山代温泉

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テンプレート:日本の温泉地

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加賀温泉郷・山代温泉(画像右上)
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山代温泉総湯(2009年)
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山代温泉、薬王院温泉寺

山代温泉やましろおんせん)は、石川県加賀市(旧国加賀国)にある温泉加賀温泉郷の一角を占め、和倉山中片山津と並ぶ県下有数の温泉である。また、加賀市の町名となっている。

泉質

硫酸塩泉系と単純温泉系の2種類の泉質源泉が存在する。

温泉街

北陸三県で最大級の温泉街の1つである。石川県においては、山代・山中片山津という順序で温泉地が呼ばれるように、その順序で大きさを表すものといえる。大きさゆえにバブル崩壊後の陥落状況が激しく廃業旅館が相次ぎ、全盛期の半分の入浴客に近年の苦戦は街全体に影を落とし、温泉街のイメージ変化が望まれるところである。

ただ、歓楽温泉としての知名度は頗る高く、関西地方では男性が「山代に行く」といえば大抵、女遊びに行くことを暗喩するといわれるほど、戦後は歓楽温泉として著しい発展を遂げた。

しかし、山代は歓楽的な要素だけにとどまらず、豊富な文化資産、伝統文化を育んでいる。町並みは紅殻格子が鮮やかな古い旅館や民家が点在しており、情趣を誘う。共同風呂「山代温泉浴殿」は藩政時代から続く共同浴場である。

また、近世には古九谷を再興した吉田屋窯が置かれた場所で、今もその流れを汲む窯場があり、観光客に人気が高く、窯跡の展示館もある。古来より多くの文人墨客にも愛されており、中でも美食家であり芸術家としても知られる北大路魯山人の寓居跡は現在、「いろは草庵」という名前で観光名所となっている。はづちを楽堂は紅殻格子を基調としたオープンスペースで温泉街散策の溜まり場、様々なイベントが催される。

他にも様々な施設があるが、これらは全て山代温泉の歴史が生み出した文化遺産を有効活用したものであり、近年テンプレート:いつは歓楽、行楽温泉にとどまらない湯の町の発展を見出している。2009年(平成21年)8月2日に新総湯が開業した。

歴史

1300年の歴史とされる北陸随一の古湯。行基による開湯伝説がある。

平安時代末期には現在、温泉地内に薬師如来が祀られている薬王院温泉寺の基礎を築いたと言われる明覚上人により七堂伽藍が建立され、町は大いに賑わったとされる。寺の境内には「めかくしさん」とよばれる明覚上人供養の石造五輪塔(室町時代、国の重要文化財)があり、現在は祠が建てられている。 戦国時代には明智光秀が訪れたともいわれる。

山代温泉は共同浴場(惣湯)の四周に温泉旅館があり、更にその南側に農家や商家が取り囲む空間構造を持っていた。旅館数は18世紀には18軒ほどを数え、以後戦後まで基本的にこうした街構成が続いた。明治時代には多くの文化人に愛され、芸術家の北大路魯山人、詩人の与謝野晶子がその代表格である。山代の湯女は明治時代中期には既にいたが、大正中期に日本初の旅行温泉ライターの松崎天明が記した『温泉巡礼記』(磯部甲陽堂、1918年)で、山代の湯女が紹介されたことで世に知られるようになった。

戦後は北陸本線の電化、北陸自動車道の開通に伴い、関西の奥座敷として発展し、そのトップリーダーであった。高度成長期以前はひなびた湯治場の雰囲気が残っていたが、1970年(昭和45年)に加賀温泉駅と改称し特急が停まようになるあたりから色香漂う温泉街に変貌していった。集客数も増え続け、最盛期には年間250万人以上の人が訪れ、同時に日本有数の歓楽街も発達した。しかしながら1980年代から客足は次第に鈍り、バブル崩壊以降の不況や世の中のニーズの変化に伴い、急激な宿泊客減少を余儀なくされ、最盛期には50軒以上を数えた宿泊施設はほぼ半減し、県内トップだった宿泊客数も能登にある和倉温泉にその座を奪われるほど地位が低下した。そこで、今日テンプレート:いつでは文化や歴史的価値を重点に置いており、歴史的な温泉として、歓楽温泉のイメージ脱却を目指し、「九谷の里づくり」を一つの振興策として、山代ブランド化の推進・各種滞在プランの創出等の中で、多様な客層を受け容れられる体制を整えている。

交通アクセス

参考文献

  • 大門哲 「松茸香る温泉 ─山代温泉周辺における里山ツーリズムの展開─」『石川県立歴史博物館紀要』第20号、2008年3がつ、pp.63-102

関連項目

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外部リンク