野口英世

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テンプレート:Infobox scientist 野口 英世(のぐち ひでよ、1876年明治9年)11月9日 - 1928年昭和3年)5月21日)は、日本細菌学者

人物

福島県出身。猪苗代高等小学校卒業、済生学舎(現在の日本医科大学)修了後、ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員。細菌学研究に主に従事し、黄熱病梅毒等の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年5月21日、ガーナアクラで51歳で死去。

栄典は、正五位勲二等旭日重光章学位医学博士京都大学)、理学博士東京大学)。称号ブラウン大学名誉理学博士イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監名誉大佐キリスト者

妻はメリー・ロレッタ・ダージス

年譜

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野口英世と母シカ(野口英世記念館蔵)
1876年明治9年)
11月9日 - 福島県耶麻郡三ッ和村三城潟(現・猪苗代町)に、父・野口佐代助と母・シカの長男として生まれ、清作(せいさく)と名付けられる(後述の理由により22歳で英世と改名)[注 1]
1877年(明治10年)4月
1歳の時に囲炉裏に落ち、左手を大火傷する[注 2]
1883年(明治16年)
三ッ和小学校に入学[注 3]。左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に諭される[注 4]
1889年(明治22年)
猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学する[注 5]
1891年(明治24年)
左手の障害を嘆く彼の作文が、小林を始めとする教師や同級生らの同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受ける。その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。この手術の成功に感激した事がきっかけで医師を目指す。
1893年(明治26年)
猪苗代高等小学校を卒業後、自分を手術してくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約3年半にわたって医学の基礎を学ぶ。この間に、渡部の友人であった歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院(現在の東京歯科大学)の講師・6歳年長の血脇守之助と知り合う。
1896年(明治29年)
小林らから40円もの大金を借りて上京。医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験(筆記試験)に合格するも、放蕩のためわずか2ヶ月で資金が尽き、下宿からの立ち退きを迫られる。後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院に書生として雇ってもらおうとするが院長に拒否され、血脇の一存で非公式に寄宿舎に泊まり込むこととなる。その後、掃除や雑用をしながら学僕となる。同年、ドイツ語の学習を目的としてエリザ・ケッペン夫人の夜学の学費を得たいと考え、血脇に相談するが、月給4円の血脇には捻出できないため、血脇に策を与え院長に昇給を交渉させる。その結果、血脇の給与は月額7円となり、ここから学費を得ることができた。後期試験(臨床試験)は実際の患者を相手に診断をするもので、独学が不可能であったため、医術開業試験予備校である済生学舎(現在の日本医科大学[注 6]へ通う資金を得るために、再び血脇に秘策を与えて院長と交渉させる。その結果、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうことで病院の予算を自由に動かせるようになり、彼自身は血脇から月額15円もの援助を受けることに成功[注 7]。済生学舎(現在の日本医科大学)近くの東京都文京区本郷の大成館に下宿する。
1897年(明治30年)
臨床試験で必須の打診ができないことから、血脇の計らいで帝国大学外科学教授・近藤次繁による左手の無償再手術を受ける。その結果、打診が可能になり後期試験にも合格。21歳で医師免許を取得した[注 8]。医師免許取得後、開業資金がなく、また左手を患者に見られたくないという理由から、開業医の道を断念し、学者の道を歩むことを決心する。血脇の計らいで高山高等歯科医学院の講師を務める他、順天堂医院助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わる。
1898年(明治31年)
10月 - 順天堂(現在の順天堂大学医学部)の上司である編纂主任・菅野徹三に頼み込み、順天堂医院長・佐藤進の紹介という形で、血清療法の開発などで世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に勤め始める[注 9]。研究所では語学の能力を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当した。同年、知人からすすめられて、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、弁舌を弄し借金を重ねつつ自堕落な生活を送る登場人物・野々口精作が彼の名前によく似ており、また彼自身も借金を繰り返して遊郭などに出入りする悪癖があったことから強い衝撃を受け、そのモデルであると邪推される可能性を懸念し改名を決意、郷里の小林に相談の結果、世にすぐれるという意味の新しい名前“英世”を小林から与えられた[注 10]。本来、戸籍名の変更は法的に困難であるが、野口は別の集落に住んでいた清作という名前の人物に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらい、第二の野口清作を意図的に作り出した上で、「同一集落に野口清作という名前の人間が二人居るのは紛らわしい」と主張するという手段により、戸籍名を改名することに成功した。
1899年(明治32年)
4月 - 伝染病研究所渉外係の業務の一環として、アメリカから志賀潔赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナー博士の案内役を任された際、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診。
5月 - 伝染病研究所の蔵書が、野口経由で貸し出された後に売却されるという事件が発覚。この事件を理由に研究所内勤務から外されたが、北里所長の計らいで横浜港検疫所検疫官補となる。
9月 - 横浜港に入港した“あめりか丸”の内部で、ペスト患者を発見・診断した。
10月 - 清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省より要請のあった、国際防疫班に選ばれる。しかし支度金96円を放蕩で使い果たしたため、資金を血脇に工面してもらい渡航。清国では一般的な病気の治療にあたった。半年の任期終了後も国際衛生局、ロシア衛生隊の要請を受け残留。国際的な業務を体験し、翌年5月にフレクスナー宛にアメリカ留学を希望する手紙を出す(ロックフェラー大学・noguchi-paper)。この時期は大変な高給に恵まれたが、放蕩で使い果たしてしまったため、渡航のための資金を得る事はできなかった。
1900年(明治33年)
6月 - 義和団の乱により清国の社会情勢が悪化。
7月 - 日本へ帰国。開通したばかりの岩越鉄道線(現・磐越西線)で福島県に帰郷。小林に留学資金の融通を要請するも、「いつまでも他人の金に頼るな」と諭され拒否される。再び神田・東京歯科医学院(芝より移転した元・高山高等歯科医学院)の講師に戻る。
12月 - 箱根の温泉地にて知り合った斉藤文雄の姪で、医師を志す女学生・斉藤ます子と婚約を取り付け、その婚約持参金を渡航費に当て、アメリカへ渡航[注 11]。北里の紹介状を頼りに、フレクスナーのもとペンシルベニア大学医学部で助手の職を得て、蛇毒の研究というテーマを与えられ、研究の成果を論文にまとめる。この蛇毒の研究は、フレクスナーの上司で同大学の理事であったサイラス・ミッチェル博士からも絶賛され、野口はミッチェルの紹介で一躍アメリカの医学界に名を知られることとなった[注 12]
1901年(明治34年)
ロックフェラー医学研究所が設立される。この研究所の設立にあたっては、フレクスナーが組織構成を任されていた。
キューバの眼科医カルロス・フィンレーとアメリカの軍医、ウォルター・リード大佐が人体実験により黄熱が蚊により伝染することを突き止める。また黄熱患者の血清を細菌濾過器に通過させることにより、黄熱病病原体が血液中にあり濾過性のウイルスであることを証明する。(野口は後年南米での黄熱研究でこの証明を受け入れていない。)
1903年(明治36年)
フレクスナーの指示によりデンマーク、コペンハーゲンの血清学研究所に留学。物理学者アーレニウス・マドセンとの連名でいくつかの論文を執筆する。
1904年(明治37年)
10月 - アメリカに戻り、ロックフェラー医学研究所に移籍。
1905年(明治38年)
血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済し、斉藤ます子との婚約を破棄。
1911年(明治44年)
8月 - 「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表。世界の医学界に名を知られることとなる。(ただし継代培養された野口株は病原性を失い、また病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は現在でも追試に成功したものがいない。試験管内での病原性梅毒スピロヘータの培養はニコルズI株について1981年以降に成功が複数報告されているが、その培養条件は野口の報告とは異なり、純粋培養の成功は現代ではほぼ否定されている)。[注 13]京都帝国大学病理学教室に論文を提出、京都大学医学博士の学位を授与される。
4月10日 - アメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚する。夫人との間に子供はなく、養子縁組の時期など、詳細は不明だが甥(姉・イヌの長男)を養子にしたとされ、夫人は福島の義姉に仕送りを欠かさなかったと言う。夫人は戦後、間もなく亡くなり、姉・イヌも明治、大正、昭和の激動の時代を生き、90歳の天寿を全うした。
1913年大正2年)
梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆の患者の脳病理組織内において確認し、この病気が梅毒の進行した形であることを証明する。これは、生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示したものであった。小児麻痺病原体特定、狂犬病の病原体特定などの成果を発表(ただし、後年小児麻痺、狂犬病の病原体特定は否定されている)。
1914年(大正3年)
東京大学より理学博士の学位を授与される。この年の7月にロックフェラー医学研究所正員に昇進する。この年のノーベル医学賞候補となった。
1915年(大正4年)
9月5日 - 年老いた母との再会を果たすため、15年振りに日本に帰国。帝国学士院より恩賜賞を授けられる。またこの際にワイル病スピロヘータを発見した稲田龍吉井戸泰の研究および伊東徹太のワイル病スピロヘータの純粋培養に関する研究を視察している。以後、彼は日本に帰国していない。2度目のノーベル医学賞候補となる。
1918年(大正7年)
ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣される。当時、開通したばかりのパナマ運河周辺で、船員が黄熱病に感染する恐れがあったため、事態は急を要していた。野口に黄熱の臨床経験はなく、患者の症状がワイル病に酷似していたことから試験的にワイル病病原体培養法を適用し、9日後(日数については諸説あり)には病原体を特定することに成功しこれをレプトスピラ・イクテロイデスと命名。この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされる。(ただし、1901年のウォルター・リードの研究結果との乖離から、当時より野口説に対する反論があり、特にワイル病との混同が指摘されていた。後年アフリカの研究で野口は黄熱病原がリードの主張同様濾過性であることを認めている。)この成果により、野口はエクアドル軍の名誉大佐に任命されている。さらに、3度目のノーベル医学賞の候補に名前が挙がる。英世の母シカが死去。
1919年(大正8年)
黄熱病の研究と撲滅のための医師団としてロックフェラー医学研究所からメキシコへ派遣。
1920年(大正9年)
ペルー訪問。国立サン・マルコス大学医学部より名誉博士号授与。リマ市滞在4日間にオロヤ熱およびペルー疣という2つの風土病の情報を入手。
1923年(大正12年)
7月 - 英世の父・佐代助が死去。
11月 - 日本の帝国学士院会員となる。
ジャマイカ・キングストン「熱帯病会議」にて鞭毛虫研究、黄熱病研究の発表を行う。ここでキューバの研究医アグラモンテより、黄熱病病原体とされているイクテロイデスはワイル病病原体と菌株が違うのみではないかと指摘を受ける。会議後アグラモンテを招き自らの研究結果を見せ説得を試みる。
1924年(大正13年)
アフリカ・セネガルにて黄熱病が発生、イギリス、フランスの研究施設より野口ワクチンが効果を見せずイクテロイデスが発見されない旨の報告を受ける。ロックフェラー国際衛生局がナイジェリアのラゴスに黄熱病対策組織として医学研究所本部を設置、野口の部下であるイギリス出身の医学者エイドリアン・ストークス博士を派遣するも同様の研究結果となる。
1926年(大正15年)
ペルー疣とオロヤ熱が同一病原であることは1885年にペルーの医学生、ダニエル・アルシデス・カリオンが証明していたが、アメリカの学会の一部で否定されていた。これを病原であるバルトネージャ菌分離と猿による実験で証明し、論争に終止符を打つ。
南アフリカ出身の医学者マックス・タイラー[注 14]らが、黄熱ウィルスの単離に成功。黄熱病についての野口説(イクテロイデスが病原であること)を反証する。
1927年昭和2年)
トラコーマ病原体を発表する(ただし、後年クラミジアが発見され否定される。)。
ロックフェラー医学研究所ラゴス本部で黄熱病研究を継続していたストークス博士が黄熱病で死亡。
10月 - アフリカへ黄熱病研究のため出張。
11月 - イギリス領ガーナアクラに到着、野口説に否定的見解を抱く研究者の多いロックフェラー医学研究所ラゴス本部での研究を望まない野口に、イギリス植民局医学研究所病理学者ウイリアム・A・ヤング博士が(ロックフェラーの組織外の)研究施設を貸与し研究を開始。現地で黄熱病が収束し、ラゴス本部から病原体を含む血液を提供されず、病原体が入手できないため研究が進められない状況が続く。
12月26日 - ウエンチ村で黄熱病らしき疫病が発生したとの報告を受け血液を採取に行く。
1928年(昭和3年)
1月2日 - 野口自身が軽い黄熱病と診断する症状を発症し入院(ただし、別の医師にはアメーバ赤痢と診断されており、この時の症状は黄熱病ではなかったと考えられる)。
1月9日 - 回復し退院、研究を再開する。
3月末、フレクスナー宛にイクテロイデスとは異なる黄熱病病原体をほぼ特定できた旨の電報を出す。秘書への手紙に濾過性微生物(ウィルス)が病原であると言及しそれまでの自説を否定。
4月 - フレクスナー宛にアメリカで研究を継続したいため、5月19日にアクラを発つと打電。
5月11日 - ラゴスのロックフェラー研究所本部に行った際、体調が悪化。
5月13日 - 黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院する。見舞いに来たヤング博士に「君は大丈夫か?」と尋ねた後に、(終生免疫が続くはずの黄熱病に再度かかったのを不可思議に思い)「どうも私には分からない」と発言。この言葉が最後の言葉とされている。
5月16日 - 回復し、空腹を訴える程食欲も戻る。その旨はフレクスナーにも打電される。
5月18日 - 病状が再度悪化。
5月21日 - 昼頃、病室で死亡。51年の生涯を閉じた。野口の死後、その血液をヤング博士がサルに接種したところ発症し、野口の死因が黄熱病であることが確認された。(ヤング博士自身も29日に黄熱病で死亡)
6月15日 - アメリカのニューヨークウッドローン墓地に埋葬される。

名誉称号授与歴

  • 1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士
  • 1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
  • 1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
  • 1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
  • 1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士

受賞歴

人物

野口英世を主人公とした、子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い人物である。2004年より発行されている日本銀行券E号千円札の肖像になっている。

趣味は、女遊び浪花節将棋囲碁油絵であった。アメリカ合衆国シャンデイケンに野口の設計した別荘があり、画家でもある堀市郎に師事し油絵の多くはここで描かれた。

アメリカ合衆国ニューヨークにあるロックフェラー大学図書館入り口の双方には、ロックフェラーと、ロシア人彫刻家カニョンコフが制作した野口英世の胸像がある。この像はロックフェラー財団からの贈呈を受け、福島県猪苗代町にある野口英世記念館東京都にある野口英世記念会館にも設置されている。また長野県佐久市にある川村吾蔵記念館には彫塑家川村吾蔵が制作した胸像がある。さらに東京、上野恩賜公園国立科学博物館前にも銅像がある。

評価

細菌学の研究者として著名であるが、研究スタイルは膨大な実験から得られるデータ収集を重視した実践派といえる。想定される実験パターンを全て完璧に実行し、尚且つその作業は驚異的なスピードと正確さをもって行われた。この特異な研究姿勢から、当時のアメリカ医学界では野口を指して「実験マシーン」「日本人は睡眠を取らない」などと揶揄する声もあったという。この評価は本人も少なからず気にしていたようで、晩年になってから同僚に「自分のような古いスタイルの研究者は、不要になる時代がもうすぐ来るだろう」と語っていたと伝えられている。現在でも評価が高い研究は、顕微鏡観察による病理学血清学的研究である。

最初の業績としては蛇毒によって引き起こされた溶血性変化に関するもので血管の内皮にもたらされた傷害により出血と浮腫が引き起こされる機構について最初の病理学的な詳細な記述である。これは、その後のガラガラヘビ蛇毒の血清をヤギで作製することの基礎研究につながった。

細菌学の分野では梅毒スピロヘータを運動失調症関節障害に至る末期神経梅毒患者(脊髄癆)の脳標本で発見したことが著名である(抗生剤の大量投与が必要であり多発性硬化症脊髄変性症との鑑別が重要である)。当時の顕微鏡で数万枚にもおよぶ病理組織標本の観察により確認に至ったもので神経性疾患感染症との関連を明らかにした最初期の業績として評価が特に高い[1]

1920年代、精神科病棟での入院患者の半数が第3期以降の梅毒患者であり、その原因を明らかにしたことが評価される。また、ツェツェバエにより媒介されるペルー疣(四肢に数センチに達するができる)と溶血性貧血による重篤な症状をきたすオロヤ熱が同じカリオン氏病(バルトネラ症)であることを証明した[2]。これについては1885年ペルーの医学生カリオンが、それまでペルー内の医師の間での説を自らのからだを実験体として示唆したものであり、ペルー国内では認められたものの、アメリカのハーバード大学により否定されていた。野口は、カリオンの報告を科学的に証明したもので、その成否についてハーバード大学と大変な議論となった後、野口の成果が正しいとされた。このため南アメリカでの野口の評価は高く、同地域の後進の医学研究者への影響は大きい。

他、血清学的ヘルペドモナド HERPETOMONADS とリーシュマニア LEISHMANIAS の分類(1926年サイエンス誌)などがある。

一方で後に否定された研究業績として挙げられるのが、病原性梅毒スピロヘータの純粋培養[注 13]と黄熱病の研究[注 15]である。
急性灰白髄炎(小児麻痺)病原体、狂犬病病原体、黄熱病病原体等の発見特定の業績に関しては、その後ウイルスが病原体であることが判明していることから否定されており、現代において微生物学の分野で評価できるものは全体の仕事のうちの一部に留まることになる。
これは、野口の研究時期、すでに濾過性病原体としてのウイルスの存在は示唆されていたが、光学顕微鏡で観察可能なスピロヘータの研究方法にこだわったこと、培養方法などに技術的限界があったと考えられる。また発表された200余の論文の大部分を掲載したJournal of Experimental Medicineは、ロックフェラー医学研究所外の研究者による査読を免れており、フレクスナーの推薦があれば掲載されるなど、査読システムの不備が指摘されている[3]
1919年春、訪米した知人の医師・畑嘉聞に「十分とはいえない段階の論文であっても研究所に急かされ、結果、発表したものが賞賛されて責任が圧し掛かり内心、忸怩たる気持ちになるが、その賞賛の声を発奮材料に研究に打ち込む」といった旨を明かしている。

研究内容 年度 成果 現代の評価
蛇毒の血清学的研究 1900年(明治33年) -- 蛇毒の最初期の血清学的研究として評価されている
梅毒スピロヘータの純粋培養 1911年(明治44年) -- ほぼ否定(詳細は上記記事および脚注[注 13]を参照:継代培養された野口株からは病原性が喪失していたこと、非病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は前例があること、野口の報告した培養条件である完全無酸素下では病原性梅毒スピロヘータは増殖しないことなどが問題点である)
梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆患者の脳病理組織内で発見 1913年(大正2年) -- 進行性麻痺・脊髄癆が梅毒の進行例であることを証明したもので、評価されている
梅毒スピロヘータの感染実験による梅毒の再現 1913年(大正2年) -- 進行性麻痺患者の脳組織からウサギへの感染実験により麻痺を再現した。梅毒の進行期の病態を生物学的に証明したものとして、評価されている
小児麻痺病原体特定 1913年(大正2年) -- 病原体はウイルスと判明し否定
狂犬病病原体特定 1913年(大正2年) -- 病原体はウイルスと判明し否定
南米・黄熱病病原体特定 1918年(大正7年) ワクチンにより南米でのワイル病流行が収束 稲田龍吉によりすでに日本で同定されていたワイル病の病原体と野口が報告したスピロヘータが血清学的に同一であることが後に、黄熱病ウイルス発見者のマックス・タイラーにより明らかにされた。黄熱病の病原体の報告としては誤りであったが、南米でのワイル病病原体を初めて発見したと評価される。
ペルー疣とオロヤ熱が同じカリオン氏病の症状であることを証明 1926年(大正15年) -- 評価されている。(カリオンの自らを犠牲にした実験の評価は当時アメリカなど一部で懐疑的な見解があった)
熱帯リーシュマニア症の研究 1927年(昭和2年) -- 培養技術、血清学的研究および形態的記述が評価されている。
トラコーマ病原体特定 1927年(昭和2年) -- 別病原体(クラミジア)が判明し否定
アフリカ・黄熱病原体特定(未発表) 1928年(昭和3年) -- 野口の秘書宛書簡に、黄熱病原体が濾過性(ウイルス)である旨の記述がある。

エピソード

  • 少年期の野口は家を疎ましく思い、死を覚悟するほど家を出たいと願っていた。高野川ほとりでのこのような口論があった旨、姉・野口イヌの後年の回想にある。イヌ「私は家を出て行くので、長男のお前があの家を継ぎなさい」清作「俺は継ぎたくない。姉さんが婿をとって継いでくれ。あんな希望のない百姓の家などいらない、姉さんにくれてやる。」押し問答を続け、しまいに清作は川に飛び込もうとする。清作「俺が家を継がねばならないなら死ぬ。」(野口英世記念会「野口英世-少年期」)
  • 野口の父佐代助は酒好きの怠け者であり、野口家の貧困に拍車をかけた人物として、伝記では批判の対象とされることが多いが、本人は特に悪人というわけでもなく、性格的にはむしろ人好きで好印象な人物であったと言われる。後年、野口が恩師や友人たちを巧妙に説得して再三にわたり多額の借金を重ね、借金の天才とまで呼ばれたほどの野口の要領の良さ・世渡りのうまさは、良くも悪くも佐代助から受け継いだ才能であったと言われている。ただし野口は、酒好き放蕩好きな浪費家という佐代助の欠点をも受け継いでいるが、伝記では伏せられることが多い(詳細後述)。
  • 野口の母シカは農作業のかたわら、副業として産婆を営んでいた。1899年、産婆の開業について政府による新しい免許制度が創設され、全ての産婆に免許の取得が義務付けられた時、シカは文字の読み書きができなかったが、近所の寺の住職に頼み込んで一から読み書きを教えてもらい、国家試験に合格、正式な産婆の免許を取得し、生涯に2000件近くの出産に貢献した。この点において、野口とシカは奇しくも親子二代にわたって医学関係の仕事に携わっていたと言える。
  • 会津若松の書生時代に洗礼を受けた日本基督教団若松栄町教会で出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送る。しかし女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受ける。その後、東京の済生学舎(現在の日本医科大学)で、逝去した医師の父の後を継ぐため、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指す山内に再会し学友となり、頭蓋骨を贈呈している。1899年(明治32年)清国に出向く直前には正装し湯島に下宿する山内に会いに行き、また清国より帰国した折には野口と山内の名を刻んだ指輪を贈っている。山内はそれを迷惑と感じたようで下宿の主婦に依頼し以降の面会を拒否した。その後、山内は1902年(明治35年)20才で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚、会津若松で三省堂医院を開業。野口は山内の従兄弟である菊地良馨経由で山内が結婚した事を知り「夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え」との一文を菊池に送っている。野口が日本に帰郷した際の記念写真には、山内の姿がある。
  • 野口は貧乏育ちのためか金銭感覚が疎く、非常に金遣いが荒かった事で知られるエピソードが多い。留学前に血脇からもらった当時500円という大金さえも遊興で使い切ってしまった時には、血脇もさすがに呆れてしばらく言葉を失ったと言われる。それでも血脇は野口の才能を信じて金貸しの所へ行き、野口の為に再び留学資金を準備し、この事に野口は涙を流したと言われている。
  • 渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となった。血脇とやりとりされた手紙の中で幾度もこの件に触れており、斎藤ます子に対し「顔も醜く学がない」旨の評がある。血脇は破談を薦めるが、野口は自ら破談にする事はなく先方から破談されるよう策していた。現代と適齢期の常識が異なり、婚期を逃す事を恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、野口からは数年は研究で帰国できないと宣言する、欧州への留学資金を数千円要求するなど、ずれたやりとりが多く見られる。
  • フレクスナーに渡した履歴書には、1893年(明治26年)5月に東京医科大学に入学し3年で卒業とあり、ロックフェラー医学研究所の公式記録にもその旨記載されている。実際には1893年(明治26年)には会津若松で書生をしており、その後も医術開業試験予備校である済生学舎(現在の日本医科大学)にも数ヶ月通っただけであった。またアメリカで出した初論文から一貫して医学博士(M.D.)であることを明示していたが、日本には当時医学博士は数十人程度しかおらず、学歴詐称・肩書詐称の状態であった(もっとも済生学舎は当時、「東京専門学校済生学舎」と称しており、医師免許取得とともに卒業を認定したので、東京専門学校済生学舎の卒業生であること自体は事実である。ただし半年で卒業しているので3年も在籍はしていない。またMDは医師免許と同義語であり、医学博士PhDとは異なる。現在でも日本の医師は、医学士BMBSであっても米国ではMDと称している)。1927年(昭和2年)に友人・堀市郎がアメリカの新聞記者に取材を受けた際に苦学生であったことを説明するために野口が大学を卒業していないことを語ったところ、憤慨し、電報で取り消しを求めた。
  • アメリカに渡った後に母親にアメリカの自分の住所が刻印された判子を送っている。これは母親が大変字が下手な事を考慮して送った物である(前記の通り野口の母はもともと文字の読み書きができず、正式な産婆の免許を取得するために苦労して一から読み書きを学んだ事情がある。そのため、後に母が野口に宛てて書いた手紙も誤字・脱字が多く、意味不明の箇所が多々見られる)。一度の帰国も母親からの手紙に端を発しており、帰国した折には母親とずっと一緒に居たとも伝えられている。
  • ニューヨークでの将棋の相手は、絵の師でもある写真家堀市郎であり、囲碁の相手は、彫塑家川村吾蔵があたった。「野口さんが勝ち出すと、堀君が待ったをかけ、三手、四手も遡って最後に堀君が勝つまで待ったをする。2回戦は野口さんが勝つ。それで一勝一敗で夜遅くなり、その翌晩に対戦する。これが幾晩も幾年も続いた」と川村吾蔵が野口英世と堀市郎の将棋の様子を「野口博士との思い出」で綴っている。
  • 1904年(明治37年)、24歳の時に、作家星新一の父である事業家星一の計らいでアメリカ・フィラデルフィアに滞在していた前総理大臣伊藤博文の宿舎を訪ね、1時間ほど歓談を行っている。後にお互いが千円紙幣の肖像に採用される。
  • 1922年(大正11年)、血脇がアメリカを訪れたとき、野口は大喜びして何日間も朝から夜までつきっきりで案内してまわった。血脇が講演するときには通訳を買って出て、「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介し、忙しいスケジュールの中を大統領にまでも会わせた。別れ際、血脇は「君が若い頃は色々と世話をしてあげたが、今度は大変世話になった。これでお相子だな」と言ったが、野口は「私はアメリカに長く生活してきましたが、人の恩を忘れるようなことは決してしません。どうか昔のように清作と呼び捨てて下さい。その方が私にとってどんなにありがたいかしれません」と言い返した。

野口英世語録

  • 志を得ざれば再び此の地を踏まず(青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉)
  • 人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない。
  • 努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。
  • 絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。
  • ナポレオンは三時間しか寝なかった(口語)
  • 偉ぐなるのが敵討(ガタキウ)ちだ(口語)
  • 自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ。
  • 学問は一種のギャンブルである。
  • 名誉のためなら危ない橋でも渡る。
  • 忍耐は苦い。しかし、その実は甘い。(原典フランス語)
  • 英雄却相親(星一との写真に添え書き)
  • 人の一生の幸せも、災いも自分から作るもの、周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである。
  • まて己 咲かで散りなば 何が梅(順天堂医院の助手の頃に詠んだもの)

後世への影響

ファイル:Statue of hideyo noguchi in ueno.jpg
野口英世の像(上野公園)

系譜

  • 野口家

清太郎━━岩吉==善之助(渡部氏)==佐代助(小檜山氏)━━清作(英世)

野口英世を扱った作品

この他、児童向けの伝記や学習漫画などにも取り上げられている。

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

  • 『野口英世 知られざる軌跡 メリー・ロレッタ・ダージズとの出会い』 山本厚子 山手書房新社 ISBN 4841300430 (1992年)
  • 『野口英世の妻』飯沼信子 新人物往来社 ISBN 4404018940 (1992年)
  • 遠き落日』 ISBN 4041307147、ISBN 4041307155 (角川文庫) - 渡辺淳一による伝記的小説
  • 『背信の科学者たち』ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著 化学同人 ISBN 475980160X (1988年)
  • 『背信の科学者たち』ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド著 講談社 ISBN 4062575353 (2006年) - 上の書籍の新書版
  • 『正伝 野口英世』北篤 毎日新聞社 ISBN 9784620316154 (2003年)
  • "Noguchi and His Patrons" by Isabel Rosanoff Plesset, Fairleigh Dickinson Univ Press, ISBN 0838623476 (1980年)
  • 『朝日選書389 野口英世 』 中山茂著 朝日新聞社 ISBN 4022594896 (1989年)
  • 『医聖 野口英世を育てた人々』小桧山六郎 福島民友新聞社 ISBN 978-4897577043 (2008年)
  • 『野口英世―少年期』野口英世記念会 (1980年)
  • 『当世書生気質』坪内 逍遙 岩波文庫 ISBN 978-4003100424
  • 『野口英世 [改稿]』小泉 丹 岩波新書 (1939年)
  • 『野口英世』イザベル・R・プレセット著、翻訳 中井久夫、枡矢好弘 星和書店 ISBN 4791101545 (1987年2月)

関連項目

関連人物

外部リンク

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  1. (a) Noguchi, H.; Moore, J. W. "A DEMONSTRAION OF TREPONEMA PALLIDUM IN THE BRAIN IN CASES OF GENERAL PARALYSIS" J. Exp. Med. 1913, 17(2), 232-238. (b) Noguchi, H. "The Transmission of treponema pallidum from the brains of paretics to the rabbit" J. Am. Med. Assoc. 1913, 61, 85.
  2. 1926年 - 1928年サイエンス誌数編を含む17編
  3. 『背信の科学者たち』、Noguchi and His Patrons
  4. http://www.minyu-net.com/serial/rengasi/091007/rengasi.html