岡潔

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テンプレート:Infobox scientist 岡 潔(おか きよし、1901年(明治34年)4月19日 - 1978年(昭和53年)3月1日)は、日本の数学者奈良女子大学名誉教授理学博士京都帝国大学1940年(昭和15年))。

略歴

  • 1907年(明治40年)4月 - 柱本尋常小学校入学。
  • 1913年(大正2年)3月 - 柱本尋常小学校卒業。
  • 1913年(大正2年)4月 - 紀美尋常高等小学校高等科へ進む。
  • 1914年(大正3年)4月 - 和歌山県立粉河中学校入学。
  • 1919年(大正8年)3月 - 和歌山県立粉河中学校卒業。
  • 1919年(大正8年)9月 - 第三高等学校理科甲類入学。
  • 1922年(大正11年)3月 - 第三高等学校卒業。
  • 1922年(大正11年)4月 - 京都帝国大学理学部入学。
  • 1923年(大正12年)3月 - 二年生進級時に、それまで物理学志望だったのを数学志望に変更。
  • 1925年(大正14年)3月 - 京都帝国大学理学部卒業。
  • 1925年(大正14年)4月 - 京都帝国大学理学部講師
  • 1927年(昭和2年)4月 - 第三高等学校講師兼任。
  • 1929年(昭和4年)4月 - 京都帝国大学理学部助教授 フランスに留学 ソルボンヌ大学ポアンカレ研究所(現・パリ第6大学フランス国立科学研究センター)に通う。
  • 1932年(昭和7年)3月 - 広島文理科大学助教授。
  • 1932年(昭和7年)5月 - 留学終え帰国。
  • 1935年(昭和10年)1月 - 前年の暮れ 多変数解析函数の分野の現状を展望したベンケ、トゥルレン共著の冊子を入手、ここで取りあげられた問題の解決に取り組む。
  • 1935年(昭和10年)9月 - 数学上の最初の発見(インスピレーション型発見)があり、これを元に論文ⅠからⅤまで次々に成る(論文Ⅰは1936年(昭和11年)5月、広島文理科大学紀要に発表)。
  • 1938年(昭和13年)1月 - 広島文理科大学休職。
  • 1940年(昭和15年)6月 - 広島文理科大学辞職。
  • 1940年(昭和15年)10月 - 数学上の第二の発見(梓弓型発見)による前年の論文Ⅵの発表により京都帝国大学より学位授与、「多変数解析函数について(英文)」 。
  • 1941年(昭和16年)10月 - 北海道帝国大学理学部研究補助嘱託。
  • 1942年(昭和17年)11月 - 北海道帝国大学理学部研究補助辞職。
  • 1948年(昭和23年)10月 - 前々年の数学上の第三の発見(情操・情緒型発見)により論文Ⅶを発表。
  • 1949年(昭和24年)7月 - 奈良女子大学理家政学部教授(のち、理学部と家政学部が分離し、理学部教授)。
  • 1951年(昭和26年)10月 - 論文Ⅷを発表。
  • 1953年(昭和28年)10月 - 論文Ⅸを発表。
  • 1954年(昭和29年)4月 - 京都大学理学部非常勤講師を兼ねる。
  • 1962年(昭和37年)9月 - 冬を終えた春の問題を扱った論文Ⅹを発表。
  • 1964年(昭和39年)3月 - 奈良女子大学定年退職 京都大学非常勤講師退職。
  • 1964年(昭和39年)4月 - 奈良女子大学名誉教授 奈良女子大学非常勤講師。
  • 1969年(昭和44年)4月 - 京都産業大学理学部教授に就任して、教養科目「日本民族」を担当[1]

受賞歴・叙勲歴

生涯

通史

岡潔は1901年(明治34年)4月19日に大阪府大阪市で生まれた[4]。父祖の地は和歌山県の山村、和歌山県伊都郡紀見村(後に橋本市)である。1925年(大正14年)、京都帝国大学卒業と同時に同大学講師に就任、1929年(昭和4年)、同大学助教授に昇進。1929年(昭和4年)より3年間、フランスに留学。1932年(昭和7年)、広島文理科大学助教授に就任したが、1938年(昭和13年)、病気で休職、のち辞職。郷里にもどり、孤高の研究生活に身を投じた。1941年(昭和16年)秋から翌年にかけて北海道大学に赴任。札幌市在住の、終生に亘る心腹の友であった中谷宇吉郎と旧交を暖めた。後、再び帰郷し、郷里で終戦を迎えた。1949年(昭和24年)、奈良女子大学教授に就き、1951年(昭和26年)から晩年までは奈良市に住まいした。文化勲章受章の翌年1961年(昭和36年)、橋本市名誉市民。1968年(昭和43年)、奈良市名誉市民。

数学者としての挑戦

フランス留学時代に、生涯の研究テーマである多変数解析函数論に出会うことになる。当時まだまだ発展途上であった多変数解析函数論において大きな業績を残した。一変数複素関数論は現代数学の雛型であり、そこでは幾何代数解析三位一体となった美しい理論が展開される。現代数学はこれを多次元化する試みであるということもできよう。解析の立場から眺めると一変数複素関数論の自然な一般化は多変数複素関数論であるが、多変数複素関数論には一変数の時にはなかったような本質的な困難がともなう。これらの困難を一人で乗り越えて荒野を開拓した人物こそ岡潔である。

具体的には三つの大問題の解決が有名だが、特に当時の重要な未解決問題であったハルトークスの逆問題(レヴィの問題ともいう。および関連する諸問題)に挑み、約二十年の歳月をかけてそれを(内分岐しない有限領域において)解決した。岡はその過程で不定域イデアルという概念を考案したが、アンリ・カルタンを始めとするフランスの数学者達がこのアイデアをもとにという現代の数学において極めて重要な概念を定義した。また、(解析関数に関する)クザンの第2問題が解けるためには、それを連続関数の問題に置き換えた命題がとければよいとする「岡の原理」も著名である。

その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず、「岡潔」というのはニコラ・ブルバキのような数学者集団によるペンネームであろうと思われていた事もあるという[5]

教育者の側面

京都大学時代には湯川秀樹朝永振一郎らも岡の講義を受けており、物理の授業よりもよほど刺激的だったと後に語っている[6]

一時期、広島文理科大学時代に精神不安定状態に陥り、学生による講義のボイコットなども経験したが、奈良女子大学時代には、与えられた任務には何事も全身全霊で取り組むという彼の性格から、女子教育に関する論文を書くなど、教育にも心を配った。

広中平祐が33歳でコロンビア大学教授に就任が決まったとき、当時未解決の大問題であった代数多様体の特異点解消問題について日本数学会で講演した。その内容は、一般的に考えるのでは問題があまりに難しいから、様々な制限条件を付けた形でまずは研究しようという提案であった。その時、岡潔が立ち上がり、問題を解くためには、広中が提案したように制限をつけていくのではなく、むしろ逆にもっと理想化した難しい問題を設定して、それを解くべきであると言った。その後、広中は制限を外して理想化する形で解き、フィールズ賞の受賞業績となる[7]

テンプレート:要出典範囲

奈良女子大退官後、京都産業大学の教授となり、「日本民族」を講義した。

晩年の主張は超高次元の理想である真善美妙を大切にせよというもので、真には知、善には意、美には情が対応し、それらを妙が統括し智が対応すると述べた。一方で日本民族は人類の中でもとりわけ情の民族であるため、根本は情であるべきとも語った。また日本民族は知が不得手であるため、西洋的なインスピレーションより東洋的な情操・情緒を大切にすることで分別智と無差別智の働きにより知を身につけるべきと提唱している。さらに現代日本は自他弁別本能・理性主義合理主義物質主義共産主義などにより「汚染されている」と警鐘を鳴らし、これらを無明と位置付け、心の彩りを神代調に戻し生命の喜びを感じることで無限に捨てるべきと述べた[8]

人格

岡は仏教を信仰しており、特に山崎弁栄に帰依していた。岡自身によれば、岡は「純粋な日本人」であり、日本人として持っている「情緒」に基づいて、その数学的世界を創造した。岡はこのような自身の体験に基づいた随筆をいくつか書いていて、一般にはむしろそちらの方でよく知られている。

三高時代、岡は友人に対し「僕は論理も計算もない数学をやってみたい」と語っている。岡の考えでは論理や計算は数学の本体ではなく、表面的なことを追うだけでは答えが見えてこないと思っていたらしい。この見えざる数学の本体に迫ることと、仏教的叡智や情緒の探求は岡にとって表裏一体であったと考えられる。

作家の藤本義一は、岡をモデルとした戯曲雨のひまわり』を製作するために密着取材をした事があり、著書『人生の自由時間』『人生に消しゴムはいらない』で彼の日常生活について記している。

藤本によると、岡は起床してすぐ自己の精神状態を分析し、高揚している時は「プラスの日」、減退している時は「マイナスの日」と呼んだという。 プラスの日は知識欲が次々湧いて出て、見聞きするあらゆる出来事や物象を徹底的に考察 - 例えば、柿本人麻呂和歌を見ると、内容は元より人麻呂の生きた時代背景、人麻呂の人物像にまで自論を展開 - するのだが、マイナスの日は、寝床から起き上がりもせず一日中眠っており、無理に起こそうとすると「非国民」等と怒鳴る有様であった。 岡のこの行動を見た藤本は「恐らく岡は躁鬱病であると考えられるが、プラスの日・マイナスの日は一日おき、もしくは数日おき…といった具合で、躁と鬱の交代期間は比較的短かった」と述べている。

また画家の坂本繁二郎と対話したのちに、日本人の精神統一法について思考を巡らせている。繁二郎が「馬」を描いていた若い頃は分別智の雲が途切れる瞬間無差別智の閃光が差し込むインスピレーションを主とする純西洋型精神統一法を用いていたが、「月」を描くような年頃になってからは分別智の春雨と無差別智の明かりによる情操・情緒を主とする日本的西洋型精神統一法を用いていたという。岡自身も三つの大問題の解決にあたりインスピレーション型(花木型)→梓弓型→情操・情緒型(大木型)と移行していき、この日本的西洋型精神統一法と無差別智のみの禅型精神統一法を使い分けることで老後の日常生活を乗り切っていたと語っている。一方最晩年になると世間智については使ってはならないと語っているが、西洋の理性はすべて世間智型平等性智であるため、理性を使わなくてよい社会を建設しなければならないとも語っている[9]

随筆

前述のように晩年は『春宵十話』を皮切りに他人の手を介していくつか随筆が書かれており、教育者の側面や人格の項で触れたような内容が流麗なタッチで記されている。ただし初期は『一葉舟』のように非常に将来に対して悲観的であり、日本を憂う発言が多かった。しかし日本について詳しく調べるうち、やがてそれは自らの手で描く警鐘へと繋がり、さらに最晩年は活字にはならなかったが日本の将来は安泰だという確信に転じている。

日本史においては神代は矛盾の無い知情意のもと、素戔嗚尊に代表される「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」と雄大な歌を詠めるほど健康的であったが、大陸文化伝来と共に氏を表すという悪習(氏姓制度)が入り、それにより日本民族の心は汚れていったという。

まず西行の「心無き 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」に代表されるように無明を直視したため美しく弱々しい「たをやめぶり」になってしまい、さらに武士の世では源実朝の「箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」のように無明に呑まれすっかり弱まってしまった。

太平の世であった江戸時代に(知と意は抜けているものの)神代調の情や「個性」を歌った松尾芭蕉の歌が出た以外は、神代より後の日本は概ね心が弱っているか、それすら気づかず自他対立に明け暮れているといえよう。知が暴走しやがて大東亜戦争敗戦という結果を招いた日露戦争以後や、意が暴走し社会が乱れた戦後のように。

また人智の進歩の中で一つのキーワードとなるのが仏教用語でいう「我」で、氏を表す悪習により日本民族は自他弁別本能に取り憑かれ「小我」になってしまったという。

これに対し日本民族の「準中核」にあたるのが「武士道」や「大和魂」に相当する人物で、こうした人物は小我から脱しつつあるため、旧制中学などを利用してこのような人材をまず日本は育てなさいと提言している。

それより上の次元に進むと、日本民族の「中核」である「真我」や「大我」に繋がり、この次元にまで達すると決して自他対立せず衆善奉行できるという。仁徳天皇に自らの皇位継承権を譲るために自殺してしまった菟道稚郎子や、生涯を日本に捧げた先帝陛下たる昭和天皇は典型例であろうと語っている[10]

著作

単著

共著

論文集

公表論文

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脚注

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参考文献

関連項目

外部リンク

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  1. 「略歴」の記述は「岡 潔 略年譜」(岡 2001、296-299頁)。
  2. テンプレート:Cite web
  3. 高瀬 2008、31頁。
  4. 岡潔文庫の年譜
  5. テンプレート:Citation
  6. 湯川&朝永 1990朝永 1976より引用。テンプレート:Cite web
  7. 広中 1992、129頁。
  8. 岡 2004、311-332頁。
  9. 岡 2004、127-210頁。
  10. 岡 2004、127-210頁。
  11. 数学者 岡潔思想研究会 (1)「情と日本人」の解説 【11】参考資料の図表