の銃弾を眉間に受け討死した辺りから一気に徳川軍有利となった。
池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、永井直勝の槍を受けて討死にした。池田元助も安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。やがて恒興・森勢は四散し遭えなく潰滅、合戦は徳川軍の大勝利に終わり、ただちに小幡城に引き返した。羽柴軍に2,500人余り、徳川軍には550人余りの死者が出たとされる。これを長久手の戦い、または特に仏ケ根の戦いともいう。
その後の戦い
秀吉は同日に威力偵察として小牧山へ攻撃をしかけたが、敗退している。午後に入って白山林の戦いの敗報が届き、秀吉は2万人の軍勢を率いて戦場近くの竜泉寺に向けて急行した。しかし、500人の本多忠勝勢に行軍を妨害される。夕刻、「家康は小幡城にいる」との報を受け翌朝の攻撃を決める。家康はこの間に小幡城を出て小牧山城、ついで清洲城に帰還した。秀吉はしばらく後になってこの報を聞き、4月10日には楽田に退き、5月1日に楽田からも撤退して大坂城に帰還した。
その後、羽柴勢は5月4日から尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を大軍で囲み、水攻めなどで順次攻略したが、家康は後詰要請に答えなかった(竹ヶ鼻城の水攻め)。
6月16日に滝川一益が九鬼嘉隆の安宅船と共に、長島城と清州城との中間にあった蟹江城、下市場城、前田城を攻略した時には、織田信雄・徳川家康は即日反応し、7月3日には全て落城せしめ、一益は船で伊勢に逃れた(蟹江城合戦)。
秀吉は、伊勢に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵を集め、7月15日に尾張の西側から総攻撃を計画していたが、蟹江城が落城した為中止となった[8]。
8月15日に秀吉は美濃に出陣、8月28日には、双方、楽田と岩倉において対陣するも戦闘は無く。
9月9日には家康に呼応した佐々成政が大軍で能登国の末森城(石川県宝達志水町)を攻撃、落城寸前にまで至らしめたが前田利家の猛反撃に遭って退却した。(末森城の戦い)
休戦・講和へ
尾張での戦況は信雄・家康側にやや優勢であったが、伊勢では誅殺された重臣3人の一族が造反、更に秀吉の計略で九鬼嘉隆・秋山直国らも謀反に及び、終始劣勢であった。また羽柴秀長・蒲生氏郷・筒井順慶・藤堂高虎ら羽柴軍の別働隊が信雄領である伊賀・伊勢に侵攻し、その殆どを占領し、さらに伊勢湾に水軍を展開させ信雄に精神的に圧力を加えた。 秀吉は合戦から半年以上経った11月11日(11月15日説あり)に、秀吉側への伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾する。信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康陣営は11月21日についに兵を引いた。
信雄は伊賀と伊勢半国を割譲させられ伊賀は脇坂安治(後に筒井定次が大和から移封)、伊勢は蒲生氏郷ら秀吉方大名に分け与えられた。
その後、秀吉は滝川雄利を使者として浜松城に送り、家康との講和を取り付けようと試みた。 家康は返礼として次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にするために大坂に送った。 こうして、小牧の役は幕を閉じた。
秀吉包囲網の瓦解
信雄・家康が秀吉とそれぞれ単独講和してしまったため、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親らは孤立し、それぞれ紀州攻め・四国攻めにより制圧されることになる。
この後、佐々成政が雪深い立山を越えて(さらさら峠越え)、浜松の家康を訪れ、秀吉への抵抗を促したが聞き入れられず、成政は空しく同じ道をたどって越中に帰っていった。これによって、天下の趨勢は更に秀吉政権確立へと進んでいくこととなったが、秀吉と家康が講和するまでには、まだ2年もの月日を必要とした。
徳川家康の評価
この戦いで家康は、中央の覇者である羽柴秀吉の三河先遣隊2万に圧勝したことにより、野戦の達人と評価され恐れられるようになる。新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取。成島司直の改正三河後風土記に、海道一の徳川殿。東照宮御実紀(『徳川実紀』)に、徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」など、この時の様子が記述されている。
政治史的意義
この戦いで、テンプレート:誰範囲
小牧の役はこのように政治的色彩の極めて強い戦役だったと考えられている。秀吉は家康を屈服させられず、後に北条氏を征服することには成功したものの、終始家康に対する不安と懸念の解消は果たせなかった。その為、家康が秀吉に臣従した後も秀吉一門衆筆頭である豊臣秀長と同時に官位を上げられ、豊臣政権内の最上席を占める大名として扱われるようになった。秀長、秀次の死後には内大臣となり、武家・公家の最上位を占めた。後の徳川幕府への道はここから始まっていたともいえる。一方で司馬遼太郎や佐々克明らが主張するように、それらの過大な政治意義解釈は後世の江戸幕府による結果論的な喧伝によるものであり、この戦いにおいては家康は秀吉に敗北したに過ぎないとの説がある。第一に戦略の勝利は戦術に勝るものと考えるのが兵法の常道であって、局地戦で勝利したところで信雄を抱き込まれてしまい大義名分を失った時点で好待遇であっても家康は屈するしかなかったのは事実である。第二にその服従は家康と秀吉の年齢差は6歳という大きくないものであり、どちらが先に死去するかなど分らないものであって、待てば済むというものでもないのは確かであり、家康が先に死去する可能性も高かった(そうなれば秀吉が秀忠を同程度に遇をすることはなかったであろう。強引に領地すら削減の可能性もあった)。それに加えて豊臣の自滅、前田利家の死など家康の関しない要素に頼らなければならなかった。この屈服の意義は現在進行でこその重さがあったものと言える。徳川が豊臣に臣従したという意味も大きく、家康は関ケ原の後も主家豊臣という二元体制の存在には死の一年前という僅差まで苦慮することになる。以上の説によれば家康は小牧長久手で天下を一度失い、それから長い時を忍び関ケ原でこそ天下を得て、大坂の陣で完成させたことになる。
関連作品
- ボードゲーム
- 「Nagakute」(『RAN』収録)GMT Games、2007年、英語。
注釈
脚注
参考文献
- 『日本戦史第13巻 小牧役(こまきのえき)』旧・日本軍参謀本部(1908年初判) - 後に何度か復刻されている。
- 『歴史群像シリーズ・羽柴秀吉 ~外交と懐柔の勝利 小牧・長久手の戦い』河野収/著(学習研究社、1987年)
- 『歴史群像シリーズ・徳川家康 ~両雄 天下掌握への決戦‐小牧・長久手の戦い』工藤章興/著(学習研究社、1989年)
- 『歴史群像シリーズ・豪壮 秀吉軍団 ~父の遺志を大成させた播磨宰相 池田輝政』柴田一/著(学習研究社、1992年)
- 『長久手町史 資料編6』長久手町社会教育課/編(長久手町社会教育課、1992年10月)
- 『長久手町史 本文編』長久手町社会教育課/編(長久手町社会教育課、2003年3月)
- 盛本昌広 『松平家忠日記』 (角川選書304) 角川出版 1999年、ISBN 4-04-703304-9 C0321.
- 新井白石(原著) 『新編 藩翰譜 第五巻』 人物往来社、1968年。
関連項目
外部リンク
- 小牧・長久手の合戦 小牧市オフィシャルウェブサイト
- 長久手古戦場物語 長久手市ホームページ
- 古戦場ウォークマップ 長久手市ホームページ
- 長久手古戦場(古戦場公園・色金山歴史公園) なごやインフォメーション Navi
- 小牧・長久手:上 天下人同士、唯一の戦い 朝日新聞
- 小牧・長久手:下 信雄か秀吉か、天下分け目 朝日新聞
- ↑ 家康自身は「一万余」を討ち取ったと主張している(『愛知県史』資料編12、381号他)。本願寺の記録で、顕如の右筆・宇野主水による『顕如上人貝塚御座所日記』には、その後の噂として「三千」程度が実際の死者だったと記されている。
- ↑ 家康の侵攻を認める秀吉の書状が現存している。「天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史」より
- ↑ 3月7日に松平家忠のもとに酒井忠次は信雄が3家老を切腹させたので明日尾張に出陣すると連絡があり、翌日家忠は出陣した。参考文献の7、52頁。
- ↑ 弟信孝を滅ぼした信雄は「天正十二年の春、自らも又亡ぼさるべきに極まって大きに驚き、徳川殿を頼み申され…」と家康に援助を乞うた。→参考文献の8、91頁。
- ↑ 『改正三河後風土記』
- ↑ 『長久手町史』本文編
- ↑ この辺の展開は江戸時代中期以降の軍記物・家譜より散見される。実際問題として、岩崎城は長久手を通って三河国に出る隘路の直ぐ側にあり、これを落とすことは当然の処置である(日本戦史戦国編 河合秀朗 学研M文庫 2001年)
- ↑ 武田茂敬『蟹江城合戦物語』武田茂敬、2008年(原文献『浅野家文書』)
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