西田敏行

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テンプレート:Mboxテンプレート:ActorActress 西田 敏行(にしだ としゆき、1947年(昭和22年)11月4日 - )は、日本俳優歌手タレント司会者

福島県郡山市出身。オフィスコバック所属。明治大学付属中野高等学校卒業、明治大学農学部中退。身長166cm体重80kg超。主演の映画『釣りバカ日誌』は1988年(昭和63年)から2009年(平成21年)まで22作続いた代表作。日本俳優連合理事長。4歳年下の夫人との間に2女あり。

来歴・人物

幼少・学生時代

5歳の時に父が亡くなり、同じ郡山市内に住む母方の伯母夫婦に引き取られた。

少年時代は映画好きの養父に連れられ映画館へ通い、チャンバラ映画に熱中。観る側より映画のスクリーンに映る自分の姿をぼんやり夢想していた。中学校に入り、演劇に興味を持つが、演劇部は女性部員ばかりで、当時、男子生徒の部活動といえば、スポーツが一般的だった風潮もあり、悶々とした3年間を過ごす。映画で「東京弁」に触れるうち、「俺このままずっとこの多感な時期こっちで暮らしていると、福島弁が染みついちゃって、もしかしたら標準語をしゃべれなくなっちゃうんじゃないか」との危機感を感じ始め[1]、演劇が好きでも福島弁でしか演じられない現状に自問し、標準語を習得したいと思い始め、両親を説得の上、中学卒業と共に上京。

高校に進学するとバレーボール部に入部。たまたま男子部員が居なくて困っていた演劇部の女子部員から、男役として部に協力してほしい、と請われ、顧問のような形で演劇部に参加する。

1966年(昭和41年)、明治大学入学と同時に日本演技アカデミー夜間部に入る。同年大学を中退して夜間部から昼間部に移り、翌年に卒業。仲間と劇団『シアター67』を結成するが失敗。ちょうどその頃、1967年(昭和42年)に『渥美清の泣いてたまるか』(TBS)でテレビ俳優としてデビューしている。

本格的に役者へ

1968年(昭和43年)、青年座俳優養成所に入り、1970年(昭和45年)に卒業し、青年座座員となる。同年の青年座7月公演『情痴』(作:西島大)で初舞台。1971年(昭和46年)の10月公演『写楽考』(作:矢代静一)では早くも主役に抜擢され大器の片鱗を見せた。その後は役者として不遇の日々を送るが、1976年(昭和51年)にレギュラー出演した『いごこち満点』、『三男三女婿一匹』(共にTBS)で注目を集め、森繁久彌のアドリブにも堂々と渡り合う硬軟自在で個性的な演技と、愛嬌のある顔立ちや体型で人気を獲得、1977年(昭和52年)には『特捜最前線』(テレビ朝日)、1978年(昭和53年)には『西遊記』(日本テレビ)に出演。さらに1980年(昭和55年)には『池中玄太80キロ』(日本テレビ)、1981年(昭和56年)に『おんな太閤記』(NHK)に出演するなど連続ドラマで活躍。

また、歌手活動も精力的に行い、1981年(昭和56年)4月に発売した『もしもピアノが弾けたなら』(『池中玄太80キロ』第2シリーズ挿入歌)は大ヒットとなった。なおNHK紅白歌合戦において、歌手、司会、審査員、応援の4パターン(ナレーションを含めると5パターン)全てで出演経験があるのは西田のみである。素朴で飾り気のないキャラクターやトーク、アドリブの巧さ、コメディアンエンターテイナーぶりはバラエティ番組やコント番組でも注目され、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』を始め、数多くの番組に出演、その他司会など、演劇活動以外でもマルチな才能を発揮している。

1986年(昭和61年)、映画『植村直己物語』に主演。西田にとっては明大農学部の先輩で、映画公開の2年前、1984年2月にマッキンリーで消息を絶った冒険家・植村直己を演じた。この作品ではモンブランフランス)、エベレストネパール中国)、マッキンリー、北極など植村の足跡を追う5大陸ロケを敢行。話題となったが、7ヶ月に及ぶ長期ロケは過酷なもので西田は死を覚悟して臨んだ[2] 。「実際に大自然と対峙し、つくづく抗えないことがあるんだと痛感させられました。同時に、大自然の中に身を置いて芝居をするという経験が、僕に言葉にはならない、いろんなものを与えてくれたという意味で、エポックメーキングになった作品だと思います。」と、自身にとって大きな転機となった作品だとしている[3]。2年後の1988年6月公開の映画『敦煌』でも長期の現地ロケに参加。一時は「極地俳優」の異名をとった。

1988年(昭和63年)から映画釣りバカ日誌』シリーズに出演。三國連太郎とのコンビで、最終の第20作(特別編2本を入れると22作)まで約22年に及ぶ長期シリーズとなり、自身の代表作の1つとなった。ちなみに西田の映画初出演作品は、三國主演の『襤褸の旗』(1974年、監督:吉村公三郎足尾銅山鉱毒事件を題材にした作品)で、反体制派農民の一人、多々良治平という役だった。[4]

1994年(平成6年)、東宝ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で森繁久彌、上條恒彦に次ぐ3代目テヴィエ役に抜擢、その後7年にわたり出演している。

さらなる活躍

2000年(平成12年)、『ネイチァリングスペシャル「風雪の聖地アンデス縦断4000キロ」- 西田敏行53歳 米大陸最高峰アコンカグアに挑む -」』(テレビ朝日2001年5月28日放送)の収録のため、南米最高峰アコンカグア標高 6,962 m)登山に挑戦している。この当時、焼肉とビールをこよなく愛し、大食漢で大酒飲みでありながら、運動と言えば数か月に1度のゴルフ程度の上、1日の喫煙量は80本以上のヘビースモーカーという生活で、体重は94kg。そのため中性脂肪が人並外れて高いなど身体的な不安材料を抱えながらも、8月からネパールでの高地トレーニングを開始。11月上旬にアタックを開始したが、強風や低温など天候に恵まれず、スケジュール的に無理と判断。高度6,830m地点で登頂を断念している。尚、『植村直己物語』の撮影以来、知己の関係である小西浩文を登山隊長に迎え、国内有数の登山家がサポーターとして同行した[5][6]

2001年(平成13年)ABCテレビ探偵!ナイトスクープ』の2代目局長に起用され、1月26日放送分からレギュラー出演している(詳しくは 後述 「探偵ナイトスクープ」)。初代局長・上岡龍太郎2000年3月末で芸能界引退のため降板(番組では4月放送分まで)。西田は番組からの熱心な打診を受け内諾していたものの、大河ドラマ『葵 徳川三代』の収録が完了するや上述のアコンカグア登山のスケジュールに追われており、その収録を終えなければ出演できない状況だった。そのため番組内では登場まで西田の名前を伏せ、局長席に「鋭意交渉中」の札を掛け続けて探偵、顧問が週替わりで進行役を務めた。局長としての初出演は日本への帰国直後、そのままABCホールに直行しての収録となり、ニットシャツにジーンズ、顔中に無精髭をたくわえたワイルドな出で立ちでの登場となった。

同年11月7日、首の骨が変形し、頸椎の神経が圧迫され、手足がしびれる「頸椎性脊髄症」を患い入院。15日に神経圧迫部位を除去する手術を行い、翌月には退院・復帰している[7]

2003年(平成15年)3月3日夜、自宅で心筋梗塞のため倒れ緊急入院[8]。処置が早く、症状も安定していたため28日には退院している[9]。上述の通り肉食中心の生活でヘビースモーカーだったが、入院中、吉永小百合から手紙をもらい、そこに書かれていた「タバコだけはやめてね、西やん」の言葉に一念発起し禁煙宣言した[10]。また体重も82kgまで減量した。復帰後のインタビューで「ここで死んだら遺作(のタイトル)が『ゲロッパ!』になるが、それだけは避けたかった」と、この時の出演映画の告知とユーモアを交えたコメントを述べ、全快をアピールしている。

2004年(平成16年)1月1日、前日をもって青年座を退団。元青年座スタッフで、長年マネージャーを務めていた小林保男が設立したオフィスコバックに移籍。これは自身の健康上の事とともに2001年10月18日、師事していた青年座元プロデューサーで青年座映画放送代表取締役の金井彰久(声優、かないみかの父)が65歳で死去[11]したことが契機となっている。

2008年(平成20年)11月、長年にわたる演劇界での業績が認められ、紫綬褒章を受章[12]

同年4月からNHKラジオ第1のラジオドラマ番組『新日曜名作座』に竹下景子とともに起用される。森繁久彌と加藤道子のコンビで50年にわたり放送された『日曜名作座』の番組スタイルを継承している。

2009年(平成21年)には里見浩太朗の後を受け、日本俳優連合第5代理事長に就任[13]。俳優の資質や地位の向上・権利問題などにも取り組んでいる。

2010年(平成22年)3月、『釣りバカ日誌』シリーズで、22年の長きにわたり国民に笑いと感動を与え続け、日本映画界へ残した数々の功績を讃えられ、三國連太郎と共に第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞[14]

2011年(平成23年)3月11日東日本大震災が発生、出身地である福島県も甚大な被害を受けた事を受け、支援ライブへの出演[15]のほか、積極的な支援活動を行っている。震災以降、月に2 - 3回は単身、地元・郡山に戻り長期滞在する生活になっているという[16]

2012年(平成24年)3月15日社団法人日本喜劇人協会主催の喜劇人大賞を受賞[17]

2013年(平成25年)3月27日、『池中玄太80キロ』で恋人役で共演した坂口良子が57歳で死去[18]。西田は談話を発表し「早過ぎるよアッコ・・・坂口良子さん早過ぎます・・・」と、『池中玄太』での役名(暁子 - アッコ)で呼びかけ、その無念さを表した[19]。また、4月14日には『釣りバカ日誌』シリーズでコンビを組んだ三國連太郎が急性呼吸不全で死去。7月19日グランドハイアット東京で営まれた「お別れの会」で西田は祭壇に“お別れの言葉”を述べ、故人を偲ぶとともに「実に見事な生涯でした」と、90年の生涯を称賛した[20]

2014年7月1日9月12日16日に開催予定の「第7回したまちコメディ映画祭in台東」でコメディ栄誉賞を受賞することと、リスペクト上映として第1作目の『釣りバカ日誌』の上映が決定した[21][22]

エピソード

大河ドラマについて

NHK大河ドラマに数多く出演しており、初出演した1972年(昭和47年)の『新・平家物語』から、2013年(平成25年)放送の『八重の桜』まで、出演作品数は計12作にのぼる。

歴代の徳川将軍家の人物を演じることが多く、『八代将軍吉宗』では徳川吉宗、『葵 徳川三代』では徳川秀忠、『功名が辻』では徳川家康、と、3名の徳川家将軍を演じている。特に『功名が辻』では家康を演じるにあたり、数多く残されている家康の肖像画などの姿により近づけるために、特殊メイクで福耳を施して演じた[23]。また、『おんな太閤記』では豊臣秀吉を演じ、西田の台詞「おかか」(正室・ねねの呼称)は当時の流行語になった。なお、大河ドラマで三英傑のうち二人以上演じたのは西田が唯一である[24]

1990年(平成2年)の『翔ぶが如く』に西郷隆盛役で出演を依頼された際に故郷(会津)の友人に相談したところ、「長州は駄目だが、薩摩なら大丈夫だ」と言われたので出演を引き受けたとのこと[25]。また、2013年(平成25年)の『八重の桜』に西郷頼母役で出演をし、両西郷を演じるのは日本テレビの年末時代劇で出演していた里見浩太朗についで二人目である。

松崎しげるらとの親交

互いが売れ始める前(松崎24歳、西田26歳)からの飲み友達で、毎晩のように飲み歩いては、互いの愚痴を吐き出しながら、励まし合う仲だった。そんな中でも知り合いや先輩が経営する飲食店に顔を出してリクエストに応えて歌うと、無料で飲み食いさせてもらえるメリットがあった。そうした中で出来上がったのが「客の出す3つの『お題』を入れて即興で歌を作る」という、落語三題噺のようなネタ。松崎は元より、西田も歌唱力と音楽的センスがあったため、二人の即興デュエットは当時の六本木界隈では有名になった。その噂を聞きつけたTBSのスタッフが二人を進行役に起用したテレビ番組が『ハッスル銀座』(1975年)だった。この番組では、視聴者から寄せられるハガキのエピソードを元に即興で歌を作り、披露するコーナーが評判となった。この番組出演が契機となり、翌1976年には松崎は『愛のメモリー』がCMに起用され、スペインのマジョルカ音楽祭・最優秀歌唱賞を受賞する等注目され始め、西田はTBSのドラマ『三男三女婿一匹』への出演などを経て、その主役を喰うほどの演技力が高く評価される。さらに翌1977年には共にブレイクし、人気を不動のものにしていく。以来、親交は続き、現在でも無二の親友同士である[26]。 また、この松崎に加え、柴俊夫田中健志垣太郎も当時からの親密な友人で、家族ぐるみで親交がある。『即興ソング』は現在でも松崎、西田の十八番ネタである。

武田鉄矢とも親交が深く、NET→テレビ朝日みごろ!たべごろ!笑いごろ!』(1976年10月 - 1978年3月)の番組中のコントで初共演し、二人でコーナーを担当するようになって以来、家族ぐるみの仲である。

田淵幸一との親交

プロ野球は福島県出身ということで東北楽天ゴールデンイーグルスファンクラブ名誉会員として名を連ねているが、自身は大の阪神タイガースファン(阪神ファン)である。2006年5月には、甲子園球場で行われた阪神対ヤクルト戦にて始球式を務めている。

1979年(昭和54年)にはいしいひさいち原作のアニメ映画『がんばれ!!タブチくん!!』で主人公のタブチくんの声を担当した。プロ野球阪神タイガースのファンで、『がんばれ!!タブチくん!!』のタブチ役を演じたことから、映画のモデルである田淵幸一と今日まで長く親交を続けている。ちなみに『探偵!ナイトスクープ』に元阪神の田淵がときどきゲスト出演するのはこの縁からである。

「探偵ナイトスクープ」

番組の局長(司会者)になって以来、番組以外でも「局長」と呼ばれることが増えている。起用された理由は「同番組の大ファン」だったから。同番組では関西弁交じりで話し、非常に涙もろい一面が伺え、依頼内容に少しでも感動的な要素があると、ほぼもれなく涙を流している。そのあまりに涙もろい点から、大阪で移動にタクシーを利用すると、運転手に「なんであれで泣くの?」と聞かれることがあるという[27]

その他のエピソード

イメージ的に「いい人」的な役回りが多いため、「白い巨塔」では金に物を言わせて根回しをする悪役を演じるにあたり、意地汚いイメージを出そうと西田の提案により、付けにカツラを着用して演じた(作中でカツラ着用者という設定)。製作発表の席で駄洒落交じりで、「私の役名は財前又一(またいち)ですので、財前ヌーとは読まないで下さい。」と、笑いを誘った。それから4年後には白い巨塔と同じ、山崎豊子原作の『華麗なる一族』に又一と比較して「いい人」である大川一郎役で出演している。この役は又一と同じく、主人公万俵鉄平(演:木村拓哉)の妻の父、いわゆる義父である。

打ち上げなどでは、『即興ソング』以外にも旺盛なサービス精神と芸達者ぶりを披露し、周囲を笑いに巻き込んでいる。持ちネタとして、エルビス・プレスリー丹波哲郎のものまねなどがあり、最近では「シャンソン風『与作』」北島三郎の『与作』のカラオケに合わせて、でたらめなフランス語を駆使して「シャンソン風」に歌いあげる。シャンソン風なので、サビの部分は「与作」を「ピエール」に変え、語りかける、というもの)が『SMAP×SMAP』など、ゲスト出演したバラエティ番組で紹介されている。

出演作品

映画

釣りバカ日誌シリーズ

テレビドラマ

舞台

  • 情痴 (青年座劇場 1970年)
  • どらまないと (青年座劇場 1970年)
  • 抱擁家族 (青年座劇場 1971年)
  • 写楽考 (俳優座劇場 1971年 , 紀伊国屋ホール 1972年)
  • 悲喜劇おんな系図 (青年座劇場 1971年)
  • 明治の柩 (紀伊国屋ホール 1973年)
  • 神々の死 (紀伊国屋ホール 1973年)
  • 私はルヴィ (俳優座劇場 1975年)
  • 写楽考 (紀伊国屋ホール 1977年)
  • セチュアンの善人 (紀伊国屋ホール 1978年)
  • 盟三五大切 (国立劇場小劇場 1979年)
  • 欲望という名の電車 (紀伊国屋ホール 1979年)
  • 冒険ダン吉の冒険 (紀伊国屋ホール 1981年)
  • 江戸のろくでなし (サンシャイン劇場 1982年)
  • 弥次喜多 (サンシャイン劇場 1985年)
  • からゆきさん (サンシャイン劇場 1990年)
  • 屋根の上のヴァイオリン弾き (帝国劇場 1994年-2001年 , 梅田コマ劇場 2001年)
  • つくづく赤い風車-小林一茶- (池袋西口テント劇場 1995年)
  • リセット (紀伊国屋ホール 1999年)

ラジオ

劇場アニメ

海外アニメ

  • ロボッツ(2005年) - ビッグ・ウェルド博士 役

人形劇

バラエティ番組

ドキュメンタリー・教養番組

  • 人生の楽園(テレビ朝日) - 2代目ナレーション
  • こころの遺伝子 〜あなたがいたから〜(2010年4月-7月、NHK) - 司会
  • “花は咲く”スペシャル
    • “花は咲く”スペシャル〜一つの歌がつむぐ物語〜(2012年9月5日、NHK)
    • “花は咲く”スペシャル〜復興を願う心のうた〜(2013年3月14日、NHK)
  • NHKスペシャル 3.11 あの日から2年「福島のいまを知っていますか」(2013年3月14日、NHK)
  • テレビ未来遺産 震災直後… 生死を分ける72時間になすべきこと(2014年3月10日、TBS) - ナビゲーター
  • あの日が教えてくれること〜東日本大震災から3年〜(2014年3月11日、フジテレビ) - スペシャルゲスト
  • ETV特集「あの舞をもういちど〜原発事故と民俗芸能」(2014年6月7日、NHK Eテレ) - 語り

音楽番組

CM

音楽

シングル

シングル以外の楽曲

  • MATチームの歌(1971年
  • いかすぜ!この恋(1980年)アルバム『風に抱かれて』収録
    • 西田の持ちネタであるプレスリーの物真似で歌ったナンバー(大滝詠一の自作曲のカヴァー。西田版のプロデュースも大滝が担当)。歌詞はプレスリーの歌のタイトルのみをつないだもので、曲名もプレスリーの主演映画の邦題と同一。曲調もサウンドもプレスリー調で、バックコーラスはザ・キング・トーンズ。尚、大滝は「ロンリーティーンエイジアイドル」と言う曲を提供(作詞、作曲、編曲)している。
  • せかいはおどる(1989年?)『ひらけ!ポンキッキ』 挿入歌
  • フランシーヌの場合(2005年)『タイガー&ドラゴン』内で歌唱

アルバム

  • 風に抱かれて(1980年)
  • もしもピアノが弾けたなら(1981年)
  • ミュージカルドラマ 夏の王様(1982年) - 西田は10曲中5曲を歌唱。
  • 西田敏行ライブ〜メルヘン・ロール・イン'82〜(1982年)
  • 青年座「弥次喜多」オリジナルキャスト盤(1985年)
  • 虹〜マイ・フェイバリット・コレクション〜(1989年)
  • 旅立たずにはいられない(1992年)
  • 西田敏行の音楽物語 (1)ピーターと狼(1993年)
  • 西田敏行の音楽物語 (2)真夏の夜の夢(1993年)
  • 西田敏行の音楽物語 (3)くるみ割り人形(1993年)
  • 西田敏行の音楽物語 (4)白鳥の湖(1993年)
  • 西田敏行の音楽物語 (5)眠りの森の美女(1993年)

歌詞提供

  • 花ひとつ 夢ひとつ(堀江淳2013年
    • 発売元はビクターエンタテインメント。

PV出演

NHK みんなのうた

  • のらねこ三度笠 (放送時期:1980年6月 - 7月期) 作詞:たかはし雅美、作曲:中村勝彦、、アニメーション:倉橋達治
  • こんな日がほしかった (放送時期:1984年2月 - 3月期) 作詞:杉紀彦、作曲:森田公一、実写

その他

  • 西田敏行さん主演『星守る犬』(2011年6月3日、朝日新聞夕刊3面「映画 ART&CULTURE」インタビュー)
  • 映画『星守る犬』公開記念対談 西田敏行×村上たかし(2011年6月3日、朝日新聞朝刊全面広告10面)

栄典

受賞歴

映画賞

ノミネート

日本アカデミー賞

  • 1985年:助演男優賞『天国の駅』
  • 1987年:主演男優賞『植村直己物語』
  • 1993年:主演男優賞『寒椿』
  • 1993年:助演男優賞『おろしや国酔夢譚
  • 1997年:主演男優賞『学校II
  • 2004年:主演男優賞『ゲロッパ!』・『釣りバカ日誌14』

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite news
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web
  5. テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Cite web 記事には「頸椎性頸髄症」と記載されているが、誤りである。
  8. テンプレート:Cite news
  9. テンプレート:Cite news
  10. 徹子の部屋』(2009年12月23日放送分)による。
  11. テンプレート:Cite news
  12. テンプレート:Cite web
  13. テンプレート:Cite web
  14. テンプレート:Cite web
  15. テンプレート:Cite web
  16. テンプレート:Cite web
  17. テンプレート:Cite news
  18. テンプレート:Cite news
  19. テンプレート:Cite news
  20. テンプレート:Cite news
  21. テンプレート:Cite news
  22. テンプレート:Cite web
  23. 2014年1月2日放送予定のテレビ東京新春ワイド時代劇影武者徳川家康』で再び家康を演じている。 テンプレート:Cite web
  24. 但し、大河枠以外の作品を含めた場合は、3人全員演じた俳優(例:中村橋之助)もおり、西田は織田信長を演じていないためこの中には含まれない。
  25. 朝日新聞 2010年6月8日東京版夕刊2面『ニッポン宝探し -福島-』での本人インタビュー記事より
  26. テンプレート:Cite web
  27. ANA機内誌『翼の王国』2007年8月号掲載インタビュー
  28. テンプレート:Cite web
  29. テンプレート:Cite web
  30. テンプレート:Cite web

外部リンク

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