美浦トレーニングセンター
美浦トレーニング・センター(みほトレーニングセンター)は茨城県稲敷郡美浦村にある日本中央競馬会(JRA)の施設(トレーニングセンター)である。
中央競馬の東日本地区における調教拠点である。略称は「美浦」「美浦トレセン」「美浦TC」など。
目次
概要・歴史
かつて、1970年代までは関東地区の厩舎に所属する馬(俗に関東馬と呼ばれる)の調教については東京、中山の2つの競馬場と白井の拡張厩舎街(当時は中山競馬場白井分場。現在の競馬学校の所在地)を中心に実施されてきた。
とはいえ、調教に必要なコース本数が充分確保されていたわけではなく、馬場を保護するために調教でもコースの内外などを区分しての難しいやりくりなどを強いられ、また府中・中山いずれも周辺地域の宅地化の進展の一方で、馬を居住させる空間としては難しいものになりつつあった。また、競馬場周辺の環境問題にも対応する必要が出てきた。そこでまず関東地区で先に検討されていたのは、休養馬の保養所および若駒の育成調教場として、東京西郊に東京競馬場の分厩舎を新設するという構想であった。[1]1959年にはその候補地として東京都八王子市片倉町が選定されるなど進展を見せていたが、1965年の多摩ニュータウン計画の発表で地価が高騰するなどの影響を受け、十分な敷地の確保が難しくなり、この分厩舎構想は断念された。また、中山競馬場の白井分場も1960年代に入ると千葉県による千葉ニュータウン計画の構想が浮上したことで[注釈 1]、こちらも両本場と同様に周辺地域の宅地化・都市化の波が遠からず押し寄せることが予想されていた。
トレーニングセンター構想と厩舎群の競馬場からの移転計画は、東西ともに1961年に具体化した。関西地区では1964年に滋賀県栗太郡栗東町が候補地に選定されるなど比較的順調に進展を見せていたが、関東地区の計画は難航した。1966年初頭には当時はまだ有力な国内馬産地の1つであった千葉県成田市三里塚を移転の有力候補としていたが、それより先に日本政府が新東京国際空港の候補地として三里塚を正式決定してしまった[注釈 2]為に、新たな候補地を探さねばならなかった。[注釈 3]それでも翌1967年には最終候補地として、茨城県稲敷郡美浦村、神奈川県横浜市港北区(当時。現在は緑区)長津田地区、神奈川県厚木市棚沢地区の3ヵ所を選定。このうち、美浦村から誘致陳情書が提出され、また地元選出の赤城宗徳衆院議員の尽力もあって、それを元に翌1968年、正式に美浦村が関東地区のトレーニングセンター候補地として選出され、同年中に調印も行われ、用地買収が開始された。[1]
しかし、用地買収が1年も掛からず終了した栗東町とは対照的に、美浦村の用地買収は、多くの地主から退去に伴う代替地の要求が発生したこともあって[1]完了に約4年もの歳月を要し、敷地の造成工事に着手できたのは、すでに栗東トレーニングセンターが開場した後[注釈 4]の1972年9月になってからのことであった。[2]その後も第1次オイルショックの影響などでインフラ整備・建設工事はなかなか進展せず、何度も計画が変更されたが、1977年末にようやく全ての建設工事が完了。1978年4月10日に開場し、両競馬場の厩舎群および多くの競馬関係者とその家族を当地に集約移転させた[注釈 5]。
後述するがトレセン敷地内には競走馬のトレーニングのための施設だけではなく、競馬関係者とその家族の生活空間も設置されており、現在のJRAではトレーニングセンターで人馬を集約管理するシステムが形成されているが、ここに至るまでには、上記の事情の他にも、1965年に発生した不正敗退事件である山岡事件、1971年の馬インフルエンザ集中感染、以前は何度も起きていた馬丁(現在で言う厩務員に相当する)の組合の春闘によるストライキなども影響を与えている。その為、競走の公正確保や防疫という観点から、厩舎やコースがある区域への入口には入退場のゲート[注釈 6]が設置されチェックがなされており、JRA施設の常ではあるものの、許可を持たない部外者の業務区画への立ち入りは常時かなり厳しく制限されている。美浦トレセンの場合、業務区域に一般的な競馬ファンが入場できる機会は、定期的に企画される施設見学のツアーや、大レース前に開催される公開調教の様なイベント企画[注釈 7]など、ごく限定的なものとなっている。
美浦トレセンは競走馬の鍛練・調教を目的に設置されているトレーニングセンターとしては中央競馬・地方競馬を問わず日本国内で最大の規模の施設であり、厩舎区画は南地区・北地区の合計で約2300頭の競走馬を収容可能である。調教コースは厩舎群や馬場公園を挟む形で南北の2ヶ所に合わせて7つのトラックが設置されており、南コースには1600mのウッドチップコース(木片を敷き詰め、競走馬の足の負担を抑える)が、北コースには障害用の調教コースがある。さらに場内には馬の足腰の負担を抑えつつ強化するための坂路コース、脚元の弱い馬のためのスイミング・プールや水中歩行訓練装置、馬のクールダウンやリラックスのための逍遥馬道、海外レースに出走する競走馬が入る検疫厩舎、競走馬に総合的な医療行為を行える診療所なども設置されている。この種の施設としては、その規模・設備は世界的に見てもトップクラスの水準にあるとされる。
トレーニングセンターの敷地内には競走馬のトレーニング施設以外にも、競馬関係者の生活の為の施設が設置されている。具体的には厩務員宿舎・騎手宿舎・独身寮・職員宿舎などの区画・建物が設けられており、当施設に所属・在籍の厩舍関係者・騎手・JRA職員などとその家族の約5000人が暮らしている。これは所在地である美浦村の人口の約3割を占める。トレセン近隣に自宅を構え通勤している競馬関係者も少なくない。トレセン所在の美浦村美駒地内には馬具専門店、ショッピングセンターや簡易郵便局、診療所、トレセンの入口周辺にも保育園・銀行の支店・コンビニエンスストアなどが設置されており、競馬関係者やその家族の日常生活の大半をトレセン及び周辺地域だけで済ませられるシステムが構築されている。消防署の分署や警察の駐在所もトレセンからすぐの場所に設置されている。
このトレセン内宿舎や周辺に暮らし競馬に携わる直接の「中央競馬関係者」の他、周辺地域に数多く存在する競走馬の育成・休養を目的とした牧場の関係者、その他競馬新聞・スポーツ新聞などの競馬マスコミ、馬匹輸送、飼料販売などといった各種競馬関連産業に従事する者、トレセン内部・周辺の店舗の従業員などまでも含めれば、競馬の存在によって生計を立て暮らす者とその家族はトレーニングセンター・美浦村とその周辺地域で合わせて数万人にも及ぶとされ、美浦トレセンを頂点としたいわゆる一種の「競馬村」とでも言うべき様相を呈している。
2007年5月31日にニューポリトラックによる調教コース導入が発表された。南馬場Cコースにおいて外柵(ラチ)側を約5メートル拡張し幅員25メートルのうち外側の15メートル部分に設置する工事が行われ、総工費は材料費を含め約9億円になった。同年11月14日に完成施設の詳細の発表と試走会が行われ、11月16日に開場した。
2008年には開設30周年を迎え、祝賀会が4月21日にトレーニングセンター内の厚生会館で行われた。
長期低迷
1988年以降、美浦トレーニングセンターの所属馬は栗東トレーニングセンターの所属馬に勝利数と獲得賞金額の両面で大きく水を開けられており、21世紀に入って久しい現在もなお長期の低迷にあり、この状況を天気予報(気圧配置)に使われる言葉になぞらえて「西高東低」と言われることがある[注釈 8]。
平坦な土地
美浦トレセン所属の厩舎群の低迷の最大の要因として「坂路コース」にまつわる諸問題を最初に挙げる者は多いようである。
1985年に栗東トレーニングセンターに「栗東トレーニングセンター厩舎関係者の総意」という形で設置された坂路コースについては、その調教ノウハウの確立と共に坂路で鍛えられた関西馬たちが東京・中山など東日本開催の競馬を圧倒的な勢いで席巻する様になったことで、競走馬の強化に効果大なることが誰の目にも明白なものとなった。当然ながら美浦の厩舎関係者もその坂路効果に追随せんと、平成改元の前後から当施設への坂路コース設置を要望し始めた。しかし、金勝山地北端の起伏が多い地形に所在し逍遥馬道さえもが坂道となっているような立地条件で、坂路コースも自然地形に若干手を加える形で設置できた栗東トレセンに対し、美浦トレセンの立地条件は関東平野東部のほとんど平坦な土地であったこともあって、敷地こそ広大ではあるがそのまま坂路コースを設置できるような自然の丘や地形が一切存在していない上、既に開場から10年超を経て敷地内や周辺地もほとんど利用・開発が進められており、栗東の様なほぼ直線の坂路コースを設置するのに手頃な空間も無かった。よって美浦トレセンへの坂路コースの設置は、まずコース用の敷地をどこかに確保し、そこに人工の斜面地形をゼロから造成するところから始めなければならず、既存施設の移設・改造の手間や莫大な建設費用を必要とするなど、栗東トレセンの坂路と比しても遥かに大規模な工事となることから、JRAは美浦トレセンへの坂路コース設置の要望については「検討中」としながらも実際にはきわめて消極的な姿勢を数年間に渡って取り続けた。当時は折しもオグリキャップと当時台頭した武豊に牽引された中央競馬ブームの真っ只中であり、JRAにとっては座していても売り上げが伸びてゆく時代であった。
また現場でレースに携わる当事者の声として、小島太が騎手時代に著した『競馬八方破れ言いたい放題』の中で、「関西のレースが流れが激しいことも(関西馬が強い)理由だと思う」という記述をしている。その中では、スタート直後に誰かが行くとすんなりと隊列が定まって流れが落ち着く関東の競馬に対し、関西の競馬や裏開催(小島は騎乗機会を求めて中堅以下の栗東所属の騎手が新潟競馬場や福島競馬場などに来る場合を指している)では、スタートしてからがむしゃらに主導権を握ろうとする為に流れがなかなか定まらず、レースの流れも厳しいと指摘し、それに揉まれて関西馬も強くなっているというのではないかと分析している。
しかし1990年代に入り、美浦所属馬の不振が顕在化し競馬マスコミやスポーツ新聞などにより幾度となくクローズアップされる様になると、その原因として栗東にしかない坂路コースが象徴的存在となり、また、東日本における競馬ブームの腰を折りかねないリスク要因としてJRAも関東馬の不振を放置できなくなる。かくてようやく重い腰を上げ、栗東のそれとは比較にならない莫大な費用・資材・工期を費やして栗東に遅れること実に8年、南コース側の一角に1993年に完成させた。しかしその間に坂路を持つ栗東と持たざる美浦の両施設間の不均衡は凄まじい勢いで進展し、美浦の坂路が完成した時には既にその優劣はもはや決定的なものとなっていた。
その後、2004年には美浦の坂路コースの改修と拡張が行われている。とはいえ、勾配区間の規模やコースの線型については栗東の坂路コースと比べれば勾配の規模が小さいのは相変わらずで[注釈 9]、それどころか、現在では民間の大手牧場や育成牧場が設置した坂路コースにも美浦トレセンの坂路コースを大きく凌駕する規模のものが現れており[注釈 10]、これらと比べてしまうと見劣りする。坂路コースは主に競走馬の足腰に筋肉とパワーを付けさせる目的で用いられることが多いが、実際、パワーが重要視されるダート戦における東西の不均衡の差は著しく、たとえば2010年・2011年にJRAで開催されたダート重賞全17戦の優勝馬の東西の比率を見るといずれも美浦所属馬1勝に対して栗東所属馬16勝という状態であり[注釈 11]、特にJRA所属馬の出走頭数が限られる地方競馬開催のダートグレード競走では、層が厚く獲得賞金順でも上位に立つ栗東所属馬の大挙出走の前に美浦所属馬が悉く除外対象となり出走できない状況も多々見られる。この様に、ダート戦線においては上位クラスになるほど大規模で高斜度の坂路コースを持つ栗東トレセンの圧倒的優位性が際立つ状況になっている。
この様に、坂路コースは設置されたとはいえ、設置までの8年もの時間差とコース規模の差が美浦と栗東の格差を固定化させたと指摘する競馬関係者や競馬マスコミは多く、現実に20年以上も水をあけられたままの結果となっている。しかし、美浦トレセンの現在の坂路のさらなる拡張や勾配の拡大といった手法は、土地利用面の問題から限界で事実上不可能であるともされる[3]。
上水道の水質
美浦トレーニングセンターで飲料用にも使用されている上水道は近隣の霞ヶ浦を水源としている。しかし、これについては他の競馬場やトレーニングセンターとの比較で「水が悪い」と言われている[注釈 12]。事実、関西馬や地方競馬所属馬が美浦に滞在したり転厩してきた際に馬に水を飲ませるのに苦労するケースがこれまでも多々見られているテンプレート:要出典。
現在では美浦に所属する厩舎についても、競走馬の飲料用水用として業務用の大型浄水器を設置している所が存在する。
その他の要因
当施設の立地上の劣位[注釈 13]や、栗東に比べて労働組合運動が激しく不安定な労使関係が改善されない事も原因として挙げられることがあるテンプレート:要出典。
これらの問題は今に始まったことではなく、当施設が開場してから10年余りは関東馬優位の時代が続いた。ただし特に不安定な事で知られる美浦の労使関係については持ち乗りや攻め専の人数や担当頭数、馬に関われる時間面の制限を引き起こし、これが馬全体の運動量の決定的な不足に繋がっていると指摘されており現状の低迷は続くことになると最近では競馬マスコミなどが多くは栗東と比較する形で強く指摘するところになっているテンプレート:要出典。が、関東馬が優勢だったころから不安定であり上記の指摘はなんら根拠がないテンプレート:要出典。
関東馬の「栗東留学」
2000年代以降、厩舎関係者はもとより、主に当施設を中心に取材するスポーツ新聞・競馬マスコミの記者・ライターたちによって「栗東留学」や「栗東効果」という言葉が用いられている状況が見られる[4]。
これは「京都・阪神の競走への出走のための事前調整」という理由を用いて、管理馬を実際のレースよりも数週間前から予め栗東トレセンに輸送・滞在させておき、一定期間栗東トレセンの坂路などの施設で鍛錬を積ませるという、美浦所属の調教師による強化育成の手法である。
「栗東留学」と呼ばれた最初の事例は2002年のことで、阪神ジュベナイルフィリーズへの出走を利用して、国枝栄が管理馬ソルティビッド[注釈 14]を栗東トレセンに事前入厩させたことであるとされる[5]。2000年代後半以降、この様に栗東への事前入厩という調整過程を経た関東馬が、栗東滞在後の重賞競走で関西馬に伍して好走・勝利する状況が散見される様になり、その好走の要因として厩舎関係者や競馬マスコミが「栗東トレセンでのトレーニングの効果」を指摘するというパターンが幾度も見られる様になったことで、「栗東留学」などの表現が定着していった。
具体的には、2007年のNHKマイルカップを優勝した関東馬ピンクカメオの勝因について、国枝栄厩舍陣営は「前走の桜花賞の前に栗東トレセンに滞在して栗東の施設で調教が行えたこと」を最大の要因として挙げており、2008年の秋華賞で1着3着を占めて大波乱を巻き起こした小島茂之厩舎陣営も、全く同様にレース前に馬を栗東トレセンに送り込んで調教を積めたことを勝因に挙げている。また、2009年においても、関東馬のGI優勝は年間を通じて4頭を数えるのみであるが、実にその内の3頭[注釈 15]がレース前から事前に栗東トレセンに滞在し、その坂路でトレーニングを行うという調整課程を経ての勝利であった[6]。2010年には国枝栄厩舎所属のアパパネが関東馬として桜花賞を4年ぶりに制したが、この馬に至っては国枝の「関西馬に勝つためには関西馬になり切ればいい」[7]という育成方針から関西圏での出走の度に栗東への事前入厩と数週間の滞在を繰り返しており、所属こそ関東馬であっても実態としては栗東留学の先駆者である国枝が作り出した栗東留学の申し子とでも言うべき存在であった。また馬だけではなく騎手についても当時自厩舎に所属していた国分優作を2010年11月より12月まで栗東に滞在させていた[注釈 16]。
現在では、重賞競走に出走するような有力馬以外の新馬や下級条件馬でも「京都・阪神での出走」を名目に馬を栗東に一定期間滞在させてトレーニングを積ませる厩舍も現れており、現在では、美浦所属の厩舎群の低迷からの脱出の鍵として「いかに栗東の坂路を利用して関東馬を鍛えるか」が話題・トピックになるという、もはや美浦トレセンの存在意義にも関わる一面すら窺える現状になっている。実際、「栗東留学」を実践している調教師に対しては「美浦トレセンの価値を自ら貶めている」という冷ややかな見方も存在する[8]が、後述するような美浦トレセンの「不良資産」化傾向がとどまるところを知らぬ以上、重賞戦線に顔を出せる様な上位中位の調教師でも自厩舎存続の為にはもはや美浦トレセンの体面などに構ってはいられないというのが実情である。
逆に栗東所属馬の東日本地区の競馬場での出走に際しては、栗東で最終調整まで済ませてレース直前に直接輸送して出走させる、いわゆる「直前輸送」のノウハウが1980年代には確立されており、現在はもっぱらこの手法が用いられている。このため、栗東所属馬が美浦のトレーニング施設を利用するのは、海外レースへの出走に伴う美浦トレーニングセンター内の検疫厩舍への入厩や、東京・中山競馬場への直前輸送の手続き忘れ[注釈 17]や、直前の長距離輸送で出走させても成績が上がらない馬であるためレース当日の近距離輸送で東日本の競馬場に出走させたいなど、やむを得ず美浦を利用する必要がある事情が発生した際を例外とすれば、現在ではほとんど見られない。ただ「栗東留学」の逆に当たる「美浦留学」という言葉が全くないわけではなく、森秀行のように馬に良かれと判断すれば所属馬を積極的に美浦に滞在させる調教師も一部に存在する[9]が、「栗東留学」に比べればごく少数であり、また根本的なところで、「栗東留学」の場合には栗東トレセンの施設を利用して美浦トレセンの施設では得られない競走馬の強化を行うというどちらかといえば必要に迫られた目的であるのに対して、「美浦留学」では栗東トレセンの施設での強化のメリットと関東圏の競馬場への長距離の前日輸送のデメリットを天秤に掛けた結果として美浦滞在を選択しているという点で、東西間には根本的な相違や余裕の有無がある。
このような馬の動きを見ても分かる通り、現在でも美浦の調教施設の設備全般について、栗東と比較すれば質的な面で数段劣っていると痛感している美浦の厩舎関係者は数多く、「美浦所属厩舎・調教師の成績不振の責を問うならば、その前にまず美浦トレセンの施設・坂路の質を栗東トレセンと同等の水準のものに引き上げるべき」という旨の主張を訴え続けている者も少なくない[10]。
なお関東馬を栗東に滞在させるという事自体は、古くは栗東が開場した翌年の1970年に桜花賞馬のタマミで行われており、クイーンカップに勝利した後から桜花賞終了まで栗東に滞在させた。この時、厩務員の蛯名幸作もタマミの状態を見るために一緒に滞在していた[11]。当時は東西厩舎間のパワーバランスも大きく異なり、「栗東留学」と言う概念も無かったものの、これが関東馬の栗東滞在の第1号とされる。
「不良資産」化
上述した「栗東留学」による競走馬育成のノウハウの蓄積が管理馬の強化や成績向上に結びついた厩舎を中心に、近年は西日本の競馬場の重賞・特別競走での関東馬の健闘も見られる様になるなど、一部の厩舎を見る限り最悪の時期に比べれば改善の兆しが見えてきた事は事実である。だが全体を見渡せば栗東トレーニングセンターに対する圧倒的な劣勢と競馬シーンにおいて美浦トレセンそのものの存在感が希薄な現状にさしたる変化は無い。
この様な事もあり、美浦の厩舎でデビューさせた後、当初の期待以上の能力を見せた馬について馬主が「馬主都合」という理由で引き揚げて栗東の厩舎へと転厩させるケースが増加している[注釈 18]。また、大手・中堅馬主の中でも特に、会員(出資者)への還元率向上や自法人の競馬ファンへの知名度向上による会員増加を目的に、獲得賞金額や重賞レース勝利実績をビジネスライクに徹底的に追求する愛馬会法人の多くが、新馬についてまず高額の期待馬から栗東の厩舎に預託してゆき、その残り物やあるいは育成段階で脚元不安などを起こし栗東の厩舎が受け入れを断った様な馬などを美浦に回している実情が見られる。さらには、愛馬会法人の所有馬に出資している「一口馬主」の中には、自身が出資した馬について美浦トレセン所属の厩舎への所属が決定した、あるいは転厩になった事などをきっかけに愛馬会法人に対して不満を抱き手を引く者さえ見られるため[12]、もはや愛馬会法人の側にとっても所有馬を美浦の厩舎に預けることが困難になっている一面がある。
他方、数多くの有力馬を抱える栗東のリーディング上・中位層の厩舎ではクラシックや芝重賞路線で所属馬の使い分けができる程の余裕があり、特に牡馬クラシック路線は3歳春シーズンまでのGI競走が全て関東圏で施行されることから積極的に関東圏の競走へと直前輸送で出走させるケースが多く、関東圏の2-3歳戦が関西馬の草刈場と化しオープン・重賞競走の出走枠のほとんどを関西馬に独占されるシーズンも見られる。中には関西馬なのに3歳春シーズンまで関東圏でしか出走したことが無い馬もいる[注釈 19]。もっとも顕著な例としては2006年春季の牡馬クラシック路線があり、関東馬は上位クラスではさしたる有力馬も現れることない事実上の壊滅状態で、日本ダービーにおいても出走枠を関西馬に悉く占められ、出走馬18頭中の関東馬は8番人気のジャリスコライトただ1頭のみという有様であった。
また、栗東トレセンのリーディング上中位の厩舎にあっては、有力な大手馬主や愛馬会法人などを中心にリーディング上位厩舎の限られた馬房や空き預託枠を巡って争奪戦が繰り広げられることもしばしば起きている。その中では厩舎側が受ける預託希望や出走依頼が飽和状態となり、下級条件馬や未勝利馬では「馬房が回ってこない」つまり、健康状態に問題無く自己条件ならば出走さえできればすぐに勝てる力量があるにもかかわらず、所属厩舎の馬房使用状況の都合で栗東トレセンに入厩させられず出走ができないという美浦の厩舎とは逆のケースもしばしば発生し、またこの様な下級馬を次々と放出する程に管理馬に数的・質的な余裕がある。この様な形で放出された馬を、美浦の厩舎が中途引き受けして出走させるケースも少なからず見られる様になっている[13]。その為、馬主・愛馬会法人の中には、美浦トレセンへ所有馬を入厩させる理由として、「馬の具合がいい時にスムーズに入退厩ができる[注釈 20]」ということを公言している者もいる程の状況であるなど[14]、もはや調教師の手腕や営業力の以前に「栗東トレセンの厩舎であるか否か」が重要視されている状況も垣間見られる。
オープン馬であっても、屈腱炎や喘鳴症など体調面で慢性的な問題を抱えて成績不振にあえぐ馬は栗東では放出対象にされることが多く、その後について美浦の厩舎が引き受けて復活を試みることは珍しいものではない[注釈 21]。
この様な相対的な競走馬のレベル低下・成績低迷・確保難により、関西馬に関東圏の重賞競走や上位クラスの特別競走での席巻を悉く許している状況下では当然ながらこれを原因とする東西間の厩舎関係者や騎手の収入格差も見られている。単に勝利数だけを見れば一時期よりも改善されてはきたものの重賞などの高額賞金レースのほとんどを関西馬に占められ、当然ながら獲得賞金の差も埋まっていない。また、その他にも景気動向による経済的都合などによる個人・法人の馬主の馬主業自体からの撤退や、馬主から支払われる預託料の滞納の増加という問題もある。馬主減少や預託料滞納の問題は美浦やJRAに限ったものではなく競馬界全体に横たわる問題であるが、獲得賞金の低迷に苦しみ大手・中堅の馬主や愛馬会法人の逸走も目立つ美浦トレセン所属厩舍の経営にとってはより大きな打撃となっている。また、さらに根本的なところで管理馬の数やそれを預託する馬主とのコネクションの確保・維持をできず、さらに言えば管理馬数が割り当てられた馬房の数さえ下回ってしまうなど「空き馬房」の発生に悩む調教師も多い。
この様な過酷な現状に置かれている美浦トレセンでは、多くの調教師が70歳の定年まで厩舎を維持することができない状況になり、割り当てられた馬房を自主返上したり、さらには調教師免許を自主返上するか資産面の問題などから調教師免許の更新が困難な状態に陥り「勇退」し厩舍を解散する、すなわち調教師の厩舎経営の縮小や廃業が相次いでいる。この流れは2004年2月に佐藤征助が65歳で調教師免許を更新することなく厩舎を解散し「勇退」したことに始まり、2006年には富田一幸が50歳で、2008年には笹倉武久、内藤一雄が共に定年まで8年を残した62歳で免許を返上、さらに2009年2月には中野隆良など50代から60代の定年前の調教師が5名も免許更新せずに「勇退」、5月には斎藤宏が免許取得から僅か10年で「勇退」という状況になった。その後も同様の「調教師勇退」が散発的に発生している。これら調教師の「勇退」の事情には、単純に経済的なものだけとは言い切れないものもあるにせよ、名目上の理由は「健康上の都合」であっても内実としては「成績不振を原因とした事実上の経営破綻による廃業」「調教師免許の更新ができずに廃業」という内実である事を複数の競馬マスコミ関係者が事実上のこととして認めていたり、遠回しの表現であっても暗に示唆しているケースが存在している[15]。また岩城博俊の様に、比較的早い段階で厩舍経営を諦めた調教師が厩舍を解散して他の厩舍のスタッフとして再起を試みるというケースすら見られる様になった[16](ただし実際には調教師会・厩務員組合の猛烈な反発を受け、再起は限りなく困難な状況である[17])。2010年には、上述した2009年の調教師の「勇退」続出なども要因の1つとなって、美浦における厩舎経営の不安定さが露呈した事をきっかけに、従来は厩舎の開業資金や運転資金の融資を担ってきた大手金融機関にさえも美浦トレセン自体を不安視するものがあり、美浦所属の調教師への融資を渋ったりあるいは融資を引き上げているものが存在する状況下で、成績不振・資金難で「勇退」という選択肢を考えている少なからぬ調教師たちを、これ以上のトレセン・厩舎群へのイメージ低下や空き馬房の大量発生を防ぐべく、JRAも馬房返上による厩舎の縮小経営を認めるなどして懸命に引き留めているのが実情であるとも報じられている[18]。しかし、その後の2011年にも実に9名もの美浦トレセン所属の調教師が定年前に厩舎解散を決断して「勇退」している[19]など、状況の悪化に歯止めが掛からないのが実情である。
また、現在の美浦トレセンで発生している、システムで自動的に割り当てるべき調教師が存在しない馬房が数多く存在している「空き馬房問題」についても、2009年以降は調教師の馬房自主返上や「勇退」の続出の他にも調教師の死去による厩舎解散など、追い討ちとなる事態が発生する度に深刻なものとなっている。調教師は割り当てられた馬房数に応じて規定された人数の厩務員を雇用しなければならない規則である為、管理馬房の空きはそのまま余計な人件費に直結する一方で、JRAにとっても管理する厩舎の無い「空き馬房」の発生は厩務員のJRAという枠内での所属・雇用の問題にそのまま直結し、ひいては厩務員春闘などにも悪影響を及ぼしかねないものであるため、この「空き馬房問題」は発生する都度にJRAが事態収拾に追われることになっている。
これらの結果、厩舎経営にも優勝劣敗の法則を導入してトレセンの活性化を促すという発想で2004年に導入した「メリットシステム」については、美浦トレセンでは成績優秀調教師に対して加増する馬房について、調教師の定年・勇退による厩舎解散や自主的な返上で発生した返還馬房を原資とするシステムへの変更を迫られ、成績下位者からの馬房削減は当面の間は見合わせ[注釈 22]という事態になるなど、有名無実化の結果、大幅な方向修正を余儀なくされている[20]。
美浦所属厩舎群の低迷・衰退はトレーニングセンター内外にも影響が波及している。厩舎経営さえ青息吐息の現状では調教師に若い人材を育成できる経済的な余裕があるはずも無く、そもそも自厩舎に縁故の無い騎手候補生・見習騎手については調教師が自ら進んで引き受けよう、自分の手元で騎手として一人前にしようという意欲も乏しくなり、所属厩舍の決定を巡って難航する事が常態化している[21]。引受先が決まった場合でも、栗東に比べ有力馬・管理馬が少ない事等から、徹底的にふるいを掛けて選抜し、競馬学校で高額の費用を投じ、即戦力として育てられたはずの騎手たちが、満足に騎乗実績を得る事が出来ぬまま減量が切れてしまいそのまま低迷するというケースが少なくない。
顕著な例としては、競馬学校第16,17期卒業の2世代で美浦に所属した者からは、デビュー後10年を超えた現在もなお未だ平地重賞を勝利した騎手が出ていない[注釈 23]。また、裏開催や夏競馬、地方競馬場での下級条件の指定交流競走も含めて平地競走の乗鞍自体がまともに確保出来ず、とにかく騎乗機会と騎乗手当という収入を求めて障害競走に活動の比重を移す騎手が非常に多い事も昨今の風潮の1つと言える。また、管理馬不足や経済的事情など様々な要因が複合的に重なった結果、調教師がまだホースマンとしての生活基盤が確立できていない若手騎手の「師匠」「身元引受人」としての役割をまともに果たす事ができない事例も見られ、デビュー後比較的短期間のまだ見習騎手として実績も伴わない内に「フリー騎手」として競馬サークルに放り出される者も見られる様になっている[注釈 24]。
また、騎手と同じく競馬学校で養成される厩務員についても、候補生の出身地の比率は東西でおおよそ半々であるが、東日本出身者も含めて不振の美浦トレセンを忌避して栗東トレセンの厩舎への配属を希望する者が多いなど[22]、中央競馬の厩舎での仕事を目指す若者たちの間でも「競馬人として生き残る為にはとにかく最初に栗東トレセンに入ること」というコンセンサスが出来上がっている。結果として、栗東トレセンは厩務員が常時定数一杯の状況となり、栗東配属の希望者は必要な技量を満たしている者であっても入学自体を待たざるを得ない場合や、養成修了後も実際に配属されるまでに長期間待機せざるを得ない例があり、逆に数少ない美浦配属の志望者の中には、就労の年齢制限の都合からやむなく栗東から美浦へと志望先の変更を余儀なくされた様な者もいる[22][注釈 25]。他方では、栗東の厩舎関係者との縁故を得た事や様々な伝を利用して、美浦から栗東へと本拠地を移す、あるいは本拠地移動の可能性を模索する競馬関係者も現れている[注釈 26]様に、人材の西へという流れも起きているが、実際には厩舎制度や労働組合などの関係もあって東西トレセン間の枠を超える移籍は概して困難であり[注釈 27]、美浦ではトレセンそのものの先が見えない状況に嫌気を覚えて比較的若い年齢でJRAそのものに見切りをつけて離職する厩舎スタッフも少なくない[注釈 28]。
また、美浦トレセンで厩舎を新規開業する予定の新人調教師もその煽りを受ける格好になっている。かつて、美浦トレセンの各厩舎の経営が順調だった当時は、毎年2月に調教師免許試験の合格発表があり、合格すると調教師免許の交付を受けた後まずは技術調教師として1年間の研修の時間が与えられ、その間に他の調教師の下で厩舎経営のノウハウを学習したり、馬主や生産牧場を巡って人脈を作り管理馬の確保など厩舎の開業準備を図るのが通例であった[19]。しかし、調教師の定年前の「勇退」と厩舎解散が発生すると、JRAの厩舎制度上、解散した厩舎に所属していた馬房と厩務員は他の調教師が一時的に引き受けなければならなくなり、引き受ける側にとってもこれは大きな経済的負担となる。そのため、現状ではその期間の短縮の役目を新人調教師が背負わされる格好になっており、調教師免許取得後にまず技術調教師として1年間厩舎経営を勉強するという従来のプロセスが成り立たなくなり、調教師免許試験の合格発表は毎年12月に繰り上げられ、合格後は翌年3月の調教師免許交付・発効までの実質3か月弱で厩舎開業の準備を全て済ませなければならくなってしまった[19]。そのため、調教師試験に合格した者は、騎手や調教助手・厩務員の業務をこなしつつ、馬産地巡りや関係各所への挨拶回りをしなければならず、しかも、ただでさえ栗東トレセンと比べて遥かに馬を集めにくい美浦トレセンという悪条件下で厩舎の開業準備を全て済ませなければならない[19]など、体力・精神・経済のいずれにとっても厳しい状態になっている。
競馬ファンや競馬マスコミの間でも、当施設の関東馬が特に高額賞金の特別競走・重賞競走で総じて実績に劣り「弱い」ことは馬券予想においても至極当然の基礎知識となっている。トレーニングセンター間の序列としても「栗東の下の美浦」というイメージが固定化しており、栗東と美浦を比較して、プロ野球における「一軍と二軍」の関係に例えられることもある[22]。また実際、関東圏の予想家・競馬ファンの間では関西馬であることが馬券検討の際に重要な購入ファクターとなっている。
野元賢一が「今や美浦は、不良資産化の道を突き進もうとしている」[23]、東京スポーツの記者が「“関西の下請け化”」と酷評している様に[13]、当施設についてはこの惨憺たる現実を覆すことすらもはやままならない状況となっている。
なおJRAは2012年9月から、平地未勝利戦・古馬500万条件戦において関東・関西それぞれのブロックの所属馬を優先的に出走させる「自ブロック優先制度」を開始した。これにより、当該条件の関西馬はフルゲート割れしない限り関東のレースに出走できなくなったため、美浦所属馬の勝つチャンスが増えることが期待されている。ただしこの制度については「世界を相手にしなければいけない時代に、狭い日本でなんでこんな規制をかけるのか」など、主に栗東の調教師から批判も多いほか[24]、当の美浦の調教師からも「関東で出馬ラッシュになったときの逃げ場がなくなる」「小倉開催時に遠征させる馬がいなくなる」などといった問題の声が上がっている[25]。
主な厩舎および活躍馬
北
南
所属騎手
現役騎手
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その他
- 2004年11月にJリーグ百年構想に沿いJリーグ・鹿島アントラーズとの提携でアントラーズサッカークリニック・美浦校を新設することになり、2005年春開校した。
- 当施設で大量に発生する馬糞を堆肥として使用する、マッシュルームの栽培が近隣地域では盛んである。
- 日本国有鉄道土浦自動車営業所(国鉄バス土浦営業所)は、当施設の開業時に記念乗車券を発売した。
交通
- 土浦駅からJRバス関東の路線バス江戸崎行きに乗車、「美浦トレセン前」下車。一部不経由。
- かつては東京駅から江戸崎行きの高速バスが運行されていたが、2011年3月31日限りで廃止された(運行当時は、「美浦トレーニングセンター」にて下車)。
脚注
注釈
参考文献
- JRA競馬博物館秋季特別展示『強い馬作りの拠点 トレーニング・センター展』(財団法人 馬事文化財団、2009年)
関連項目
外部リンク
テンプレート:ウィキ座標2段度分秒- ↑ 1.0 1.1 1.2 『トレーニング・センター展』p.7
- ↑ 『トレーニング・センター展』p.8
- ↑ 競馬界も格差社会? - チアキのトレセン便り
- ↑ 栗東留学効果!東の強力カード/マイルCS(スポーツニッポン 2008年11月19日)
- ↑ アパパネ母の無念晴らすV/阪神JF 日刊スポーツ 2009年12月14日)
- ↑ 【阪神JF】G1でも高い効果発揮“栗東留学”(スポーツニッポン 2009年12月12日)
- ↑ 【桜花賞】アパパネで結実!蛯名&国枝師、悲願V(スポーツニッポン 2010年4月12日)
- ↑ 競馬界「西高東低」に一石 JRA調教師・小島茂之(上)(日本経済新聞 2010年3月23日)
- ↑ 【セントライト記念】美浦から菊奪取ペトラ - ウマニティ・2009年9月16日
- ↑ 国枝栄調教師 Part2 東西格差は坂路の差 netkeiba.com
- ↑ 定年を前に…42年ぶり最後の桜 蛯名幸作厩務員/桜花賞
- ↑ ラフィアンへの出資中止: ラフィアン一口馬主 雑文的日記
- ↑ 13.0 13.1 今週も転厩馬で荒稼ぎ:トレセン発㊙話(東京スポーツ新聞社 2011年04月28日)
- ↑ 近況です:タテジマくんの一口日記
- ↑ 笹倉師 “経営難”で廃業 調教師の世界でも格差問題
- ↑ 岩城師、調教助手に転身「馬が好き」(サンケイスポーツ 2009年2月13日)
- ↑ 『競馬最強の法則』(KKベストセラーズ)2009年6月号・p.143
- ↑ 『競馬最強の法則』(KKベストセラーズ)2010年4月号・p.145
- ↑ 19.0 19.1 19.2 19.3 30歳で合格の黒岩新調教師 まずは馬集め(日刊スポーツ 2012年1月31日)
- ↑ 3・1から自己申告制「定期馬房貸し付け方法」(競馬)(スポーツニッポン 2009年12月29日)
- ↑ 【若手騎手なぜ伸びぬ 2】見習い騎手嫌がる厩舎
- ↑ 22.0 22.1 22.2 ほころび見えた二元開催体制 - サラブネット 2009年2月16日
- ↑ 固定化した東西格差――不良資産と化した"美浦"
- ↑ 時代に逆行!?自ブロック優先制度 - 東京スポーツ・2012年9月5日
- ↑ “ブロック制度”採用でどう変わるか - 馬三郎・2012年9月2日
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