佐々木道誉

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佐々木 道誉 / 佐々木 高氏(ささき どうよ/- たかうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代武将守護大名若狭近江出雲上総飛騨摂津守護。

一般的に「佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)」や「佐々木道誉」の名で知られる。後者の道誉(導誉とも)[1]法名であり、(実名)は高氏(たかうじ)という。初めの主君である北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第14代執権)の北条高時より1字を受けて名乗った名前であり[2]、同様にして名乗った足利高氏[3](のち足利尊氏に改名)と同名である。


鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)(きょうごく どうよ)または 京極 高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。

初めは執権・北条高時に御相供衆として仕えるが、のちに後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6ヶ国の守護を兼ねた。

ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、『太平記』には謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う導誉の逸話を多く記している。

生涯

御相供衆

永仁4年(1296年)、近江の地頭である佐々木氏の分家京極氏に生まれ、嘉元2年(1304年)に死んだ母方の叔父である佐々木貞宗の後を継いで家督を継承する。正和3年(1314年)に左衛門尉元亨2年(1322年)には検非違使となる。検非違使の役目を務めて京都に滞在していたと考えられており、後醍醐天皇の行幸に随行している。鎌倉幕府では執権北条高時御相供衆として使え、高時が出家した際には共に出家して導誉と号した。

倒幕

元弘元年(1331年)に後醍醐天皇が討幕運動を起こし、を脱出して笠置山に拠った元弘の乱では幕府が編成した鎮圧軍に従軍し、主に京都において事後処理を担当している。捕らえられた後醍醐天皇は廃され、供奉する阿野廉子千種忠顕らが隠岐島へ配流された際には道中警護などを務める。

後醍醐配流後も河内楠木正成らは反幕府活動を続けて幕府軍と戦い、北条氏下野足利高氏(後の尊氏)らを討伐に派遣するが、導誉は鎌倉の北条氏討伐を決意した高氏と密約して連携行動を取ったともされ、軍事的行動に参加した形跡は無いが、元弘3年(1333年5月9日、近江番場で東国へ退却中の北条仲時の軍勢を阻み、蓮華寺で一族432人と共に自刃させた。その際光厳天皇花園上皇を捕らえ、天皇から三種の神器を強奪している。同族の佐々木清高は仲時と共に殉じ、六角時信は導誉の仲介で尊氏に降伏している。

足利尊氏、上野新田義貞らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、入京した後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、時信や塩冶高貞ら他の一族と共に雑訴決断所の奉行人となる。

南朝との戦い

尊氏が政権に参加せず、武士層の支持を集められなかった新政に対しては各地で反乱が起こった。建武2年(1335年)には、信濃において高時の遺児である北条時行らを擁立した中先代の乱が起こり、尊氏の弟の足利直義が守る鎌倉を攻めて占領した時行勢の討伐に向かう尊氏に導誉も従軍している。時行勢を駆逐して鎌倉を奪還した尊氏は独自に恩賞の分配を行うなどの行動をはじめ、導誉も上総や相模の領地を与えられている。

後醍醐天皇は鎌倉の尊氏に対して上洛を求めるが新田義貞との対立などもありこれに従わず、遂には義貞に尊氏・直義に対する追討を命じた綸旨が発せられるが、建武政権に対して武家政権を樹立する事を躊躇する尊氏に導誉は積極的な反旗を勧めていたともされる。尊氏の下で箱根・竹ノ下の戦いなどで新田軍を破り京都へ入るが、奥州から下った北畠顕家らに敗れた足利軍は一時的に兵庫から九州へ逃れた。この時導誉は近江に滞在して九州下向には従っていないともされる。

九州から再び東上した足利軍は湊川の戦いで新田・楠木軍を撃破して京都へ入り、比叡山に逃れた後醍醐天皇・義貞らと戦った。導誉は東から援軍として来た信濃守護小笠原貞宗と共に比叡山包囲に当たっている。やがて尊氏の尽力で光明天皇が即位して北朝が成立、尊氏は征夷大将軍に任じられて室町幕府を樹立し、後醍醐天皇らは吉野へ逃れて南朝を成立させる。

足利政権の立役者

導誉は若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津の守護を歴任した。延元2年/建武4年(1337年)、勝楽寺(現滋賀県甲良町)に城を築き、以降没するまで本拠地とした。

興国元年/暦応3年(1340年10月6日には長男の秀綱と共に白川妙法院門跡亮性法親王の御所を焼き討ちし、山門宗徒が処罰を求めて強訴すると朝廷内部でもこれに同情して幕府に対して導誉を出羽に、秀綱を陸奥配流するように命じた。ところが、幕府では朝廷の命令を拒絶、結果的に導誉父子は上総に配流される。この配流の行列は若衆数百人を従え道中宿所に着くたびに傾城を弄び、さらには比叡山の神獣である猿の皮を腰あてにするというありさまであり、導誉の山門への敵意、蔑視の程が伺える[4]

羽下徳彦によれば、上総は建武年間に尊氏の執事高師直が守護を務め、正平年間に導誉と共に流された秀綱が守護を務めているが、導誉配流期の守護については記録に残っていない。このため、佐々木氏による上総守護の上限が正平年間以前であったことも考えられ、実は導誉父子は流刑と銘打って自分の領国に帰されただけであった可能性があるという。森茂暁は山門に悩まされる尊氏・直義兄弟の暗黙の了解のもとで、山門に大打撃を与えることを目的にした狼藉であると推察しており、いずれにせよ尊氏兄弟には導誉を罰するつもりなど毛頭無かったものと推察される。事実、翌年には何事もなかったかのように幕政に復帰している。

幕府においては導誉は引付頭人、評定衆や政所執事などの役職を務め、公家との交渉などを行っている。また、正平3年/貞和4年(1348年)の四條畷の戦いなど南朝との戦いにも従軍しているが、帰還途中に南朝に奇襲を受け、次男の秀宗が戦死している。

室町幕府の政務は当初専ら弟の直義が主導したが、南朝との戦いにより戦時体制を主導する高師直の勢威が高まり、直義・師直の関係の悪化や尊氏の庶子直冬への憎悪と嫡男義詮への偏愛等が複雑に絡み合い、正平5年/観応元年(1350年)からの観応年間には観応の擾乱と呼ばれる内部抗争が発生する。導誉は当初師直派であり、擾乱が尊氏と直義の兄弟喧嘩に発展してからは尊氏側に属したが、南朝に属し尊氏を撃破した直義派が台頭すると、翌正平6年/観応2年(1351年7月28日、尊氏・義詮父子から謀反の疑いで播磨赤松則祐と共に討伐命令を受ける。これは陰謀であり、尊氏は導誉を討つためと称して京都から近江へ出兵、義詮は則祐討伐のため播磨へ出陣したが、これは事実上京都を包囲する構えであり、父子で京都に残った直義を東西から討ち取る手筈で、事態を悟った直義は逃亡した[5]

以後も尊氏に従軍、尊氏に南朝と和睦して後村上天皇から直義追討の綸旨を受けるよう進言する。尊氏がこれを受けた結果正平一統が成立し直義は失脚、急逝する。また、12月1日には義詮から佐々木一族を軍事的に統率する権利を与えられた。これは惣領の六角氏頼が観応の擾乱で直義に付いたがその後出家した事態に対応するため、導誉を惣領格にして佐々木氏をまとめる狙いがあった。但し、氏頼は後に復帰、六角氏は以後も幕府から佐々木惣領家として認められているため、一時的な対策だったとされる。

正平一統は正平7年/文和元年(1352年)に北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光天皇らが南朝に奪われて破綻すると、3月の八幡の戦いで義詮に従い南朝から京都を奪還、6月に公家の勧修寺経顕を通して交渉、後光厳天皇を擁立して天皇の祖母西園寺寧子践祚の儀を行うよう説得して実現させ、北朝再建と将軍権力の強化に尽力する。しかし、山名時氏師義父子と所領問題で対立したため、翌正平8年/文和2年(1353年)6月に時氏と南朝の軍勢が京都を陥落、京都から北へ落ち延びた後光厳天皇と義詮を守って秀綱が戦死している。

武家権勢導誉法師

正平13年/延文3年(1358年)に尊氏が薨去し、2代将軍義詮時代の政権においては政所執事などを務め、幕府内における守護大名の抗争を調停する。

この頃導誉は義詮の絶大な支持のもと執事(後の管領)の任免権を握り事実上の幕府の最高実力者として君臨する[6]仁木義長細川清氏の執事職をめぐる争いでは清氏を支持し執事に据えるが、確執が発生すると清氏をあっさりと廃し将軍親裁の政治を復活させる。正平17年/貞治元年(1362年)には縁戚関係のもと友好的な関係を築いた斯波高経を執事に推薦するが、将軍家と同等の家格であると自負する高経は執事職への就任を拒んだ。このため婿である高経の3男氏頼を推薦するが、高経はこれに対抗し溺愛する4男義将を推薦し結果として義将が管領に就任する(斯波足利家による執事就任拒否によりこのころ執事が管領に職名を変えた)。義将はこの時まだ13歳であり、事実上高経が政権をとった。

この様に一時導誉は高経の下風に立ち、京極佐々木家内の内紛から発生した3男の高秀による家臣筆頭の吉田厳覚暗殺事件についても高経につけこまれる[7]。更には高経から任された五条橋の建築が遅延した為、高経自身がこれを自分で素早く建築してしまうという出来事が発生し、導誉は高経に面目を潰され高経との関係は決定的に悪化する。

そこで導誉はまず高経が将軍の邸で開催する花見に目をつけた。導誉はその花見の日にぶつける形で原野で盛大な花見の会を開いた。それは京都中の芸能人が根こそぎ集められ、香が焚かれ「世に類無き遊」と謳われるほどのものだった。こうして高経に意趣返しをした導誉は今度は高経の追い落としを図る。高経の高圧的な政治は守護層の反発を招いており、導誉はこうした守護をとりまとめると義詮に讒言し、正平21年/貞治5年(1366年)に高経は失脚した(貞治の変)。また、南朝とのパイプを持ち和睦交渉に尽力するも成果を出せなかった。

正平22年/貞治6年(1367年)に幕府が関東統治のために鎌倉に設置した鎌倉公方足利基氏が卒去すると、鎌倉へ赴いて基氏の子氏満への引継ぎの事後処理を務める。同年に導誉の推薦を得た細川頼之が管領に就任、翌正平23年/応安元年(1368年)に高秀が出雲守護に就任していることから、隠居したと考えられている。

文中2年/応安6年(1373年)に卒去、享年78。戒名は勝楽寺殿徳翁導誉。

墓所は京極氏の菩提寺である滋賀県米原市清滝の徳源院、滋賀県甲良町の勝楽寺。

人物

導誉は南北朝時代の社会的風潮であるばさらを好んだとされ、古典『太平記』においては下克上的風潮には批判的であるが、失脚した細川清氏が南朝の楠木正儀らと京都を占拠した際には、自邸に火をかけずに立花を飾り、宴の支度をさせた事や、幕府内で対立していた斯波高経の花見の誘いを無視し、大原野(京都市西京区)で大宴会を催した事など導誉の華美な行動が記されている。

また連歌などの文芸や立花茶道香道、さらに近江猿楽の保護者となるなど文化的活動を好み、幕政においても公家との交渉を務めていることなどから文化的素養を持った人物であると考えられている。連歌師の救済関白二条良基が撰した『莵玖波集』には数多くの作品が入集している。和歌については一首勅撰集に入ったものが伝えられるのみで文芸については専ら連歌に関心があったことが伺える。

山門とは妙法院焼き討ち事件に見られるように確執があったものの、一方で山門の末社である東山の祇園社との関係は深く、祇園社の宿舎である高橋屋を借り上げ自身の宿舎とするほどだった。南朝の攻撃をうけ美濃にまで落ちた義詮が京都に復帰した際にはこの高橋屋を宿舎としており、四条京極の邸よりも寧ろ高橋屋を本拠としていた様子が伺える。

所領においては運送の拠点となるような地域を望むことが多く、前述の高橋屋が所在したのは京都の商業地域であり、流通や商業にも深い関心があったことが伺える。また、北条仲時を包囲した五辻宮による悪党山の民、野伏の集団には導誉の後援、もしくは主導的な関わりがあったと考えられておりこうした集団とも関わりをもっていた。以上のように導誉は所領からの収入をもとに生計をたてるというような一般的な武士からは遠く離れた経済生活を送っていた。

皇族・公家に対しても人を食った態度や木で鼻をくくる態度を取ることもあり、変わり者であることは否めない。

3男の高秀が描かせたといわれる法体の肖像画が滋賀県甲良町勝楽寺にあり、現在は京都国立博物館に保管されている。

系譜

京極宗氏
京極宗綱の娘
義父
京極貞宗
兄弟
京極貞氏
京極導誉
京極貞満
京極秀信
京極時満
京極経氏
二階堂時綱の娘
きた
みま
京極秀綱(母不詳)
京極秀宗(母二階堂時綱娘)
京極高秀
赤松則祐
斯波氏頼
六角氏頼

脚注

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参考文献

創作作品

関連項目

テンプレート:京極氏歴代当主
  1. 自署は「導誉」であるが、同時代の文書に「入道々誉(入道道誉)」と記されたものが多いため。
  2. 紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.18)では、『尊卑分脈』記載の没年および享年から算出した徳治元年(1306年)生まれ説を採用して元服の時期を1315年-1320年頃と推定し、その当時の得宗家当主であった高時と烏帽子親子関係を結んだとしている。永仁4年(1296年)を採用して1305年-1310年もしくはこの前後に元服したと考えたとしても同様に考えることができる(高時は1309年に元服、1311年に得宗家当主となっている)。
  3. 紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.11~14)、臼井信義 「尊氏の父祖 ―頼氏・家時年代考―」(所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)、p.69)。
  4. なおこの時導誉は「配流の宣下には俗名が記されるが、将軍と同じ高氏では申し訳ない」との理由で峯方に改名している。峯はすなわち比叡山を指すことから、この改名もまた山門を挑発する目的で行われたことが窺える。
  5. この陰謀の発案者は導誉とする意見もある。
  6. 当時北朝の公家だった洞院公賢は日記『園太暦』の正平14年/延文4年(1359年8月17日条に武家権勢導誉法師と導誉を記している。
  7. 正平18年/貞治2年(1363年7月19日、吉田厳覚が秀綱の孫で導誉の曾孫に当たる嫡流の佐々木秀頼を擁立しようとしてに高秀に殺害された。高秀は事件前後に義詮に報告、黙認を取り付けていたが、高経は事件の責任を追及して高秀の侍所頭人を辞職に追い込んだため、導誉の失脚を目論んだ可能性がある。