広中平祐

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広中 平祐(ひろなか へいすけ、1931年4月9日 - )は日本数学者ハーバード大学元教授。京都大学数理解析研究所元所長。 日本人で2人目のフィールズ賞受賞者である。専門は代数幾何学で、フィールズ賞受賞対象の研究は「標数0の上の代数多様体特異点の解消および解析多様体の特異点の解消」。名字の「広」の字は正式には「廣」である。日本学士院会員

概要

山口県玖珂郡由宇町(現・岩国市)生まれ。両親は再婚同士で、15人兄弟の7番目として生まれた。父は大手の呉服商や織物工場を営み、戦前はかなり裕福な家庭で育った。

1944年に旧制柳井中学に入学。しかし中学2年からは光海軍工廠での兵器製造に学徒動員され、学業は停止。召集された長兄と次兄は戦死し、父の会社も戦後は没落。父は衣料品の行商人として平祐たちを育てた[1]

京都大学理学部に進学。1957年からはハーバード大学に3年間留学し、特異点解消の研究に打ち込む。在籍中の1959年には半年間、パリの高等科学研究所の客員研究員に。1962年、ブランダイス大学の講師の職を得て各種の多様体上の特異点の解消に関する研究に打ち込む。1962年、自宅で構想中に得たひらめきを元に定理を構築し、1964年に論文を発表。この研究が認められ、1970年にフィールズ賞を受賞した。

1964年、コロンビア大学の教授に招聘される。1968年からはハーバード大学教授。1975年、昭和生まれでは初の文化勲章を受章。同年から京都大学教授も兼任(1988年退任)。

夫人は環境庁長官を務めた広中和歌子。娘の広中えり子も数学者でフロリダ州立大学教授[1]

人物

  • 幼少時、分からないことがあると何でも質問するため、母親から「なぜなぜ坊や」と呼ばれていた。母親は疑問に答えられないと、「偉い人に聞けば分かるだろう」と町の医者や神主のところに平祐を連れて行き、答えを尋ねてくれたという[2]
  • 若い頃はピアノの演奏家、作曲家を志していた。ピアノは高校時代に殆ど独学したが、始めた時期が遅いことからプロの演奏家になることは諦めた。
  • 中学1年の時、2歳上の姉が悩んでいた数学の因数分解の問題を覗き見、教科書の公式を見てすらりと解いてしまう。後年「数学が面白いと初めて感じた瞬間だった」と振り返っている[3]
  • 京都大学の学生時代は秋月康夫の研究室に入り、厳しい指導を受ける。日本人3人目のフィールズ賞受賞者・森重文も秋月研究室出身。
  • 特異点解消問題について、1963年に日本数学会で講演した。その内容は、一般的に考えるのでは問題があまりに難しいから、様々な制限条件を付けた形でまずは研究しようという提案であった。その時、岡潔が立ち上がり、問題を解くためには、広中が提案したように制限をつけていくのではなく、むしろ逆にもっと理想化した難しい問題を設定して、それを解くべきであると言った。その後、広中は制限を外して理想化する形で解き、フィールズ賞の受賞業績となる[4]
  • ハーバード大ではオスカー・ザリスキに師事。同門下にデヴィッド・マンフォード(1974年フィールズ賞受賞)がおり、広中は後年「ランチを食べながらお互いに教え合い、刺激しあった」と語っている[5]
  • 研究員としてパリに滞在していた1959年、語学学校で指揮者の小澤征爾と出会い、親交を結ぶ。1960年、小澤がバークシャー音楽祭(現・タングルウッド音楽祭)に出演するため来米すると、広中が車を運転して空港から送迎したという(小澤はこの時、最高賞のクーセヴィツキー賞を受賞し、アメリカで名声を得るきっかけとなる)[6]
  • 数学教育に積極的に取り組んでいることでも知られる。数理科学に強い情熱と優れた資質を持つ若者に学年や地域の壁を越えた交流の機会を提供するために、1980年に第1回数理の翼夏季セミナーを主催。1984年には財団法人数理科学振興会を設立し、代表に就任。1992年からは小学生対象の「算数オリンピック」会長。ほかに東京書籍算数・数学教科書の監修も担当している。
  • 座右の銘は「素心深考」

略歴

出演

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関連項目

脚注

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  1. 広中平祐『生きること学ぶこと』集英社、1984年 ISBN 978-4087507317
  2. 中国新聞連載「生きて」、2008年12月
  3. 中国新聞連載「生きて」、2008年12月
  4. 広中平祐 『学問の発見』、佼成出版、1992年、129頁。ISBN 4-333-01563-4。
  5. 中国新聞連載「生きて」、2008年12月
  6. 中国新聞連載「生きて」、2008年12月