鈴木貫太郎
テンプレート:政治家 鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。
海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任、さらに枢密顧問官も兼任した。二・二六事件において襲撃されるが一命を取り留めた。枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任している。陸軍の反対を押し切って太平洋戦争を終戦に導いた。
目次
生涯
生い立ちから海軍時代
1868年(慶応3年)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾・関宿藩久世広周の飛び地)に関宿藩士で代官の鈴木由哲と妻のきよの長男として生まれる。1871年(明治4年)に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移す。
1877年(明治10年)、群馬県前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、1884年(明治17年)に海軍兵学校に入学。日清戦争に従軍。1898年(明治31年)、海軍大学校を卒業。
1888年(明治21年)に、会津藩士の大沼親誠の娘、大沼とよと結婚した。とよの姉は出羽重遠夫人である[1]。
当時の海軍では旧薩摩藩出身者が優遇され、鈴木のような旧幕府系の者は進級が遅かった。1903年(明治36年)、鈴木が海軍の露骨な差別にうんざりして辞めようとしたとき、「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙が父親から届いた。鈴木はその手紙で辞職を思いとどまる。
翌年から始まった日露戦争では、駆逐隊司令として戦った。持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦クニャージ・スヴォーロフに魚雷を命中させるなどの大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献している。この武勲により、功三級金鵄勲章を受章する。
その後ドイツに駐在し、1914年(大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。
海軍出の侍従長
1929年(昭和4年)に昭和天皇と貞明皇后の希望で、予備役となり侍従長に就任した。鈴木は自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。
宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、「大侍従長」と呼ばれた。統帥権干犯問題に際しては海軍軍令部長加藤寛治の単独帷幄上奏を阻止している。昭和天皇の信任が厚かった一方で、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ命を狙われることになった。
二・二六事件
1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が発生した。事件前夜に鈴木はたか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招きで夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。
午前5時頃に陸軍大尉安藤輝三の指揮する一隊が官邸を襲撃した。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令した。そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げた。
反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。たかは止血の処置をとってから宮内大臣の湯浅倉平に電話をかけ、湯浅は医師の手配をしてから駆けつけた。鈴木の意識はまだはっきりしており、湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言った。声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた。鈴木は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んだという風説を生んだ。
近所に住んでいた帝国大学の塩田広重医師とたかが血まみれの鈴木を円タクに押し込み日本医科大学飯田町病院に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止した。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ、奇跡的に息を吹き返した。頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重症だったが、胸部の弾丸が心臓をわずかに外れたことと頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いした。
安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね時局について話を聞いており面識があった。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い、後に座右の銘にするからと書を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っている。安藤が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた。決起に及び腰であった安藤に対して磯部浅一は死ぬまで鈴木を憎み続け、獄中で残した日記で他の「君側の奸」たちとともに繰り返し罵倒している。
総理就任
1945年(昭和20年)4月、枢密院議長に就任していた鈴木は、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席した。構成メンバーは6名の総理経験者と内大臣の木戸幸一、そして枢密院議長の鈴木であった。若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが、鈴木は驚いて「とんでもない話だ。お断りする」と答えた。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。
東條英機は、陸軍が本土防衛の主体であるとの理由で元帥陸軍大将の畑俊六を推薦し、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った。これに対して岡田啓介が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條を窘め、東條は反論できずに黙ってしまった。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された。
重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、組閣の大命を下した。この時の遣り取りについては、侍立した侍従長の藤田尚徳の証言がある。あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた。鈴木は自分には政治的手腕はないと思っていたが、天皇に「頼む」とまで言われそれ以上固辞しなかった。皇太后節子(貞明皇后)は天皇よりも30歳以上年上の鈴木に対し、「どうか陛下の親代わりになって」と語った。
鈴木は非国会議員[注釈 1]、江戸時代生まれ[注釈 2]という二つの点で総理大臣を務めた最後の人物となった。また満77歳2ヶ月での就任は、日本の総理大臣の就任年齢では最高齢の記録である(2014年7月現在)[注釈 3]。
鈴木は総理就任にあたり、メディアを通じて次のように表明した[2]。 テンプレート:Quotation
終戦工作
日本政府はソ連に米英との講和の仲介を働きかけていた。ソ連は日ソ中立条約の延長を拒否したが、条約は規定に従い1946年(昭和21年)春まで有効となっていた。「日本軍の無条件降伏」を求めたポツダム宣言にソ連が署名していなかったことも政府側に期待を持たせた。鈴木は「西郷隆盛に似ている」と語るなどソ連のヨシフ・スターリンに期待していた。一方でスターリンは、3週間前のポツダム会談においてアメリカのトルーマン大統領に、日本から終戦の仲介依頼があったことを明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」ため「ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」と提案しており、トルーマンもこれに同意していた[3]。
ポツダム宣言発表翌日の7月28日午後におこなわれた記者会見において、新聞記者により談話として「黙殺する」という言葉を記事に大きく取り上げられたことは誤算となった。1945年(昭和20年)7月27日にポツダム宣言が日本の新聞に論評抜きで公表され、7月28日の朝刊では、讀賣新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などの見出しと共に取り上げられた。このあとの午前中に開かれた大本営と政府の情報交換会合で、継戦派の梅津美治郎参謀総長、阿南惟幾陸軍大臣、豊田副武軍令部総長らが宣言の非難声明を出すことを政府に強く提案、これに押し切られる形で米内光政海軍大臣が「政府がポツダム宣言を無視するという声明を出してはどうか」と提案して認められた[4]。記者会見に出席した同盟通信国際局長の長谷川才次は、「政府はポツダム宣言を受諾するのか」という質問に対して鈴木が「ノーコメント」と回答したことをはっきり記憶していると戦後に述べている[5]。また、鈴木の孫の哲太郎は1995年(平成7年)の8月のNHKラジオの戦後50年特集番組において、「祖父の本心は『ノ-コメント』と言いたかったのだと思うが、陸軍の圧力で『黙殺』になってしまったのだろう。祖父は後で、あの『黙殺』発言は失敗だった、もっと別の表現があったと思うと漏らしていた」と語っている。
鈴木は、ポツダム宣言に対しては意見を特に言わない、との態度をとったつもりであったが、記事中では「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年〔昭和20年〕7月29日)と書かれ、翌日朝日新聞でも「政府は黙殺」などと報道された。「黙殺」という言葉について鈴木は「no comment(ノーコメント、大人びた態度でしばらく賛否の態度を表明しない)」という意図をこめていた。この「黙殺」は同盟通信社により「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、ロイターとAP通信では「reject(拒否)」と報道された。
ポツダム宣言に対する日本政府の断固たる態度を見たアメリカが原子爆弾の広島と長崎への投下を最終的に決断したとの見方もある[6]。鈴木自身は自叙伝のなかで、「(軍部強硬派の)圧力で心ならずも出た言葉であり、後々にいたるまで余の誠に遺憾とする点」であると反省している。
トルーマンの日記には7月25日に「この兵器(原爆)は日本に対して今日から8月10日までの間に用いられる」と記しており、鈴木の発言とは関わりがない[7]。この7月25日は原爆投下の正式な日取りが決定された日で、長谷川は、トルーマンが日本のポツダム宣言拒否後に原爆投下を決定したというのは歴史的事実に反し、宣言発表前に原爆投下は既に決定されており、むしろ投下を正当化するためにポツダム宣言が出されたのだと述べている[8]。一方で、同時期にポツダム宣言を受諾するよう促された鈴木が、内閣情報局総裁下村宏等に、「今戦争を終わらせる必要はない」との発言をしたという記録もある[9]。また、トルーマンは「今のところ最後通牒に正式な返答はない。計画に変更はなし。原爆は、日本が降伏しない限り、8月3日以後に投下されるよう手配済みである」と述べており、原爆投下の決定は「黙殺」発言に影響を受けていないにせよ、原爆投下計画は、日本側の沈黙を受けてのものであることにかわりはない。
8月6日の広島への原爆投下、9日のソ連参戦と長崎への原爆投下、15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くした。昭和天皇の希望は「軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、鈴木は「天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない」と考えていた。
8月9日深夜から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、ポツダム宣言受諾を巡り、東郷茂徳外相が主張し米内光政海相と平沼騏一郎枢密院議長が同意した1条件付受諾と、本土決戦を主張する阿南惟幾陸相が梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長の同意を受け主張した4条件付受諾との間で激論がたたかわされ、結論がでなかった。10日午前2時頃に鈴木が起立し、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」と述べた。昭和天皇は涙ながらに、「朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意を示した。
昭和天皇の聖断が下ったが、ポツダム宣言に記された国体に関する条文の解釈について外務省と軍部の間で見解が分裂し、8月14日に再度御前会議が招集され天皇の聖断を再び仰ぐことになった。
8月15日の早朝、佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達が総理官邸及び小石川の私邸を襲撃し(宮城事件)、鈴木は警護官に間一髪救い出された[10]。同日正午、昭和天皇の朗読による終戦の詔勅がラジオで放送された。この日の未明、阿南惟幾が自刃した。同日鈴木は天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職した。東久邇宮内閣成立の同月17日まで職務を執行している。
鈴木一の述懐によると、生涯二度の暗殺の危機を生き延びた鈴木は、「軍人は政治に関わるべきではない」を信条としていた。敗戦の1年後1946年のインタビューでは、「われは敗軍の将である。ただいま郷里に帰って、畑を相手にいたして生活しております」とコメントしている[11]。
12月15日に平沼騏一郎枢密院議長が戦争犯罪容疑で逮捕され、枢密院議長に再度就任した。翌1946年(昭和21年)6月3日に自身が公職追放令の対象となったため、清水澄副議長に枢密院議長を譲り辞職した。
1948年(昭和23年)肝臓ガンで死去、享年81。関宿町(現:野田市)の実相寺に葬られた。遺灰の中に二・二六事件の時に受けた弾丸が混ざっていた。遺品の多くは野田市の鈴木貫太郎記念館に展示されている。
年譜
- 1867年(慶応3年) - 誕生。
- 1877年(明治10年) - 父の群馬県庁への就職に伴い前橋市に転居。
- 1878年(明治11年) - 第一番小学校厩橋学校(現・前橋市立桃井小学校)卒。
- 1883年(明治16年) - 旧制前橋中学(現・群馬県立前橋高等学校)卒。攻玉社で学ぶ。
- 1884年(明治17年) - 海軍兵学校入校。
- 1887年(明治20年)7月25日 - 海軍兵学校卒(14期)。
- 1888年(明治21年) - 任海軍少尉。日清戦争に従軍。大沼とよと結婚。
- 1892年(明治25年)12月21日 - 任海軍大尉。
- 1897年(明治30年)3月30日 - 海軍大学校砲術学生。
- 1898年(明治31年)
- 1901年(明治34年)7月29日 - ドイツ駐在(~1903年(明治36年)12月30日)。
- 1903年(明治36年)9月26日 - 任海軍中佐。
- 1904年(明治37年) - 日露戦争に駆逐隊司令として従軍(~1905年(明治38年))。
- 1907年(明治40年)9月28日 - 任海軍大佐。
- 1910年(明治43年)7月25日 - 海軍水雷学校長。
- 1913年(大正2年)
- 1914年(大正3年)4月17日 - 海軍次官。
- 1917年(大正6年)
- 1918年(大正7年)12月1日 - 海軍兵学校長。
- 1920年(大正9年)12月1日 - 第二艦隊司令長官。
- 1921年(大正10年)12月1日 - 第三艦隊司令長官。
- 1922年(大正11年)7月27日 - 呉鎮守府司令長官。
- 1923年(大正12年)8月3日 - 任海軍大将。
- 1924年(大正13年)1月27日 - 第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官。
- 1925年(大正14年)4月15日 - 海軍軍令部長。
- 1929年(昭和4年)
- 1936年(昭和11年)2月26日 - 二・二六事件で襲撃され、重傷を負う。
- 1940年(昭和15年)6月24日 - 枢密院副議長を経て、1944年(昭和19年)に枢密院議長に就任。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)6月3日 - 枢密院議長を辞職。
- 1948年(昭和23年)4月17日 - 満80歳で死去。
栄典
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章受章。
- 1916年(大正5年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章受章。
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 勲一等旭日桐花大綬章受章。
- 1936年(昭和11年)11月20日 - 勲功により、男爵を賜る。
- 1960年(昭和35年) - 終戦に関する功績により従一位贈位。
系譜・親族
- 靖国神社宮司を務めた陸軍大将・鈴木孝雄は次弟。関東都督府外事総長・久邇宮御用掛の鈴木三郎は三弟。四弟の陸軍中佐・永田茂は軍務での無理がたたり40代前半で死去(『日本の名家・名門人物系譜騒乱』)。
- 先妻トヨとは死別、後妻はたか(昭和天皇の皇孫殿下時代の教育御用掛)。なお、たか夫人は東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)の教諭であったが、東京帝国大学教授菊池大麓の推薦により、1905年(明治38年)から1915年(大正4年)まで皇孫御用掛として、幼少時の迪宮(昭和天皇)、秩父宮、高松宮の養育に当たっていた。昭和天皇は、侍従長・総理時代の鈴木に、「たかは、どうしておる」、「たかのことは、母のように思っている」と、語ったと言う。
- 貫太郎の子、一は農林省山林局長、侍従次長、外務省出入国管理庁長官等を務めた。娘のさかえは、陸軍大将・藤江恵輔と結婚した。
- 『宰相 鈴木貫太郎』を著した東京大学名誉教授の小堀桂一郎は遠戚[13]。
由哲━━┳貫太郎━┳ 一 ━┳哲太郎━┳真理絵 ┣孝雄 ┣さかえ ┗道子 ┗由里 ┣よし ┗ミつ子(台北帝大理農学部応用微生物学教授・足立仁と結婚) ┣三郎 ┣君 ┣敬子(永田廉平海軍大尉(彦根藩士永田太郎兵衛正備の子)の妻) ┗茂(黄海海戦で永田廉平大尉戦死の為、永田家へ養子、家督相続)━輦止みやこ
エピソード
- 鈴木は生涯に2度の暗殺未遂を経験しているが、幼い頃から何度も死にそうな目にあった。3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたりしたが、その度に奇跡的に助かった。
- 日本海海戦のときには、ロシアのバルチック艦隊の残存艦3隻を雷撃で撃沈した。そのため連合艦隊参謀秋山真之から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われた。
- 海軍の命令で学習院に軍事教練担当の教師として派遣された折に、教え子に吉田茂がいた。吉田は鈴木の人柄に強く惹かれ、以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田の総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねたと言われている。例えば、「吉田君、俎板の鯉のようにどっしり構えること、つまり負けっぷりをよくすることだよ」などといったことを伝えていたと言われている。
- 1918年(大正7年)、鈴木はアメリカ訪問の際「日米両国は太平洋を名の通り平和の海にせねばならない。もしどちらかが戦争をするのならたちまち天罰が下るであろう」とスピーチした。組閣後1945年6月初頭、帝国議会での演説において上記のスピーチをしたことを回想的に述べたことが、「天罰」の意味について、休戦の意志ありと抗戦派の議員からつっこまれた(天罰事件)。鈴木は「天罰・天佑ということについては学術上いろいろな議論がございまして・・・」と答弁した。だが、かえって議会の本土決戦派は激昂し、すわ倒閣という大混乱となってしまった。直後の閣議では閣僚は意気消沈し沈痛な雰囲気となり、議会召集に最初から反対していた和平派の米内光政海相は鈴木首相の和平への意思を疑問視して辞意を表明、内閣は瓦解の危機に瀕してしまった。しかし鈴木は何事もなかったかのように葉巻を吹かして新聞を読んでいた。この姿に閣僚達の中には「これが、大海戦のさ中に司令長官として艦橋に泰然として立っている提督」とたのもしく感じた人もいた。抗戦派と目された阿南惟幾陸軍大臣は、(普段は議論が対立している)米内海相に手紙を書いて辞意を思いとどまらせ、また抗戦派の倒閣運動に根回しして内閣瓦解をなんとか防いだ。この鈴木の国会演説に関して、半藤一利は、鈴木が実は連合軍を意識しておこなったものではないかと推測している。つまり昭和天皇および鈴木内閣が和平を志向しているということを連合軍の側が認識してくれれば、条件付和平案を提示してくれるのではないかと鈴木が考えたということである。現段階では、この鈴木の演説と、ポツダム宣言などその後の連合国の和平行動との関係を立証する証拠はあらわれていない。
- 枢密院議長をしていた1943年(昭和18年)のこと、会議の席で嶋田繁太郎海軍大臣が山本五十六の戦死(国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。驚いた鈴木が「それは一体いつのことだ?」と問うと嶋田は「海軍の機密事項ですのでお答えできません」と官僚的な答弁をした。すると、普段温厚で寡黙な鈴木が「俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!」(鈴木は予備役ながら軍籍があった)と大声で嶋田を叱責し、周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされ驚愕したという。
- 1943年(昭和18年)頃、以前校長を務めた海軍兵学校を訪ね、当時校長だった井上成美に「井上君、兵学校の教育の効果が現れるのは二十年後だよ、二十年後!」と大声で言い、井上もわが意を得たりと大きく何度も頷いたという。井上は終始戦争反対派、校長に就任してからは兵学校の制度や因習を改正しのちに名校長と言われるようになるが、鈴木の言葉を傍らで聞いていた兵学校長付副官は、「井上さんの、『戦後』のために生徒を教育している真意を見透かして、ただこの言葉だけを言いに江田島まで来たんだと思う」と述べている。
- 鈴木はルーズベルト大統領死去の報道を知ると、同盟通信社の短波放送により、「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います」という談話を世界へ発信している。同じ頃、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、ラジオ放送で対照的にルーズベルトを口汚く罵った。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは鈴木のこの放送に深く感動し、英国BBCで「ドイツ国民の皆さん、東洋の国日本にはなお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と題して声明を発表し、鈴木の武士道精神を称賛、鈴木の言葉は戦時下の世界に感銘を与えた[14]。
- 首相官邸で本土決戦を担う国民義勇隊に支給される武器の展示が行われた際、展示されているのは鉄片を弾丸とする先込め単発銃、竹槍、弓、刺又など、すべて江戸時代のしろものであった。物に動じない鈴木も思わず「これはひどいなあ」と嘆声をあげた。
- 組閣当初から鈴木本人は和平派かそれとも和平と戦争継続に揺れ動いていたかは諸説あるが、和平派説の有力な一例として取り上げられるのが1945年(昭和20年)6月8日の重臣会議での出来事である。若槻禮次郎から戦争継続についての意見を尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ」と叫びテーブルを叩いた。このとき同席した東條英機は満足してうなずいたが、近衛文麿は微笑しており若槻が不審に思った。これは、東條ら戦争継続派に対する鈴木のカムフラージュと言われており、「内大臣に会いに行くと、皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ」(志賀直哉『鈴木貫太郎』)という若槻の証言が残っている。
- 漢籍に通じ、特に『老子』を終生愛読した。空襲で目ぼしい財産を失ってからも、孫が古書店で買い求めた『老子』を読んだ。内閣書記官長・迫水久常に「大国を治むるは小鮮を烹(に)るが如し」(国の政治というものは小魚を煮るようなもので、決して慌てて動いてはいけない)という『老子』の一節を贈り、終戦工作の要諦を示唆している。
- 8月14日の御前会議終了後、阿南陸相は紙に包んだ葉巻の束を手に「終戦についての議論が起こりまして以来、私は陸軍の意見を代表し強硬な意見ばかりいい、お助けしなければならないはずの総理に対し、いろいろご迷惑をかけてしまいました。ここに慎んでお詫びいたします。ですがこれも国と陛下を思ってのことで、他意はございませんことをご理解ください。この葉巻は前線から届いたものであります。私は嗜みませんので、閣下がお好きと聞き持参いたしました」と挨拶にきた。鈴木は「阿南さんのお気持ちは最初からわかっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出てきたことです。しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。わが国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本はかならず再建に成功します」と告げた。阿南は静かにうなずいて「私も、そう思います」と言って辞去した。鈴木は迫水久常に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいた。その数時間後、阿南は割腹自決した。阿南は鈴木の侍従長時代の侍従武官であり、そのときから鈴木の人柄に深く心酔していた。表面的には閣議や最高戦争指導会議で、鈴木と対立する強硬意見を言うことの多かった阿南であるが、鈴木への尊敬の気持ちはは少しも変わらず、陸軍部内の倒閣運動を押さえ込むことに見えない形で尽力したりしている。自分の意見と正反対の方向すなわち終戦の方へ流れがすすみはじめた頃、陸士同期の安井藤治国務大臣に阿南は「どんな結論になっても自分は鈴木首相に最後まで事を共にする。どう考えても国を救うのはこの内閣と鈴木総理だと思う」と言ったという。この阿南の鈴木への深い敬意が、潜在的ではあるが、終戦への流れに大きな役割を果たしたといえる。
- ポツダム宣言黙殺発言について、鈴木自身は戦後一年経ってから「この一言は後々に至るまで余の誠に遺憾と思う点であり…」と後悔した。しかし、鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言について、高木惣吉海軍少将が米内光政大将に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内自らは沈黙したままで、鈴木首相のみが責をとった形となった。
- 没後に従一位を追贈されている。鈴木は死後12年を経た1960年8月15日(終戦15周年記念日)に、最高位階である従一位を贈位されている。従一位を没時追賜した例は多いが、死去から年数を経て贈位するのは例が少なく、日本国憲法施行後は鈴木が唯一の例である。
- 「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という遺訓は、母校である前橋市立桃井小学校の基本目標になっており、校歌の歌詞にも採用されている。また卒業生でもある糸井重里は、この遺訓をよくできたものであると絶賛している[15]。
著書
鈴木を演じた主な俳優
- 笠智衆「日本のいちばん長い日」(1967年、東宝映画)
- 嵐寛寿郎 「日本の戦後 第1回」(1977年、NHK特集)
- 西村晃「歴史の涙」(1980年、TBSドラマ)
- 森繁久彌「そして戦争が終った」(1985年、TBS終戦40年記念ドラマ)
- 芦田伸介「226」(1989年、松竹映画)
- 小林桂樹「命なりけり 悲劇の外相東郷茂徳」(1994年、TBS終戦記念ドラマ)
- 松方弘樹「聖断」(2005年、テレビ東京終戦60年記念ドラマ)
- 赤井英和「坂の上の雲」第3部(2011年、NHKスペシャルドラマ)
脚注
注釈
- ↑ 鈴木貫太郎より後の首相の東久邇宮稔彦王、幣原喜重郎、吉田茂は貴族院議員であり、1947年(昭和22年)に日本国憲法が施行されて以降は内閣総理大臣は国会議員から選出されることになった
- ↑ ただし、一般に江戸時代の終わりは大政奉還とされるが、これは鈴木が生まれる前の1867年11月15日(慶応3年10月14日)である。一方、明治への改元は1868年10月23日(慶応4年9月8日)であるが、改元に際して「慶応4年をもって明治元年とする(正月までさかのぼって改元)」とされたことから、1868年1月25日(慶応4年1月1日)が明治の始まりとなり、鈴木の誕生日の一週間後となる。したがって、厳密には「明治改元前に生まれた最後の総理大臣」である。なお、「大政奉還前に生まれた最後の総理大臣」は平沼騏一郎。
- ↑ 退任時の年齢では大隈重信(満78歳6ヶ月)が最高齢である。
出典
- ↑ 半藤一利『聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎』PHP文庫 51頁、星亮一『出羽重遠伝』光人社NF文庫 123-124頁
- ↑ 日本ニュース第250号|NHK戦争証言アーカイブス
- ↑ 長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、p296
- ↑ 『暗闘(上)』p357
- ↑ 『暗闘(上)』p358
- ↑ 終戦を遅らせ原爆を投下させたので鈴木には戦争責任がある、とする2006年8月15日付け読売新聞社説
- ↑ 『暗闘(上)』p341
- ↑ 『暗闘(上)』pp.325 - 326
- ↑ "History of Contemporary Japan, 1945-1998" By Edward R. Beaucham[1]
- ↑ 横浜警備隊長 佐々木大尉の反乱
- ↑ 日本ニュース戦後編第31号|NHK戦争証言アーカイブス
- ↑ 毎日新聞1945年(昭和20年)7月29日
- ↑ 週刊文春2010年4月22日号。小堀は「そもそも、鈴木貫太郎という人に対する直感があったんですね。遠い縁戚に当たっていて、しょっちゅう会うという間柄ではありませんでしたが、人柄にも惹かれていました」と述べている。
- ↑ [2]
- ↑ 2013年2月26日放送の『ニュースウオッチ9』より。
- ↑ 息子で首相秘書官、戦後は侍従次長等を務めた。回想記に『天皇さまのサイン』(毎日新聞社、1962年)、『人間天皇の素顔』(平安書店、1974年)がある。
参考文献
- 半藤一利『聖断―天皇と鈴木貫太郎』(PHP研究所、ISBN 4-569629-84-9、PHP文庫 ISBN 4-569-66668-X)- 旧版は(文藝春秋、ISBN 4-163399-00-3、文春文庫、ISBN 4-167483-01-7)
- 小堀桂一郎『宰相鈴木貫太郎』(文藝春秋、ISBN 4-163374-20-5、文春文庫、ISBN 4-167452-01-4)
- 小松茂朗『終戦時宰相 鈴木貫太郎―昭和天皇に信頼された海の武人の生涯』(光人社、ISBN 4-769807-32-5)
- 花井等『終戦宰相 鈴木貫太郎』(廣池学園出版部、ISBN 4-892054-10-0)
- 立石優『鈴木貫太郎 昭和天皇から最も信頼された海軍大将』(PHP文庫、ISBN 4-569-57376-2)
- 平川祐弘『平和の海と戦いの海』(新潮社 1983年、講談社学術文庫 1993年)
- 『鈴木貫太郎伝』 同編纂委員会編 昭和35年(1960年)- 御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書32 鈴木貫太郎』(ゆまに書房 2006年)で復刻
- 「別冊歴史読本57」 第28巻26号 『日本の名家・名門 人物系譜騒乱』 新人物往来社 2003年 266-267頁
関連項目
外部リンク
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
小磯國昭
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣総理大臣
第42代:1945年
|style="width:30%"|次代:
東久邇宮稔彦王
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
原嘉道
平沼騏一郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 枢密院議長
第20代:1944年 - 1945年
第22代:1945年 - 1946年
|style="width:30%"|次代:
平沼騏一郎
清水澄
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
原嘉道
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 枢密院副議長
第14代:1940年 - 1944年
|style="width:30%"|次代:
清水澄
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
重光葵
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務大臣
第70代:1945年(兼任)
|style="width:30%"|次代:
東郷茂徳
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
重光葵
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 大東亜大臣
第3代:1945年(兼任)
|style="width:30%"|次代:
東郷茂徳
テンプレート:S-mil
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山下源太郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 海軍軍令部長
第8代:1925年 - 1929年
|style="width:30%"|次代:
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
竹下勇
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 連合艦隊司令長官
第15代:1924年
|style="width:30%"|次代:
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
竹下勇
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 第一艦隊司令長官
第14代:1924年
|style="width:30%"|次代:
岡田啓介
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
村上格一
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 呉鎮守府司令長官
第15代:1922年 - 1924年
|style="width:30%"|次代:
竹下勇
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
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|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 第三艦隊司令長官
1921年 - 1922年
|style="width:30%"|次代:
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|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
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|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 第二艦隊司令長官
1920年 - 1921年
|style="width:30%"|次代:
中野直枝
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