福島県立会津高等学校
福島県立会津高等学校(ふくしまけんりつ あいづこうとうがっこう)は、福島県会津若松市表町に所在する県立高等学校。
目次
概要
藩校日新館の流れをくみ旧制会津中学校を前身とする。通称「会高」(かいこう)、地元では(あいづこう)と呼んで会工と分けている。同市には会津工業高校が有り、その略称「会工」も同じ読み方(かいこう)である。旧制中学時代は「会中」(かいちゅう)と呼ばれていた。会津地区のトップ進学校ということで、会津地区中から学生が集まるため、遠方からの生徒もおり、奥会津地域の生徒を中心に単身下宿している生徒も存在する。以前は男子校であったが2002年度より共学化。前史である藩校日新館から考えると、福島県内では最も歴史の古い高校である。
設立の経緯
(前史)
会津藩にはもともと稽古堂とよばれる武士の育成機関があったが、江戸時代が太平期に入り武士の道徳が衰廃しているとの危惧を受け、会津藩5代目藩主・松平容頌の家老であった田中玄宰が「教育の再興」を掲げ、日新館の設立を決めた。多額の設立資金は、呉服商須田新九郎が大半を賄った。1798年に完成。こうして会津藩の人材育成方針のもと、花色紐組(上士)以上の武士の入学を義務付け、会津藩の武士育成機関としてその役割を果たした。
(正史)
会津藩の戊辰戦争での敗北により会津地域は壊滅状態にあり、再興が急務であった。県令・山吉盛典は1879年(明治12年)、福島・若松・三春・平に中学校を開設したが、県議会の反対により11ヶ月で廃校になる。1882年(明治15年)、旧会津藩士らは資金を出し合い、藩校日新館の流れを汲む私立日新館を設立した。1884年(明治17年)、福島・若松・平に県立中学校が再び開校されるが、1886年(明治19年)、政府の1県1中学校の中学校令の発布により福島中学校(現福島県立安積高等学校)を残して廃校した。
このため若松では旧藩士らが「私立」の形で会津中学校設立を目指す。会津若松市(当時は若松市)初代市長・秋山清八は県議会議員時代、福島県知事を勤めたのち警視総監に栄転した旧薩摩藩士・折田平内に協力を求め、折田は1887年(明治20年)「会津中学校設立趣意書」を書き、会津地域の郡長や在京有力者に働きかける。この活動により最終的に文部大臣・榎本武揚が動き、明治天皇から御下賜金300円を受ける。会津では旧藩士で東京高等師範学校(現筑波大学)校長であった山川浩、その弟で東京帝国大学(現東京大学)総長の山川健次郎、福島県裁判所検事・高木盛之輔らが山里を訴えて回った。
1888年(明治21年)、磐梯山の噴火などもあり寄付金集めは難航したが、旧藩士らが国からの就産金を贈り一気に開校へ。47,850円(現在の価値に換算して2億円程度)の創立資本金をもって会津高校の前身である私立会津中学校の開校が実現した。
沿革
(前史)
(正史)
- 1890年(明治23年)2月17日 - 会津中学設立許可。
- 4月3日 - 私立会津中学校として開校、開校式挙行。
- 1891年(明治24年)10月7日 - 会津尋常中学校と改称。
- 1894年(明治27年)10月7日 - 会津学鳳高等学校旧校地(会津若松市追手町2番41号)に校舎竣工。竣工式挙行。
- 1899年(明治32年) - 中学校令改正、会津中学校と改称。
- 1901年(明治34年)4月28日 - 県へ移管、福島県立会津中学校と改称。補習科設置。
- 1921年(大正10年) - 補習科閉科。
- 1935年(昭和10年)3月28日 - 新校舎引き渡しを前に火災により全焼。
- 1936年(昭和11年)1月25日 - 新校舎竣工、現在地へ移転。
- 1941年(昭和16年) - 尋常科準訓導養成所を併設。
- 1943年(昭和18年) - 戦時措置により、修業年限を5年から4年に変更。
- 1946年(昭和21年) - 修業年限5年制復活、尋常科準訓導養成所を閉所。
- 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により、福島県立会津高等学校となる。普通科、通信教育科を設置。
- 1951年(昭和26年) - 男女共学開始、女子生徒13名が入学。
- 1952年(昭和27年) - 通信教育科定時制特別課程を設置。
- 1955年(昭和30年) - 男女共学廃止、再び男子校へ。
- 1959年(昭和34年) - 東北地区野球選手権で優勝し、春の全国高校野球選手権(通称センバツ)に出場。
- 1962年(昭和37年) - 通信教育科定時制特別課程を閉課。
- 1963年(昭和38年) - 火災により、校舎の3分の2を焼失。
- 1965年(昭和40年) - 新校舎へ移転、学而講堂竣工。
- 1966年(昭和41年) - 通信教育科を会津中央高校へ統合。
- 1969年(昭和44年) - 理数科を設置。
- 1982年(昭和57年) - 理数科を閉科。
- 1989年(平成1年) - 安積第二高校の通信制協力校となる。
- 1997年(平成9年) - 学而講堂を取り壊し、南体育館が竣工。図書館冷房工事。
- 2002年(平成14年)4月1日 - 男女共学再開。
- 2007年(平成19年) - 白虎隊歌碑建立。
- 2008年(平成20年)- 学校としてはじめて海外(中国)への修学旅行が企画、実施される。
- 2009年(平成21年)- 南校舎の耐震補強工事着工。
設置課程・学科
- 全日制・普通科
- かつては理数科を有していたが、1982年(昭和57年)に閉科
- 2011年度入学制より1学年280人(40人×7クラス)。2年次より文系・理系クラスに分けられる。
校章・校歌
校章は会津の「会」の旧字体「會」を松葉で囲んだもので、1903年(明治36年)に制定された。
校歌は1922年(大正11年)に「駒のいななき」(作詞は尾上柴舟)が制定されるが、戦前の軍国主義的な歌詞を含むものであった。1948年(昭和23年)、民主主義にふさわしい新校歌をつくるべきとの意見が多くなり、校歌制定委員会を設置。翌年、作詞柳澤健、作曲古関裕而による現在の校歌が発表された。
校歌のほか、応援歌2曲と凱旋歌、学而会歌、青春歌(創立110周年を記念して作られた。作詞作曲ともに生徒)がある。
スクールカラーは臙脂(えんじ)色。
校是
- 「文武不岐」、「好学愛校」
学習
2学期制を採用しており授業は50分×7コマで実施されている。
主な学校行事
- 4月 - 入学式、前期始業式、対面式、実力考査、中田浜強歩大会
- 5月 - 1学年確認考査
- 6月 - OB講演会、前期中間考査
- 7月 -
- 8月 - 実力考査(下旬)
- 9月 - 前期期末考査、前期終業式
- 10月 - 後期始業式、創立記念マラソン大会
- 12月 - 後期中間考査
- 1月 - 実力考査、高校入試I期選抜
- 2月 - 後期期末考査
- 3月 - 卒業式、高校入試II期選抜、後期終業式
- 時習講演会
- 毎年、6月下旬に開催。
- 会津中学校時代には、聴講にも来たことがあるという野口英世を招いて講演することもあった[1]。
- 2008年度は北京オリンピック出場が決まった、卒業生の佐藤敦之を招く予定であったが、8月の五輪に向けた調整や精神的な面での疲労をかけさせないよう、10月に延期。
- 中田浜強歩大会
- 毎年4月下旬に行われ、学校から飯盛山方面を通り猪苗代湖畔・中田浜の学而会館、そこから更に学校まで戻る総延長約40キロの道のりを半日かけて歩く大会である。
- 文化祭
- 「学而祭」と呼ばれる。1948年に提案され、第1回学而祭が翌1949年9月23日から3日間実施され、第1回講演会講師は湯川秀樹であった。現在は、一般の市民も招き3日間にわたって開かれる公開学而祭が3年ごとにある。過去の講師は桑原武夫、広中平祐、秋山仁など。
- 2000年までは「ミニ学而祭」も実施されたが、2003年からは7月に行われていた球技大会を統合し、「青春祭」と呼ばれる体育祭を開催。2001年には「男子校終幕記念学而式典」を実施。
- 2008年の文化祭では、学校OBでもあるサンボマスターによるライブが南体育館にて行われた。
生徒会活動
会津高校では、生徒会は「学而会」と呼ばれ、生徒による自治組織として活動している。1893年(明治26年)に発足。1941年(昭和16年)5月22日からしばらく解散状態となる。この間「修練会」と名前を変え、戦時色の濃い勤労奉仕をしていたが、1945年(昭和20年)の役員選挙とともに復活した。
学而会の特徴的な活動として「剣舞委員会」がある。これは戊辰戦争で若くして命を落とした白虎隊の霊を慰める伝統的な剣舞を継承しており、春・秋に飯盛山の墓前祭での奉納を行う。
会津高校は校歌、第一応援歌、第二応援歌、凱旋歌、学而会歌、青春歌等を伝統的に引き継ぐなどしている。
部活動
部活動では、陸上、ディベート(社会弁論)、端艇、水泳、弓道、薙刀がインターハイ出場をしている。 戦前はボート部が強豪として知られ、全盛期には10年間で、全国優勝2回、準優勝、3位各1回、4位3回の成績を収め、戦後も全国優勝の経験がある[2]。剣道は様々な全国大会があったが、国士舘主催の大会で全国優勝、柔道部は明治神宮大会で準決勝に進出した。野球部は1959年(昭和34年)に春の選抜甲子園に出場をしている(兵庫県立尼崎高等学校0-3)。
ディベート部は、2006年(平成18年)に第11回ディベート甲子園全国大会で優勝を果たした。合唱部は全日本合唱コンクールで入賞の経験があり[3]、合唱界では名門校として知られる。また山口県立萩高等学校合唱部と交流があり、両校で『友情 時を越えて今』が共作され、合同合唱が行われている[4]。
部活動一覧
著名な出身者
政界
- 佐治幸平(若松中学) - 衆議院議員・若松市長
- 白井新太郎(私立日新館)- 衆議院議員・東邦協会設立
- 八田貞義(中33回) - 衆議院議員、日本医科大学教授
- 伊東正義(中37回) - 外務大臣・衆議院議員
- 渡部行雄(中49回) - 衆議院議員、司法書士
- 渡部恒三 - 衆議院副議長・厚生大臣・自治大臣・通商産業大臣・国家公安委員長・衆議院議員
- 小林温 - 参議院議員
- 小熊慎司 - 衆議院議員、参議院議員
- 菅家一郎 - 衆議院議員、会津若松市長
- 室井照平 - 会津若松市長
- 早川廣中 - 会津若松市長、中央大学経済学部教授、白虎隊記念館館長
- 山内日出夫 - 会津若松市長、佼成学園女子中学校・高等学校校長
- 津金要雄 - 猪苗代町町長
官界
- 三淵忠彦[* 1] - 初代最高裁判所長官
- 森俊六郎(中1回)- 大蔵省理財局長、台湾銀行副頭取
- 岸本正雄(中5回) - 樺太庁長官、広島県知事、秋田県知事、山形県知事、岡山県知事
- 斎藤良衛(中5回)- 外務省顧問、満鉄理事、会津短大学長
- 大島破竹郎(中7回)- 佐賀県知事、高知県知事
- 黒河内四郎(中7回) - 鉄道省局長、土木学会会長
- 丹羽七郎(中9回)- 内務次官
- 村井八郎(中10回)- 福島県知事、会津若松市など3市の市長、衆議院議員
- 小山知一(中17回) - 佐賀県知事、高知県知事
- 高野源進(中20回)- 原爆投下時の広島県知事、警視総監
- 遠藤直人(中23回)- 兵庫県知事
- 古沢潤一(中25回)- 日本輸出入銀行総裁
- 加藤祐三郎(中27回)- 東北開発株式会社副総裁、録音盤事件
- 柏村信雄(中31回)- 警察庁長官
- 川島廣守(中45回)- 内閣官房副長官、プロ野球コミッショナー
財界
- 松江春次(中1回)- 南洋興発社長
- 小日山直登(中11回)- 満鉄総裁、運輸大臣
- 中野友禮(中12回)- 日本曹達・日曹コンツェルン創業者
- 星野喜代治(中17回)- 日本不動産銀行初代頭取、朝鮮銀行清算人
- 柏村毅(中25回)- 東急専務、関東バス社長
- 本間嘉平(中25回)- 大成建設社長、日本建設業団体連合会初代会長
- 前田實(中27回) - 秋田銀行頭取
- 北村清士 - 東邦銀行頭取
- 倉田元治 - 旭硝子社長
- 新井田傅 - 幸楽苑会長、同社長
学界
- 野口英世[* 2] - 細菌学者、ノーベル賞候補
- 小西重直[* 3](私立日新館) - 京都帝国大学総長
- 君島八郎(中1回) - 九州帝国大学工科大学教授
- 斎藤常三郎(中3回) - 京都帝国大学教授、会津短大学長
- 植村恒三郎(中6回) - 九州帝国大学教授
- 花見朔巳(中6回) - 東京帝国大学史料編纂官
- 松本信一(中8回) - 京都帝国大学医学部教授、大阪医科大学学長、日本医学会会頭
- 小林賢蔵(中12回) - 海軍教授
- 佐藤繁彦(中13回)- 牧師、ルター研究
- 長岡寛統(中13回) - 第六高等学校、高知高等学校校長、バンドン工科大学学長[5]
- 武藤安雄(中13回) - 立教大学教授
- 新城和一(中15回) - 陸軍教授、法政大学教授
- 後藤直(中15回) - 日本大学医学部教授
- 本名文任(中15回)- 京城帝国大学医学部教授、警察予備隊医務局長
- 水野敏雄 (中17回)- 日本育英会理事長、島根大学学長
- 栗村虎雄(中17回) - 会津短大学長
- 小林惇(中18回) - 東京農業大学教授
- 鈴木寛(中20回) - 海洋化学研究所理事長
- 結城朝恭(中21回) - 名古屋工業専門学校校長
- 横田嘉右衛門(中22回) - 富山薬学大学学長
- 川島弘 (中23回)- 金沢大学理学部教授
- 丸山二郎(中24回) - 千葉大学教授
- 富山小太郎(中26回) - 早稲田大学教授
- 中条博(中26回) - 東洋大学教授
- 鈴木勝(中28回) - 日本大学総長、日本歯科医学会会長
- 大平善梧(中29回) - 一橋大学法学部教授、青山学院大学学長
- 藤山英寿(中29回) - 北海道大学医学部教授
- 白川勇記(中30回) - 東北大学理学部教授
- 星冬四郎(中31回) - 東京大学農学部教授
- 星光一(中31回) - 北海道大学工学部教授
- 猪俣勇(中31回) - 南山大学教授
- 木戸義一(中32回) - 静岡大学工学部教授
- 舟木好右衛門(中33回) - 東京工業大学教授
- 湯田好一(中34回) - 千葉大学医学部教授
- 梁田秀治(中35回) - 東京大学教養学部教授
- 新城常三(中35回) - 九州大学文学部教授、北海道大学教授
- 佐藤顕(中35回) - 埼玉大学教授
- 猪俣庄八(中36回) - 北海道大学文学部教授
- 鈴木貞雄(中37回) - 東京工業大学教授
- 金子孫市(中38回) - 東京教育大学教授
- 丹薫(中38回) - 東京学芸大学教授
- 末岡清市(中40回) - 東京大学理学部教授
- 新井田円二(中40回) - 青山学院大学教授
- 高久浩俊(中42回)- 福島大学学芸学部教授
- 佐藤博(中43回) - 千葉大学医学部教授
- 佐藤俊夫(中44回) - 東京大学教養学部教授
- 秋月観映(中45回) - 弘前大学文学部教授
- 川島俊夫(中46回) - 東北大学工学部教授
- 菊地泰次(中46回) - 京都大学農学部長、平安女学院大学院長
- 佐原甲吉(中47回)- 金沢大学経済学部教授
- 三浦新市(中48回) - 慶應義塾大学教授
- 大堀勉(中48回) - 岩手医科大学理事長
- 高瀬常男(中49回) - 京都大学教授
- 阿部宏(中51回) - 東北大学文学部教授
- 相原茂 - お茶の水女子大学教授
- 飯島雅英 - 東北大学大学院理学研究科准教授
- 磯谷明徳 - 九州大学大学院経済学研究院教授
- 伊藤光利 - 神戸大学法学部教授
- 伊藤孝 - 千葉大学医学部教授
- 太田成男 - 日本医科大学大学院生化学部門教授
- 太田原高昭[6] - 北海道大学教授、日本農業経済学会会長
- 柏木繁男 - 千葉大学教授、慶應義塾大学教授
- 川村邦光 - 大阪大学文学部教授
- 小室直樹 - 評論家、東京工業大学教授
- 鈴木孝昌 - 新潟大学工学部教授
- 坂田桂三 - 日本大学法学部教授、中央選挙管理会委員長
- 田中俊一 - 日本原子力学会会長
- 新田忠誓 - 一橋大学商学部教授
- 花泉修 - 群馬大学工学部教授
- 樋口聡 - 広島大学大学院教育学研究科教授
- 星旦二 - 首都大学東京都市環境学部教授
- 村岡功 - 早稲田大学スポーツ科学部教授
- 山口隆美 - 東北大学工学研究科機械電子工学専攻教授
- 渡部潤一 - 国立天文台教授
- 梅津顕一郎 - 宮崎公立大学人文学部教授
- 江花昭一 - 神奈川大学特別教授
- 江花輝昭 - 獨協大学外国語学部教授
- 渡部森哉 - 南山大学准教授
文化界
- 柳澤健(中14回) - 作詞家、外交官、日本ペンクラブ創設
- 仁科熊彦(中22回) - 映画監督
- 河原万吉(中24回・中退) - 著作家
- 早川喜代次(中26回) - 白虎隊記念館館長、弁護士
- 春日部たすく(中30回) - 水彩画家、水彩連盟創始者
- 長沢節(中41回) - イラストレーター、セツ・モードセミナー主宰
- 宮崎十三八(中49回) - 郷土史家
- 高羽哲夫(中51回) - 松竹カメラマン
- 矢部喜好 - 牧師・日本で最初の良心的兵役拒否者
- 石原信一 - 作詞家、越冬つばめ
- 春日八郎 - 歌手・中退
- 三瓶宏志 - NHKアナウンサー
- 塩原恒夫 - フジテレビアナウンサー
- 白井涼 - ファッションモデル
- 高久進 - 脚本家
- 室井光広 - 小説家、芥川賞
- 柳澤秀夫 - NHK解説委員主幹
- 山口隆 - ロックバンドサンボマスターのボーカル
スポーツ
軍人
- 樋口喜吉(私立日新館) - 陸軍少将
- 長谷川戍吉(私立日新館) - 陸軍騎兵少佐、長谷川挺身隊隊長
- 平石弁蔵(中1回・中退) - 陸軍少佐、『会津戊辰戦争』の著者
- 藁谷勇三郎(中2回) - 陸軍大佐、稚松会設立
- 日下操(中3回) - 陸軍少将
- 森下正(中3回) - 陸軍少将
- 高山輝義(中4回) - 陸軍少将、会津若松市長
- 三坂隆精(中5回) - 陸軍少将
- 常盤盛衛(中5回) - 海軍少将
- 佐藤美千代(中6回) - 陸軍少将
- 国府尽平[* 4](中11回)- 海軍中佐、医学博士
- 雪下勝美(中12回) - 海軍少将
- 佐藤勇助(中15回) - 陸軍主計中将
- 平向九十九(中15回) - 陸軍少将
- 原田覚(中16回) - 海軍中将
- 簗瀬真琴(中16回) - 陸軍少将
- 草刈英治(中16回) - 海軍少佐
- 山口一(中16回) - 海軍主計少将
- 青木太門(中26回)- 海軍少将(戦死)
- 加藤丈夫(中30回)- 陸軍大佐、太平洋戦争開戦時の参謀本部英米班長
- 相田俊二(中36回)- 海軍少佐、海兵61期首席
- 折笠重康(中39回)- 海軍中佐(キスカ島撤退作戦、戦死)
- 猪俣甚弥(中40回)- 陸軍少佐、陸軍中野学校1期生、皇統護持作戦
- 和田勁[* 5] - 満州国陸軍中将
- 藤井重郎[* 5]- 陸軍少将、満州国陸軍中将(戦死)
- 渋川善助[* 5] - 二・二六事件で刑死
その他
交通
脚注
- ↑ 『福島県立会津高等学校創立70周年記念誌』、『素顔の野口英世』(福島民友新聞社編・歴史春秋社)。なお野口の自筆履歴書には課外特選生として会津中学に在籍した旨が記されているが、会津中学の卒業生名簿に野口の名はない。
- ↑ 創立70周年記念誌
- ↑ 全日本合唱連盟 2011年10月4日閲覧
- ↑ 朝日新聞 2011年7月19日付け 2011年10月4日閲覧
- ↑ 『石川百年史』861頁
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- 注釈
- ↑ 萱野長修の甥・庄内中学へ転校
- ↑ 野口の自筆履歴書には課外特選生として会津中学に在籍した旨が記されているが、会津中学の卒業生名簿に野口の名はない。『素顔の野口英世』(福島民友新聞社編・歴史春秋社)。
- ↑ 在校中に廃校となり、安積中学を卒業。
- ↑ 府立一中へ転校
- ↑ 5.0 5.1 5.2 陸軍幼年学校へ進学
- 出典