第28回衆議院議員総選挙
テンプレート:Infobox 衆議院議員総選挙 第28回衆議院議員総選挙(だい28かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は1958年(昭和33年)5月22日に行われた衆議院の総選挙。
目次
概説
1955年10月の社会党再統一と同年11月の保守合同により、保守の自由民主党と革新の日本社会党が対置される二大政党制、55年体制が出現してから初めての総選挙であった。
なお、鳩山一郎内閣の時に単純小選挙区制法案(一部選挙区は定数2)が提出されたが、世論に加え自民党内からもハトマンダー批判を浴びたため参議院において審議未了で廃案となり、この総選挙は従来の中選挙区制により行われた。
選挙データ
内閣
- 第1次岸内閣(第56代)
解散日
- 1958年(昭和33年)4月25日
解散名
投票日
- 1958年(昭和33年)5月22日
改選数
- 467議席
選挙制度
立候補者数
- 立候補者:951名(うち女性候補19名)
- 出典:朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観 第41回衆議院総選挙 第17回参議院通常選挙』(朝日新聞 1997年)、125頁の表「候補者数・投票率等」。
選挙結果
投票率
- 選挙当日の有権者数:52,013,529名
- 投票者数:40,045,111名
- 投票率:76.99%(無効票を除いた実質投票率は76.43%)
党派別獲得議席
党派 | 得票数 | 得票率 | 議席 | ||
---|---|---|---|---|---|
候補 | 当選 | 議席率 | |||
自由民主党 | 22,976,846 | 57.80 | 413 | 287 | 61.5 |
日本社会党 | 13,093,993 | 32.94 | 246 | 166 | 35.5 |
日本共産党 | 1,012,035 | 2.55 | 114 | 1 | 0.2 |
諸派 | 287,991 | 0.72 | 33 | 1 | 0.2 |
無所属 | 2,380,795 | 5.99 | 145 | 12 | 2.6 |
総計 | 39,751,661 | 100.00 | 951 | 467 | 100.0 |
棄権・無効 | 12,261,868 | ||||
当日有権者数 | 52,013,529 |
出典:石川真澄『戦後政治史 新版』岩波新書、<データ>国会議員選挙の結果
派閥名 | 議席 |
---|---|
箕山会(岸信介派) | 54 |
白政会(大野伴睦派) | 37 |
木曜研究会(佐藤栄作派) | 36 |
政策懇談会(三木武夫派) | 34 |
宏池会(池田勇人派) | 33 |
春秋会(河野一郎派) | 33 |
水曜会(石井光次郎派) | 22 |
火曜会(石橋湛山派) | 14 |
無派閥 | 24議席 |
党派 | 候補者 | 当選者 |
---|---|---|
自由民主党 | 5 | 3 |
日本社会党 | 11 | 8 |
無所属 | 3 | 0 |
合計 | 19 | 11 |
- 出所:出典:朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観 第41回衆議院総選挙 第17回参議院通常選挙』(朝日新聞 1997年)、125頁の表「党派別女性候補者数、当選者数の推移」。
各党役員
自由民主党
日本社会党
日本共産党
諸派
選挙後
投票率76.99%は、男女普通選挙となってからでは最高の記録であり、2012年現在も破られていない。このことは、二大政党選挙への関心の高さを窺わせる結果であった。
自民党は好調な経済発展を背景に国民の支持を固め、日本国憲法に代わる自主憲法制定を主張して圧倒的多数の確保を目指した。前回は日本民主党・自由党両党公認だけで534人(さらに保守系無所属は27人)と定数を上回る候補が立ったことから候補者調整で定数内に抑えたが、かつての吉田茂と鳩山一郎の対立の遺物である自由系と民主系(その中でも鳩山・岸信介らの自由離党系と旧改進党系)との調整は難航し、定数を超える公認候補が立候補した選挙区も残った。それでも公認は413人と大幅に減少した(ただし保守系無所属が18人増え、公認漏れの一部候補者が革新自由民主党を結成し16人を公認した)。公認候補の得票合計は2万票弱の増とほとんど変わらなかったが、候補者を絞ったことが功を奏し、保守系無所属の追加公認を含めると自民党の議席数はほぼ現状維持となった。社会党の議席増が予想されていたことから、自民党には安堵感が漂った。ただし、憲法改正発議に必要な衆議院総議席(467)中3分の2の獲得には僅かに及ばなかった。
社会党は改憲阻止を主張し、246人と過半数を上回る候補を立てた。前回の社会系三党(左右社会党と労働者農民党)合計は259人であり、自民党より大幅に少ないとはいえ、相対的に強気に候補を立てた。結果は単独で衆議院議席数の3分の1を超え、自民党による改憲発議の阻止に成功した。得票も192万票増えた。しかし、議席数自体はほとんど伸びず、55年体制のもう一方の担い手として将来の政権獲得を視野に入れるという点では敗北と考えられた。その後、1959年の第5回参院選で自民党の躍進を許したことから党内の左右対立が激化し、最右派の西尾末広派は同年9月に社会党を離脱して、1960年12月の次回総選挙では新党の民社党として出馬した。
共産党は、1955年6月の第6回全国協議会で1950年代前半の武装闘争路線を放棄し、党内の混乱を収拾して臨んだ再生の選挙になったが、党外からの視線は厳しかった上、二大政党の対立に埋没して、1949年に記録した35議席の回復には程遠かった。また、この選挙より、全選挙区に候補を擁立する方針が始まった。
この選挙は、追加公認を含めると自民党、社会党の両党で、定数467人中466人[1]を占め、二大政党以外は共産党の1人だけだった。日本憲政史上、最も二大政党への議席集約が進んだ選挙だった。
社会党は自民党の半分の議席を確保し、外交・防衛・憲法問題で自民党と厳しく対立するが、長く野党第一党の地位に甘んじる「1と2分の1大政党制」が出現した。この与野党の議席比は、その後の民社党・公明党の登場や共産党の勢力拡大でも急激には変化せず、また1960年の安保闘争などもこの選挙で構成された国会での激突で展開された。これらの点で、この総選挙は戦後日本政治史の大枠を定める重要な意味を持った。
議員
この選挙で当選
テンプレート:Colorbox テンプレート:Colorbox テンプレート:Colorbox テンプレート:Colorbox テンプレート:Colorbox
この選挙で初当選
- 自由民主党
- 日本社会党
- 諸派
- 無所属
この選挙で返り咲き
- 自由民主党
- 日本社会党
- 無所属
この選挙で引退
- 自由民主党
- 日本社会党
この選挙で落選
- 自由民主党
- 日本社会党
- 日本共産党
- 無所属
脚注
- ↑ 当選時は無所属で、1959年に社会党入りした小沢貞孝を含む。
- ↑ 2.0 2.1 8月20日に本間が死去、そのため次点の保科が繰り上げ当選となった。
- ↑ 8月14日に松岡駒吉が死去、そのため次点の菊池が繰り上げ当選となった。
- ↑ 8月25日に山本正一が辞職、そのため次点の野田が繰り上げ当選となった。