柿本人麻呂
柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ、斉明天皇6年(660年)頃 - 養老4年(720年)頃)は、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
目次
人物
出自・系譜
柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献[1]がある。また、同文献では人麻呂の子に蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったされる。いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。
経歴
彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ[2]、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌[3]を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある[4]。
賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。近時は宮廷歌人であったと目されることが多い[5]が、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。後世の俗書[6]では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。
『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌[7]が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌[8]が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解[9]や、後人の仮託であるとの見解も有力である。[10]また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。
歌風
彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌に特徴がある。賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」「神ながら 神さびせすと」「高照らす 日の皇子」のような天皇即神の表現などをもって高らかに賛美、事績を表現する。この天皇即神の表現については、『記紀』の歌謡などにもわずかながら例がないわけではないが、人麻呂の作に圧倒的に多く、この歌人こそが第一人者である。また人麻呂以降には急速に衰えていく表現で、天武朝から持統朝という律令国家制定期におけるエネルギーの生み出した、時代に規制される表現であるといえる。
恋歌に関しては、複数の女性への長歌を残しており、かつては多くの妻妾を抱えていたものと思われていたが(たとえば斎藤茂吉)、近時は恋物語を詠んだもので、人麻呂の実体験を歌にしたものではないとの理解が大勢である。ただし、人麻呂の恋歌的表現は共寝をはじめ非常に性的な表現が少なくなく、窪田空穂が人麻呂は夫婦生活というものを重視した人であるとの旨を述べている(『万葉集評釈』)のは、歌の内容が事実・虚構であることの有無を別にして、人麻呂の表現のありかたをとらえたものである。
次の歌は枕詞、序詞を巧みに駆使しており、百人一首にも載せられている。ただし、これに類似する歌は『万葉集』巻11・2802の異伝歌であり、人麻呂作との明証はない。『拾遺和歌集』にもとられているので、平安以降の人麻呂の多くの歌がそうであるように、人麻呂に擬せられた歌であろう。
万葉仮名 | 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 | |
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平仮名 | あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む | |
訳 | 夜になると谷を隔てて独り寂しく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように、長い長いこの夜を、私は独り寂しく寝るのだろう。 |
また、『古今和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に248首が入集している[11]。
代表歌
- 天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ
- 東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
- ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し
- 近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも 」という天皇を称えた歌が採られている。
今昔秀歌百撰で柿本人麻呂は6番で、 あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が獄に雲立ち渡る (出典:万葉集巻七、選者:齋藤恭一(元埼玉県高校教諭))
人麻呂の謎
官位について
各種史書上に人麻呂に関する記載がなく[12]、その生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」[13]と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。
江戸時代、契沖、賀茂真淵らが、史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと唱え、以降現在に至るまで歴史学上の通説となっている。
- 五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならなかったが、人麻呂の名は正史に見られない。
- 死去に関して律令には、三位以上は薨、四位と五位は卒、六位以下は死と表記することとなっているが、『万葉集』の人麻呂の死去に関する歌の詞書には「死」と記されている。[14]
終焉の地について
その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(石見国)である。地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる、鴨島である。「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。そのため、後世から鴨島伝説として伝えられた。鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり水没したといわれる。この伝承と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合っているため、いわゆる伝説の域を出るものではない。 その他にも、石見に帰る際、島根県安来市の港より船を出したが、近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承がある。この島は現在の亀島と言われる小島であるという説や、河砂の堆積により消滅し日立金属安来工場の敷地内にあるとされ、正確な位置は不明になっている。
また他にも同県邑智郡美郷町にある湯抱鴨山の地という斎藤茂吉の説があり、益田説を支持した梅原猛の著作の中で反論の的になっている[15]。
人麻呂にまつわる異説・俗説
その通説に梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ刑死したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原がいうように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。なお、この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。
『続日本紀』元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本猨(かきのもと の さる)の死亡記事がある。この人物こそが、政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある[16]。しかし当時、藤原馬養(のち宇合に改名)・高橋虫麻呂をはじめ、名に動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。このため、井沢元彦は『逆説の日本史』(2)で、「サル」から「人」麻呂に昇格したと述べている。しかし、「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論と同じ問題点を抱えている。柿本猨については、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことは明らかでない。
脚注
関連項目
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外部リンク
- 島根ゆかりの文学者 柿本人麻呂
- 今昔秀歌百撰- 研究者サイト
- ↑ 「石州益田家系図」(『諸氏家牒』上 所収)。「石見周布系図」(『萩藩諸家系譜』所収)では、猨の子に人万呂(人麿)を記しているが、疑問であるとする。(いずれも、宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年 による)
- ↑ 『万葉集』巻10・2033左注
- ↑ 『万葉集』巻2・217-219
- ↑ 北山茂夫による。
- ↑ 伊藤博・橋本達雄などによる。
- ↑ 『人丸秘密抄』など
- ↑ 『万葉集』巻2・220-222
- ↑ 『万葉集』巻2・223-227
- ↑ 伊藤博による。
- ↑ ただし人麻呂が石見国で死んだというのが虚構だとするのならば、なぜ人麻呂が石見国に結び付けられたのか(または人麻呂自身がなぜ石見国について取り上げたのか)、その理由について説得力のある説明は未だなされていない。
- ↑ 『勅撰作者部類』
- ↑ 後世の資料であるが、「石州益田家系図」では正八位上・石見掾とする。
- ↑ ただし『古今和歌集』の古い伝本の多くはこの箇所を「おほきみみつのくらゐ」としており、「おほきみつのくらゐ」としているのは藤原定家が書写校訂した系統の写本に限られている。しかしでは、「おほきみみつのくらゐ」とは何なのかこれもまた不明である。『古今和歌集綜覧(改訂版)』久曽神昇編(1989年〔復刻版〕、書芸文化新社)参照。
- ↑ 『万葉集』巻第三には大津皇子の辞世とされる歌があるが(416番)、その詞書には「大津皇子の死(ころ)されし時に(以下略)」とある。死の直前には身分に関わりなく「死」の字を使い、その人物の死亡が間違いない時点で「薨」や「卒」を使ったと見られる。人麻呂の場合もその詞書に「死に臨みし時に」とあり、この「死」の字のことをもって人麻呂が六位以下であったかどうかは判断できない。
- ↑ 梅原猛著作集5『古代幻視』 小学館
- ↑ 梅原猛『水底の歌 柿本人麿論』
篠原央憲 『柿本人麻呂いろは歌の謎』 知的生きかた文庫