甲陽学院中学校・高等学校
テンプレート:日本の高等学校 甲陽学院中学校・高等学校(こうようがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、兵庫県西宮市に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校[1]。中高一貫制であるが、中学校と高等学校の所在地は異なっている。学校法人辰馬育英会(白鹿グループ)が運営する男子校である。
目次
概要
阪神地区の女子教育で定評のある教育者伊賀駒吉郎らが「自由な私学」を求め、甲子園の地に『甲陽十二訓』を掲げ1917年(大正6年)「私立甲陽中学」を創立。当時の甲子園は自然環境に恵まれ、球場もできる前であり、枝川が近くを流れていた。
第一次世界大戦後の不況により経営が困難に陥り、1920年(大正9年)3月、辰馬吉左衛門が私財を投じて経営を引き受け、財団法人辰馬学院を設立して中学令に基づく中学校を発足。教育に関しては一切を歴代の校長に任せた。
辰馬家は日本酒「白鹿」などの酒造オーナーとしてだけでなく、損害保険や海運業といった各業種の文化事業家でもあり、そうしたブルジョワジーの風土を持つ。
賢明な経営手腕の下、天賦の才能を啓発し、「明朗・溌溂・無邪気」の下、気品高く、教養豊かな有為な人材を養成することを目的とする校風が自主的に育まれた。
イギリスのイートン・カレッジを理想としている。大学は設置せず、全員が志望大学に進めることに力を注ぐ。
アカデミックな校風だが、戦前はむしろ体育が盛んであったという[2](1923年(大正12年)、甲子園で優勝している)。時代の要請を見据え、思考力を持ち、自由な発想で、規律ある人材を育成している。
校地・環境の変遷
自由な私学を念願していた伊賀駒吉郎は、1916年(大正5年)に甲子園の景色を見て[3]その地に旧制「私立甲陽中学」を創立。戦後の学制改革の際に中学部を香櫨園に新設した。
枝川の清流と白砂青松を誇った高校校舎の外周も、騒音と排気ガスにより環境が悪化した。そのような折に辰馬家はいち早く校舎移転を唱え、甲山山麓の辰馬家所有地を提供した[4]。
1993年(平成5年)8月には、香櫨園の中学旧校舎東側に新校舎竣工。旧校舎は一部改築され講堂・芸術棟、食堂および記念塔として使用している。
このように、生徒の年齢発達に応じた、一層実りの多い中高六ヶ年一貫教育を行うために、中学と高校の立地、設備を別々に整えている。
学院沿革
- 1917年(大正6年)2月6日:甲子園(当時は阪神甲子園球場建設前)に伊賀駒吉郎らにより、私立甲陽中学設立。
- 1920年(大正9年)3月6日:灘の酒造家・辰馬家の援助を得て創設された財団法人辰馬学院甲陽中学校に始まる。
- 1923年(大正12年)8月:第9回全国中等学校優勝野球大会(現:夏の高校野球)優勝。
- 1940年(昭和15年)3月:皇紀2600年奉祝記念事業として、専門学校令による甲陽高等商業学校を新設(後、工業専門学校に転じ、戦後廃校)。
- 1947年(昭和22年)4月1日:学制改革により、甲陽学院中学部を香櫨園に新設。
- 1948年(昭和23年)4月1日:旧甲陽中学校は甲陽高等学校となる。
- 1950年(昭和25年)1月1日:甲陽学院中学部を甲陽学院中学校、甲陽高等学校を甲陽学院高等学校に改称。
- 1978年(昭和53年)4月:高等学校所在地が騒音公害などで教育環境が次第に悪化したため、高等学校のみを西宮市の角石町に移転。旧所在地は現在、白鹿グループ運営のノボテル甲子園とダイエー甲子園店(土地は現在も白鹿グループが所有)となっている。
- 1993年(平成5年)8月:中学校において従来の校舎の東側に新校舎竣工。旧校舎は改築の上、講堂・芸術棟および記念塔として使用している。
- 2006年(平成18年)4月:中学校の募集定員を165人から約180人(実際は200名程度)に変更し、55人3クラス制から40人前後の5クラス制へと変更。なお、この変更により40人前後5クラスでの最初の学年が高校へ進学する年から高校入試は廃止されることとなる。
- 2007年(平成19年):前年からの募集定員増加に関連し中学校の旧校舎の一部を建て替え。
- 2009年(平成21年):高等学校入学枠を廃止。完全中高一貫校化。
卒業生は創立以来、17,000名余りに上っている。
学校生活
特に中学校では、学力・体力の基礎づくり、高等学校では、自主性・創造性を重視している。生徒は明朗・溌溂・無邪気の自由な校風の中で、クラブや行事の自主的運営によって個人の個性を生かし、教養と趣味の向上、体力と精神力の錬磨に励んでいる。
高等学校からの編入は2009年度より廃止された。
学校行事
中学校と高等学校の位置が違うため行事は中高で異なる。毎年6月になると校外学習としてテーブルマナー講習会(高等学校1年対象)がノボテル甲子園で行われている。
- 4月:入学式、校外学習、創立記念音楽会(29日)
- 5月:体育祭(高校)
- 6月:修学旅行(高2・北海道)、体育祭(中学)
- 7月:四国合宿(中1)、信州合宿(中2)、英国語学研修(中3)
- 9月:音楽と展覧の会(文化祭・23日・高校)、甲関戦(甲陽学院vs関西学院、中学)
- 11月:音楽と展覧の会(文化祭・3日・中学)
- 2月:耐寒登山(高校1・2)、卒業式(高校)、スキー訓練(中3)
- 3月:卒業式(中学)
学院概説
設立趣旨
古人曰く、一年の計は穀を植うるにあり、十年の計は木を植うるにあり、百年の計は人を植うるにありと。天下の英才を教育して、各其の天稟を發揮せしめ、光彩陸離百花爛漫の偉観を現出するは、啻に國家百年の大計たるのみならず、人生の快事之れより大なるは無かる可し云々。
教育方針
本学院は、気品高く教養豊かな有為な人材を養成することを目的とし、将来大学で学ぶ者のために充分な学力と体力とを錬磨するとともに中学校・高等学校は、人格完成にも品性陶冶にも極めて大切な段階にある点に鑑み、情操教育を重視し、特に規律の励行、礼儀作法の実践体得を旨としている。
大学進学実績
毎年、京都大学への進学者が多く、東京大学、大阪大学、神戸大学などの難関国公立大学に多くの合格者を輩出している。東京大学は25人前後(うち現役20名程度)、京都大学は70~90人程度(うち現役約60名程度)の合格者を出している。近年は医学部(医学科)への進学志向が強いことでも知られている。2007年度は東京大学理科三類に3人、京都大学医学部に9人、大阪大学医学部に10人の合格者を出した。
歌
- 甲陽学院のうた:作詞:竹中郁 / 作曲:清水脩
- 甲陽学院応援歌:作詞:山田在夫 / 作曲:山田耕筰
- 甲陽学院中学校校歌:作詞:丸谷緑野 / 作曲:花輪洋
- 甲陽学院高等学校校歌 :作詞:山田在夫 / 作曲:信時潔
よく歌われるのは「甲陽学院のうた」であり、「学院歌」と呼ばれる。従って、校歌を歌う機会がないまま卒業する生徒も多い。
高校野球
過去、甲陽学院は全国中等学校野球大会(現・高校野球)で春8回、夏4回出場を果たしている。そのうち初出場した1923年(大正12年)の第9回の夏の大会で優勝した。しかし1938年(昭和13年)の第24回の夏の大会を最後に1度も出場していない。創立後しばらくして南隣に阪神甲子園球場が建設され、出場校の練習場としても使われていた(「近くて遠い甲子園」)。移転後の現在でも練習が行われていることがある。
- 春夏通算出場数:12回
- 優勝:1回
- ベスト4:3回
- ベスト8:4回
- 春夏通算:26試合15勝11敗
入試
入学試験は、兵庫県内私立中学校と同じ日に行われる。中学校入試は2日間であり、国語200点・算数200点・理科100点である。不合格者には成績を開示するが、合格者には成績を開示しない。その理由は同じスタートラインに立って中等教育生活を始めてほしいという配慮に基づくものである。
志願者は専願のみである。
所在地
- 中学校:テンプレート:Color662-0955 兵庫県西宮市中葭原町2-15
[[[:テンプレート:座標URL]]34_43_41.8_N_135_19_33.9_E_ 北緯34度43分41.8秒東経135度19分33.9秒] - 高等学校:テンプレート:Color662-0096 兵庫県西宮市角石町3-138
[[[:テンプレート:座標URL]]34_45_37.1_N_135_19_7.7_E_ 北緯34度45分37.1秒東経135度19分7.7秒]- 阪急電鉄・甲陽園駅下車、北西へ徒歩20~30分
- 阪急電鉄・芦屋川駅、JR・芦屋駅から阪急バスにて苦楽園下車、北へ徒歩10~15分
- 阪急電鉄・夙川駅から阪急バスにて苦楽園下車、北へ徒歩10~15分
- JR・さくら夙川駅、阪急電鉄・夙川駅から阪神バス・阪急バスにて柏堂町下車、南へ徒歩5分
- 高等学校へ通学する際は、殆どの生徒が兵庫県道82号大沢西宮線を経由することになる。非常に交通量が多い上に歩道が狭く山道のため、かなり危険であり、このことは高等学校のHP内でも取り上げられている。
出身者
財界・経済界
- 原清 - 朝日放送元社長、大正15年卒
- 山口興一 - 関西テレビ放送元社長、昭和2年卒
- 建内保興 - 日本石油元社長、昭和8年卒
- 平田豊 - ユニチカ元社長、昭和18年卒
- 山岡淳男 - ヤンマー会長、昭和18年卒
- 八木頼夫 - 八木通商取締役、昭和25年卒
- 井上亮一 - レンゴー会長、昭和29年卒
- 菅谷定彦 - テレビ東京代表取締役会長、昭和32年卒
- 細田純一郎 - きんでん副社長、昭和32年卒
- 田淵輝久 - 田淵電機社長、昭和35年卒
- 宮崎恒彰 - 阪神タイガース元オーナー、昭和36年卒
- 澤田靖士 - 新日本製鐵副社長、昭和36年卒
- 辻卓史 - 鴻池運輸会長、関西生産性本部評議員会議長、昭和36年卒
- 藤本勝司 - 日本板硝子取締役会長、昭和37年卒
- 千草宗一郎 - 関西テレビ放送元社長、昭和38年卒
- 内藤誠二郎 - 内藤証券社長、昭和38年卒
- 佐治信忠 - サントリー社長、昭和39年卒
- 西村貞一 - サクラクレパス社長、昭和39年卒
- 黒田章裕 - コクヨ社長、昭和43年卒
- 西和彦 - アスキー特別顧問、情報学博士他、昭和49年卒
- 鈴木尚 (ゲームクリエイター) - スクウェア元社長、昭和55年卒
- 久義裕 - 久金属工業取締役、ベンチャーキャピタリスト、昭和56年卒
- 後藤玄利 - ケンコーコム社長、昭和60年卒
- 飯田新一 - 高島屋元社長
- 中山育雄 - 中山製鋼所元社長
- 巻幡静彦 - 三菱石油元社長
- 長瀬彰造 - 日本コダック元社長
- 広田喜八郎 - 洋菓子のヒロタ元社長
- 加藤隆哉 - サイバード社長
- 松本盛二 - 九州朝日放送元社長
大学教員・教育界
- 花房秀三郎 - 大阪バイオサイエンス研究所名誉所長、昭和23年卒
- 豊下楢彦 - 関西学院大学教授、昭和38年卒
- 田中健一郎 - 広島大学理学研究科教授、昭和39年卒
- 秋山哲郎 - 京都芸術大学教授、昭和39年卒
- 山根久和 - 東京大学生物生産工学研究センター教授
- 東野治之 - 奈良大学教授、昭和40年卒
- 桂利行 - 東京大学教授、昭和42年卒
- 柴田直 - 東京大学教授、昭和42年卒
- 杉原薫 - 京都大学教授、前ロンドン大学教授、昭和42年卒
- 今田高俊 - 東京工業大学教授、昭和42年卒
- 笠谷和比古 - 国際日本文化研究センター教授、昭和43年卒
- 宇野隆夫 - 国際日本文化研究センター名誉教授、帝塚山大学教授、昭和43年卒
- 西田正吾 - 大阪大学基礎工学部長、昭和45年卒
- 加登豊 - 神戸大学大学院経営学研究科教授、昭和47年卒
- 池野旬 - 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授、昭和48年卒
- 深田吉孝 - 東京大学教授、昭和49年卒
- 岩坪威 - 東京大学教授、昭和53年卒
- 吉田純 - 京都大学教授、昭和53年卒
- 後藤章暢 - 兵庫医科大学先端医学研究所教授、昭和54年卒
- 野上和裕 - 東京都立大学教授、昭和54年卒
- 小山田耕二 - 京都大学教授、昭和54年卒
- 中西寛 - 政治学者、京都大学教授、昭和56年卒
- 上西啓介 - 大阪大学大学院工学研究科教授、昭和57年卒
- 白石忠志 - 東京大学大学院法学政治学研究科教授、昭和58年卒
- 藤田友敬 - 東京大学大学院法学政治学研究科教授、昭和58年卒
- 西きょうじ - 代々木ゼミナール講師
- 鍵本聡 - 科学ライター、大学講師、昭和60年卒
- 斗内政吉 - 大阪大学レーザーエネルギー学研究センター教授
- 吉川研一 - 京都大学大学院理学研究科教授、昭和42年卒
- 児玉竜一 - 日本女子大学准教授
- 浜田陽太郎 - 元立教大学総長
医師・病院
- 北村惣一郎 - 国立循環器病センター総長、昭和34年卒
- 片木宏昭 - 東京慈恵会医科大学助教、平成12年卒
専門職
文化・芸能・スポーツ
- 西邑昌一 - 元サッカー選手・監督、ベルリンオリンピック日本代表、昭和5年卒
- ヴィクトル・スタルヒン - 元プロ野球選手、(昭和7年入学、同年旭川中学に転校)
- 九里正 - 元アマチュア野球選手
- 川村徳久 - 元プロ野球選手
- 渡辺敏夫 - 元プロ野球選手
- 藤田宗一 - 元プロ野球選手
- 富松信彦 - 元プロ野球選手
- 別当薫 - 元プロ野球選手・監督、野球殿堂入り、昭和14年卒
- 芳村嵓夫 - 元プロ野球選手
- 森下重好 - 元プロ野球選手
- 小前博文 - 元プロ野球選手
- 日下章 - 元プロ野球選手
- 北川公一 - 元プロ野球選手
- 木谷恭介 - 作家、昭和20年卒
- 五十嵐喜芳 - テノール歌手、昭和20年卒
- 嶋本昭三 - 現代美術家、京都教育大学名誉教授、宝塚造形芸術大学主任教授、昭和20年卒
- 吉田文雀 - 文楽技芸員、人間国宝、昭和22年卒
- 柄谷行人 - 文芸評論家、昭和35年卒
- 田中和人 - 陶芸家、昭和39年卒
- 風見梢太郎 - 作家、甲陽学院をモデルにした長編小説「浜風受くる日々に」の作者、昭和42年卒
- 神谷徹 - テレマン室内管弦楽団ソリスト、「ストローおじさん」、昭和43年卒
- 麻生香太郎 - 作詞家、昭和46年卒
- 河内厚郎 - 文化プロデューサー、昭和46年卒
- 鈴木創士 - フランス文学者、昭和48年卒
- 寺沢大介 - 漫画家、昭和53年卒
- 村上たかし - 漫画家、昭和59年卒
- 上田慶行 - 朝日放送元アナウンサー、昭和61年卒
- 真下貴 - NHKアナウンサー、昭和63年卒
- 岡本貴也 - 脚本家・舞台演出家、平成3年卒
- 清涼院流水 - 推理作家、平成5年卒
- 三枝零一 - 小説家、平成7年卒
- 大賀小四郎 - 元ドイツ・ケルン日本文化館館長
- 河野通紀 - 画家
- 木谷八士 - 元赤旗編集長
- 谷山雅計 - コピーライター
- 山内健太郎 - 毎日放送ディレクター、平成11年卒
政官界
- 樋渡利秋 - 検事総長、昭和39年卒
- 門口正人 - 東京高等裁判所判事、昭和39年卒
- 柳実郎 - 洲本市長、昭和39年卒
- 北橋健治 - 北九州市長、昭和46年卒
- 縄田修 - 前大阪府警察本部長、昭和46年卒
- 木下信行 - 内閣官房郵政民営化推進室長、財務省九州財務局長、昭和48年卒
- 池田克彦 - 元警視庁長官、原子力規制庁長官、昭和46年卒
- 石田昌宏 - 参議院議員、昭和61年卒
関連項目
脚注および参照
- ↑ 『中学受験 名門中学の子どもたちは学校で何を学んでいるのか 東西難関12校の教育力』(おおたとしまさ著、ダイヤモンド社、2012年12月1日発行)の「第9章 甲陽学院中学校・高等学校」のうち「2009年完全中高一貫校化。中高でのメリハリが特徴。」(P.307) による。
- ↑ http://www.koyogakuin-oba.jp/report/pdf/koyo19.pdf
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ http://www.koyogakuin-oba.jp/report/pdf/koyo24.pdf