鉄道と政治
テンプレート:複数の問題 鉄道と政治(てつどうとせいじ) 本項では日本における鉄道に関する政治的な介入などの事例を紹介する。
目次
政治介入の例
改軌論争
明治後期から大正にかけて、政界では鉄道のレール幅を現行の狭軌(1067mm) か世界標準軌(1435mm) にするかで論争が繰り返されていた。全線を標準軌に改軌し幹線に全国に大型で高速で走れる列車を導入したい(=「改主建従」)鉄道院派と、早く地方に鉄道を通し日本全国をつなげていきたい(=「建主改従」)地方議員派に分かれていた。「我田引水」をもじった「我田引鉄」という言葉は、この頃の論争が由来であるといわれている [1]。この時期に造られたトンネルには政変によって工期途中で規格が変わった遺構がみられる。結局、その後の鉄道敷設は都市部の一部私鉄を除いて狭軌によって行われることになる。
昭和に入ると日中戦争などの輸送力増強が目的で、東海道本線・山陽本線の線路増設計画が持ち上がった。しかし軍の希望は更なる高速化であったため、標準軌による新線建設案が出された。これを弾丸列車計画と名づけ予算を計上し計画チームを立ち上げた。戦争激化と敗戦による計画凍結や停滞があったものの、戦後新幹線プロジェクトとして再生し、国鉄の標準軌鉄道として結実する。
日本の改軌論争も参照。
我田引鉄
「我田引鉄」と呼ばれる行為は戦前からしばしば問題視され、現在でも新線計画や新駅設置を巡ってその様な事が話題に上る事がある。
特に戦前はまだ自動車が世間一般に広まっていた訳ではなく、専ら鉄道が陸上交通の要であったため、その経路に選ばれるかどうか、駅が設置されるか否かが地域の盛衰を直接左右する生命線になった[2]。このため、衆議院選挙の度に政党(特に立憲政友会)によって地域への鉄道敷設と引換にその地域の票を獲得しようとする工作が行われ、この集票手法は戦後まで継承される事になる。現在の高速道路・整備新幹線建設に関わる政治問題の根本と言われることもある。また、大都市周辺の地下鉄の郊外延伸線構想などを巡っては、現在でも政治家が選挙などの際に持ち出す事が少なくない。
- 山田線
- 大船渡線陸中門崎駅 - 千厩駅間(通称「鍋弦線」)
- 四角形の三辺を選んで大回りする様なルートで、建設当時の選挙の結果と政治事情に振り回された「我田引鉄」の典型として有名。大船渡線を参照。
- 北越急行ほくほく線
- 中央本線岡谷駅 - 辰野駅 - 塩尻駅間(通称「大八廻り」)
- 山陰本線滝部駅・特牛駅
- 日本海岸沿いに敷設される予定であった本線だが、地域の要望や予算等によってルートが変更され、現在地にこの2駅が設けられたとも言われているテンプレート:誰。
停車駅争奪戦
- 高崎線深谷駅
- 北陸本線大聖寺駅・作見駅(現加賀温泉駅)・動橋駅
- 加賀温泉郷(山中温泉・山代温泉・片山津温泉・粟津温泉)の入り口である大聖寺駅と動橋駅では、北陸本線初の特急列車「白鳥」が設定されたときから、地元行政や住民、各温泉の観光協会などの団体の間で特急停車を巡る争奪戦が繰り広げられてきた。当初は、上下列車をお互いの駅に分けて停車させるなどといった方法で妥協していたが、特急が増発されるたびに同じような揉め事が繰り返された。さらに1960年代末期には特急「雷鳥」・「しらさぎ」が大聖寺駅と動橋駅の両駅に停車し、特急でありながら金津駅(現・芦原温泉駅)から小松駅までの4駅間を1~2駅ごとに停車するダイヤ(俗語で言うところの『隔駅停車』状態)とされていたことが特急の格やスピードアップの観点から問題視されたことから、1970年に国鉄は両駅の中間に位置し、それまで普通列車しか停車しないローカル駅であった作見駅を「加賀温泉駅」と改称し、この駅に特急停車を集約し各温泉地へはこの駅からバス路線を開設して、大聖寺・動橋の両駅は特急通過駅とすることで解決させた[7]。なお、この当時の特急列車には文字通り「特別な急行列車」という意味があり、停車駅をできるだけ絞るようにすることが求められていたため、現在の琵琶湖線を走るびわこエクスプレスなどのように連続停車させるという発想自体が存在しない時代であったため、加賀温泉駅への改称直前に前述の特急が両駅に連続停車していたことは当時の常識から見ると異例中の異例だったのである。
- また、この特急列車の停車駅移動は、大聖寺駅と動橋駅を国鉄線との接続駅にしていた北陸鉄道加南線に大打撃を与え、その廃線の一因ともなり、結局は地域の公共交通に大きなダメージを与えることにもつながった。
- 山陰本線豊岡駅・城崎駅(現城崎温泉駅)
- ここも山陰本線初の特急列車「まつかぜ」が設定されたときから、特急停車を巡って揉め事を起こしていた。「まつかぜ」は当初上り下りで停車駅を変える方式とし、後には上下とも宮津線の連絡駅である豊岡駅停車としたが、同時に運転を開始した「やくも」を豊岡駅通過・城崎駅停車とすることなどでバランスをとっていた。その後特急の大衆化が進むにつれて、停車駅の間隔が大きな問題ではなくなったことから、1970年代になると特急が豊岡駅・城崎駅の両方に停車するようになり、この問題は収束した。
- なお山陰本線の同地区においては、他にも駅間が近接しており特急「まつかぜ」が通過していた和田山駅・八鹿駅・江原駅の3駅間においても特急「あさしお」・「はまかぜ」の両列車が選択停車を行う措置が取られていたことがあったが、2000年前後には選択停車の措置がなくなりいずれの駅も全ての特急が停車することとなった。
- 山陰本線東萩駅・萩駅
- 土讃線西佐川駅・佐川駅
- 身延線内船駅
- 1995年に「ふじかわ」が特急化される際に所要時間短縮を目的とした停車駅の整理が行われ、身延駅以北については速達便以外はほぼ現状維持なのに対しそれ以南については途中停車駅を清水駅・富士駅・富士宮駅に絞り、その他の急行停車駅は特急化の際は全列車通過が検討されていた。しかし山梨県内で唯一全通過とされた内船駅のある南部町と町営バスで接続していた富沢町がそれを知るや通過反対運動を展開[8]。当時の小沢介三南部町長が東海旅客鉄道に出向き停車の陳情を行うなどした結果、方針を改め内船駅についても速達便を除き停車することになった。その後内船駅は1999年に無人化されたが停車は維持され、2006年のダイヤ改正で停車駅の整理が行われた際全列車が停車となった[9]。なお、南部町と富沢町は2003年に合併し南部町(新)となっている。
- 東海道本線(JR神戸線)芦屋駅・西ノ宮駅(現西宮駅)
- 外房線鎌取駅・誉田駅・土気駅
- 千葉市(1992年に政令指定都市化により緑区)内の駅では、特急列車「わかしお」の停車駅を巡って揉め事を起こしていた。「わかしお」は、1990年代前半まで一番乗降客数の多かった誉田駅にのみ一部の列車が停車していた。しかし2000年代までに住宅開発が進んだ鎌取駅や土気駅の乗降客数が誉田駅の乗降客数を大きく上回ったが、特急停車駅は旧態依然のままだった。このことに鎌取駅や土気駅の利用者から不満が噴出し、鎌取や土気地区出身の市議会議員などは、誉田駅の特急停車を止め、鎌取か土気停車に変更するようにとJR東日本に要望を出すまでになった。2002年のダイヤ改正では内房線の「さざなみ」のように列車によって誉田駅もしくは土気駅と停車駅を変える方式になり、更に2005年のダイヤ改正からは土気駅一部停車に統一された。
- 京浜急行電鉄京急蒲田駅
- 東武鉄道伊勢崎線・日光線・東上線
- 東海道本線(琵琶湖線)南草津駅
- 南草津駅は1994年に開業した琵琶湖線でもっとも新しい駅であるが、開業と前後して区画整理が進んだことや、パナソニックグループなどの工場群への通勤客に加えて立命館大学の進出もあり乗客が急増。2008年の利用者数は滋賀県内では新快速停車駅の草津駅、石山駅に次いで3位となっていた(滋賀県庁最寄りの大津駅よりも多く、滋賀県内の乗り換え路線がない駅では最多)。しかし日中は普通(高槻駅 - 明石駅間快速)が毎時4本止まるだけで、不便に感じていた地元から新快速停車の要望が高まり、2008年3月には南草津駅への新快速停車を公約に掲げた橋川渉が草津市長に当選。2009年12月2日には、2011年春のダイヤ改正での南草津駅への新快速停車を目標に「南草津駅新快速停車促進期成同盟会」が設立された。そして多数の署名を集めJR西日本にかけあったところ、2010年12月に「2011年3月12日ダイヤ改正より新快速が終日停車」と発表された。その後も利用客数は増加し、2011年には石山駅を抜いて県内第2位となっている[10]。
- そのほか、京急本線青物横丁駅の特急停車も政治家の力が働いたといわれている[11]が、真相は定かではない。
駅名
- 山陽新幹線・山陽本線・山口線・宇部線新山口駅
- 新山口駅が小郡駅からの駅名改称に至るまでには、半世紀にわたる旧山口市と旧小郡町の紛争があった。
- 山陽鉄道が現山陽本線を敷設するときに、大内氏の城下町であった旧山口市を通す予定であったが旧山口市が拒否した(#鉄道忌避伝説も参照のこと)ので山陽道小郡宿を通るルートに変更されたのが事の発端であった。小郡宿には機関区を併設した拠点駅が設置され、最急行列車の停車駅として繁栄した。この間違いに気づいた旧山口市は1913年に何とか山口線の誘致に成功したが、本線から外れていたためか町の発展は見られなかった。そこで、旧小郡町を合併してでも「小郡駅」の駅名に「山口」の文字を入れさせようとしていたのである。その思いは山陽新幹線開通により小郡駅がその停車駅となったことで、さらに強まったと言われる。そこへ降って沸いた中央の合併促進政策で旧山口市・防府市・吉敷郡が対等合併して、かねてから抱いていた旧山口市の「大山口市構想」が成就することになり、JR西日本へ徳山市(現・周南市)とともに「のぞみ」停車を持ちかけて駅名改称となった、といわれているテンプレート:誰。
- なお、2005年10月1日に旧山口市と吉敷郡・佐波郡の4町が合併して、新市名は「山口市」となり、新市役所を旧小郡町に建設することが決定している(防府市は合併からは離脱)。
- 上越新幹線燕三条駅
- 上越新幹線と弥彦線が交叉する地点に駅を設置することが決まったとき、予定地が三条市と燕市の境界線上にまたがる場所となった。このため、その駅名を巡り両市行政の間で「新三条」「新燕」「燕三条」「三条燕」など複数の案が飛び交う駅名争奪戦の様相を呈し、紛糾を極めることとなった。また、その結果として両市名を付けた駅名にすると国鉄が決定した際にも、今度は「燕三条」と「三条燕」のどちらを頭に持ってくるかでまた紛糾し、双方の自治体や住民団体により県庁や国鉄本社への陳情合戦などまで行われた。結局は田中角栄らの仲裁により、駅名は燕を先にした「燕三条」とし、駅長室を三条市側に配置して登記上の所在地を「三条市」とすることで最終的に決着させた。当時、三条市の国政選挙区は田中が地盤とする「新潟3区」で、一方の燕市は「新潟1区」であった。このことから駅名決定の経緯については政治的な意図も囁かれたが、真相は定かではない。
- なお、近隣に所在する北陸自動車道のインターチェンジおよび併設される高速バス停留所は、所在地が燕市であるにもかかわらず、その名称が「三条燕」となっている。
また、現在では新幹線駅などと同様に、高速道路のインターチェンジでも、開通・設置の際にその名称を巡って同様の名称争奪戦が発生する事が少なからず見られ[12]、最終的に妥協案として近隣自治体名を繋げた名称となるものも少なからず見られている。また、大都市圏の地下鉄などの駅名を巡っても、同様の事態が発生する事がある。
鉄道忌避伝説
テンプレート:複数の問題 鉄道創成期に線路を敷設する際、様々な理由で住民が線路を市街地に通すのに反対したため、鉄道が従来から存在していた町の存在を無視するようなルートになったり、鉄道の線路や駅が市街地や村落の中心部から離れた場所に設置されてしまった……などという話が全国各地に残されている。しかし、その例として挙げられるもののほとんどが、新聞、署名、沿線住民の日記などといった当時の文献では、むしろ誘致運動があったことは確認できても反対運動が確認できないことから、青木栄一などの鉄道史研究者からは「都市伝説」として扱われている。
鉄道忌避があった例として唯一検証できるとされているのは日本における最初の鉄道開業区間の一部である新橋駅—品川駅間においてである。大久保利通をはじめとする薩摩藩などの反対により、用地買収の不要な当時海中であった土地に鉄道を通している。とはいえ、その大久保も鉄道に試乗して「まさに百聞は一見に如かず。愉快に耐えず。鉄道の発展なくして国家の発展はありえない」と日記に綴っている。 その薩摩藩も1866年(慶応2年)に藩士五代才助をヨーロッパに留学させており、五代は同年12月の帰国に際して知己となったベルギー人の実業家シャルル・ド・モンブランに書簡を送ったが、その中には鉄道建設計画に関することが含まれていた[13]。
鉄道建設用地の確保に際して、農民に対しては補償金や代替地で対応した。しかし、旧東海道沿道の宿泊業者と前近代的な陸運業者(駕籠屋、馬子など)や、京都から大阪の淀川沿いの水運業者は鉄道の開通によりその職を失うため、彼らによる鉄道建設反対運動は激しいものとなり、測量や工事の妨害、通信用ケーブルの切断など実力行使を伴う反対運動も繰り広げられた[14]。
一方で仙台市では「鉄道忌避」とは逆に「街中心部に線路を通さなければ伊達政宗公以来の仙台は滅ぶ」と、地元側の猛烈な誘致活動の末、当初ルート(現在の宮城野貨物線ルート)を変更して現在地に仙台駅が設置された[15][16][17][18](似たような事例が後の東海道新幹線における京都駅でも起こっている(詳しくは後述))。
新幹線と政治
新幹線の路線や駅の建設についても、その時々の政治家の腕力に左右された事が多かったと見られている。そのため、新幹線の駅ができた場合でも、周辺が殆ど整備されないまま放置されている例も存在する。これらの背景には、新幹線の開業は沿線に大きな利害をもたらすため、地元住民の賛否両論が建設前から噴出するためといわれる。また新幹線の建設費に関しても疑惑が存在する(後述)。
一般に政治家の影響を受けたと評される路線・駅を列挙する。
貨物新幹線計画
東海道新幹線の建設費を捻出するため、国鉄は世界銀行から8000万ドル(当時は1ドル=360円の固定相場制)の融資を受けているが、これと平行して、東京-大阪間を5時間半で結ぶ「貨物新幹線」の運行構想が計画当初から存在した[19]。しかしインフレの影響で費用が当初の二倍近くに膨れ上がったことを理由に、国鉄は用地の買収と一部の工事を実施した後計画自体を断念した[20]。
これに関しては、世界銀行から資金を調達する際、貨物が鉄道輸送の主力となっていたアメリカの理解を得るためのダミー構想であり、最初から貨物輸送を行う予定はなかったとの疑惑がある。なお計画立案者の石井幸孝は疑惑を否定している[20]。
中山道ルートと岐阜羽島駅(東海道新幹線)
戦前の新幹線建設計画である通称「弾丸列車計画」が浮上した際、名古屋 - 大阪間を当初は関西本線に沿いながら鈴鹿山脈を越えて、滋賀県野洲市の三上山(近江富士)近傍で東海道本線の野洲駅に再び沿うルートで計画されていたものの[21][22]、後に工期や技術の問題で米原経由[23]やテンプレート:要出典範囲ルートを検討するようになった。
戦後の東海道新幹線建設計画においても、再び鈴鹿山脈越えルートが検討されていたが、鈴鹿峠を挟んでの三重県側と滋賀県側との高低差が大きく、それを緩和するためには鈴鹿山脈に20kmを超える長大トンネルを掘削する事が必要となり、それが大きな技術的障害や建設コスト的にも問題になる事や、世界銀行からの融資条件である『1964年東京オリンピック開催までに開業する』という工期の制約などがあり、結局は在来線同様の中山道ルート(関ヶ原経由)に落ち着くと共に、北陸方面との連絡の利便を図るべく米原駅の設置が決定した。
そして、関ヶ原付近の降雪に伴う雪害対策としての退避施設[24]として、及び地域バランスを取る形で岐阜県内への新幹線駅設置の動きに至ったものの、岐阜県側は県都・岐阜市の岐阜駅に新幹線駅を併設させる願望を描いていた。産経新聞刊の『戦後史開封』(ISBN 459402694X)によると、その岐阜県の要望に対して国鉄側は、予定ルートよりも線路を大幅に北側へ迂回する必要があり、建設予算や名古屋駅以西の区間の所要時間が伸びる関係上、難色を示した[25]。これに岐阜県や地元自治体側は激しく反発し、一時、国鉄は岐阜県内での測量が出来ない状態に陥った。この為、国鉄が地元選出の当時の有力国会議員であった大野伴睦に斡旋を依頼し、新幹線路線を迂回させる必要がない羽島市内に岐阜羽島駅を設置することで妥協案を成立させるというのが用意された筋書きである[25]。
実際は、1958年(昭和33年) - 1959年(昭和34年)に国鉄は岐阜県内の駅設置の必要性を認識して計画を進めていた。乗客の利便ではなく列車運行上の都合(ひかりがこだまを追い抜くための待避駅としてなど)で、名古屋駅近くにもう1駅が必要であった。岐阜県知事が要請した大野と国鉄との交渉の際、国鉄は駅を作ることをあえて伏せ、「一駅作るなら地元を説得しよう」と大野にいわせて顔を立て、羽島市内に駅を設置することで妥協案が成立したように見せかけたのである。
なお、岐阜羽島駅前には大野夫妻の功績を顕彰する銅像が建てられている。
南びわ湖駅(東海道新幹線)
京都駅(東海道新幹線)
「弾丸列車計画」の頃から京都市内の新駅設置計画は複数の案が考えられていた[26][27]が、東海道新幹線計画の頃に於いても、大阪への最短ルートを優先させるため、また昔から地価の高い京都市の中心部を避けるために、敢えて京都駅を経由させずに京都府南部付近を短絡させて[28]、「超特急(当時の呼称)」も京都駅最寄りの新駅を通過させる案が考えられており、これが有力視されていた。
それが発表されるや否や、当時の京都市議会や地元財界に市民などが、都心部への利便性の悪化や街の衰退に発展する事への懸念、ならびに国際的な観光都市である事に加えて、東京奠都までの日本の首都であった自負の大きさもあって猛反発し、京都駅への新幹線ホームの設置並びに「超特急」の全列車を停車させる事を当時の国鉄に迫り、結局は国鉄側が全面的に折れる形で決着、開業を迎える事になった[29]。
なお、1992年に「のぞみ」が設定された当初、名古屋駅・京都駅通過列車が1日下り1本(「のぞみ301号」)のみ存在していた事に対し、中京圏では名古屋飛ばし騒動が発生したが、「線路そのものの」京都駅飛ばし騒動を体験した京都では、名古屋とは違って抗議の動きは皆無であった[30][31]。
社団法人京都経済同友会ホームページ内 提言・レポート一覧[1][2]に当時の問題を取り上げた題目がある。
なお、2014年現在、中央新幹線の建設について奈良経由の予定を京都駅経由に変えるよう京都府等が活動しているが、JR東海や政府は否定的な考えを示している[29]。奈良経由での計画策定には当時の新谷寅三郎運輸大臣の功績が大きいとされる[32][33]。
相生駅(山陽新幹線)
西明石駅同様、相生駅は当初山陽新幹線で予定されていた「夜行新幹線運転構想」に備えて(線路保守のために夜間は低速の単線運転とするため、適当な間隔で交換駅が必要)設置された[34]。
新岩国駅(山陽新幹線)
岐阜羽島駅と同じく運用上の配慮から30km〜40km間隔[35]での駅配置が図られた結果、広島駅と徳山駅の中間に当たる位置に新岩国駅が設置された[36]。
那須塩原駅(東北新幹線)
北陸新幹線と安中榛名駅
整備新幹線として指定された路線のうち、北陸新幹線に関しては当初、部分的にミニ新幹線やスーパー特急方式を採用しての建設が予定されていたが、並行在来線問題や費用負担問題などを抱える沿線自治体などから納得いかないとして反対運動が起こり、結局高崎駅〜長野駅〜金沢駅間に関しては全線がフル規格で建設される事になった。
また1997年に長野駅までが暫定開業した際は、北陸地方にはまだ達しておらず利用者の混乱の元になるとして、別の通称を用いる事にしていた。しかし「長野新幹線」とした場合、北陸地方の者に長野で打ち切りにされるという印象を与えてしまうとJR東日本は考え、「長野行新幹線」という名称を当初は用いることになった。だがほとんど定着せず、更に「長野新幹線」の呼称が当初から混合されて用いられたこと、北陸地方への延伸も決定してそのような配慮を行う必要もなくなったことから、間もなく「長野新幹線」に正式通称が統一された。長野新幹線の記事も参照のこと。
他方で、在来線沿線でも新幹線ルートから外れた場所に位置する長野県小諸市は、地元の小諸駅について東京直通の優等列車の停車が無くなり第三セクターのローカル駅に転落する事などを恐れ、建設構想の段階では行政と観光などの諸団体が一致結束してフル規格化に反対し続け、小諸駅が停車駅となるミニ新幹線案を強硬に主張し、関連省庁への請願などを繰り広げた。しかし、それはかなわず、しかも小諸市を避けたルート(佐久市経由)で、フル規格での建設が正式決定された。
小諸市側は佐久市内に新設される新幹線駅(佐久平駅)の駅名を巡って「小諸佐久駅」という駅名とする事を求めて論争を引き起こしたが、結局、新幹線の駅名に「小諸」を入れる事にも失敗している。新幹線誘致に失敗した小諸市とは対照的に、佐久市では佐久平駅を中心に大型商業施設のオープンが相次いでいる。
なお、敦賀駅以西の区間に関しては複数の案が考えられているが、それぞれ一長一短を抱えている計画で長らく検討が続けられており、未だ結論には至っていない。また、現在建設が進められている区間についても、国側と新潟県側でいさかいがある(建設負担金及び上越妙高駅停車設定本数など。これらの詳細は北陸新幹線の記事を参照のこと。
また同新幹線の安中榛名駅も、現在はJR東日本による施工を中心に住宅開発(びゅうヴェルジェ安中榛名)が進みつつあるが、開業当初は駅前に見える建造物がほとんどなく、秘境駅の一つにすら挙げられていた。
白山駅(北陸新幹線)
九州新幹線と筑後船小屋駅
九州新幹線鹿児島ルートのうち新八代駅 - 鹿児島中央駅間が先行して飛び地開業したのは、鹿児島本線で需要の高い博多駅 - 熊本駅間に先に新幹線を作れば、採算性に疑問のある熊本駅以南の建設が行なわれるかどうか分からないとの判断のもとで行われた、鹿児島県側からの働きかけによる[37]。また、鹿児島本線の八代駅 - 鹿児島駅間は大半が単線で、線路が海岸線に沿って敷かれており線形が劣悪で、高速運転化には抜本的な改良が必要であった。歴史的にも川内駅(薩摩川内市)経由のルートは現肥薩線経由で鹿児島本線を全通させた後で改めて敷設しなければならなかったほどの難所である。
一方で鹿児島ルートにある筑後船小屋駅は、それまでの船小屋駅を約500メートル南に移設し開業したが、移設前の船小屋駅は、駅周辺に小さな温泉街と公園があるだけの無人駅であった(同じく新幹線駅となる久留米駅までの所要時間は各駅停車で約15分程度)。一説には自由民主党幹事長を務めた古賀誠による影響が大きいとされ、「政治駅」的設置として一部週刊誌では報道されている[38]。また船小屋駅は各駅停車のみ停車する駅であったが、筑後船小屋駅は開業後、在来線の快速列車が全停車する駅となった。
なお、新鳥栖駅 - 武雄温泉駅(仮称) - 長崎駅間のいわゆる「九州新幹線長崎ルート」(西九州新幹線とも呼ばれる)に関しては、着工認可の条件とされる『並行在来線沿線自治体すべての着工同意』に対して鹿島市などの複数の沿線自治体が不同意を貫いていたが、並行在来線をそのままJR九州が運営・運行することで合意にいたり、2008年にようやく着工となった。
リニア実験線
超電導リニアによる磁気浮上式リニアモーターカーの実験線が長大なトンネルをうがって建設されているのは、設置場所の選定当時の有力政治家であった金丸信の地元山梨県である。実験線建設地選定にあたっては、当初は札幌‐新千歳空港間が最有力視されていたので、これも政治介入の結果と言える。
しかし、これもトンネル区間が多い方が技術試験を行う実験線としては有効であり、また人口の比較的少ない山梨県でほとんどトンネルの区間を建設するだけならば、用地買収や騒音にまつわる問題や手間が少なくて済むという考え方がある。同線は将来、リニアモーターカーによる中央新幹線が開業した場合の予定線上に建設されている。トンネル断面も、仮にリニアモーターカー路線計画が頓挫した場合には大規模な再掘削を行わずに鉄軌道式の新幹線へと転用できるようにという配慮から、リニア車体に対して大き目のサイズで設計されている。
ただし、中央新幹線の完成線のルートについては、JR東海側は南アルプスをトンネルで直進・縦断するルートを基本的に計画しているものの、長野県と中央本線沿いの地方自治体は既存の中央本線に沿って南アルプスを北方に迂回する伊那谷経由のルートによる路線敷設と県内への複数の駅設置を熱望して対立し、JRの計画線上にある飯田市などの下伊那郡の自治体と、長野県の構想線上に位置し駅設置を主張する諏訪地域(諏訪市など)・上伊那郡の自治体もまた路線誘致で争う状態が見られた。他方では、この問題について伊那谷経由を主張する長野県庁や当時の同県知事である村井仁の態度・主張が余りにも頑なであった事などから、噂程度のものとはしながらも、「JR東海が長野県を忌避して、山梨県から南下し南側の静岡県を通過して愛知県に至るルートを採る可能性」、すなわち、いわゆる鉄道忌避とは逆に「鉄道側が地方政治を忌避してルートを選ぶ可能性」について、一時はマスコミが言及する状況も見られた[39]。
新幹線と沿線の住民・地方行政をめぐる諸問題
テンプレート:独自研究 新幹線の建設ルートから外され「疲弊した地方」の象徴的な存在といえるのが先述の長野県小諸市のほか、鹿児島県阿久根市が挙げられる[40]。また、新幹線ルート上にあっても駅が設置されなかった自治体では、地域の発展から自らの自治体が取り残されることを恐れ、新幹線開通後にも地元への駅新設が市政における大きな課題となることが珍しくない[41]。
他方では、新幹線開業で大都市への交通が至便となった結果、地方から企業支店・出張所が撤退したり、若年層が流出していくストロー現象も生じつつある(この現象は高速道路の建設でも同様に発生している)。
近年の整備新幹線開業に際しては、並行在来線を第三セクター鉄道として地元負担で維持する必要も生じたが、大きなパイである拠点間輸送が新幹線に移行した結果、ローカル輸送頼みの並行在来線は経営基盤が脆弱化し、各地の地方自治体が多額の費用拠出を強いられるなどして対応に苦慮している。
また、福井県においては原子力行政と絡められ、原子力発電関連施設(もんじゅ)の運転再開への事実上の交換条件として、政府による「北陸新幹線の敦賀駅までの建設決定」という言質を県知事の西川一誠が強硬に要求したことがある[42]。
脚注
参考文献
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- 瀬古龍雄「鉄道忌避伝説と地域社会-新潟県における実態-」『鉄道史学』No.12、1991年
- 小牟田哲彦「鉄道と国家」(講談社現代新書)
関連項目
- 赤字83線
- 鉄道の歴史
- 日本の鉄道史
- 中山道幹線
- 鉄道敷設法
- 日本鉄道建設公団
- 国鉄再建法
- 国鉄分割民営化
- 特定地方交通線
- 整備新幹線
- 新幹線不在仮定
- 東北・上越新幹線反対運動
- 日本道路公団
- 国土開発幹線自動車道
- ビーチング・アックス - 1960年代にイギリスで立案・実行された、大規模なローカル線撤去計画。